天下の三大家老~池田家に仕えた姫路築城の総奉行…伊木忠次
慶長八年(1603年)11月10日 、戦国時代から江戸時代初期にかけて、池田恒興&輝政父子に仕えた家老=伊木忠次が病死しました。
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織田信長(おだのぶなが)に仕えていた伊木忠次(いぎただつぐ)は、永禄四年(1561年)に、信長が美濃(みの=岐阜県南部)の 斉藤龍興(さいとうたつおき)を攻めた際、
(【森部の戦い】参照>>)
(【美濃十四条の戦い】参照>>)
伊木山にて多くの斎藤勢を討つ活躍を見せた事から、信長から伊木の姓を賜って伊木忠次と名乗るようになり、さらに築城も許されて、その伊木山に伊木城(いぎやまじょう=岐阜県各務原市)を構築したとされています。
その後、有能な家臣を探していた織田家重臣の池田恒興(いけだつねおき=信長の乳兄弟)にスカウトされ、恒興の与力(よりき=主君は信長だけど指揮命令系統は恒興から受ける)となりました。
…と言っても、実は、このへんは曖昧・・・伊木忠次が歴史上に登場して活躍し始めるのは、その信長が、あの本能寺(ほんのうじ)に倒れた(6月2日参照>>)天正十年(1582年)以降なのです。
それは、天正十二年(1584年)の、あの小牧長久手(こまきながくて=愛知県長久手市周辺)の戦い・・・
ご存知のように、この戦いは、信長の後継者を決める清須会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)で、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信雄)と三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)の両者で争う中、
山崎の戦い(6月13日参照>>)で仇の明智光秀(あけちみつひで)を討つという功績のあった羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、信長とともに死んだ嫡男の織田信忠(のぶただ)の遺児である三法師(さんほうし=後の織田秀信)を推し、その後見人に信雄と信孝を据える事で、双方文句無いように収めたはずだったのですが・・・
本能寺の後に燃えてしまった安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)の修復をしてる間だけ、居城の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)にて三法師を預かる約束だった織田信孝が、いつまで経っても三法師を放さないばかりか、
そのまま岐阜城にて籠城し、そんな信孝を重臣の柴田勝家(しばたかついえ)が応援した事から、これまたご存知の賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いが勃発しました(2月12日参照>>)。
この時、柴田勝家を倒したのは、ご存知、秀吉ですが(4月21日参照>>)信孝を攻めたのは兄の信雄だった(5月2日参照>>)わけで・・・そのため、どうやら信雄は「信孝亡き後は我こそが織田家の後継者」てな事を考えていたようなのですが、
一方で、大々的に行った信長の葬儀を仕切り(10月15日参照>>)、天正十一年(1583年)9月には、信長が築城を夢見ていた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)跡地に、天下無双の大坂城(おおさかじょう)を築き始めた(9月1日参照>>)秀吉の事を、信雄は、徐々に脅威に感じ、
父の長年の同盟者であり、秀吉に対抗できる力を持つ徳川家康(とくがわいえやす)に相談して、共に歩調を合わせる約束をし、翌年=天正十二年(1584年)3月に、自らの配下である3人の家老を「秀吉に通じている疑いがある」として殺害してしまうのです(3月6日参照>>)。
こうして始まったのが小牧長久手の戦い・・・秀吉と、信雄を担ぐ家康の直接対決となった戦い。。。
つまり、この時点での恒興は、清須会議にて秀吉とともに三法師を推したとは言え、信長とは乳兄弟だし、本能寺の時の所属は嫡男=信忠の付属だったわけですから、どちらに味方しようが本人次第だったわけです。
そんな中で家康は、さすがに自分と信雄だけでは勝ち目は無いと考え、行動を起こすと同時に、各地の大名に「羽柴筑前、許し難し」の書状を送って味方になってくれるよう呼びかけ、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や越前(えちぜん=福井県東部)の佐々成政(さっさなりまさ)などが、これに応えていたわけですが、
この時、家康が密かに頼りにしていたのが、信長の乳兄弟である池田恒興だったわけです。
ところが、実際の直接対決の幕開けとなった天正十二年(1584年)3月12日、信雄方の林正武(はやしまさたけ=神戸与五郎)率いる500の軍兵が亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)を奇襲(3月12日参照>>)すると、
その日の深夜(厳密には13日の夜明け前)、秀吉方が犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)を攻撃(3月13日参照>>)・・・この犬山城攻撃の中心となったのが池田恒興だったのです。
…とまぁ、
長い前置きになりましたが、何が言いたいかと言いますと、この時、どちらにつくが悩む恒興に、これからの状況を予測して、
「秀吉っさんにしなはれ」
と進言したのが伊木忠次だったのです。
結果的に、この戦いで秀吉は揺らぐことなく、なんなら、うまいこと信雄を誘導して、家康の知らぬ間に単独講和に持ち込み(11月16日参照>>)、最終的には、その人たらしの術で家康をも文句言わせない状況に持ち込んだ(10月27日参照>>)わけですから、秀吉に味方するよう進言した伊木忠次の読みは正しかった事になります。
ただし、誤算もありました。
それは、この一連の戦いの中で天正十二年(1584年)4月9日に起こった長久手の戦い(2007年4月9日参照>>) ・・・
この時、伊木忠次は、池田恒興の嫡男である池田元助(もとすけ=之助)の命を受けて岩崎城(いわさきじょう=愛知県日進市)への攻撃に出陣していたのですが、そのさ中に池田恒興&池田元助父子は、森長可(もりながよし=恒興の娘婿・森蘭丸の兄)(2008年4月9日参照>>)らとともに、家康&信雄連合軍の攻撃を受けて父子もろとも討死してしまったのです。
その一報を聞いた伊木忠次は、ともに岩崎城攻撃に参戦していた恒興の次男=池田輝政(てるまさ)とともに、何とか戦場からの離脱に成功して戻ったわけですが、
この敗戦のせいで、秀吉は輝政の池田家相続を認めず、逆に恒興に進言した功により、忠次を田原城(たはらじょう=愛知県田原市)の城主に抜擢して大名にしようとしたらしい・・・
ただ、この時は忠次が固持して輝政の池田家相続を願ったので、秀吉は、輝政の池田家相続を許し、忠次には引き続き輝政を補佐するよう命じた・・・という話もあるようですが、
一方で、輝政を恒興同様に盛り立てる事を約束する4月11日(戦いの2日後)付けのメッチャ良い人っぽい秀吉の手紙(4月11日参照>>)も残っているので、そこの所はどうなんでしょうね?(そこが人たらしなのかも知れんww)
とにもかくにも、結果的には輝政の相続で池田家は残り、5年後の天正十七7年(1589年)には、忠次は、秀吉から(池田家を飛び越えて)直接に美濃葉栗郡(はぐりぐん=現在の一宮市&江南市の一部)で5000石の知行を与えられ、
背にヒョウタンが描かれた自ら愛用の陣羽織を与えられたという事なので、やはり、池田家というよりは、伊木忠次その人が秀吉のお気に入りだったのかも知れません。
とは言え、その後も忠政は、小田原征伐(7月5日参照>>)や奥州仕置き(9月4日参照>>)での功績にて、東三河(ひがしみかわ=愛知県東部)15万2000石の吉田城(よしだじょう=愛知県豊橋市)主となった池田輝政を支えていく事になるのです。
そんなこんなの文禄三年(1594年)、秀吉の仲介で、徳川家康の次女= 督姫(とくひめ)を娶る話が持ち上がります。
実は輝政・・・すでに、中川清秀(なかがわきよひで)の娘である糸姫(いとひめ)を正室に迎えていたのですが、この方が嫡男の池田利隆(としたか)を産んだ天正十二年(1584年)に体調を崩して実家に戻ったまま・・・中川家とは絶縁状態にはなってないものの、もはや、周囲から再婚を勧められるような状態だったようで・・・
一方の督姫も、以前ブログで書かせていただいたように、あの北条嫡流最後の人=北条氏直(ほうじょううじなお)との離縁を経験しています(11月4日参照>>)。
この時、
「家康は父と兄の仇」
との思いが抜けない輝政は、督姫との結婚を何とか断れないか?と忠次に相談していたようなのですが、上記の通り、秀吉の勧めでもある事から、有効な手立ては見つからず、結局、輝政は糸姫と正式に離縁して督姫を継室として迎える事に・・・
しかし、やがて・・・
時は慶長五年(1600年)、あの関ヶ原。
男輝政・・・今度は、嫁さんが家康の娘である事が功を奏します。
その縁でバッチリ德川についた輝政に従い、忠次も東軍の一員として岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)攻め(8月22日参照>>)など美濃を転戦しました。
おかげで、戦後は、輝政は姫路(ひめじ=兵庫県姫路市)52万石に大加増・・・筆頭家老となった忠次も三木3万7000石を与えられ、あの姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)築城に関して、輝政から総奉行を命じられたのです。
姫路城:5層7階の現在の天守は、池田輝政が慶長六年(1601年)から8年間の歳月を費やして完成させました。
こうして恒興&輝政父子2代に渡って忠誠を尽くした伊木忠次は、慶長八年(1603年)11月10日 、病を得て61歳でこの世を去りますが、
その晩年、姫路に大幅加増された事によって、新規の家臣を召し抱える事に必死になっていた輝政に対し、
「新規の家臣を召し抱える事ばっかりせんと、譜代の家臣を労り、大事にせなあきまへんで」
と切々と諫言し、
見舞いに訪れた輝政は、この言葉に感激の涙を流しながら大いに反省し、
「忠政の諫言は生涯忘れぬ」
と受け入れたのだとか・・・
忠次の子孫は、池田家が備前岡山(おかやま=岡山県岡山市)に転封となってからも、代々、筆頭家老の職を世襲し、
仙台(せんだい=宮城県仙台市)の伊達(だて)に仕えた片倉(かたくら)家や
阿波(あわ=徳島県)の蜂須賀(はちすか)に仕えた稲田(いなだ)家と
並んで「天下の三大家老」の一つに数えられる一家となり、やがて明治維新を迎える事になるのです。
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コメント
茶々様 こんにちは
伊木忠次さん初見です。
姫路城築城の総奉行だったんですね。
「天下の三大家老」についても教えてください。
投稿: 山根秀樹 | 2021年11月10日 (水) 14時17分
山根秀樹さん、こんばんは~
質問して下さってありがとうございます。
いつもなら「〇〇と並んで…」みたいな感じで他の2つも書いていますが、今回は忘れてましたm(_ _)m
早速、本文にも加筆させていただいときます。
他の2家は、
伊達政宗から続く片倉さんと、蜂須賀小六から続く稲田さんです。
いずれも、
「初代から代々家老として仕え、明治維新まで、その関係が続いた」
という点が重要なんだと思います。
投稿: 茶々 | 2021年11月11日 (木) 04時32分
茶々様 こんにちは
早速ご連絡ありがとうございます。
伊木家、片倉家、稲田家の三家~三百年近くも代々家老職を世襲できたことはすごいことですね。
投稿: 山根秀樹 | 2021年11月11日 (木) 14時30分
山根秀樹さん、こんばんは~
江戸期にお取り潰しとなった藩も多いですからね~
当主はもちろん、家老職との関係も維持できた事は、すばらしい限りです。
投稿: 茶々 | 2021年11月11日 (木) 18時57分