岩櫃斎藤氏の滅亡~真田幸隆の嵩山城の戦い
永禄八年(1565年)11月17日、武田信玄の配下となった真田幸隆が、斎藤憲宗&城虎丸が守る嵩山城を落とした嵩山城の戦いがありました。
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信濃(しなの=長野県)の小県(ちいさがた=上田市とその周辺)を支配していた海野(うんの)氏の海野棟綱(うんのむねつな)の長男もしくは次男、もしくは孫、もしくは娘婿で、小県の真田庄(さなだしょう)に土着した事から、真田姓を名乗り始めたとされる真田幸隆(さなだゆきたか= 幸綱)。。。
しかし、天文十年(1541年)5月14日の海野平(うんのたいら)の戦い(5月14日参照>>)にて、葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡坂城町)の村上義清(むらかみよしきよ)や上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)の諏訪頼重(すわよりしげ)と連合した甲斐(かい=山梨県)の武田信虎(たけだのぶとら)に、海野氏もろとも敗北した真田幸隆は、箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市箕郷町)の長野業正(ながのなりまさ)を頼って亡命し、一時は浪人の身になったものの、
その海野平の戦い直後に、かの信虎は、息子の武田信玄(しんげん=当時は晴信)のクーデターに遭い(6月14日参照>>)、甲斐を追放されてしまうのです。
その後、父を追放した信玄が父とは真逆の方針を打ち出し、翌・天文十一年(1542年)には諏訪への侵攻を開始し(6月24日参照>>)、村上義清とも敵対(2月14日参照>>)した事から、真田幸隆は海野平の恨みをを捨て、武田の家臣となったのです。
信濃への更なる侵攻を目論む信玄にとって、この周辺の地の利を持つ幸隆の存在は大変心強く、その期待通り幸隆は、信玄が手こずった戸石城(といしじょう:砥石城=長野県上田市上野)を落とし(9月9日参照>>)、有名な永禄四年(1561年)の川中島の戦い(9月10日参照>>)でも、啄木鳥(きつつき)戦法の別働隊を担当しました。
そんなこんなの永禄六年(1563年)、幸隆は、斎藤憲広(さいとうのりひろ)の岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町)に狙いを定め、周辺の諸将の寝返り作戦&内応者の懐柔作戦を展開しつつ、3度目の総攻撃で岩櫃城を攻略・・・
城主の斎藤憲広と嫡子の斎藤憲宗(のりむね=則宗)は、上杉謙信(うえすぎけんしん)を頼って越後(えちご=新潟県)へと落ちていったのです(10月14日参照>>)。
こうして岩櫃城は落としたものの、実は、近くにあるもう一つの斎藤の城=嵩山城(たけやまじょう=群馬県吾妻郡中之条町)には、斎藤憲広の四男の斎藤城虎丸(しろとらまる)が健在でした。
もちろん、一旦は退いたとは言え、斎藤憲宗(←父の憲広は越後への逃亡以降は不明)の目論見は、この嵩山城を足掛かりに岩櫃城を奪回する事・・・
そんな事は重々承知の幸隆ではありましたが、斎藤憲宗らの亡命を受け入れた上杉謙信が、自身の配下となってる尻高城(しったかじょう=群馬県高山村・要害城)の尻高景家(しったかかげいえ)や中山安芸守(なかやまあきのかみ)らに嵩山城の支援をさせており、そう簡単には手を出せません。
そこで、まずは、城虎丸が、その信頼を置く後見人の池田重安(いけだしげやす)を、コチラ側に寝返らせる作戦を展開・・・
初め池田重安は、主君=城虎丸の助命を条件に…つまり、
「主君の命を助けてくれたら、自分は武田の下につく」
と真田幸隆に申し出ていましたが、
幸隆が、
「おそらく信玄が城虎丸を許す事は無い事」
「どうあがいても、このままでは嵩山城は落ちてしまう事」
「武田に従えば池田重安の本領は安堵する事」
などなど、徐々に徐々にの懐柔交渉を繰り返し、ついに池田重安を寝返らせる事に成功します。
そして、永禄七年(1564年)、その支城である仙蔵城(せんぞうじょう=群馬県吾妻郡中之条町)を落とし、ここを拠点として嵩山城への攻撃を開始するのです。
明けて永禄八年(1565年)、未だ頑張ってる嵩山城に、上杉謙信の援助を受けて越後から戻った斎藤憲宗が、さらに浪人たちを集めて嵩山城へと入り、弟の城虎丸らと合体して岩櫃城の奪回を模索・・・
かくして11月16日、これ以上の敵方の進軍を防ぐべく、斎藤勢が、仙蔵城近くの五反田原(ごたんだはら=群馬県吾妻郡中之条町)で、真田勢を迎え撃ち、両者は激しい戦いとなりました。
しかし、力攻めで勝る真田勢を食い止める事ができず・・・やむなく、斎藤勢は嵩山城へと後退を開始。
それを追うように、嵩山城近くまで軍勢を勧めた真田方は、翌永禄八年(1565年)11月17日早朝、嵩山城への総攻撃を仕掛けたのです。
戦い激しく、池田より先に降った元斎藤家臣の唐沢杢之助(からさわもくのすけ=十勇姿のモデルの忍者とされる唐沢玄蕃の父)や 西窪治郎左衛門(にしくぼじろうざえもん)らの先陣に戦死者を出しつつも、何とか城内へ突入した真田勢は、一の木戸口(大手)にて湯本善太夫(ゆもとぜんだゆう)が、斎藤一の剛の者と名高い早川源蔵(はやかわげんぞう)を討ち取る功績を挙げ、ついに本丸を落としたのです。
これを受けて、兄の斎藤憲宗は城内で自刃しました。
弟の城虎丸は・・・
実は、嵩山城のある嵩山は、古より修験道の山として信仰を集めていた標高789mの岩山で、大天狗、中天狗、小天狗と呼ばれる3つの高低差のある峰が存在していたのですが、
その中でも最も厳しい大天狗岩より投身自殺を図ったのでした。
ここに、岩櫃斎藤氏は滅亡したのです。
この翌年の永禄九年(1566年)には、亡命でお世話になった箕輪城の長野さんまで攻め落とす(9月30日参照>>)真田幸隆は、おかげで『謀略の士』や『謀将』などと呼ばれつつ、やがては武田二十四将(たけだにじゅうよんしょう)の一人にも数えられる出世を果たし、真田の祖となるのは皆さまご存知の通りです。
幸隆さんの生涯については2017年5月19日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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