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2021年11月 2日 (火)

三好長慶&赤松義祐~明石城の戦い

 

天文二十三年(1554年)11月2日、三好勢の加勢を得た赤松義祐が、細川晴元側に属する明石城を攻めました。 

・・・・・・・・・

かの応仁の乱の後、室町幕府将軍に勝るとも劣らない絶大な力を持った管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)(6月20日参照>>)の後継者を巡っての養子同士の争いで、亡くなった父親(細川澄元=政元の養子)に代わって敵対勢力の細川高国(たかくに=政元の養子)を、配下の三好長慶(みよしながよし)とともに倒して(2月13日参照>>)、大永七年(1527年)に畿内を掌握した細川晴元(はるもと)でしたが、

Miyosinagayosi500a やがて細川晴元と三好長慶は袂を分かつ事になり(9月14日参照>>)、天文十八年(1549年)の江口(えぐち=大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)にて長慶が勝利・・・

負けた晴元が、足利義晴(あしかがよしはる=第12代室町幕府将軍)を連れて近江(おうみ=滋賀県)に退去した事から、長慶は畿内を制する事実上の天下人となったのでした。

その体制は、
長兄の三好長慶が摂津(せっつ=大阪府北中部+兵庫県南東部)河内(かわち=大阪府東部)和泉(いずみ=大阪府南西部)

次兄の三好実休(じっきゅう=義賢)が領国の阿波(あわ=徳島県)をまとめ、

三男の安宅冬康(あたぎふゆやす=安宅氏の養子に入った=11月4日参照>>淡路(あわじ=淡路島周辺)安宅水軍を引き継ぎ、

四男の十河一存(かずまさ・かずなが=十河氏の養子に入った(5月1日参照>>)が十河氏の讃岐(さぬき=香川県)掌握する
という広範囲に及ぶ物でした。

とにもかくにも、
こうして晴元が近江に退いてからしばらくは、兄弟ともに大きな支配圏を連携しつつ転戦するという盤石な形で守りつつ、父=義晴の死を受けて将軍職を継いだ足利義輝(よしてる=13代将軍)と、晴元が義兄となる縁(義賢の姉が晴元の奥さん)から彼らに味方する六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)と、幾度にも渡って戦っておりました(【志賀の戦い】参照>>)

そんな(=近江)の脅威とともに、やはり三好総出で守らねばならぬのが西(=瀬戸内海)の脅威・・・

そう・・・
阿波や淡路の制海権を握って補給路を確保したい三好長慶にとって、明石城(あかしじょう=兵庫県明石市・枝吉城)に本拠を構える明石(あかし)は、大いに目障りだったのです。

そもそも明石氏は、村上源氏(むらかみげんじ=村上天皇の流れ)の流れを汲む赤松(あかまつ)の庶流(異説あり)・・・

なので、必然的に赤松晴政(あかまつはるまさ=政村・晴政・政祐)が支持する晴元派に属していたわけですが、

この頃は、その赤松自身が、出雲(いずも=島根県)尼子(あまこ)氏や、

備前(びぜん=岡山県南東部+小豆島+赤穂)美作(みまさか=岡山県東北部)浦上(うらがみ)と配下の宇喜多能家(うきたよしいえ)などに脅かされ、隠居した赤松義村(よしむら=晴政の父)と晴政の2代に渡って、衰退の一途を辿っていました(11月12日参照>>)

この衰退状況を憂いての勢力挽回か?
ここに来て、赤松晴政の息子=赤松義祐(よしすけ)三好長慶に通じて来たのです。

これは三好にとって、明石城を手に入れる絶好のチャンス!

かくして天文二十三年(1554年)11月2日、安宅冬康や三好実休らの加勢を得た赤松義祐が、明石城への攻撃を仕掛けたのです。

まずは、安宅冬康の内衆が先陣となり、そこに三好実休の重臣である篠原長房(しのはらながふさ)が加わって、明石城を包囲します。

対する明石城内は、徹底した籠城作戦でビクとも動かず・・・はなから真冬の時期(旧暦なので)という事もあって、攻める側もムリヤリな力攻めはしなかった事から、年内には大きな合戦に発展する事無く、新しい年=天文二十四年(1555年=10月に弘治に改元)を迎えますが、

その年の正月に、三好長慶自らが出陣して、太山寺(たいさんじ=兵庫県神戸市西区)に布陣して睨みを効かせた事から、この様子を知った明石城方が、大いに恐怖を感じたようで・・・

結局、天文二十四年(1555年)1月13日、
「色々懇望候て曖に成て和睦」(『細川両家記』より)
との城側からの降伏の申し出があり、明石城は赤松&三好の手に落ちたのでした。

とは言え、戦国の世は、明日の事もわからぬ世・・・

この4年後の永禄元年(1558年)に、赤松義祐は、姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)主の小寺政職(こでらまさもと=赤松の分家)の助けを得てクーデターを起こして赤松家内を掌握しますが、追われた父=赤松晴政が逃げ込んだ龍野城(たつのじょう=兵庫県たつの市)主=赤松政秀(まさひで=晴政の娘婿で義祐の義弟)と、長きに渡って対立する事となりました。

一方の三好長慶も、この同じ年=永禄元年(1558年)に勃発した白川口(北白川付近)の戦い(6月9日参照>>)をキッカケに、将軍=足利義輝と和睦し、義輝は5年ぶりに長慶のサポートで京都へと戻り(11月27日参照>>)、名実ともに将軍の座に返り咲いたわけです。

さらに、戦国の政情は変化を続け・・・

その翌年に、あの上杉謙信(うえすぎけんしん)関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)並みとなり(6月26日参照>>)、さらに、その翌年に、織田信長(おだのぶなが)が全国ネットに躍り出る桶狭間(おけはざま)(5月19日参照>>)浅井長政(あざいながまさ)が六角氏から独立する野良田の戦い(8月18日参照>>)と続き・・・

戦国の世は、次の段階へと進むことになります。
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