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2021年11月24日 (水)

松永久秀の奈良侵攻~檜牧城の戦い

 

永禄三年(1560年)11月24日、奈良支配を強める松永久秀檜牧城を開城させました。

・・・・・・・・・

その地名から、自明塁(じみょうるい)とも呼ばれる檜牧城(ひのまきじょう=奈良県宇陀市榛原区檜牧自明)は、左記の通り、現在の奈良県宇陀市にあったお城で、位置的には有名な長谷寺(はせでら=奈良県桜井市初瀬)室生寺(むろうじ=奈良県宇陀市室生)の真ん中あたり・・・

長谷寺から東へ向かう伊勢本街道(大阪からの伊勢参りの道)を行き、途中で室生寺へ向かう道と分かれて、そのまま伊勢本街道を進んだ先でぶつかる内牧川によって形勢された谷に横たわる集落を見下ろす尾根に立地する天然の要害で、規模的には中規模であったものの、2重の堀と随所に塹壕(ざんごう=敵から身を守るための穴)が設けられた、なかなか実践的な城であったようです。
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檜牧城の麓にある自明不動堂横の国道から旧伊勢本街道への分かれ道

ここを代々治めて来たのが檜牧(ひのまき)氏・・・

この檜牧氏は、「和州宇陀三人衆(やまとしゅううだなんにんしゅう)あるいは「宇陀三将(うださんしょう)と呼ばれた秋山(あきやま)芳野(ほうの)(さわ)のうちの沢氏の同名衆(どうみょうしゅう=もともと同じ苗字を持ち行動をともにした武士の集団)で、この頃は与力(よりき=組下)を務めていたとか・・・

とは言え、ここは、山深いほんのわずかな集落・・・なので、ここを治めていた檜牧氏は、言わば典型的な土豪(どごう=土地に根付く侍)で、いわゆる戦闘員も寡少だったわけですが、それだけに家臣団の団結力も高く、少数ながら一騎当千の精鋭たちに支えられる存在でした。

そんな宇陀地方に狙いをつけて来たのが、去る永禄元年(1558年)の白川口(北白川)の戦い(6月9日参照>>)に勝利した後に、第13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)と和睦して京都に迎え入れ(11月27日参照>>)、その将軍のもと、いままさに畿内を牛耳る天下人に手をかけた三好長慶(みよしながよし)…の右筆(うひつ=秘書のような家臣)であった松永久秀(まつながひさひで)でした。

永禄二年(1559年)頃から、主君の三好長慶の天下人への道の一環として大和(やまと=奈良県)への侵攻を開始した松永久秀は、かつては大和守護代(しゅごだい=副知事)木沢長政(きざわながまさ)(3月17日参照>>)の居城だった信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改築して、そこを拠点とし、翌永禄三年(1560年)7月には、手始めに井戸城(いどじょう=奈良県天理市石上町)を陥落させていました(7月24日参照>>)

そんな松永久秀にとって、この宇陀地域は重要な場所・・・それは、冒頭にも書かせていただいた通り、この山あいを伊勢本街道が通っているから。

ご存知のように、一般人がこの街道を通って伊勢神宮にお参りするようになるのは江戸時代以降ですが、古くは記紀にて倭姫命(やもとひめのみこと)天照大神(あまてらすおおみかみ)が鎮座する場所を求めて旅した道で・・・

ま、↑この話は神話の中の出来事だとしても、少なくとも飛鳥時代には政権の置かれた大和と伊勢を結ぶ重要な道として登場していますし、南北朝以降は、伊勢国司(こくし=中央から派遣された官吏)北畠(きたばたけ)が伊勢周辺を本拠(7月20日の真ん中あたり参照>>)とした事から、多くの武士が行き交う要道だったわけですから、

例え小さな土豪と言えど、その場所に、自らに敵対する勢力が根付いている事は、松永久秀陣営にとっては捨ておけないわけで・・・

かくして永禄三年(1560年)11月某日、圧倒的に優勢な数の兵を率いた松永久秀が、山深い檜牧城を囲んだのです。

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檜牧城周辺の位置関係図
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

記録が曖昧なため、くわしい経緯はわからないのですが、幾日かの攻撃があった後の永禄三年(1560年)11月24日、力尽きたとおぼしき檜牧城は、松永方との話し合いの場を設け、結果、噯(あつかい=示談・和睦)となった『足利季世記』との事。。。

つまりは、話し合いによって和睦したという事ですが、実は、以前に書かせていただいたように、この同日、檜牧城から3km弱離れた場所にある沢城(さわじょう=奈良県宇陀市榛原区)も、話し合いの末、松永久秀に開け渡されています(2016年11月24日参照>>)

おそらくは、この沢城の一件があっての檜牧城の開城・・・となった物と思われます。

なんせ、上記の通り、沢城の沢房満(さわふさみつ:房満の没年が不明なので、もしかしたら源六郎かも?)は、檜牧氏の親方ですから、そこが陥落した以上、多勢に無勢の無謀な戦いを続けるのは無意味。。。

一方の松永久秀も、合戦とは言え、自軍の犠牲も少ないに越した事は無く、相手が穏やかに対処しようとしている物を、ムリクリで力攻めする必要もないわけで、今回は、檜牧氏を自身の配下に収める形で、早々に信貴山城に引き上げて行ったという事です。

毎度の事ではありますが、華々しく散るのも戦国武将なら、生き残って血脈をつなぐのも戦国武将・・・どちらかと言えば、何とか生き残って次のチャンスを狙う方が得策かも知れません。

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