« 2021年11月 | トップページ | 2022年1月 »

2021年12月29日 (水)

日本史の新発見&発掘…歴史のニュース2021年総まとめ

 

色々あった2021年も、いよいよ終わりに近づきました・・・

未だ禍中の今日ではありますが、ここは一応、歴史ブログ・・・今年も様々な新発見や発掘があったわけで・・・

とりあえずは一年の締めくくりとして、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月  奈良県高市郡高取町で7世紀後半に、のろしをあげるために使われたとみられる穴の跡が発掘調査で見つかり、専門家は「633年の白村江(はくそんこう)の戦い(参照>>)をきっかけに国内で本格的に広まった『のろし』がどのような構造のものであげられていたかを探る貴重な発見だ」としています。
  大阪城の天守閣の南側から高さ役6m長さ役15mの石垣が発掘され、近くからは豊臣期のものとみられる金箔が押された瓦も見つかりました。
豊臣秀吉が築いた大阪城(参照>>)は1615年の大阪夏の陣で落城(参照>>)しましたが、その後、徳川幕府が新たな城を再建しており、豊臣期の大坂城の姿が垣間見える発見です。
Oosakazyou100427patk
  戦国時代最初の天下人とされる武将・三好長慶の本拠地だった大阪・高槻市にある芥川山城跡から、櫓とみられる建物跡が見つかりました。
三好長慶は、戦国時代に織田信長に先んじて畿内を平定した武将(参照>>)で、大阪平野を一望できる高台に山城を築いて城を権力誇示の象徴にした時代の先駆けだった可能性があるとみられています。 
  滋賀県栗東市の縄文時代~近代の複合遺跡・高野遺跡で、古代の官道「東海道」の跡が見つかりました。
出土した土器などから奈良時代後期~平安時代前期に存在し、道幅は約16mだったと判明…専門家は「不明な点が多い古代の官道のルートの一部を特定できたのは貴重な成果だ」としています。
2月 豊臣秀吉が建立した方広寺大仏殿(参照>>)を囲んだ南築地塀の礎石2基が、京都国立博物館(京都市東山区)構内の発掘調査で初めて見つかりました。
慶長伏見地震で倒壊した「真の太閤塀」の痕跡とみられ、専門家は秀吉期大仏殿を考える上で貴重な遺構とみています。
  奈良市の世界遺産・平城宮跡(参照>>)の役所跡にあたる東方官衙(かんが)地区で、大型の石組みの排水施設(暗渠=あんきょ)が出土しました。
同地区は、国政の最高機関である太政官(だいじょうかん)の中枢とみられる建物跡が確認されており、排水施設は最大級の自然石を使った重厚なつくりとなっていて、当時の中枢施設の重要性がうかがえるとの事。
3月 小説「高瀬舟」や「舞姫」で知られる文豪で軍医でもあった森鷗外が、部下の軍医に宛てた手紙29通が見つかり、そのうち24通は新発見で、専門家は「鷗外の翻訳論や軍医としての側面を知る上で重要な資料」としています。
  高知県安芸市僧津瓜尻遺跡から、一辺約23mの溝で四方が囲まれ、溝に沿った柵列跡のある「方形区画遺構」が発見されました。
遺構の中には直径最大約9.5mの井戸遺構も見つかり、古代の井戸遺構としては国内最大級の大きさだという事です。
4月 皇居東御苑三の丸尚蔵館の改築工事現場で、約400年前の江戸城石垣が見つかりました。
慶長後半~元和期(1608~24年頃)に築かれた後、現在まで修繕されていなかったとみられ、これまで見つかっている江戸城遺構の中で、最古の状態のものの可能性があると言います。
  京都府井手町にある奈良時代の寺の跡の近くから高さ40mほどの五重塔が建っていたとみられる土台の跡が見つかりました。寺を創建した橘諸兄(参照>>)一族の権勢を示す発見として注目されます。
5月 1992年の首里城(那覇市)復元事業で使われた彫刻の資料が、復元に携わった彫刻家・今英男さん(故人)金沢の自宅で約30年ぶりに見つかりました。
作業当時の細かい注意点が記されており、2019年に焼失した城の再建に役立つと期待されています。
  伊能忠敬(参照>>)「新しい地図」が見つかりました。
今回見つかった地図は、伊能らが、1821年に幕府に提出した最終版の小図3枚ぞろいで、福岡北九州市の博物館に保管されていました。
3枚そろった「伊能小図」が国内で見つかるのは2例目で、保存状態もよく、学術的価値も高いといいます。
  奈良市の平城京跡西側の菅原遺跡から行基(参照>>)やその弟子らが建立した寺院四十九院の一つ、長岡院の候補地の北側で、回廊や塀に囲まれた円形掘っ立て柱建物の遺構が見つかりました。
円形の遺構は奈良時代には前例がなく、多宝塔と推定されます。
東大寺の大仏造立に尽くした高僧・行基の死亡直後に設けられた供養堂だった可能性があるとの事。
6月 いわき市JRいわき駅南口で、磐城平城内堀とみられる遺構が見つかりました。
JR東日本が周辺で進める開発工事で出土し、委託を受けた市教育文化事業団が発掘調査…事業団の担当者は「道路や建物が密集していて発掘できない区域が多いため、調査を全体の把握に役立てたい」と話しています。
  京都市右京区西院小で、平安時代から摂関家が有し、平安京内で最大の荘園小泉庄(こいずみのしょう)に関わる建物跡2棟が見つかりました。
宅地が耕作地(荘園)化する前の足跡もあり、都の主要路=道祖(さい)大路(現春日通、佐井通)を削り、京内最大級の人工河川を通してまで排水処理しようした苦心も見え、水はけや湿地に悩まされて都市域を縮めた右京の変転を物語る遺構と見られるそうです。
  福井県勝山市袋田遺跡で行われている発掘調査で、十五〜十六世紀の鍛冶関連遺構が発見されました。
中世の鍛冶屋跡が市内で見つかるのは初めてで、この地域では当時、租税として鍬(くわ)を納めていたと書かれた文献が市に残っており、それを裏付ける発見になりました。
  京都市中京区にある平安時代中期に摂政・太政大臣として政権を支えた藤原実頼(参照>>)の邸宅=小野宮(おののみや)から、あご髭(ひげ)をたくわえた人物が墨書された土師器(はじき)が見つかりました。
皿は鬼が出入りする方角とされる鬼門に位置する場所から出土した事で災いを払う目的で埋められた可能性があり、専門家は「鬼門の災いよけの実例としては、最古の可能性がある」と評価しています。
  慶応四年(1868年)の鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜(参照>>)追討を命じる高札が、岐阜県瑞浪市で見つかりました。
戦いの数日後に中山道大湫(おおくて)宿に掲げられたとみられ、「全国指名手配のような感じで新政府側の正統性をPRする狙いがあったのではないか」との事。
慶喜追討の高札は国内で数点確認されていますが、掲示場所がわかるものは珍しいという事です。
7月 京都市東山区清水寺での古文書の整理調査で、中近世の天皇足利尊氏豊臣秀吉関連文書が見つかりました。 
200点近くあった文書群には、京における鉄砲の使用時期を示す三好長慶禁制のほか、厚い観音信仰で知られた尊氏による土地の寄進状、秀吉が母の病気回復への返礼をつづった書状といった多数の原本が含まれています。
8月 兵庫県姫路市で発掘調査が進んでいる登リ田(のぼりた)遺跡で、京都の石清水八幡宮で使用されていた器などが発掘されました。
発掘されたのは、11世紀から12世紀初頭の瓦器椀(がきわん)と呼ばれる食器や、道教によるまじないに使われたとみられる木簡など。
兵庫県内の遺跡から発掘されることは珍しく、登リ田遺跡周辺が石清水八幡宮の荘園である可能性が高いということです。
  奈良市平城宮跡にある役所跡で、竹尺(竹の物差し)が出土しました。
現在の竹尺とそっくりな形をしており、奈良時代には実用品として使われていたとみられています。
竹製品は土中に残りにくく、同時代の竹尺を確認したのは初めての事。
目盛りが細かく、使っていた人が目印につけたと思われる矢印状の墨線が見て取れるといいます。
  織田信長の最愛の女性で、信長との間に信忠らをもうけたとされる吉乃(きつの=生駒の方)(参照>>)の墓がある愛知県江南市田代町久昌寺(きゅうしょうじ)が近く取り壊されることが分かりました。
老朽化に伴い維持管理が難しくなったためで、跡地は市に売却され、公園として整備される見込みです。
9月 細川家の史料を保管している東京 文京区にある永青文庫東京大学史料編纂所が共同で巻物になっていた細川忠興が記した書物を調べたところ、興が記した書物の裏に石田三成や古田織部の自筆の書状があることがわかりました。
専門家は、忠興が受け取った書状などの裏側を再利用していることがわかり、武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だとしています。
  大阪府茨木市にある弥生時代の大規模集落遺跡=東奈良遺跡で出土した焼き物の表面に、多数の小さな点を刻む「点描」の技法を使って人物が描かれていたことがわかりました。
弥生時代の点描の人物画が見つかるのは全国初だといい、頭部の上部や左手の先端は欠けているものの、肘を曲げて両手を上げた姿をしていて、豊作や悪霊退散を願う女性のシャーマン(呪術師)とみられ、土製品は祭事などで使用された可能性があります。 
  大阪府島本町JR島本駅前の土地区画整理に伴う尾山遺跡の発掘調査で、飛鳥時代末から奈良時代前半までの瓦窯跡とみられる遺構が発見されました。
周囲からは瓦も出土されており、当時の僧・道昭生産拠点にしていた可能性があるとか…文様のある瓦には、梶原寺(高槻市)などで使用されていたものと同じ文様があり、尾山遺跡で生産された瓦を使用していた可能性が高いとしています。
10月 奈良興福寺東金堂院の発掘調査で、平安末期の南都焼き打ち(参照>>) 後に再建されたと思われる門と回廊の遺構が見つかりました。
焼き打ち後の再建と断定できる遺構が興福寺で見つかったのは初めてで、門と回廊の規模も明らかになりました。
東金堂院は、主要なお堂の一つで室町時代に再建された東金堂とその南に立つ五重塔、それらを囲む回廊や門からなる物ですが、現在は門と回廊はありません。
  6世紀前半の継体天皇(参照>>)の墓だとする説が有力な、大阪高槻市今城塚古墳で、太鼓の形の埴輪が見つかり、太鼓が当時の儀礼において重要な役割を担っていたことを示すとみられています。 
太鼓形埴輪が確認されたのは6世紀中頃の古墳とされる宮崎県の百足塚(むかでづか)古墳に次いで2例目です。
11月 京都市の遺跡発掘調査で、平安京で天皇の居所だった内裏のうち、皇后らが住んでいた建物=登華殿とみられる柱穴が見つかりました。
これまでは盛り土など建物跡らしい遺構が確認されるにとどまっており、平安京内裏のはっきりした建物跡が見つかるのは初めてで、安京造営当初の8世紀末のものとみられる柱穴が五つ発見されました。
  奈良県高取町清水谷遺跡の発掘調査で、石組みの護岸が施された長方形の人工池の遺構が見つかりました。
古墳時代の5世紀中ごろの築造とみられ、石組みの人工池として国内最古級…朝鮮半島と関わる建物が確認され、祭祀に関連する遺物も出土し、「渡来系の人々が池を造り、祭祀を行った可能性がある」としています。 
  美濃国守護の土岐頼芸(参照>>)が16世紀前半に築いたとされる岐阜県山県市内の大桑(おおが)城跡の発掘調査の結果、古城山山頂付近にある台所と伝わる同城最大級の曲輪(くるわ=平たんな場所)で、庭園と建物とみられる遺構が見つかりました。
山城のある山の上に築かれた庭園が確認されたのは県内で初めてで、専門家は「建物と庭園がセットで確認されたことは、大桑城の構造を考える上でも、山城の守護所の在り方を検討する上でも極めて重要な発見」としています。 
12月 豊臣秀吉が築いたものの地震でわずか2年後に倒壊したため「幻の城」とも言われる指月伏見城(参照>>)石垣の基礎の跡が、これまで敷地の約100mほど外側で新たに見つかり城の規模や構造を見直す貴重な発見だとの事。
これまで、この場所は地震で倒壊したあとに再建された木幡山伏見城の城下町で、大名屋敷があった場所と考えられていましたが、今回見つかったのは最初に建てられた指月伏見城の石垣の基礎の一部だと分かったということです。 
  国内最古の宮廷庭園跡とされる奈良県明日香村飛鳥京跡苑池(えんち)で、7世紀後半の巨大な石組みの水路跡が見つかりました。
苑池内の池の水を排出するための施設で、両側には石積みの護岸が造られており、専門家は「水路も苑池の重要な構成要素として、景観を意識しながら一体的に整備されていた」としています。 

 

こうして見ると、今年も様々な新発見があり、個人的に気になるニュースもありました。

朝な夕なに大阪城を眺めて育った豊臣恩顧の茶々としては、1月の豊臣期大坂城の石垣も気になるんですが、やっぱり12月の幻の指月伏見城も気になりますね~

これから、さらに発掘調査が進んでいくのでしょうが、いつか全容解明されるのかな?
でも、ある程度、謎や幻感が残っていた方が浪漫がありますかねぇ~

あと、9月の細川忠興のエコ書状もイイですね~

先日の某鑑定団番組で、武田信玄の直筆書に800万(?だったかな?)の値段がついてましたが、石田三成や古田織部の書状なら、それに勝るとも劣らない値がつくはず・・・でも、同時代なら、その裏に書いちゃいますよね~
(てか、自分の書も、同じ価値やしねww)

嫁のガラシャが好き過ぎて、彼女の顔を見たというだけの庭師に嫉妬して斬り殺しちゃった~なんてコワイ噂ばかりが目に付く忠興さんですが、一方で、こんな一面もあるんですね~

専門家の方がおっしゃる通り、武将たちの素顔が垣間見えてオモシロイです。

・‥…━━━☆

てな事で、今年一年やってまいりましたが、
もうそろそろ、本気の「悪疫退散!」
アマビエ様牛頭天王も、八百万の神々総出でお願いしまっせ!

最後に
いつもブログを見に来てくだる皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいませm(_ _)m

そして、来年も、よろしくお願いします
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (2)

2021年12月23日 (木)

南北朝~新将軍・足利義詮の南征&龍門山の戦い

 

正平十四年・延文四年(1359年)12月23日、新将軍となった足利義詮が大軍を率いて京を出発・・・「足利義詮の南征」が開始されました。

・・・・・・・・・・

元弘三年(1333年)、
ともに鎌倉幕府を倒す(5月22日参照>>)も、その後に、後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)が行った建武の新政(けんむのしんせい)(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が、楠木正成(くすのきまさしげ)を破って(5月25日参照>>)京都を制圧し(6月30日参照>>)、そこに新たな天皇を擁立して(8月15日参照>>)開いたのが北朝・・・

それに対抗して吉野(よしの=奈良県吉野村)へと退いた後醍醐天皇が開いたのが南朝(12月21日参照>>)・・・
*くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】>>で…

こうして始まった南北朝時代も、はやくも延元三年・建武五年(1338年)には南朝期待の星だった北畠顕家(きたばたけあきいえ)(5月22日参照>>)新田義貞(にったよしさだ)(7月2日参照>>)が、相次いで討死し、

その年の8月には、足利尊氏が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられ、京都にて室町幕府を開きます(8月11日参照>>)

その翌年には後醍醐天皇が崩御され(8月16日参照>>)、おおむね北朝有利に戦いは進みますが、その北朝は、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)(10月26日参照>>)の勃発や、執事(しつじ=将軍の補佐)高師直が謀殺される(2月26日参照>>)など、北朝内での内部抗争&主導権争いも激しくなり、正平七年・文和元年(1352年) には、一時的に南朝の盛り返しもありました(3月24日【八幡合戦】参照>>)

Asikagayosiakira500ass そんなこんなの正平十三年・延文三年(1358年)4月、足利尊氏が54歳で死去(4月30日参照>>)した事を受けて、その年の暮れには嫡子の足利義詮(よしあきら=三男)第2代室町幕府将軍に任命されました。

この頃も、北朝幕府方が都を制圧し優位にはあるものの、一方で、山名時氏(やまなときうじ)師氏(もろうじ)父子の離反や(3月13日参照>>)、九州で暴れる懐良親王(かねよし・かねながしんのう=後醍醐天皇の第八皇子)の事(8月6日参照>>)など、未だ南朝勢力への不安を抱えたままであった事から、

新将軍となった足利義詮は、関東にて奮戦する畠山国清(はたけやまくにきよ=道誓)を援軍に呼び寄せ、正平十四年・延文四年(1359年)12月23日河内(かわち=大阪府北部)から紀伊(きい=和歌山県)方面へと出立したのです。(足利義詮の南征)

大手(おおて=正面)を行く将軍義詮の軍は約2000余騎・・・その数のあまりの多さに西宮(にしのみや)から尼崎(あまがさき)そして鳴尾(なるお=いずれも兵庫県)あたりの寺社では、そこかしこに兵たちが満ちあふれるほどだったとか・・・

一方、義詮が都を発った同じ日に、南朝方の後村上天皇(ごむらかみてんのう=第97代・後醍醐天皇の第七皇子)は、北朝方の攻撃を警戒して、南朝の仮宮を楠木の菩提寺である観心寺(かんしんじ=大阪府河内長野市)に遷します。

これは、あの楠木正成の末っ子である楠木正儀(まさのり)の進言によるものと言われ、この頃の後村上天皇が最も信頼を置く武将が正儀だったのです。

…で、
将軍出立の翌日の24日に搦手(からめて=横手)として都を出陣した畠山国清の軍は、関東から連れて来た大軍を率いて、この日は八幡山(はちまんやま=京都府八幡市・男山)の麓にある葛葉(くずは=大阪府枚方市樟葉)に陣取ります。

しかし、その後の北朝方の軍は、楠木正儀の本拠である東条(ひがんじょ=大阪府柏原市)近くまでは迫るものの、容易に攻めて来なかったため、
「ならば…」
と、楠木正儀は、和田正武(わだまさたけ)らとともに撃って出る作戦に・・・

かくして、翌25日、楠木&和田軍は、四条(しじょう=現在の近鉄:瓢箪山駅周辺)にて畠山国清軍とぶつかりました。

この時、戦い自体は小競り合い程度であったものの、長きに渡るにらみ合いに疲れた北朝兵士たちが、神社仏閣に押し寄せて乱暴狼藉をはかったと言います。

一方、この頃、畠山国清の弟である畠山義深(よしふか・よしとお)は、将軍義詮の命を受けて紀伊方面へ・・・向かった龍門山(りゅうもんざん=和歌山県紀の川市)には、すでに南朝方の四条隆俊(しじょうたかとし)が3000の兵で陣取っておりました。

そこを、慎重に堅く、周囲に目を配りながらゆっくりと進む畠山義深・・・そこで四条隆俊は、侍大将塩谷伊勢守(しおのやいせのかみ)を使って陽動作戦を取ります。

畠山義深の大軍を見て、さもビビッたかの如く、退く姿勢を見せる塩谷隊・・・

畠山義深の側近の遊佐勘解由(ゆさかげゆ)は、
「それ!敵は逃げたぞ!追いかけよ!」
と、盾の用意もせずに飛び出してしまいます。

しかし、これは上記の通り、南朝方の作戦・・・途中まで追いかけたところで、山間に伏せていた兵が一斉に矢を射かけます。

雨アラレのように降り注ぐ矢に、畠山軍が進むことができず、思わず立ちすくむと、そこに
「我こそは塩谷伊勢守なり!」と、まだ真新しい甲冑に身を包んだ武将が、大声で名乗りつつ突進して来ます。

こうして陽動作戦は成功し、戦いは北朝の敗北となったものの、深追いし過ぎた塩谷伊勢守は、ここで戦死してしまったのです。(龍門山の戦い)

一方、この紀伊方面での敗北を知った北朝幕府側には動揺が走ります。

河内に展開する南朝軍と、紀伊の南朝軍の挟み撃ちに遭えば、さすがの幕府の大軍もヤバい・・・

そこで、幕府軍が芳賀公頼(はがきんより)を援軍として差し向けます。

公頼は、
「敵を倒さぬ限り、生きてここへは帰りませぬ」
と、父と今生の別れをし、一路、龍門へ・・・しかし、これが強かった。。。

いや、この決死の覚悟が、その強さを導いたのかも知れませんが、とにかく、芳賀公頼は龍門山の麓に着くなり打ち寄せ、打ち寄せると同時に攻め上り・・・

思わず、四条隆俊は龍門を捨てて阿瀬川城(あせがわじょう=和歌山県有田郡)へと退き、一転、龍門山の戦いは、北朝幕府軍の勝利となったのでした。

しかも、このタイミングで南朝方には悲しいお知らせが・・・

住吉神社の宮司から、社の庭に立つ楠の木が、風も無いのに神殿に向かって倒れかかるという凶兆が伝えられ、南朝のテンションはだだ下がり・・・

その後、勢いに乗る幕府軍は、楠木正儀&和田正武らが籠っていた龍泉寺城(りゅうせんじじょう=大阪府富田林市・嶽山城)を奇襲して落とすなど、南朝方の諸城を次々と落城させて行きました。

最後まで残った赤坂城(あかさかじょう=大阪府南河内郡千早赤阪村)では、守りを固めようとする楠木正儀と、イケイケの和田正武が対立し、和田正武が単独で、囲む幕府軍に夜襲をかけるも、あえなく敗退し、

やむなく楠木正儀&和田正武らは、ともに金剛山(こんごうざん=奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村)の奥深くに撤退したのでした。

こうして正平十四年・延文四年(1359年)から翌年にかけて展開された足利義詮の南征は終りを告げ、この後、楠木正儀によって秘密裏に和平交渉が行われるものの、失敗に終わり、南北朝の動乱は、まだまだ続く事になります。

★今後の展開は…
 ●【北朝執事の細川清氏が南朝へ…】>>
 ●【新将軍京落での佐々木道誉と楠木正儀】>>
でどうぞm(_ _)m
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2021年12月14日 (火)

弓馬礼法を伝えたい~小笠原貞慶の生き残り術

 

天正十三年(1585年)12月14日、石川数正の、徳川家康からの離反を受けて、小笠原貞慶が徳川方の保科正直の高遠城を攻撃しました。

・・・・・・・・

小笠原貞慶(おがさわらさだよし)小笠原家は、深志城(ふかしじょう=長野県松本市・現在の松本城)を居城とし、代々信濃(しなの=長野県)守護(しゅご=県知事)を務める名門でしたが、天文十七年(1548年)の塩尻峠(しおじりとうげ=長野県塩尻市)の戦いにて、父の小笠原長時(ながとき)が、隣国・甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)に敗れた(7月19日参照>>)ために城を失い、父とともに幼い貞慶(おそらく2~3歳)も放浪の身となりました。

そして越後(えちご=新潟県)にたどり着き(4月22日参照>>)、しばらくは上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)保護を受けていましたが、当然、父子ともに信濃復帰の夢は捨ててはいないわけで・・・

その夢の実現のため、まずは伊勢(いせ=三重県中北部と愛知県の一部)へ向かい、その後、永禄四年(1561年)頃に畿内を点々とした後、京へと上り、すでに白川口(北白川)の戦い(6月9日参照>>)をキッカケに、足利義輝(あしかがよしてる=13代室町幕府将軍)と和睦して将軍を京へ迎え入れ(11月27日参照>>)、まさに天下人の地位に手をかけていた三好長慶(みよしながよし)の傘下になったようです。

…というのも、小笠原貞慶は、はじめ小笠原貞虎(さだとら)と名乗っていたのを、京に上った後に小笠原貞慶に改名しているので・・・おそらくは、越後時代には長尾景虎の「虎」の字をもらい、今度は三好長慶の「慶」の字をもらっての改名と思われ(←このあたりは、あくませ推測です)

この後、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)織田信長(おだのぶなが)に奉じられて上洛し、第15代将軍となった足利義昭(よしあき)(10月18日参照>>)が仮御所としていた本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が攻めた時(1月1日参照>>)、キッチリ三好の一員として参戦してますので、父の長時はともかく(長時は越後行ったり戻ったりウロウロしてるので…)貞慶は三好の配下に納まっていた事でしょう。

しかし、ご存知のように、三好三人衆は織田信長を見返すには至らず(8月23日参照>>)、やがて信長に反抗した足利義昭も京都を追放され(7月18日参照>>)、三好宗家を継いでいた三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥・十河重存)信長の前に散る事になってしまいました(11月16日参照>>)

とは言え、
本日主役の小笠原貞慶の方は、いつの間にやらチャッカリ織田信長の傘下となっていたようで・・・この頃は、織田家の使者として、かつてお世話になった上杉謙信やら、放浪生活の元となった武田信玄やらとの交渉窓口になっていて、信濃に所領もいただいちゃってます。

そう思うと、意外に要領の良い人たらし(←褒めてます)で、口がたつ人だったのかも知れませんね。

ただ、信長が武田を倒して(3月10日参照>>)信濃を得た天正十年(1582年)の時には、信長は信濃2郡を木曽義昌(きそよしまさ)に与えてしまったため、さすがに、かつての旧領や深志城を取り戻すまでには至りませんでしたが・・・

そんな甲州征伐(こうしゅうせいばつ)の3ヶ月後に起こった本能寺の変で信長が横死(6月2日参照>>)すると、その死によって宙に浮いた(織田が取ったばかりで未だ治めきれていない)武田旧領の取り合い合戦(上杉×北条×德川による)天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)が勃発(8月7日参照>>)すると、チャッカリ今度は徳川家康(とくがわいえやす)の家臣となって参戦し、取り合いの一角である上杉景勝(うえすぎかげかつ)けん制する役目を果たしています。
(やっぱ要領えぇやんww)

こうして家康の支援を得た小笠原貞慶は、天正壬午の乱のドサクサで木曽義昌を追い出して深志城に入っていた小笠原洞雪斎(どうせつさい=貞慶の叔父)から深志城を奪還し、見事、大名に復帰・・・

さらに、ドップリと德川に忠誠を尽くすべく、息子の小笠原秀政(ひでまさ)を人質として差し出し、自身は、家康の忠臣である石川数正(いしかわかずまさ)の配下となり、ここで深志城の名を松本城へと改めました。

さらに、
亡き信長の後継を巡って、信長の息子=織田信雄(のぶお・のぶかつ)と組んだ徳川家康が、豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)と争った天正十二年(1584年)の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(11月16日参照>>)では、秀吉側に寝返った木曽義昌の拠る福島城(ふくしまじょう=長野県木曽郡木曽町)を攻め、義昌を興禅寺(こうぜんじ=長野県木曽郡木曽町)へ追いやるという武功を挙げました。

てな事で…德川の傘下になって、ようやく順風満帆か?
…と思いきや、

 天正十三年(1585年)、家康が上田城(うえだじょう=長野県上田市)真田昌幸(さなだまさゆき)を絶賛攻撃中の11月13日(12日説もあり)、忠臣であったはずの石川数正が、貞慶から預かってる息子・秀政とともに一族郎党百余人を伴って、突如出奔して秀吉のもとに走ったのです(8月2日【神川の戦い】参照>>)

これを受けた小笠原貞慶・・・天正十三年(1585年)12月14日彼もまた徳川家康との関係を絶ち、德川方の保科正直(ほしなまさなお)高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)に攻めたわけです。

ただし、石川数正の出奔の原因は未だ謎(11月13日参照>>)…とはされているものの、一説には、貞慶が真田昌幸を通じて秀吉に内通している事が家康にバレて、監督者である数正が家康から責任を問われたのが、数正出奔の原因・・・という見方もありますので、

これが事実だとすると、数正の出奔を受けて貞慶が・・・
ではなく、むしろ貞慶が主導していた事になるわけですが・・・

とにもかくにも、ここで秀吉の家臣となった小笠原貞慶は、天正十八年(1590年)の、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)(4月1日参照>>)では北陸方面から行軍する前田利家(まえだとしいえ)隊に従軍して武功を挙げました。

おかげで、讃岐(さぬき=香川県)半国を領する大名へと出世した小笠原貞慶でしたが、ここで、かつて天正十五年(1587年)の九州征伐の時の戸次川(へつぎがわ)の戦い(11月25日参照>>)や、根白坂(ねじろざか=宮崎県児湯郡木城町)の戦い(4月17日参照>>)で大失敗を犯して秀吉に追放された尾藤知宣(びとうとものぶ)という武将を客将(きゃくしょう=家臣ではなく客分として迎えられている武将)として庇護していた事が秀吉にバレて激怒され、所領を没収されて改易となってしまいました。

その後は、息子の秀政とともに、再び家康のもとへ・・・自らは引退し、家康の関東入りキッカケで息子の秀政に与えられた領地=古河(こが=茨城県古河市)にて余生を過ごしたという事です。

とまぁ、
戦国武将としての小笠原貞慶さんを、サラッとご紹介させていただきましたが、失礼ながらも、戦国武将としての功績で言えば、特筆すべき感じではありませんが、

実は、今回の小笠原貞慶さん、
兵法の伝授者としては、知る人ぞ知る有名人・・・そう、弓馬術礼法に秀でた、あの小笠原流です。

そもそもは、第56代清和天皇(せいわてんのう)の第六皇子である貞純親王(さだずみしんのう)を祖として代々伝えられた糾法(きゅうほう=弓馬術礼法)を、鎌倉時代に小笠原長清(ながきよ)小笠原長経(ながつね)父子が源頼朝(みなもとのよりとも)源実朝(さねとも)父子の師範となり、その子孫が南北朝時代には後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)に仕え、さらに、その子孫が足利義満(よしみつ)に仕え・・・と、代々惣領家(本家)当主が糾法全般を取り仕切って来たわけで、

戦国時代になって、その17代当主だったのが、父の小笠原長時・・・その後継ぎが小笠原貞慶だったんです。

これまで紡いできた伝統の糸・・・
それが、世は戦国となって、冒頭に書いたように武田の侵攻を受け・・・

「このままでは、大切な兵法の奥義が途絶えてしまう!」

小笠原貞慶が、さも要領よく、あっちに行ったり、こっちについたりしてるのも、実は、兵法の奥義を途絶えさせないためで、冒頭部分で息子の貞慶に惣領家を任せた長時が、その後、越後行ったり戻ったりウロウロしてるのも、その奥義を広く伝授するためだったワケです。

現存する小笠原貞慶の書いた『伝授状』には、
「当家日取(ひどり)一流の儀
 余儀無(よぎな)く承(うけたまわ)り候間(そうろうあいだ)
 その意にまかせ相伝(あいつたえ)
 (おろそ)かこれ有るまじき事肝要(かんよう)に候」
とあり、

貞慶が、その奥義を伝える事こそが、自らの使命だと思っていたであろう事が感じ取れます。

戦国武将として領地を拡大する事よりも、何とか生き残り、この伝統を守りたい!と・・・

Ogasawaratadazane500as 貞慶の小笠原家は、孫の小笠原忠真(ただざね)の時代に小倉藩(こくらはん=福岡県北九州市)として落ち着いて、その後の江戸250年を生き抜きますが、彼=忠真が、宮本武蔵(みやもとむさし)や、その養子の宮本伊織(いおり)宝蔵院流高田派(ほうぞういんりゅうたかだは=槍術)高田又兵衛吉次(たかたまたべえよしつぐ)など、多くの剣豪を召し抱えたのも、小笠原流の兵法を後世に伝えていくためだったのかも知れません。

戦国は、華々しい戦いもカッコイイけど、こういうのも、
なんか良い
・・・ですね。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (2)

2021年12月 9日 (木)

近江守護の座を巡って~六角高頼VS山内就綱の金剛寺城の戦い

 

明応三年(1494年)12月9日、山内就綱に奪われた金剛寺城を六角高頼が奪回する金剛寺城の戦いがありました。

・・・・・・・・・

世紀の大乱となった応仁の乱(おうにんのらん)(5月20日参照>>)の後、
スッタモンダの末に、8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後を継いで、第9代将軍となった一人息子の足利義尚(よしひさ)の使命は、大乱でグダグダになった全国各地を、少しずつでも平らかにし、室町幕府将軍の威厳を見せる事。。

…という事で、まずは、大乱に乗じて、近隣の公家の荘園などを力で以って占拠して、好き勝手に領地を増やしつつあった近江(おうみ=滋賀県)南部守護(しゅご=県知事)六角高頼(ろっかくたかより=行高)征討すべく、自ら出陣します。

しかし、近江鈎(まがり=滋賀県栗東市市安養寺)の陣にて、六角の味方をする甲賀衆(こうかしゅう=忍者部隊)の奇襲を受けた(12月2日参照>>)あげく、その陣中にて25歳の若さで病死してしまいます(3月27日参照>>)

そのため、義尚の母である日野富子(ひのとみこ)が夫=義政の弟である足利義視(よしみ)の息子の足利義材(よしき=後の義稙)を推挙・・・

10代将軍となった義材が義尚の遺志を継いで六角征討を続け、明応元年(1492年)12月、何とか六角高頼を近江から追い出す事に成功し、朽木貞綱(くつきさだつな=佐々木貞綱)の息子で六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟?)の養子となっていた虎千代を高頼に代わる新しい近江守護に任命して六角征討を終えたのです(12月13日参照>>)

とは言え、ご覧の通り、これは単に六角高頼を追いやっただけ・・・

本来なら、六角高頼とその一派を完全消滅させてこその征討・・・むしろ、幕府将軍が出張っても、六角高頼一人まともに倒す事ができなかったという事実が残り、幕府の弱体化が露呈してしまう結果となってしまったのです。

案の定、義材が京都に戻ったのを見計らって、コソコソと、徐々に近江へ戻って来る六角高頼系列の面々・・・

そこに動いたのが、あの応仁の乱の東軍大将だった細川勝元(ほそかわかつもと)の息子で、当時、管領(かんれい=将軍の補佐)を務めていた細川政元(まさもと)・・・

明応二年(1493年)4月、義材が、未だ応仁の乱を引きずってモメまくっている畠山義豊(はたけやまよしとよ=義就の息子)畠山政長(まさなが)の同族争い(7月12日参照>>)に、政長の味方をして河内(かわち=大阪府東部)へと出陣してるスキに、細川政元がクーデターを決行したのです。

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

 世に言う「明応の政変(めいおうのせいへん)・・・京都にいない義材をクビにして、自らのお気に入りである足利義澄(よしずみ=義高=義材の従兄弟)11代将軍に据えたのです(4月22日参照>>)

この政変によって幕府内にて絶大な力を持つことになった細川政元は、義材の将軍就任に関わった虎千代を廃し

先の六角征討の時に、義材側によって園城寺(おんじょうじ=滋賀県大津市・三井寺とも)に呼びだされて騙し討ちされた山内政綱(やまうちまさつな=六角氏の親族で重臣)の息子である山内就綱(なりつな)六角氏の当主とし、さらに近江守護にも任じたのです。

虎千代が守護になって、まだ1年も経っていないのに。。。 

この頃、すでにシレッと金剛寺城(こんごうでらじょう=滋賀県近江八幡市)に身を寄せていた六角高頼・・・

本来なら、自分が座るべき守護の座を、
「義材や政元の都合でアッチコッチへ~何、勝手にさらしとんねん!」
怒り心頭です。

そもそもは六角の親族&重臣で、そのために先の征討で亡くなった山内政綱の息子ではありますが、山内就綱自身は、その際に幕府側に投降しており、もはやアチラ側の人間・・・

「正統な、このワシが、あんな若輩者に取って代わられる筋合いない!っちゅーねん」
と、こっそりと、新将軍の足利義澄に好を通じて、山内就綱の排除を謀ろうとしたのです。

京都にて、この気配を知った山内就綱は、すぐに近江へと帰還して、何とか六角高頼への対抗策を思案しますが、すでに将軍義澄も高頼に丸め込まれており、思うように兵備を整える事ができませんでした。

それでも、あちこち奔走する中、明応三年(1494年)10月になって、ようやく延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町・比叡山)の支援を得た事で、10月19日、山内就綱は高頼の拠る金剛寺城を攻めたのです。

この戦いで、重臣の美濃部貞茂(みのべさだしげ)をはじめとするその一族や多くの家臣を失った 六角高頼は、やむなく城を捨てて脱出・・・

が、しかし、ほどなく態勢を整え、今度は美濃(みの=岐阜県南部)守護代(しゅごだい=副知事)斎藤妙純(さいとうみょうじゅん・利国) の支援を得て舞い戻った六角高頼は、明応三年(1494年)12月9日金剛寺城に猛攻撃を仕掛けて、これを奪回したのでした。

今回は、逆に、多くの延暦寺の僧兵&宗徒が戦死し、山内就綱は、やむなく近江坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと退きました。

Kannonsyouzityoubou2a1200
六角氏が居城とした観音寺城跡=観音正寺より南西方面を望む

とは言え、山内就綱は、その翌年の明応四年(1495年)頃には、チャッカリ京都に戻って来ていたようで・・・というのも、この頃には、将軍義澄の命によって六角高頼が近江守護に復帰しており、おそらくは、もう、何もできない状態だったのでしょう。

一方の高頼は、この金剛寺城奪回のすぐあとに起こった美濃の内乱である船田合戦(ふなだがっせん)にて、斎藤妙純に敵対する石丸利光(いしまるとしみつ)の味方となっった事で、残念ながら、今回の恩人=妙純とは袂を分かつ関係となってしまいました。

その後のお話は…
  ●家康愛刀「ソハヤノツルキ」の持ち主~斎藤妙純の最期
  ●六角VS伊庭の乱~音羽日野城の戦い
でどうぞm(_ _)m
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2021年12月 2日 (木)

羽柴秀吉の上月城総攻撃

 

天正五年(1577年)12月2日、織田信長の命を受けた羽柴秀吉播磨上月城に総攻撃を仕掛けて北方の太平山砦を奪いました。 

・・・・・・・・・

そもそもは、
永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した織田信長(おだのぶなが)(9月7日参照>>)に、翌永禄十二年(1569年)に自らが滅ぼした大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党=大内輝弘(おおうちてるひろ)との交戦中だった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)が、

その背後を突いて出雲(いずも=島根県)を奪回しようと動き始めた尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党を「けん制してほしい」と依頼した事に始まります。

Toyotomihideyoshi600 この時、信長は、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)中国方面の大将にした2万の軍勢を、

尼子氏の味方をする但馬(たじま=兵庫県北部)守護山名祐豊(やまなすけと)此隅山城(このすみやまじょう=兵庫県豊岡市)に派遣し、山名祐豊は織田に降伏・・・

つまり、始めは毛利と織田は連携関係にあったわけですが、

ところが、その元就が元亀二年(1571年)に亡くなって孫の毛利輝元(てるもと)にお代替わりする中で、輝元が、信長に敵対する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・全国の本願寺の本山)(9月14日参照>>)に味方し始めた事や、元亀四年(天正元年=1573年)に信長に京都を追放された足利義昭が毛利を頼って来た(7月13日参照>>)事など、

また、先の山名祐豊に同調していた尼子の再興を願う尼子勝久(かつひさ)が、家臣の山中幸盛(やまなかゆきもり=鹿介)らとともに信長の傘下となった事などなどから・・・

いつしか中国地方は、西の雄=毛利VS信長の中国攻めという構図となって来たわけです。

当然の事ながら、大国である毛利&織田の両者が敵対関係となると、その間に挟まれた丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)播磨(はりま=兵庫県南西部)因幡(いなば=鳥取県東部)美作(みまさか=岡山県東北部)備前(びぜん=岡山県東南部)などの近隣の国人領主たちは皆、どちらの強国に属するべきか?を悩むわけです。

そんな中、天正五年(1577年)春頃から開始された秀吉の播磨平定は、御着城(ごちゃくじょう=兵庫県姫路市御国野町)主の小寺政職(こでらまさもと)の家臣=黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=当時は小寺孝隆・後の如水)が、いち早く完全なる織田派として協力してくれた(11月29日参照>>)事もあって、

織田に与する国人領主もいたものの、未だ備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)と呼ばれる大乱の記憶も新しい備中(びっちゅう=岡山県西部)あたりでは、強国の毛利やそれに与する宇喜多直家(うきたなおいえ)(4月12日参照>>)影響が、まだまだ大きかったのです。

そんな中の一人が上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)赤松政範(あかまつまさのり)でした。

そこで、今回は上月城を中心に、周辺の叛意を示す諸城への同時攻撃を展開する作戦とした秀吉は、天正五年(1577年)11月27日、かの黒田官兵衛と竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)ら2千余騎を福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)の攻撃へと向かわせる(福原城攻防については12月1日参照>>)一方で、

自らは本隊を率いて出陣し、上月城方の猛攻撃をかいくぐって佐用川(さようがわ)千種川(ちぐさがわ)を渡り、2日後の29日には上月城正面の仁位山(にいざん=兵庫県佐用町)まで侵出したのです。

同じ29日、別動隊を率いていた堀秀政(ほりひでまさ=久太郎)は、敵方の猛攻に遭い渡河できず、やむなく自軍を2手に分け、上月城をけん制しつつ迂回して円光寺(えんこうじ=兵庫県佐用郡佐用町円光寺)を占拠しました。

その日の夜、上月城を救うべく宇喜多広維(ひろつね=赤松政範の妹婿で宇喜多直家の舎弟)率いる備中からの援軍が出撃したとの一報が届きます。

早速、秀吉は、谷大膳(たにだいぜん)を先陣に自らも出撃し、翌30日に赤松山(あかまつやま=岡山県美作市海田)付近にて宇喜多勢と激突・・・

勝負が着かない猛攻の掛け合いとなりながらも、やや秀吉側有利で、多くの宇喜多勢が美作まで撤退しますが、一部は上月城までたどり着き城内へ逃げ込み、そこを守っていた山中鹿助&堀尾吉晴(ほりおよしはる)隊は、大きな痛手を被りました。

とは言え、本来なら上月城からも宇喜多勢に連動して撃って出るはずだったのが、秀吉勢の守りが固くて、その後は防戦一方となってしまったため、結局この日の戦いは、多くの宇喜多勢を撤退させて背後の憂いを取り去った秀吉側のやや優勢という結果となりました。

その後、秀吉のもとに信長からの援軍である高山右近(たかやまうこん=友祥・長房)が到着した事を受けて、

天正五年(1577年)12月2日、秀吉は、上月城への総攻撃を仕掛けるのです。 

まずは、敵方の堀切を埋める作業を開始・・・それを見た城方は、そこに鉄砲や弓矢を射かけて作業を妨害すると同時に、城方の国府寺左近太郎(こうでらさこんたろう)が留守となった仁位山の秀吉本陣を奇襲して混乱させます。

やむなく秀吉は、この場では仁位山を諦めますが、一方で上月城の北側にある太平山砦(旧上山城)を奪う事に成功しました。

この太平山砦の場所は、現在の上月城よりも高い位置にあるので、実は戦うには有利(孫子の兵法「軍争篇」べからず集を参照>>)・・・この事は、少なからず上月城の城兵に動揺を走らせます。

そこで、この日の夜・・・城方が夜討ちにて秀吉本陣に迫り、あちこち放火した事によって両軍に2千人ほどの死者を出す惨事となってしまいました。

このため、谷大膳は
「今、味方はことごとく不利な状況にあります。
城攻めには、人の利、地の利、時の利が重要ですから、一旦、撤退しませんか?」
と、秀吉に進言しましたが、

秀吉は、
「長期戦になったら、せっかく味方になってくれた周辺の国人たちが、コチラが不利やと見て離反するかも知れん。
ここまでバッチリ囲んでたら、どんだけ堅城や言うても、所詮は籠の鳥や。
籠の鳥なら、いつかは矢玉も尽きる」
と言って、短期決戦の力推しに挑む事になります。

12月3日、土塁にハシゴをかけて城内への突入を試みる浅野長政(あさのながまさ=秀吉の義養父)隊に、敵が去った仁位山と昨日奪った太平山砦から、鉄砲による一斉の援護射撃を仕掛ける秀吉勢・・・

多勢に無勢の中の猛攻撃に、たまらず城内からも寝返る者が現れ、
「もはや、これまで…」
を悟った赤松政範は、城内で最後の酒宴を開いた後に自害・・・上月城は落城したのでした。

この後、おそらく対毛利の最前線になるであろう上月城を山中幸盛に任せた秀吉は、別所長治(べっしょながはる)の守る播磨三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)へと向かうのでした~

って言っても、ご存知のように、次の三木城は、なかなかの長期戦となってしまうわけで(3月29日参照>>)・・・

その三木城を囲んでる間に、
信長に上月城は見捨てられるわ(5月4日参照>>)
山中幸盛は捕まるわ(7月17日参照>>)
谷大膳は討死するわ(9月10日参照>>)

一方の秀吉も、
野口城を攻めたり(4月3日参照>>)
神吉城を攻めたり(6月27日参照>>)
と忙しく、

あの竹中半兵衛も三木城攻めの陣中で亡くなる(6月13日参照>>)
荒木村重(あらきむらしげ)を説得に行った黒田官兵衛は帰って来ない(10月16日参照>>)

上様=信長は石山本願寺と交戦中やし(11月6日参照>>)

もちろん、織田方は他にも、
明智光秀(あけちみつひで)丹波平定(8月9日参照>>)に、北陸では上杉と交戦(10月4日参照>>)・・・

これらが、全部、織田家内で同時進行やと思うと、ホンマ戦国は激務・・・
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

« 2021年11月 | トップページ | 2022年1月 »