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2021年12月29日 (水)

日本史の新発見&発掘…歴史のニュース2021年総まとめ

 

色々あった2021年も、いよいよ終わりに近づきました・・・

未だ禍中の今日ではありますが、ここは一応、歴史ブログ・・・今年も様々な新発見や発掘があったわけで・・・

とりあえずは一年の締めくくりとして、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月  奈良県高市郡高取町で7世紀後半に、のろしをあげるために使われたとみられる穴の跡が発掘調査で見つかり、専門家は「633年の白村江(はくそんこう)の戦い(参照>>)をきっかけに国内で本格的に広まった『のろし』がどのような構造のものであげられていたかを探る貴重な発見だ」としています。
  大阪城の天守閣の南側から高さ役6m長さ役15mの石垣が発掘され、近くからは豊臣期のものとみられる金箔が押された瓦も見つかりました。
豊臣秀吉が築いた大阪城(参照>>)は1615年の大阪夏の陣で落城(参照>>)しましたが、その後、徳川幕府が新たな城を再建しており、豊臣期の大坂城の姿が垣間見える発見です。
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  戦国時代最初の天下人とされる武将・三好長慶の本拠地だった大阪・高槻市にある芥川山城跡から、櫓とみられる建物跡が見つかりました。
三好長慶は、戦国時代に織田信長に先んじて畿内を平定した武将(参照>>)で、大阪平野を一望できる高台に山城を築いて城を権力誇示の象徴にした時代の先駆けだった可能性があるとみられています。 
  滋賀県栗東市の縄文時代~近代の複合遺跡・高野遺跡で、古代の官道「東海道」の跡が見つかりました。
出土した土器などから奈良時代後期~平安時代前期に存在し、道幅は約16mだったと判明…専門家は「不明な点が多い古代の官道のルートの一部を特定できたのは貴重な成果だ」としています。
2月 豊臣秀吉が建立した方広寺大仏殿(参照>>)を囲んだ南築地塀の礎石2基が、京都国立博物館(京都市東山区)構内の発掘調査で初めて見つかりました。
慶長伏見地震で倒壊した「真の太閤塀」の痕跡とみられ、専門家は秀吉期大仏殿を考える上で貴重な遺構とみています。
  奈良市の世界遺産・平城宮跡(参照>>)の役所跡にあたる東方官衙(かんが)地区で、大型の石組みの排水施設(暗渠=あんきょ)が出土しました。
同地区は、国政の最高機関である太政官(だいじょうかん)の中枢とみられる建物跡が確認されており、排水施設は最大級の自然石を使った重厚なつくりとなっていて、当時の中枢施設の重要性がうかがえるとの事。
3月 小説「高瀬舟」や「舞姫」で知られる文豪で軍医でもあった森鷗外が、部下の軍医に宛てた手紙29通が見つかり、そのうち24通は新発見で、専門家は「鷗外の翻訳論や軍医としての側面を知る上で重要な資料」としています。
  高知県安芸市僧津瓜尻遺跡から、一辺約23mの溝で四方が囲まれ、溝に沿った柵列跡のある「方形区画遺構」が発見されました。
遺構の中には直径最大約9.5mの井戸遺構も見つかり、古代の井戸遺構としては国内最大級の大きさだという事です。
4月 皇居東御苑三の丸尚蔵館の改築工事現場で、約400年前の江戸城石垣が見つかりました。
慶長後半~元和期(1608~24年頃)に築かれた後、現在まで修繕されていなかったとみられ、これまで見つかっている江戸城遺構の中で、最古の状態のものの可能性があると言います。
  京都府井手町にある奈良時代の寺の跡の近くから高さ40mほどの五重塔が建っていたとみられる土台の跡が見つかりました。寺を創建した橘諸兄(参照>>)一族の権勢を示す発見として注目されます。
5月 1992年の首里城(那覇市)復元事業で使われた彫刻の資料が、復元に携わった彫刻家・今英男さん(故人)金沢の自宅で約30年ぶりに見つかりました。
作業当時の細かい注意点が記されており、2019年に焼失した城の再建に役立つと期待されています。
  伊能忠敬(参照>>)「新しい地図」が見つかりました。
今回見つかった地図は、伊能らが、1821年に幕府に提出した最終版の小図3枚ぞろいで、福岡北九州市の博物館に保管されていました。
3枚そろった「伊能小図」が国内で見つかるのは2例目で、保存状態もよく、学術的価値も高いといいます。
  奈良市の平城京跡西側の菅原遺跡から行基(参照>>)やその弟子らが建立した寺院四十九院の一つ、長岡院の候補地の北側で、回廊や塀に囲まれた円形掘っ立て柱建物の遺構が見つかりました。
円形の遺構は奈良時代には前例がなく、多宝塔と推定されます。
東大寺の大仏造立に尽くした高僧・行基の死亡直後に設けられた供養堂だった可能性があるとの事。
6月 いわき市JRいわき駅南口で、磐城平城内堀とみられる遺構が見つかりました。
JR東日本が周辺で進める開発工事で出土し、委託を受けた市教育文化事業団が発掘調査…事業団の担当者は「道路や建物が密集していて発掘できない区域が多いため、調査を全体の把握に役立てたい」と話しています。
  京都市右京区西院小で、平安時代から摂関家が有し、平安京内で最大の荘園小泉庄(こいずみのしょう)に関わる建物跡2棟が見つかりました。
宅地が耕作地(荘園)化する前の足跡もあり、都の主要路=道祖(さい)大路(現春日通、佐井通)を削り、京内最大級の人工河川を通してまで排水処理しようした苦心も見え、水はけや湿地に悩まされて都市域を縮めた右京の変転を物語る遺構と見られるそうです。
  福井県勝山市袋田遺跡で行われている発掘調査で、十五〜十六世紀の鍛冶関連遺構が発見されました。
中世の鍛冶屋跡が市内で見つかるのは初めてで、この地域では当時、租税として鍬(くわ)を納めていたと書かれた文献が市に残っており、それを裏付ける発見になりました。
  京都市中京区にある平安時代中期に摂政・太政大臣として政権を支えた藤原実頼(参照>>)の邸宅=小野宮(おののみや)から、あご髭(ひげ)をたくわえた人物が墨書された土師器(はじき)が見つかりました。
皿は鬼が出入りする方角とされる鬼門に位置する場所から出土した事で災いを払う目的で埋められた可能性があり、専門家は「鬼門の災いよけの実例としては、最古の可能性がある」と評価しています。
  慶応四年(1868年)の鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜(参照>>)追討を命じる高札が、岐阜県瑞浪市で見つかりました。
戦いの数日後に中山道大湫(おおくて)宿に掲げられたとみられ、「全国指名手配のような感じで新政府側の正統性をPRする狙いがあったのではないか」との事。
慶喜追討の高札は国内で数点確認されていますが、掲示場所がわかるものは珍しいという事です。
7月 京都市東山区清水寺での古文書の整理調査で、中近世の天皇足利尊氏豊臣秀吉関連文書が見つかりました。 
200点近くあった文書群には、京における鉄砲の使用時期を示す三好長慶禁制のほか、厚い観音信仰で知られた尊氏による土地の寄進状、秀吉が母の病気回復への返礼をつづった書状といった多数の原本が含まれています。
8月 兵庫県姫路市で発掘調査が進んでいる登リ田(のぼりた)遺跡で、京都の石清水八幡宮で使用されていた器などが発掘されました。
発掘されたのは、11世紀から12世紀初頭の瓦器椀(がきわん)と呼ばれる食器や、道教によるまじないに使われたとみられる木簡など。
兵庫県内の遺跡から発掘されることは珍しく、登リ田遺跡周辺が石清水八幡宮の荘園である可能性が高いということです。
  奈良市平城宮跡にある役所跡で、竹尺(竹の物差し)が出土しました。
現在の竹尺とそっくりな形をしており、奈良時代には実用品として使われていたとみられています。
竹製品は土中に残りにくく、同時代の竹尺を確認したのは初めての事。
目盛りが細かく、使っていた人が目印につけたと思われる矢印状の墨線が見て取れるといいます。
  織田信長の最愛の女性で、信長との間に信忠らをもうけたとされる吉乃(きつの=生駒の方)(参照>>)の墓がある愛知県江南市田代町久昌寺(きゅうしょうじ)が近く取り壊されることが分かりました。
老朽化に伴い維持管理が難しくなったためで、跡地は市に売却され、公園として整備される見込みです。
9月 細川家の史料を保管している東京 文京区にある永青文庫東京大学史料編纂所が共同で巻物になっていた細川忠興が記した書物を調べたところ、興が記した書物の裏に石田三成や古田織部の自筆の書状があることがわかりました。
専門家は、忠興が受け取った書状などの裏側を再利用していることがわかり、武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だとしています。
  大阪府茨木市にある弥生時代の大規模集落遺跡=東奈良遺跡で出土した焼き物の表面に、多数の小さな点を刻む「点描」の技法を使って人物が描かれていたことがわかりました。
弥生時代の点描の人物画が見つかるのは全国初だといい、頭部の上部や左手の先端は欠けているものの、肘を曲げて両手を上げた姿をしていて、豊作や悪霊退散を願う女性のシャーマン(呪術師)とみられ、土製品は祭事などで使用された可能性があります。 
  大阪府島本町JR島本駅前の土地区画整理に伴う尾山遺跡の発掘調査で、飛鳥時代末から奈良時代前半までの瓦窯跡とみられる遺構が発見されました。
周囲からは瓦も出土されており、当時の僧・道昭生産拠点にしていた可能性があるとか…文様のある瓦には、梶原寺(高槻市)などで使用されていたものと同じ文様があり、尾山遺跡で生産された瓦を使用していた可能性が高いとしています。
10月 奈良興福寺東金堂院の発掘調査で、平安末期の南都焼き打ち(参照>>) 後に再建されたと思われる門と回廊の遺構が見つかりました。
焼き打ち後の再建と断定できる遺構が興福寺で見つかったのは初めてで、門と回廊の規模も明らかになりました。
東金堂院は、主要なお堂の一つで室町時代に再建された東金堂とその南に立つ五重塔、それらを囲む回廊や門からなる物ですが、現在は門と回廊はありません。
  6世紀前半の継体天皇(参照>>)の墓だとする説が有力な、大阪高槻市今城塚古墳で、太鼓の形の埴輪が見つかり、太鼓が当時の儀礼において重要な役割を担っていたことを示すとみられています。 
太鼓形埴輪が確認されたのは6世紀中頃の古墳とされる宮崎県の百足塚(むかでづか)古墳に次いで2例目です。
11月 京都市の遺跡発掘調査で、平安京で天皇の居所だった内裏のうち、皇后らが住んでいた建物=登華殿とみられる柱穴が見つかりました。
これまでは盛り土など建物跡らしい遺構が確認されるにとどまっており、平安京内裏のはっきりした建物跡が見つかるのは初めてで、安京造営当初の8世紀末のものとみられる柱穴が五つ発見されました。
  奈良県高取町清水谷遺跡の発掘調査で、石組みの護岸が施された長方形の人工池の遺構が見つかりました。
古墳時代の5世紀中ごろの築造とみられ、石組みの人工池として国内最古級…朝鮮半島と関わる建物が確認され、祭祀に関連する遺物も出土し、「渡来系の人々が池を造り、祭祀を行った可能性がある」としています。 
  美濃国守護の土岐頼芸(参照>>)が16世紀前半に築いたとされる岐阜県山県市内の大桑(おおが)城跡の発掘調査の結果、古城山山頂付近にある台所と伝わる同城最大級の曲輪(くるわ=平たんな場所)で、庭園と建物とみられる遺構が見つかりました。
山城のある山の上に築かれた庭園が確認されたのは県内で初めてで、専門家は「建物と庭園がセットで確認されたことは、大桑城の構造を考える上でも、山城の守護所の在り方を検討する上でも極めて重要な発見」としています。 
12月 豊臣秀吉が築いたものの地震でわずか2年後に倒壊したため「幻の城」とも言われる指月伏見城(参照>>)石垣の基礎の跡が、これまで敷地の約100mほど外側で新たに見つかり城の規模や構造を見直す貴重な発見だとの事。
これまで、この場所は地震で倒壊したあとに再建された木幡山伏見城の城下町で、大名屋敷があった場所と考えられていましたが、今回見つかったのは最初に建てられた指月伏見城の石垣の基礎の一部だと分かったということです。 
  国内最古の宮廷庭園跡とされる奈良県明日香村飛鳥京跡苑池(えんち)で、7世紀後半の巨大な石組みの水路跡が見つかりました。
苑池内の池の水を排出するための施設で、両側には石積みの護岸が造られており、専門家は「水路も苑池の重要な構成要素として、景観を意識しながら一体的に整備されていた」としています。 

 

こうして見ると、今年も様々な新発見があり、個人的に気になるニュースもありました。

朝な夕なに大阪城を眺めて育った豊臣恩顧の茶々としては、1月の豊臣期大坂城の石垣も気になるんですが、やっぱり12月の幻の指月伏見城も気になりますね~

これから、さらに発掘調査が進んでいくのでしょうが、いつか全容解明されるのかな?
でも、ある程度、謎や幻感が残っていた方が浪漫がありますかねぇ~

あと、9月の細川忠興のエコ書状もイイですね~

先日の某鑑定団番組で、武田信玄の直筆書に800万(?だったかな?)の値段がついてましたが、石田三成や古田織部の書状なら、それに勝るとも劣らない値がつくはず・・・でも、同時代なら、その裏に書いちゃいますよね~
(てか、自分の書も、同じ価値やしねww)

嫁のガラシャが好き過ぎて、彼女の顔を見たというだけの庭師に嫉妬して斬り殺しちゃった~なんてコワイ噂ばかりが目に付く忠興さんですが、一方で、こんな一面もあるんですね~

専門家の方がおっしゃる通り、武将たちの素顔が垣間見えてオモシロイです。

・‥…━━━☆

てな事で、今年一年やってまいりましたが、
もうそろそろ、本気の「悪疫退散!」
アマビエ様牛頭天王も、八百万の神々総出でお願いしまっせ!

最後に
いつもブログを見に来てくだる皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいませm(_ _)m

そして、来年も、よろしくお願いします
 .

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コメント

個人的には「渋沢栄一が義弟(妹の夫)に送った借金の催促の手紙が見つかる」のニュースが印象に残りました。渋沢栄一の義弟は「青天を衝け」にも出ましたね。
久昌寺の件ですが「史跡公園」のような方式で、プレートなどが本堂跡地に置かれればいいですね。

投稿: えびすこ | 2022年1月 2日 (日) 11時14分

えびすこさん、こんばんは~

他と比較した事ないので、多いのか?少ないのか?は知りませんが、大阪では、公園内にそのような石碑や跡地がある場所、けっこう見ます。

公園とともに、永続的に管理してもらえるので、ありがたい事だと思います。

投稿: 茶々 | 2022年1月 3日 (月) 03時49分

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