近江守護の座を巡って~六角高頼VS山内就綱の金剛寺城の戦い
明応三年(1494年)12月9日、山内就綱に奪われた金剛寺城を六角高頼が奪回する金剛寺城の戦いがありました。
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世紀の大乱となった応仁の乱(おうにんのらん)(5月20日参照>>)の後、
スッタモンダの末に、8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後を継いで、第9代将軍となった一人息子の足利義尚(よしひさ)の使命は、大乱でグダグダになった全国各地を、少しずつでも平らかにし、室町幕府将軍の威厳を見せる事。。。
…という事で、まずは、大乱に乗じて、近隣の公家の荘園などを力で以って占拠して、好き勝手に領地を増やしつつあった近江(おうみ=滋賀県)南部の守護(しゅご=県知事)=六角高頼(ろっかくたかより=行高)を征討すべく、自ら出陣します。
しかし、近江鈎(まがり=滋賀県栗東市市安養寺)の陣にて、六角の味方をする甲賀衆(こうかしゅう=忍者部隊)の奇襲を受けた(12月2日参照>>)あげく、その陣中にて25歳の若さで病死してしまいます(3月27日参照>>)。
そのため、義尚の母である日野富子(ひのとみこ)が夫=義政の弟である足利義視(よしみ)の息子の足利義材(よしき=後の義稙)を推挙・・・
10代将軍となった義材が義尚の遺志を継いで六角征討を続け、明応元年(1492年)12月、何とか六角高頼を近江から追い出す事に成功し、朽木貞綱(くつきさだつな=佐々木貞綱)の息子で六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟?)の養子となっていた虎千代を高頼に代わる新しい近江守護に任命して六角征討を終えたのです(12月13日参照>>)。
とは言え、ご覧の通り、これは単に六角高頼を追いやっただけ・・・
本来なら、六角高頼とその一派を完全消滅させてこその征討・・・むしろ、幕府将軍が出張っても、六角高頼一人まともに倒す事ができなかったという事実が残り、幕府の弱体化が露呈してしまう結果となってしまったのです。
案の定、義材が京都に戻ったのを見計らって、コソコソと、徐々に近江へ戻って来る六角高頼系列の面々・・・
そこに動いたのが、あの応仁の乱の東軍大将だった細川勝元(ほそかわかつもと)の息子で、当時、管領(かんれい=将軍の補佐)を務めていた細川政元(まさもと)・・・
明応二年(1493年)4月、義材が、未だ応仁の乱を引きずってモメまくっている畠山義豊(はたけやまよしとよ=義就の息子)と畠山政長(まさなが)の同族争い(7月12日参照>>)に、政長の味方をして河内(かわち=大阪府東部)へと出陣してるスキに、細川政元がクーデターを決行したのです。
世に言う「明応の政変(めいおうのせいへん)」・・・京都にいない義材をクビにして、自らのお気に入りである足利義澄(よしずみ=義高=義材の従兄弟)を11代将軍に据えたのです(4月22日参照>>)。
この政変によって幕府内にて絶大な力を持つことになった細川政元は、義材の将軍就任に関わった虎千代を廃し、
先の六角征討の時に、義材側によって園城寺(おんじょうじ=滋賀県大津市・三井寺とも)に呼びだされて騙し討ちされた山内政綱(やまうちまさつな=六角氏の親族で重臣)の息子である山内就綱(なりつな)を六角氏の当主とし、さらに近江守護にも任じたのです。
虎千代が守護になって、まだ1年も経っていないのに。。。
この頃、すでにシレッと金剛寺城(こんごうでらじょう=滋賀県近江八幡市)に身を寄せていた六角高頼・・・
本来なら、自分が座るべき守護の座を、
「義材や政元の都合でアッチコッチへ~何、勝手にさらしとんねん!」
と怒り心頭です。
そもそもは六角の親族&重臣で、そのために先の征討で亡くなった山内政綱の息子ではありますが、山内就綱自身は、その際に幕府側に投降しており、もはやアチラ側の人間・・・
「正統な、このワシが、あんな若輩者に取って代わられる筋合いない!っちゅーねん」
と、こっそりと、新将軍の足利義澄に好を通じて、山内就綱の排除を謀ろうとしたのです。
京都にて、この気配を知った山内就綱は、すぐに近江へと帰還して、何とか六角高頼への対抗策を思案しますが、すでに将軍義澄も高頼に丸め込まれており、思うように兵備を整える事ができませんでした。
それでも、あちこち奔走する中、明応三年(1494年)10月になって、ようやく延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町・比叡山)の支援を得た事で、10月19日、山内就綱は高頼の拠る金剛寺城を攻めたのです。
この戦いで、重臣の美濃部貞茂(みのべさだしげ)をはじめとするその一族や多くの家臣を失った 六角高頼は、やむなく城を捨てて脱出・・・
が、しかし、ほどなく態勢を整え、今度は美濃(みの=岐阜県南部)守護代(しゅごだい=副知事)の斎藤妙純(さいとうみょうじゅん・利国) の支援を得て舞い戻った六角高頼は、明応三年(1494年)12月9日、金剛寺城に猛攻撃を仕掛けて、これを奪回したのでした。
今回は、逆に、多くの延暦寺の僧兵&宗徒が戦死し、山内就綱は、やむなく近江坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと退きました。
とは言え、山内就綱は、その翌年の明応四年(1495年)頃には、チャッカリ京都に戻って来ていたようで・・・というのも、この頃には、将軍義澄の命によって六角高頼が近江守護に復帰しており、おそらくは、もう、何もできない状態だったのでしょう。
一方の高頼は、この金剛寺城奪回のすぐあとに起こった美濃の内乱である船田合戦(ふなだがっせん)(6月19日参照>>)にて、斎藤妙純に敵対する石丸利光(いしまるとしみつ)の味方となっった事で、残念ながら、今回の恩人=妙純とは袂を分かつ関係となってしまいました。
その後のお話は…
●家康愛刀「ソハヤノツルキ」の持ち主~斎藤妙純の最期
●六角VS伊庭の乱~音羽日野城の戦い
でどうぞm(_ _)m
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