羽柴秀吉の上月城総攻撃
天正五年(1577年)12月2日、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨上月城に総攻撃を仕掛けて北方の太平山砦を奪いました。
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そもそもは、
永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した織田信長(おだのぶなが)(9月7日参照>>)に、翌永禄十二年(1569年)に自らが滅ぼした大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党=大内輝弘(おおうちてるひろ)との交戦中だった安芸(あき=広島県)の毛利元就(もうりもとなり)が、
その背後を突いて出雲(いずも=島根県)を奪回しようと動き始めた尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党を「けん制してほしい」と依頼した事に始まります。
この時、信長は、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)を中国方面の大将にした2万の軍勢を、
尼子氏の味方をする但馬(たじま=兵庫県北部)守護の山名祐豊(やまなすけと)の此隅山城(このすみやまじょう=兵庫県豊岡市)に派遣し、山名祐豊は織田に降伏・・・
つまり、始めは毛利と織田は連携関係にあったわけですが、
ところが、その元就が元亀二年(1571年)に亡くなって孫の毛利輝元(てるもと)にお代替わりする中で、輝元が、信長に敵対する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・全国の本願寺の本山)(9月14日参照>>)に味方し始めた事や、元亀四年(天正元年=1573年)に信長に京都を追放された足利義昭が毛利を頼って来た(7月13日参照>>)事など、
また、先の山名祐豊に同調していた尼子の再興を願う尼子勝久(かつひさ)が、家臣の山中幸盛(やまなかゆきもり=鹿介)らとともに信長の傘下となった事などなどから・・・
いつしか中国地方は、西の雄=毛利VS信長の中国攻めという構図となって来たわけです。
当然の事ながら、大国である毛利&織田の両者が敵対関係となると、その間に挟まれた丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)・播磨(はりま=兵庫県南西部)・因幡(いなば=鳥取県東部)・美作(みまさか=岡山県東北部)・備前(びぜん=岡山県東南部)などの近隣の国人領主たちは皆、どちらの強国に属するべきか?を悩むわけです。
そんな中、天正五年(1577年)春頃から開始された秀吉の播磨平定は、御着城(ごちゃくじょう=兵庫県姫路市御国野町)主の小寺政職(こでらまさもと)の家臣=黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=当時は小寺孝隆・後の如水)が、いち早く完全なる織田派として協力してくれた(11月29日参照>>)事もあって、
織田に与する国人領主もいたものの、未だ備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)と呼ばれる大乱の記憶も新しい備中(びっちゅう=岡山県西部)あたりでは、強国の毛利やそれに与する宇喜多直家(うきたなおいえ)(4月12日参照>>)の影響が、まだまだ大きかったのです。
そんな中の一人が上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)の赤松政範(あかまつまさのり)でした。
そこで、今回は上月城を中心に、周辺の叛意を示す諸城への同時攻撃を展開する作戦とした秀吉は、天正五年(1577年)11月27日、かの黒田官兵衛と竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)ら2千余騎を福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)の攻撃へと向かわせる(福原城攻防については12月1日参照>>)一方で、
自らは本隊を率いて出陣し、上月城方の猛攻撃をかいくぐって佐用川(さようがわ)と千種川(ちぐさがわ)を渡り、2日後の29日には上月城正面の仁位山(にいざん=兵庫県佐用町)まで侵出したのです。
同じ29日、別動隊を率いていた堀秀政(ほりひでまさ=久太郎)は、敵方の猛攻に遭い渡河できず、やむなく自軍を2手に分け、上月城をけん制しつつ迂回して円光寺(えんこうじ=兵庫県佐用郡佐用町円光寺)を占拠しました。
その日の夜、上月城を救うべく宇喜多広維(ひろつね=赤松政範の妹婿で宇喜多直家の舎弟)率いる備中からの援軍が出撃したとの一報が届きます。
早速、秀吉は、谷大膳(たにだいぜん)を先陣に自らも出撃し、翌30日に赤松山(あかまつやま=岡山県美作市海田)付近にて宇喜多勢と激突・・・
勝負が着かない猛攻の掛け合いとなりながらも、やや秀吉側有利で、多くの宇喜多勢が美作まで撤退しますが、一部は上月城までたどり着き城内へ逃げ込み、そこを守っていた山中鹿助&堀尾吉晴(ほりおよしはる)隊は、大きな痛手を被りました。
とは言え、本来なら上月城からも宇喜多勢に連動して撃って出るはずだったのが、秀吉勢の守りが固くて、その後は防戦一方となってしまったため、結局この日の戦いは、多くの宇喜多勢を撤退させて背後の憂いを取り去った秀吉側のやや優勢という結果となりました。
その後、秀吉のもとに信長からの援軍である高山右近(たかやまうこん=友祥・長房)が到着した事を受けて、
天正五年(1577年)12月2日、秀吉は、上月城への総攻撃を仕掛けるのです。
まずは、敵方の堀切を埋める作業を開始・・・それを見た城方は、そこに鉄砲や弓矢を射かけて作業を妨害すると同時に、城方の国府寺左近太郎(こうでらさこんたろう)が留守となった仁位山の秀吉本陣を奇襲して混乱させます。
やむなく秀吉は、この場では仁位山を諦めますが、一方で上月城の北側にある太平山砦(旧上山城)を奪う事に成功しました。
この太平山砦の場所は、現在の上月城よりも高い位置にあるので、実は戦うには有利(孫子の兵法「軍争篇」べからず集を参照>>)・・・この事は、少なからず上月城の城兵に動揺を走らせます。
そこで、この日の夜・・・城方が夜討ちにて秀吉本陣に迫り、あちこち放火した事によって両軍に2千人ほどの死者を出す惨事となってしまいました。
このため、谷大膳は
「今、味方はことごとく不利な状況にあります。
城攻めには、人の利、地の利、時の利が重要ですから、一旦、撤退しませんか?」
と、秀吉に進言しましたが、
秀吉は、
「長期戦になったら、せっかく味方になってくれた周辺の国人たちが、コチラが不利やと見て離反するかも知れん。
ここまでバッチリ囲んでたら、どんだけ堅城や言うても、所詮は籠の鳥や。
籠の鳥なら、いつかは矢玉も尽きる」
と言って、短期決戦の力推しに挑む事になります。
翌12月3日、土塁にハシゴをかけて城内への突入を試みる浅野長政(あさのながまさ=秀吉の義養父)隊に、敵が去った仁位山と昨日奪った太平山砦から、鉄砲による一斉の援護射撃を仕掛ける秀吉勢・・・
多勢に無勢の中の猛攻撃に、たまらず城内からも寝返る者が現れ、
「もはや、これまで…」
を悟った赤松政範は、城内で最後の酒宴を開いた後に自害・・・上月城は落城したのでした。
この後、おそらく対毛利の最前線になるであろう上月城を山中幸盛に任せた秀吉は、別所長治(べっしょながはる)の守る播磨三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)へと向かうのでした~
って言っても、ご存知のように、次の三木城は、なかなかの長期戦となってしまうわけで(3月29日参照>>)・・・
その三木城を囲んでる間に、
信長に上月城は見捨てられるわ(5月4日参照>>)
山中幸盛は捕まるわ(7月17日参照>>)
谷大膳は討死するわ(9月10日参照>>)
一方の秀吉も、
野口城を攻めたり(4月3日参照>>)
神吉城を攻めたり(6月27日参照>>)
と忙しく、
あの竹中半兵衛も三木城攻めの陣中で亡くなるし(6月13日参照>>)、
荒木村重(あらきむらしげ)を説得に行った黒田官兵衛は帰って来ないし(10月16日参照>>)
上様=信長は石山本願寺と交戦中やし(11月6日参照>>)
もちろん、織田方は他にも、
明智光秀(あけちみつひで)の丹波平定(8月9日参照>>)に、北陸では上杉と交戦(10月4日参照>>)・・・
これらが、全部、織田家内で同時進行やと思うと、ホンマ戦国は激務・・・
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