弓馬礼法を伝えたい~小笠原貞慶の生き残り術
天正十三年(1585年)12月14日、石川数正の、徳川家康からの離反を受けて、小笠原貞慶が徳川方の保科正直の高遠城を攻撃しました。
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小笠原貞慶(おがさわらさだよし)の小笠原家は、深志城(ふかしじょう=長野県松本市・現在の松本城)を居城とし、代々信濃(しなの=長野県)守護(しゅご=県知事)を務める名門でしたが、天文十七年(1548年)の塩尻峠(しおじりとうげ=長野県塩尻市)の戦いにて、父の小笠原長時(ながとき)が、隣国・甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)に敗れた(7月19日参照>>)ために城を失い、父とともに幼い貞慶(おそらく2~3歳)も放浪の身となりました。
そして越後(えちご=新潟県)にたどり着き(4月22日参照>>)、しばらくは上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)の保護を受けていましたが、当然、父子ともに信濃復帰の夢は捨ててはいないわけで・・・
その夢の実現のため、まずは伊勢(いせ=三重県中北部と愛知県の一部)へ向かい、その後、永禄四年(1561年)頃に畿内を点々とした後、京へと上り、すでに白川口(北白川)の戦い(6月9日参照>>)をキッカケに、足利義輝(あしかがよしてる=13代室町幕府将軍)と和睦して将軍を京へ迎え入れ(11月27日参照>>)、まさに天下人の地位に手をかけていた三好長慶(みよしながよし)の傘下になったようです。
…というのも、小笠原貞慶は、はじめ小笠原貞虎(さだとら)と名乗っていたのを、京に上った後に小笠原貞慶に改名しているので・・・おそらくは、越後時代には長尾景虎の「虎」の字をもらい、今度は三好長慶の「慶」の字をもらっての改名と思われ(←このあたりは、あくませ推測です)、
この後、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)の織田信長(おだのぶなが)に奉じられて上洛し、第15代将軍となった足利義昭(よしあき)(10月18日参照>>)が仮御所としていた本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が攻めた時(1月1日参照>>)、キッチリ三好の一員として参戦してますので、父の長時はともかく(長時は越後行ったり戻ったりウロウロしてるので…)貞慶は三好の配下に納まっていた事でしょう。
しかし、ご存知のように、三好三人衆は織田信長を見返すには至らず(8月23日参照>>)、やがて信長に反抗した足利義昭も京都を追放され(7月18日参照>>)、三好宗家を継いでいた三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥・十河重存)も信長の前に散る事になってしまいました(11月16日参照>>)。
とは言え、
本日主役の小笠原貞慶の方は、いつの間にやらチャッカリ織田信長の傘下となっていたようで・・・この頃は、織田家の使者として、かつてお世話になった上杉謙信やら、放浪生活の元となった武田信玄やらとの交渉窓口になっていて、信濃に所領もいただいちゃってます。
そう思うと、意外に要領の良い人たらし(←褒めてます)で、口がたつ人だったのかも知れませんね。
ただ、信長が武田を倒して(3月10日参照>>)信濃を得た天正十年(1582年)の時には、信長は信濃2郡を木曽義昌(きそよしまさ)に与えてしまったため、さすがに、かつての旧領や深志城を取り戻すまでには至りませんでしたが・・・
そんな甲州征伐(こうしゅうせいばつ)の3ヶ月後に起こった本能寺の変で信長が横死(6月2日参照>>)すると、その死によって宙に浮いた(織田が取ったばかりで未だ治めきれていない)武田旧領の取り合い合戦=(上杉×北条×德川による)天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)が勃発(8月7日参照>>)すると、チャッカリ今度は徳川家康(とくがわいえやす)の家臣となって参戦し、取り合いの一角である上杉景勝(うえすぎかげかつ)をけん制する役目を果たしています。
(やっぱ要領えぇやんww)
こうして家康の支援を得た小笠原貞慶は、天正壬午の乱のドサクサで木曽義昌を追い出して深志城に入っていた小笠原洞雪斎(どうせつさい=貞慶の叔父)から深志城を奪還し、見事、大名に復帰・・・
さらに、ドップリと德川に忠誠を尽くすべく、息子の小笠原秀政(ひでまさ)を人質として差し出し、自身は、家康の忠臣である石川数正(いしかわかずまさ)の配下となり、ここで深志城の名を松本城へと改めました。
さらに、
亡き信長の後継を巡って、信長の息子=織田信雄(のぶお・のぶかつ)と組んだ徳川家康が、豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)と争った天正十二年(1584年)の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(11月16日参照>>)では、秀吉側に寝返った木曽義昌の拠る福島城(ふくしまじょう=長野県木曽郡木曽町)を攻め、義昌を興禅寺(こうぜんじ=長野県木曽郡木曽町)へ追いやるという武功を挙げました。
てな事で…德川の傘下になって、ようやく順風満帆か?
…と思いきや、
天正十三年(1585年)、家康が上田城(うえだじょう=長野県上田市)の真田昌幸(さなだまさゆき)を絶賛攻撃中の11月13日(12日説もあり)、忠臣であったはずの石川数正が、貞慶から預かってる息子・秀政とともに一族郎党百余人を伴って、突如出奔して秀吉のもとに走ったのです(8月2日【神川の戦い】参照>>)。
これを受けた小笠原貞慶・・・天正十三年(1585年)12月14日、彼もまた徳川家康との関係を絶ち、德川方の保科正直(ほしなまさなお)を高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)に攻めたわけです。
ただし、石川数正の出奔の原因は未だ謎(11月13日参照>>)…とはされているものの、一説には、貞慶が真田昌幸を通じて秀吉に内通している事が家康にバレて、監督者である数正が家康から責任を問われたのが、数正出奔の原因・・・という見方もありますので、
これが事実だとすると、数正の出奔を受けて貞慶が・・・
ではなく、むしろ貞慶が主導していた事になるわけですが・・・
とにもかくにも、ここで秀吉の家臣となった小笠原貞慶は、天正十八年(1590年)の、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)(4月1日参照>>)では北陸方面から行軍する前田利家(まえだとしいえ)隊に従軍して武功を挙げました。
おかげで、讃岐(さぬき=香川県)半国を領する大名へと出世した小笠原貞慶でしたが、ここで、かつて天正十五年(1587年)の九州征伐の時の戸次川(へつぎがわ)の戦い(11月25日参照>>)や、根白坂(ねじろざか=宮崎県児湯郡木城町)の戦い(4月17日参照>>)で大失敗を犯して秀吉に追放された尾藤知宣(びとうとものぶ)という武将を客将(きゃくしょう=家臣ではなく客分として迎えられている武将)として庇護していた事が秀吉にバレて激怒され、所領を没収されて改易となってしまいました。
その後は、息子の秀政とともに、再び家康のもとへ・・・自らは引退し、家康の関東入りキッカケで息子の秀政に与えられた領地=古河(こが=茨城県古河市)にて余生を過ごしたという事です。
とまぁ、
戦国武将としての小笠原貞慶さんを、サラッとご紹介させていただきましたが、失礼ながらも、戦国武将としての功績で言えば、特筆すべき感じではありませんが、
実は、今回の小笠原貞慶さん、
兵法の伝授者としては、知る人ぞ知る有名人・・・そう、弓馬術や礼法に秀でた、あの小笠原流です。
そもそもは、第56代清和天皇(せいわてんのう)の第六皇子である貞純親王(さだずみしんのう)を祖として代々伝えられた糾法(きゅうほう=弓馬術礼法)を、鎌倉時代に小笠原長清(ながきよ)&小笠原長経(ながつね)父子が源頼朝(みなもとのよりとも)&源実朝(さねとも)父子の師範となり、その子孫が南北朝時代には後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)に仕え、さらに、その子孫が足利義満(よしみつ)に仕え・・・と、代々惣領家(本家)の当主が糾法全般を取り仕切って来たわけで、
戦国時代になって、その17代当主だったのが、父の小笠原長時・・・その後継ぎが小笠原貞慶だったんです。
これまで紡いできた伝統の糸・・・
それが、世は戦国となって、冒頭に書いたように武田の侵攻を受け・・・
「このままでは、大切な兵法の奥義が途絶えてしまう!」
小笠原貞慶が、さも要領よく、あっちに行ったり、こっちについたりしてるのも、実は、兵法の奥義を途絶えさせないためで、冒頭部分で息子の貞慶に惣領家を任せた長時が、その後、越後行ったり戻ったりウロウロしてるのも、その奥義を広く伝授するためだったワケです。
現存する小笠原貞慶の書いた『伝授状』には、
「当家日取(ひどり)一流の儀
余儀無(よぎな)く承(うけたまわ)り候間(そうろうあいだ)
その意にまかせ相伝(あいつたえ)候
疎(おろそ)かこれ有るまじき事肝要(かんよう)に候」
とあり、
貞慶が、その奥義を伝える事こそが、自らの使命だと思っていたであろう事が感じ取れます。
戦国武将として領地を拡大する事よりも、何とか生き残り、この伝統を守りたい!と・・・
貞慶の小笠原家は、孫の小笠原忠真(ただざね)の時代に小倉藩(こくらはん=福岡県北九州市)主として落ち着いて、その後の江戸250年を生き抜きますが、彼=忠真が、宮本武蔵(みやもとむさし)や、その養子の宮本伊織(いおり)、宝蔵院流高田派(ほうぞういんりゅうたかだは=槍術)の高田又兵衛吉次(たかたまたべえよしつぐ)など、多くの剣豪を召し抱えたのも、小笠原流の兵法を後世に伝えていくためだったのかも知れません。
戦国は、華々しい戦いもカッコイイけど、こういうのも、
なんか良い・・・ですね。
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コメント
茶々様 こんにちは
戦国時代は誰につくかで命運が決まりますから、
石川数正が出奔したときは驚いたでしょうね。
事前に相談あったのかな?
兵法を伝承しなくてはいけない分、貞慶へのプレッシャーは半端なかったと想像します。
投稿: 山根秀樹 | 2021年12月14日 (火) 14時36分
山根秀樹さん、こんばんは~
>貞慶へのプレッシャーは半端なかったと…
ですね。。。
平安・鎌倉から続いてる物を、自分の代で絶えさせるわけにはいきませんものね~
大変だったと思います。
投稿: 茶々 | 2021年12月14日 (火) 18時45分