南北朝~新将軍・足利義詮の南征&龍門山の戦い
正平十四年・延文四年(1359年)12月23日、新将軍となった足利義詮が大軍を率いて京を出発・・・「足利義詮の南征」が開始されました。
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元弘三年(1333年)、
ともに鎌倉幕府を倒す(5月22日参照>>)も、その後に、後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)が行った建武の新政(けんむのしんせい)(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が、楠木正成(くすのきまさしげ)を破って(5月25日参照>>)京都を制圧し(6月30日参照>>)、そこに新たな天皇を擁立して(8月15日参照>>)開いたのが北朝・・・
それに対抗して吉野(よしの=奈良県吉野村)へと退いた後醍醐天皇が開いたのが南朝(12月21日参照>>)・・・
*くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】>>で…
こうして始まった南北朝時代も、はやくも延元三年・建武五年(1338年)には南朝期待の星だった北畠顕家(きたばたけあきいえ)(5月22日参照>>)や新田義貞(にったよしさだ)(7月2日参照>>)が、相次いで討死し、
その年の8月には、足利尊氏が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられ、京都にて室町幕府を開きます(8月11日参照>>)。
その翌年には後醍醐天皇が崩御され(8月16日参照>>)、おおむね北朝有利に戦いは進みますが、その北朝は、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)(10月26日参照>>)の勃発や、執事(しつじ=将軍の補佐)の高師直が謀殺される(2月26日参照>>)など、北朝内での内部抗争&主導権争いも激しくなり、正平七年・文和元年(1352年) には、一時的に南朝の盛り返しもありました(3月24日【八幡合戦】参照>>)。
そんなこんなの正平十三年・延文三年(1358年)4月、足利尊氏が54歳で死去(4月30日参照>>)した事を受けて、その年の暮れには嫡子の足利義詮(よしあきら=三男)が第2代室町幕府将軍に任命されました。
この頃も、北朝幕府方が都を制圧し優位にはあるものの、一方で、山名時氏(やまなときうじ)・師氏(もろうじ)父子の離反や(3月13日参照>>)、九州で暴れる懐良親王(かねよし・かねながしんのう=後醍醐天皇の第八皇子)の事(8月6日参照>>)など、未だ南朝勢力への不安を抱えたままであった事から、
新将軍となった足利義詮は、関東にて奮戦する畠山国清(はたけやまくにきよ=道誓)を援軍に呼び寄せ、正平十四年・延文四年(1359年)12月23日、河内(かわち=大阪府北部)から紀伊(きい=和歌山県)方面へと出立したのです。(足利義詮の南征)
大手(おおて=正面)を行く将軍義詮の軍は約2000余騎・・・その数のあまりの多さに西宮(にしのみや)から尼崎(あまがさき)そして鳴尾(なるお=いずれも兵庫県)あたりの寺社では、そこかしこに兵たちが満ちあふれるほどだったとか・・・
一方、義詮が都を発った同じ日に、南朝方の後村上天皇(ごむらかみてんのう=第97代・後醍醐天皇の第七皇子)は、北朝方の攻撃を警戒して、南朝の仮宮を楠木の菩提寺である観心寺(かんしんじ=大阪府河内長野市)に遷します。
これは、あの楠木正成の末っ子である楠木正儀(まさのり)の進言によるものと言われ、この頃の後村上天皇が最も信頼を置く武将が正儀だったのです。
…で、
将軍出立の翌日の24日に搦手(からめて=横手)として都を出陣した畠山国清の軍は、関東から連れて来た大軍を率いて、この日は八幡山(はちまんやま=京都府八幡市・男山)の麓にある葛葉(くずは=大阪府枚方市樟葉)に陣取ります。
しかし、その後の北朝方の軍は、楠木正儀の本拠である東条(ひがんじょ=大阪府柏原市)近くまでは迫るものの、容易に攻めて来なかったため、
「ならば…」
と、楠木正儀は、和田正武(わだまさたけ)らとともに撃って出る作戦に・・・
かくして、翌25日、楠木&和田軍は、四条(しじょう=現在の近鉄:瓢箪山駅周辺)にて畠山国清軍とぶつかりました。
この時、戦い自体は小競り合い程度であったものの、長きに渡るにらみ合いに疲れた北朝兵士たちが、神社仏閣に押し寄せて乱暴狼藉をはかったと言います。
一方、この頃、畠山国清の弟である畠山義深(よしふか・よしとお)は、将軍義詮の命を受けて紀伊方面へ・・・向かった龍門山(りゅうもんざん=和歌山県紀の川市)には、すでに南朝方の四条隆俊(しじょうたかとし)が3000の兵で陣取っておりました。
そこを、慎重に堅く、周囲に目を配りながらゆっくりと進む畠山義深・・・そこで四条隆俊は、侍大将の塩谷伊勢守(しおのやいせのかみ)を使って陽動作戦を取ります。
畠山義深の大軍を見て、さもビビッたかの如く、退く姿勢を見せる塩谷隊・・・
畠山義深の側近の遊佐勘解由(ゆさかげゆ)は、
「それ!敵は逃げたぞ!追いかけよ!」
と、盾の用意もせずに飛び出してしまいます。
しかし、これは上記の通り、南朝方の作戦・・・途中まで追いかけたところで、山間に伏せていた兵が一斉に矢を射かけます。
雨アラレのように降り注ぐ矢に、畠山軍が進むことができず、思わず立ちすくむと、そこに
「我こそは塩谷伊勢守なり!」と、まだ真新しい甲冑に身を包んだ武将が、大声で名乗りつつ突進して来ます。
こうして陽動作戦は成功し、戦いは北朝の敗北となったものの、深追いし過ぎた塩谷伊勢守は、ここで戦死してしまったのです。(龍門山の戦い)
一方、この紀伊方面での敗北を知った北朝幕府側には動揺が走ります。
河内に展開する南朝軍と、紀伊の南朝軍の挟み撃ちに遭えば、さすがの幕府の大軍もヤバい・・・
そこで、幕府軍が芳賀公頼(はがきんより)を援軍として差し向けます。
公頼は、
「敵を倒さぬ限り、生きてここへは帰りませぬ」
と、父と今生の別れをし、一路、龍門へ・・・しかし、これが強かった。。。
いや、この決死の覚悟が、その強さを導いたのかも知れませんが、とにかく、芳賀公頼は龍門山の麓に着くなり打ち寄せ、打ち寄せると同時に攻め上り・・・
思わず、四条隆俊は龍門を捨てて、阿瀬川城(あせがわじょう=和歌山県有田郡)へと退き、一転、龍門山の戦いは、北朝幕府軍の勝利となったのでした。
しかも、このタイミングで南朝方には悲しいお知らせが・・・
住吉神社の宮司から、社の庭に立つ楠の木が、風も無いのに神殿に向かって倒れかかるという凶兆が伝えられ、南朝のテンションはだだ下がり・・・
その後、勢いに乗る幕府軍は、楠木正儀&和田正武らが籠っていた龍泉寺城(りゅうせんじじょう=大阪府富田林市・嶽山城)を奇襲して落とすなど、南朝方の諸城を次々と落城させて行きました。
最後まで残った赤坂城(あかさかじょう=大阪府南河内郡千早赤阪村)では、守りを固めようとする楠木正儀と、イケイケの和田正武が対立し、和田正武が単独で、囲む幕府軍に夜襲をかけるも、あえなく敗退し、
やむなく楠木正儀&和田正武らは、ともに金剛山(こんごうざん=奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村)の奥深くに撤退したのでした。
こうして正平十四年・延文四年(1359年)から翌年にかけて展開された足利義詮の南征は終りを告げ、この後、楠木正儀によって秘密裏に和平交渉が行われるものの、失敗に終わり、南北朝の動乱は、まだまだ続く事になります。
★今後の展開は…
●【北朝執事の細川清氏が南朝へ…】>>
●【新将軍京落での佐々木道誉と楠木正儀】>>
でどうぞm(_ _)m
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