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2022年1月31日 (月)

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第4回の感想

いやぁ~オモシロイですね~

私的には、こういう感じ好きです。

新垣さん演じる八重姫に関しては、子供を殺され、頼朝と引き離された後には入水自殺した…なんて話もあって、これまで悲劇的な描き方しかされて来なかったので、新垣さんがキャスティングされた当初は、
「ガッキーかわいそう」
「ガッキーが不幸になるとこ見たくない」
なんて意見がSNS等で見られ、

いったいどんな風になるのだろう?
と思っていましたが、いやはや、強い強い!

不幸一辺倒ではない、強い意志を持った女性に描かれたところは、お見事ですね~

…にしても、

西田法皇様の「ステキな金縛り」風や、
宮沢りく様の「くじは、全部17日にしておいたわ」
のコーナーは、物語の遊びとして棚の上に置くとして、

「300は集まる」
と言っていた兵が、わずか18人しか集まっておらず、

しかも、老人のお茶飲み場のようになってる光景を見て、あきれて発した大泉佐殿の、
「ちょっと…いいかな」
は完全に、大泉頼朝ではなく、大泉洋さんでしたね(笑)

さらに、その後も、
「田舎者に頭下げられるか!」
からの、
「ここだけの話、ワシが1番信じているのはそなた!」
と、助太刀に来た坂東武者たちへの涙流さんばかりの接待ぶり…

まるでコントのような流れでしたが、
実は、コレは『吾妻鏡』に登場する、一応史実とされている事…

もちろん『吾妻鏡』も北条氏の公式文書とは言え、すべては鵜呑みにできませんが、もともと史料が少ない、ここらあたり…『吾妻鏡』の内容を描くのはアリです。

なんせ、(ちょっとネタバレなりますが…)
この後、石橋山の戦いで敗れ、もはや数人の護衛だけ連れて敗走する頼朝が、挙兵した伊豆から、舟で海を渡って房総半島へ行き、そこから東京湾づたいに進んで鎌倉に入るまで、行く道筋で徐々に仲間を増やしていく時など、

ある人には、今回のような、涙ながらのお礼を言って感激したのに、
ある人には、
「真っ先に来てくれるかと思てたのに、えらい遅かったの~」
と高飛車に出てみたり、

実際の頼朝さんも、相手によって、その態度を変えてるように見受けられる部分もあるので(あくまで私見です)

頼朝本人の資質なのか、北条家のアドバイスなのかはともかく、
そこらへんの駆け引きがウマかった事は確かだと思います。

おふざけのように見えるこの流れですが、実際にも、こんな感じだったんじゃないか?と個人的には思っています。

たとえば戦国時代だって、あの大坂の陣の時なんか、

徳川家康との婚礼の日取りが決まっていた淀殿が、大野治長と高野山に逃げてドタキャンしたとか(参照>>)

冬の陣で博労淵を奇襲されたのは、そこを守るはずだった薄田隼人が、前夜に遊郭で遊び惚けて戻って来なかったからとか(参照>>)

その薄田隼人と後藤又兵衛が夏の陣の道明寺誉田の戦いで討死したのは、前日に「夜明け前に3人で道明寺で敵を迎え撃とう」と、彼らと約束していた真田幸村(信繁)が寝坊して遅刻したためとか(参照>>)

(もちろん、これも絶対正しいとは言えないものの…)
「ウソやろ!」
というような逸話が残ってたりするものです。

私は、こういう人間味あふれる逸話が大好物なのですが、武将のカッコ良さを描く時代劇では、そんな場面は出てきませんからね~
(ちなみに幕末の王政復古の大号令での岩倉具視のあたふた感(参照>>)も好きですww)

なので、今回の頼朝軍のドタバタ感や、
大泉頼朝の二股膏薬的なシーンは、本当に良かったと思います。

これからも楽しみです。

★ブログでの関連ページ
 ●【頼朝挙兵】>>
 ●【石橋山の戦い】>>
 ●【衣笠城の戦い】>>
 ●【頼朝に味方した葛西清重】>>
一連の流れは
 【平清盛と平家物語の年表】でどうぞ>>

「鎌倉殿の13人」第1回の感想はコチラ>>
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2022年1月26日 (水)

戦国を生き抜いた鹿野藩初代藩主~亀井茲矩

 

慶長十七年(1612年)1月26日、鹿野藩初代藩主となった亀井茲矩が死去しました。

・・・・・・・・・

亀井茲矩(かめいこれのり)は、父の湯永綱(ゆながつな)が、月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市広瀬町)を拠点に山陰地方で栄華を誇った尼子(あまご)の家臣であった事から、自身も尼子氏に仕えていましたが、 

ご存知のように永禄九年(1566年)11月、尼子義久(あまごよしひさ)の代に安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)に攻められて降伏(11月28日参照>>)・・・事実上、尼子氏滅亡となったため、亀井茲矩も浪人の身となって各所を点々としていました。

そんな時、因幡(いなば=鳥取県東部)にて、尼子一族の生き残り=尼子勝久(かつひさ=義久のまた従兄弟)還俗(げんぞく=僧となった人が一般人に戻る事)させ、彼を新当主に担ぎ上げて尼子を再興&月山富田城奪回を考える旧尼子家臣の山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)に出会い、天正元年(1573年)から、本格的に鹿介の案に賛同して尼子再興軍(1月22日参照>>)に加わり、各地を転戦します。

ここらあたりで、山中鹿介の養女となっていた同じく尼子の旧一門格家臣の亀井秀綱(かめいひでつな=先の月山富田城の戦いで戦死したと思われます)娘を妻に娶ると同時に、その亀井の家名を継いで、以後、亀井茲矩と名乗るようになります。

しかし、この頃の中国地方は備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)と呼ばれる混乱状態で、幾度転戦しようが、勝ち負けは一時的な物で、頭一つ抜け出した西国の雄=毛利には、どうしても歯が立たない・・・

そこで、尼子勝久と山中鹿介は、永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)して後、しばらくして本願寺顕如(けんにょ)とモメた(9月12日参照>>)事で、その本願寺に味方する毛利輝元(てるもと=元就の孫)とも敵対(7月13日参照>>)し始めた織田信長(おだのぶなが)の後ろ盾を得るべく信長の元へはせ参じ、その傘下となった事から、当然、亀井茲矩も彼らとともに・・・

ただし、ここで、勝久&鹿介が、織田家内で但馬(たじま=兵庫県北部)からの中国攻略(10月23日参照>>)を任されている羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の配下に配属されたのに対し、亀井茲矩は、途中から丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)攻め(10月29日参照>>)明智光秀(あけちみつひで)の配下に配属された事で、運命の分かれ道・・・

天正五年(1577年)12月に、秀吉が播磨(はりま=兵庫県南西部)上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)を落とした事で(12月2日参照>>)、その上月城の守りを任された尼子勝久&山中鹿介は、翌天正六年(1578年)7月に上月城を奪回しようと攻めて来た毛利を防ぎきれず、尼子勝久は籠城のうえ自害(7月3日参照>>)、山中鹿介は捕縛された後に殺害されてしまったのです(7月17日参照>>) 。

尼子再興は風前の灯となったものの、その夢は一門を継いだ亀井茲矩自身に引き継がれ、勝久&鹿介の生き残りの部下たちとともに、その後も秀吉軍に属して戦い続け

Kameikorenori400a 天正九年(1581年)の 鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)攻略(10月25日参照>>)で武功を挙げ、因幡の守りの最前線である鹿野城(しかのじょう=鳥取県鳥取市鹿野町)を任されました。
(亀井茲矩像:出典>>)

翌年の天正十年(1582年)6月の本能寺の変(6月2日参照>>)の時は、やはり秀吉と行動をともにしいていた亀井茲矩は、あの中国大返し(6月6日参照>>)で、万が一、毛利が追って来た時の対処をすべく、途中から別れて鹿野城へと戻り、後詰として睨みを効かせたのでした。

ご存知のように、それからしばらくは清須会議(6月27日参照>>)やら、信長の葬儀(10月15日参照>>)やら、賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)やらに忙しく、中国方面に目を向けられなくなった秀吉・・・

そこで、秀吉は、その中国方面の玄関口を、鳥取城主となっていた宮部継潤(みやべけいじゅん)(3月25日参照>>)に守らせますが、亀井茲矩は、その宮部の配下となって活躍・・・

天正十五年(1587年)の九州征伐にも(4月17日参照>>)、天正十八年(1590年)の小田原征伐にも(3月29日参照>>)従軍し、さらに、文禄元年(1592年)からの文禄&慶長(ぶんろく&けいちょう)朝鮮出兵(4月13日参照>>)でも水軍を率いて渡海し、かなりの奮戦ぶりでした。

その間の(文禄の役後の休戦中)文禄四年(1595年)には、秀吉から西播磨で発見された日野山銀山の経営を任されたとか・・・(1年ほどで吉川広家の所領となって権利を奪われたらしい)

と、ここまで、かなり波乱万丈な人生を送っている亀井茲矩・・・(言うの忘れてましたが)この時点での茲矩さんは、未だ30代半ばの男盛りなんですが、おそらくは、亀井茲矩の名を頻繁に聞くようになるのは、ここらあたりから・・・

そう、あの関ヶ原の戦いです。
(戦いのイロイロは【関ヶ原の戦いの年表】>>で)

秀吉の死を受けて、早いうちから徳川家康(とくがわいえやす)に近づいていた亀井茲矩は、関ヶ原本戦では家康の東軍に属して参戦しますが、布陣した場所が南宮山(なんぐうさん=岐阜県大垣市)の毛利&吉川勢をけん制する位置で、

結局、毛利&吉川は家康との約束通り、最後までまったく動かなかったため(9月28日参照>>)亀井茲矩自身は大した武功を挙げる事ができていませんでした。

そこで茲矩は、すぐさま因幡へと戻り、約400の手勢を率いて西軍についていた垣屋恒総(かきやつねふさ)桐山城(きりやまじょう=鳥取県岩美郡岩美町)接収し、木下重堅(きのしたしげかた)若桜鬼ヶ城(わかさおにがじょう=鳥取県八頭郡若桜町)無血開城させ、最後に残った鳥取城へと向かうのですが、これがなかなか落ちず・・・

やむなく茲矩は、西軍として丹後田辺城(たなべじょう=京都府舞鶴市)の攻撃(7月21日参照>>)に参戦した友人の赤松広秀(あかまつひろひで=広通・広英・斎村政広)を東軍に寝返らせて、ともに城に総攻撃を仕掛けて落城させたのです(10月5日参照>>)

ところが、その後、この鳥取城攻めの際に城下を焼いてしまった事を家康に咎められて赤松広秀が切腹させられてしまうのです(10月28日参照>>)

しかし亀井茲矩は無傷、てか、むしろ加増・・・そのため、今では、鳥取城下を焼いた責任を赤松広秀一人になすりつけたのではないか?と言われています。

また、これまた亀井茲矩と仲が良かった水口城(みなくちじょう=滋賀県甲賀市水口町)長束正家(なつかまさいえ=「ながつか」とも)を攻めた際は、
「すんなり開城したら本領を安堵する」
約束しておきながら、正家が城を出て来た所を捕縛したとか・・・(10月3日参照>>)

なんだか、後味悪いよ~亀井さん!

…と思っちゃいますが、赤松さん&長束さん、それぞれのページで書かせていただいたように、

これは、実際には、友人として、初めは西軍にて参戦していた赤松広秀の罪を、
「ちょっとでも軽くしてあげよう」
として亀井茲矩が鳥取城攻めに誘ったものの、生野銀山(いくのぎんざん)を管轄している赤松の領地を德川の直轄地にしたかった家康のせいかも知れないし、

長束さんを騙したのも、ともに水口城を攻めていた池田長吉(いけだながよし=池田輝政の弟)かも知れないわけで・・・

本日は亀井茲矩さんのご命日で、このページは亀井茲矩さんが主役・・・って事で、ちょっとだけ名誉快復して差し上げたい気分です。

なんせ、この後、德川政権下で鹿野藩初代藩主となった亀井茲矩は、湖山池(こやまいけ=鳥取県鳥取市)干拓に力を注いだり、暴れ川だった千代川に農業用水路の大井手(おおいで)用水を造って新田開発をしたり、

幕府からの朱印状を得てシャム(現在のタイ中部にあったアユタヤ王朝の国)交易船を派遣したり・・・と、かなりの名君ぶりを発揮してくれています。

まぁ、内政が良いからイイ人とも限らないですが、農業用水路を開発した地元では、今も「亀井さんのおおいで」と呼ばれて親しまれているようですので、今日の所はヨシとしましょう。

そんな亀井茲矩は、慶長十七年(1612年)1月26日56歳でこの世を去りました。

当主の座は、嫡子の亀井政矩(まさのり)が継いで、その後も代々江戸時代を生き抜き、亀井家は無事、明治維新を迎えています。
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2022年1月19日 (水)

華厳宗の中興の祖~月の歌人・明恵上人

 

寛喜四年(1232年)1月19日、 華厳宗の中興の祖とされる明恵上人が、60歳でこの世を去りました。

・・・・・・・

明恵(みょうえ)上人は、鎌倉時代の僧です。 

現在の和歌山県有田川町の出身で、地元の有力者の家に生まれますが、わずか8歳で母を失い、その翌年に父が源平の合戦で討死した事から、京都神護寺(じんごじ=京都市右京区高雄)にて文覚(もんがく)(7月21日参照>>)の弟子となっていた叔父(母の弟)上覚(じょうかく)を頼って、彼もまた神護寺に入って修行し、17歳となった文治四年(1188年)に出家し、奈良東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)にて戒律を受けました。

この頃の明恵は、神護寺や東大寺だけでなく、仁和寺(にんなじ=京都市右京区御室)に行っては真言密教(しんごんみっきょう)を学び、栄西(えいさい)(7月5日参照>>)のもとに行ってはを学び・・・と、とにかく勉強熱心な僧でした。

ところが21歳の時、誘われた大規模な法会(ほうえ=僧侶・檀信徒の集まり&勉強会)への参加を断るや否や、故郷の有田に戻り、一切の俗世間との縁を断って山中にて修行する遁世生活に入ったのです。

Myoue700at 山寺も 法師くさくは ゐたからず
 心きよくは くそふくにても ♪

これは、明恵がこのころに詠んだとされる歌ですが、、、

「トイレ掃除してたって、心さえキレイなら、山寺の法師より臭くない」
と、まぁ、寺にいる他の僧に対して、かなりご立腹の様子・・・

…というのも、彼は勉学に励むだけでなく、自然の中で厳しい修行に励み、少しでも仏に近づきたいと願っていたようで・・・そのあまりの思いから、右耳を自ら切り落とした事もあったとか・・・とにかく、自分に厳しい人だったようです。

一時は、文覚に誘われて、後進に華厳宗(けごんしゅう=中国大乗仏教の宗派)の教学を講じた事もあったようですが、やっぱり、学問としての教説を理解しつつも実際の修行重視で、結局は山に戻り、座禅修行や戒律厳守で、その身を高める事をよしとしました。

そんな中で、自ら天竺(てんじく=仏教の聖地・現在のインド周辺)に行こうと試みた事もあったようですが、病気やら何やらで断念・・・

していたところに、時の後鳥羽天皇(ごとばてんのう=第84代)から、栂尾(とがのお=京都市右京区)の地を賜り、建永元年(1206年)、そこに高山寺(こうざんじ=京都市右京区梅ヶ畑)開山しました。

有名な歌『女ひとり』の2番の歌詞に出て来る
♪きょうと~とがのおこうざんじ~♪
と、恋に疲れた女がたたずむ、あのお寺です。

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高山寺・金堂

先に書いた通り、驚異的な教説理解による学問僧でありながら実践修行を重んじる明恵は、研究と実践の統一を図るべく尽力し、一般人にも理解しやすい書物の執筆にも力を注ぐ一方で、人々の救済にも、その身を顧みず挑みました。

「無欲無私にて清廉、生きとし生ける物を慈しみ、権勢・権力を恐れず、自らを律し、釈尊(しやくそん=お釈迦様)に一歩でも近づきたい」・・・それが、明恵の考え方でした。

それが見事に表されているのが、承久三年(1221年)に勃発した承久の乱(じょうきゅうのらん)(5月15日参照>>)

この時、敗走して来た京方(後鳥羽上皇=朝廷方)の兵が高山寺に逃げ込んで来て、その引き渡しを要求する幕府方(北条方)に、

「私は仏弟子として学問の道を志してますので、俗世間とは一切関係ございません。
よって、紛争が起こっても、どちらかに味方したり、敵になったりする事はありません。
この高山寺の境内は、すべて仏に捧げた聖地ですから、ここで鳥獣を殺生する事さえ許されませんのに、
増して人間を捕縛&殺傷するなど、ありえません。
私が、この寺にいる限り、切羽詰まって逃げ込んで来る者は助け、敵味方の区別なく庇護します。
それが、仏弟子としての私の責任なんです。
もし、それがソチラにとって不都合なら、私の首を斬りなさい」

と一蹴・・・この明恵上人の言葉を聞いた北条泰時(ほうじょうやすとき=北条義時の息子:後の第3代執権)は、その凛々しい態度に感銘を受けて、明恵上人を罪に問う事は無かったそうです。

この時の初対面以降、明恵を師匠と仰ぐようになった泰時は、自身が鎌倉幕府執権(しっけん=事実上のトップ)に就任した貞応三年(1224年)、丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北部)のある一庄を、まるまる高山寺に寄進しようとしましたが、

明恵は
「寺が所領など持っては贅沢…僧が怠けるやん」
として受け取らなかったと言います。

それでいて知は惜しみなく与える明恵・・・その後も、事あらば泰時に「人の道理」=人が歩かねばならぬ道筋について説き、それは、あの『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』の制定(8月10日参照>>)にも影響を与えたとされます。

もちろん、泰時だけでなく、多くの人々からの尊崇を集めた明恵は、寛喜四年(1232年)1月19日60歳にして入滅します

最期の場所となったその部屋は、華厳と真言密教を融合した独自の宗教観を表すように、様々な曼荼羅(まんだら=仏の集会を図像化した物)諸聖衆図(しょしょうじゅうず=聖者の図)などが飾られる信仰の多様性に満ちた空間だったとか・・・

そんな明恵の有名な言葉が、
「人は阿留辺幾夜宇和と云ふ七文字を持つべきなり」
という言葉・・・

「阿留辺幾夜宇和」「あるべきようわ」と読み、言葉そのままの意味だと「あるがままに…」みたいな感じですが、英語で言う「 Let It Be」とも違い、明恵の言う「あるがままに…」は、

「今、その時、その場面において、自らが最善と思う生き方をしろ」
みたいな事だそうです。

僧なら僧の…あるべきように、
一般人なら一般人の…あるべきように、

帝王なら帝王のあるべきように、
臣下なら臣下のあるべきように、
そうしないから、この世から悪がなくならない…と続けています。

また明恵は、
♪あかあかや あかあかあかや あかあかや
 あかあかあかや あかあかや月 ♪
という歌を詠んで「月の歌人」とも称されますが、

この歌は、
「歌を詠もうとするから、うまく詠めないんよ。
何とは無く、ただ、心のままに感じたまま詠めば良い」
と、これまた「あるべきようわ」の精神を実践した歌です。

明恵は、かの栄西に教えを請うた時、栄西が中国から持ち帰ったお茶の種を分けてもらった事があります。

その時、明恵が植えたお茶の種は高山寺にて成長し、やがて、鎌倉から室町時代にかけて、「栂尾産のお茶は最高級茶葉」(10月31日参照>>)もてはやされるようになります。

その茶葉のように、明恵の精神も脈々と受け継がれていく事になったのです。
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2022年1月12日 (水)

武田信虎VS今川氏親~吉田城の戦い

 

永正十四年(1517年)1月12日、大井信達の要請を受けて今川軍が奪った吉田城を、武田軍が奪回しました。

・・・・・・・・・・

おそらくは延徳三年(1491年)から明応三年(1494年)にかけての頃に、伯父(おじ=母の兄?)北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)の援助を受けて、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部) を領する今川(いまがわ)の当主となった今川氏親(いまがわうじちか)(4月6日参照>>)は、

群雄割拠する中で守護(しゅご=室町幕府政権下での県知事みたいな?)としての復権を果たしつつあった甲斐(かい=山梨県)武田信虎(のぶとら)とも、未だ微妙な関係にありました。

そんな中、甲斐西郡の有力国人領主である大井信達(おおいのぶさと)からの援軍要請を受けた今川氏親は、永正十四年(1517年)に朝比奈(あさひな)葛山(かつらやま)庵原(いはら)2000余の家臣団を甲斐に送りこんで曽根(そね)勝山城(かつやまじょう=山梨県甲府市)占拠する一方で、富士山麓にも軍勢を送り、吉田城(よしだじょう=山梨県富士吉田市:吉田山城)占拠して、これらを今川の拠点としました。

Takedanobutora500a これを受けた武田信虎・・・

郡内(ぐんない=山梨県都留郡一帯)小山田信有(おやまだのぶあり)らの軍勢を中心に主力部隊を形成し、

永正十三年(1516年)の12月、吉田城の攻略に向かわせました。

派遣された武田軍は、12月26日、さらに29日にも、吉田城に攻撃を仕掛けますが、ともに有力武将を失う大惨事となり、吉田城は陥落しないまま、年を越す事になってしまいます。

この時、大半の兵士が本城へ戻る事が出来ず、河口湖(かわぐちこ=富士五湖の1つ)に浮かぶ無人島=鵜ノ島(うのしま)にて年を越したと言います。

明けて永正十四年(1517年)正月、小山田氏の有力武将である小林尾張入道(こばやしおわりにゅうどう)は、荒蔵(あらくら=富士吉田市新倉)に出陣し、2日から吉田城への攻撃を開始します。

かくして10日後の永正十四年(1517年)1月12日、ついに吉田城は陥落したのです。

この戦いは、武田信虎にとって、大きな犠牲を払った戦いではあったものの、最終的に勝利した事で、この方面においての優位な態勢を確立する事ができ、

逆に、今川氏親にとっては、一旦、退く決意をせざるを得ない残念な戦いとなってしまいました。

2ヶ月後の3月2日、武田信虎と今川氏親の間に和議の話が持ち上がり、この時点でも、未だ勝山城に詰めていた約2000の今川勢も、やむなく勝山城から撤収して、ほどなく駿河の地へと戻っていきました。

さらに翌永正十五年(1518年)の5月、ここで両者の間で正式な和睦が結ばれたのです。

この和睦によって、この戦いの発端となった大井信達も武田信虎と和睦し、長女を信虎の正室として嫁がせます。

この女性が大井の方(おおいのかた)と呼ばれる女性ですが、上記の通り、負け戦を治めるがための輿入れで、どちらかというと人質に近い物だったと言われています。

しかし、この大井の方が、後に今川義元(いまがわよしもと=氏親の息子)に嫁ぐ長女定恵院(じょうけいいん)を産み、嫡男武田晴信(はるのぶ=武田信玄)を産み、その晴信を支える武田信繁(のぶしげ)を産み、

この姉弟たちが主軸となって武田家の全盛期へと向かって行くのですから、世の中、わからないものです。

とは言え、武田と今川の関係は、まだまだ落ち着くにはほど遠く、そこに北条氏綱(うじつな=北条早雲の息子)も絡んで来て、一悶着も二悶着もあるんですけどね~

そちらのお話は、下記の関連項目からどうぞm(_ _)m

★この後の信虎の動向
 ●大永元年(1521年):飯田河原の戦い>>
 ●大永四年(1524年):猿橋の戦い>>
 ●天文四年(1535年):万沢口・山中の戦い>>
★この後の氏親の動向
 ●半年後の6月:第3次・引馬城の戦い>>
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2022年1月11日 (火)

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の感想です

 

2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、始まりましたね~

2012年の「平清盛」以来、久々の源平合戦で、初回からオモシロかったです。

冒頭、小栗義時が、真っ赤な着物の「姫」を後ろに、馬で逃走するシーン・・・

てっきり新垣八重姫を乗せて逃げてるのかと思いきや、女装した大泉佐殿だったとはwww

思わず笑っちゃいましたね。。。

とは言え、案の定、こういうところが、往年の重厚な大河をお好みの皆さまからは、
「コントのようだ」
「セリフが軽すぎる」
と、酷評のようですが、

私…個人的には、現代的なセリフはアリだと思っている派です。

そもそも重厚な時代劇であっても、当時の言葉では無いわけで、実際に、セリフを本物に近づけたなら、見てる側は字幕スーパー無しでは、何を言ってるか?さっぱりわからないと思います。

それに、(ドラマでやるかやらないか知りませんが)
この後、都へ上って来る木曽義仲なんかは、猫間中納言(藤原光隆)から、
「方言キツ過ぎて、何言うてるかワカラン」
なんて悪口言われてますが、そんな出身地の違いなんかも、現代風の言葉でやっていただいた方が、視聴者にはわかりやすい。

一部では、大泉佐殿に色目使いまくりの小池政子を見た妹の宮澤実衣さんがおっしゃった
「ぞっこん」
と言うセリフに「あきれた」と感じていらっしゃる方もおいでのようですが、

この「ぞっこん」という単語は、確か、戦国時代くらいの文献には出て来てたはずなので、個人的には気になりませんでした。

意外に、現代的な言葉だと思っていた言葉が、昔から使われている事も多いんですよね~

たとえば、親友という意味の「マブダチ」「マブ」なんて、平安時代からある言葉ですからね~

ま、さすがに坂東時政父ちゃんの「首チョンパ」は、ツッコミましたが・・・

アレは、茶々若き頃の文房具のオマケについてたドリフターズの人形の名称ですもんね。。。

でも、それがSNSのトレンドワードに載っちゃたりするわけですので、作り手としては「してやったり」という感でしょうかwww

逆に、気になったのは、ナレーションの長澤まさみさんが、

北条時政=ほうじょうときまさ
伊東祐親=いとうすけちか
三浦義澄=みうらよしずみ
果ては、
曽義仲=きそよしなか
とおっしゃるのが、とても気になりました。

ブログでも何度か書いてますが、
(源(の)頼朝には「の」がついて足利尊氏にはつかないのはなぜ?【氏・素姓と苗字の話】参照>>
源義朝の「源」や平清盛の「平」は一族の氏素性を表す『姓』なので「の」がつく。

北条時政の北条は『苗字』で、『姓』は「平」なので「たいらのときまさ」では?
三浦さんも「平」で伊藤さんは「藤原」・・・
木曽義仲は、頼朝の従兄弟なので源義仲(みなもとのよしなか)なのに・・・

三谷さんは、あの『真田丸』小日向さん演じる豊臣秀吉「とよとみひでよし」と名乗らせて歴史好きの心をくすぐったくらいですから、よくご存じのはず・・・これは、わざとですよね?

なにか、後々、意味を成してくるのでしょうか?

ただ、大河ドラマは、あまり歴史に興味のない方も視聴するドラマ・・・苗字にも「の」をつけちゃうと、ややこしくなってしまうような気がしてしまいます。

そもそも源平合戦というのも、私自身、未熟な小学生時代は、源氏と平氏の合戦だと思い込んでました。

でも、細かく言うと、「源氏嫡流を担いだ坂東平氏に関東源氏が乗っかった連合軍」平家」の戦いなんですよね~

平家は、平氏の中でも、平清盛の一家の事で、平氏全体では無く、今回の大河で言えば、北条も平氏だし、三浦も平氏だし、後々目立ってくるであろう梶原景時も平氏で、中川大志クン演じる畠山重忠も平氏・・・

頼朝の配下は、意外に平氏だらけなわけで・・・

清和源氏の系図↓     桓武平氏の系図↓
Seiwagenzikeizu  Kanmuheisikeizu_2
↑クリックすると、さらに大きく見れます

とは言え、上記の通り、三谷氏の事ですから、わざわざ「北条の時政」「木曽の義仲」って呼ぶのには、何かの意図があるのでしょう。

あと、もう一つ気になったのは、小栗義時が、新垣八重姫に恋心を持ってる感じ、そして、それがウマく行けば叶うかのような描写があった事。

八重姫は義時にとって叔母さんですよね?

確かに、子供の頃は、たまに集まる親戚のお姉さんに、ちょっとドキドキしたりする事ありますが、さすがに母親の妹やし・・・例え、幼い頃にドキドキしてたとしても、後々どうにかなる=結ばれるかも…の描写を、それも(ドラマ内では若い設定とは言え)小栗クンと新垣さんでは、、、ちょっと???となってしまいました。

とかなんとか言っても、初回は楽しく視聴させていただきました。

それこそ、三谷氏だからこそ、
頼朝のスケコマシぶりや、
政子さんの肝っ玉母さんぶり、
義経のルール破りっぷりも、
これまでに無い表現で鮮やかにキメていただける物と期待しております。

今は爽やか青年の小栗義時が、これから、どのようにダークに染まっていくのか?
はたまた、
これまでにない、オフホワイトな義時になるのか?

この先が、楽しみです。

★関連ページ
 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第4回の感想
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2022年1月 4日 (火)

武田信玄の駿河侵攻~花沢城の戦い

 

元亀元年(永禄十三年=1570年)1月4日、駿河を狙う武田信玄が花沢城への攻撃を開始しました。

・・・・・・・・・・

永禄三年(1560年)の 桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市&名古屋市緑区)の戦い(2015年5月19日参照>>)で、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領し海道一の弓取りと称された今川義元(いまがわよしもと)の首を取り、一気に名を挙げた尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)と、

同じく、その桶狭間キッカケで今川での人質生活から解放された三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)(2008年5月19日参照>>)

しかも、その翌年に今川傘下だった長沢城(ながさわじょう=愛知県豊川市長沢町)を落とし(7月6日参照>>)、さらに翌永禄五年(1562年)1月には、織田信長と清洲同盟(きよすどうめい)(1月15日参照>>)を結んで、完全に今川からの決別を露わにした徳川家康に、これまで大木である今川の下にいた三河&遠江周辺の諸将には、少なからずの動揺が走ります。

もちろん、父の死を受けて後を継いだ今川氏真(うじざね=義元の息子)も、この状況で揺れ動く引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・引間城・曳馬城)飯尾連龍(いのおつらたつ・ 致実・能房)を殺害したりして(12月20日参照>>)傘下の諸将の離反を防ぐべくけん制をかけるのですが、

その間に尾張統一(11月1日参照>>)を果たした信長が、これまで、その眼を北東に向け、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)との川中島バトル(9月10日参照>>)を展開していた甲斐(かい=山梨県)の大物=武田信玄(たけだしんげん=晴信)味方に引き込んで家康との関係を仲介・・・

Takedasingen600b 大黒柱を失った今川を、北と西の両側から攻撃して、今川亡き後は、大井川より東(つまり駿河)を武田が、西(つまり遠江)を德川が支配する約束を交わさせ、信玄の眼を南に向けさせたうえで、信長自身は、永禄十年(1567年)に美濃(みの=岐阜県南部)の攻略を果たします(8月15日参照>>)

とは言え、この信玄の方向転換は、去る天文二十三年(1554年)から、生前の今川義元とともに武田信玄と甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=甲斐&相模&駿河の三国)(3月3日参照>>)を結んでいた相模(さがみ=神奈川県)北条氏政(ほうじょううじまさ)を怒らせます。

そりゃそうです。
未だ継続中の同盟を「義元が亡くなったから」で破棄されちゃぁ・・・しかし、この方向展開に反対した嫡男の武田義信(よしのぶ)を死に追いやって(10月19日参照>>)まで今川と訣別した信玄は、もう、後へは退けない…

かくして、信長が足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)永禄十一年(1568年)の12月、いよいよ武田信玄は駿河の今川領に向け侵攻を開始するのです。

これを受けた今川氏真は、早速、重臣の庵原安房守(いはらあわのかみ)らを、要所の薩埵峠(さつたとうげ=静岡県静岡市清水区)に派遣して自らも出陣しますが、残念ながら、水面下で行われていた信玄による懐柔作戦で、すでに多くの今川傘下の武将が武田に寝返っており、先陣を切って薩埵峠を守るはずだった朝比奈信置(あさひなのぶおき)ら複数の重臣が姿を見せず・・・(12月12日参照>>)

やむなく氏真も、この時は戦う事無く本拠の今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区:後の駿府城)へと兵を退きあげますが、の翌日、
すかさず、その今川館を信玄が攻撃し、瞬く間に占領・・・

さすがに氏真も、今川館では防御が薄いと、すでに今川館の背後にある賤機山城(しずはたやまじょう=同静岡市葵区)に籠城して、ここで北条からの援軍を待つつもりでいましたが、あまりの武田の猛攻にヤバイと感じ、そのまま掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと逃亡したのでした(2007年12月13日参照>>)

一方、この今川館の攻防戦と同じ12月13日に遠江へと侵入(2019年12月13日参照>>)した徳川家康は、12月18日に引馬城に入り、そこを拠点として12月27日から掛川城への攻撃を開始するのです(12月27日参照>>)

信玄と家康の見事な連携プレーで窮地に追い込まれた今川氏真・・・結局、翌年の5月17日、北条氏政の仲介にて徳川家康と和睦を結び、掛川城を明け渡しました。

その間も、あの薩埵峠にて北条との戦いを繰り広げる信玄でしたが、かの掛川城の開城が、城を攻めあぐねた家康が単独で「氏政の息子である北条氏直(うじなお)今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継いで駿河&遠江を支配する(11月4日の真ん中あたり参照>>) 」という条件を呑んで北条との同盟を結んで得た物であった事を知り、怒り爆発します。

なんせ、上記の通り「今川を倒した後は駿河を武田が、遠江を徳川が…」の約束で以って、ともに侵攻したはずでしたから・・・

「そっちが単独でいくなら、こっちも単独したるわい!」
とばかりに、信玄は、7月には大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)(7月2日参照>>)を、10月の三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)(10月6日参照>>)を経て、12月には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区蒲原)を奪取(12月6日参照>>)・・・と、次々と駿河周辺の支配を確固たる物にしていくのです。

そんな中、未だ武田にも徳川にも屈せず、今川旧臣として抵抗していたのが、花沢城(はなざわじょう=静岡県焼津市高崎・花澤城)小原鎮実(おはらしげざね=大原資良と同一人物ともされる)でした。

かくして元亀元年(永禄十三年=1570年)1月4日武田信玄は、この花沢城に攻撃を仕掛けるのです。

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武田信玄の駿河侵攻・位置関係図=花沢城版
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『絵本甲越軍記』によれば…
この日、武田軍は一糸乱れぬ軍列で以って、すかさず花沢城を囲み、花沢城を見下ろす高草山(たかくさやま=静岡県焼津市と藤枝市の境界付近)に本陣を据えました。

もちろん、迎える花沢城側も、音に聞こえたる名将の信玄に
「一泡吹かせてやろう!」
と身構え、準備した弓鉄砲を隙間なく発して対抗します。

そんな中、武田側では、この直前に武田に降った元今川家臣の岡部次郎右衛門(おかべじろうえもん)治部右衛門兄弟(岡部正綱&長秋?)が、寝返り直後の初の武功を挙げんと、花沢城の曲輪(くるわ=城内の中で広く平な場所)のそばの屋敷の高屋根に上って、城の様子を伺います。

その一方で、城内への一番乗りを狙う伊那四郎勝頼(いなしろうかつより=信玄の四男・武田勝頼)初鹿傅右衛門(はじかでんえもん=初鹿野伝右衛門)は、鉄砲と矢が雨アラレと降り注ぐ中を、左右に分かれて城門の前に手勢を引いて近づくと、彼らに続く縄無理之介(なわむりのすけ=名和無理之介)に向かって傅右衛門が、
「無理之介!城門を開けよ」
と、
「えぇ~っ(ノ@o@;)ノ今、この鉄砲の雨アラレの状況で?」
「名を挙げるんは、今やぞ!」
「それは~なんぼなんでも無理之介」
言うてる場合か!

と押し問答してるうちに、勝頼が進み出て門の隙間に槍を差し込んで扉をねじ上げました。

傅右衛門は、無理之介が具足の上に着ていた羽織をはぎ取って
「お前!2度と無理之介とか名乗んなよな!」
と捨てゼリフを残しつつ突入していきます。

落ち込む無理之介の肩に、勝頼はやさしく羽織をかけてあげて、いざ!城内へ・・・
(↑あくまで『絵本甲越軍記』のお話です)

しかし、ここを守っていたのは花沢城内でも屈指の剛の者を集めた軍団・・・さすがの武田勢も、おいそれとは前に進んで行けませんでした。

一進一退する戦いの様子を見ていた信玄は、あまりの激しさに、
「ここで勝頼を失うのは…」
と、この日は、一旦、兵を退きあげる事にしました。

その後も、
「こんな小城に手こずっては武田の名折れ」
とばかりに攻め立てるのですが、花沢城側も良く守り

結局、城が落ちたのは1月8日(27日の説もあり)の事でした。

その頃には、小原鎮実は、すでに花沢城を脱出しており、小笠原信興(おがさわらのぶおき=氏助)と合流すべく高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市上土方)へと向かっていましたが、

残念ながら、すでに小笠原信興は徳川家康派に寝返っており、彼らが城に入るや否や、即座に小原鎮実の首を取って家康に献上したのだとか・・・

一方の信玄は、この後、長谷川正長(はせがわまさなが)の守る徳一色城(とくのいっしきじょう=静岡県藤枝市田中:後の田中城)を落とし、周辺一帯を支配下に治めたのでした。

この信玄の
「家康、腹立つ!」
が、やがては、
あの西上作戦(10月13日参照>>)として、有名な三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)に向かっていく事になるのですが、

その前に…
この年の7月に奥さんを亡くした(7月28日参照>>)信玄は、まずは、翌元亀二年(1571年)3月には【深沢城の攻防】>>へ向かいます。

くわしくは【武田信玄と勝頼の年表】>>で。。。
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2022年1月 1日 (土)

新年のごあいさつ~茶々の年賀状2022

🎍謹んで新春のお慶びを🎍
🎌     申し上げます🎌

昨年も、デルタやらオミクロンやら…と大変な1年となりましたが、
不肖私…なんとか、つつがなく新年を迎えました。

未だ、楽観はできぬ時節ではありますが、
粛々と、日々の行動に気をつけながら、
今年一年、また新たな歴史を紡いでまいりましょう。

2022coco3

本年もまた、
歴史の、あんな事、こんな事をお話しながら…

末永く、
『今日は何の日?徒然日記』
を、よろしくお願いいたします。

皆さまにとって、良い年でありますように…
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

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