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2022年1月12日 (水)

武田信虎VS今川氏親~吉田城の戦い

 

永正十四年(1517年)1月12日、大井信達の要請を受けて今川軍が奪った吉田城を、武田軍が奪回しました。

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おそらくは延徳三年(1491年)から明応三年(1494年)にかけての頃に、伯父(おじ=母の兄?)北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)の援助を受けて、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部) を領する今川(いまがわ)の当主となった今川氏親(いまがわうじちか)(4月6日参照>>)は、

群雄割拠する中で守護(しゅご=室町幕府政権下での県知事みたいな?)としての復権を果たしつつあった甲斐(かい=山梨県)武田信虎(のぶとら)とも、未だ微妙な関係にありました。

そんな中、甲斐西郡の有力国人領主である大井信達(おおいのぶさと)からの援軍要請を受けた今川氏親は、永正十四年(1517年)に朝比奈(あさひな)葛山(かつらやま)庵原(いはら)2000余の家臣団を甲斐に送りこんで曽根(そね)勝山城(かつやまじょう=山梨県甲府市)占拠する一方で、富士山麓にも軍勢を送り、吉田城(よしだじょう=山梨県富士吉田市:吉田山城)占拠して、これらを今川の拠点としました。

Takedanobutora500a これを受けた武田信虎・・・

郡内(ぐんない=山梨県都留郡一帯)小山田信有(おやまだのぶあり)らの軍勢を中心に主力部隊を形成し、

永正十三年(1516年)の12月、吉田城の攻略に向かわせました。

派遣された武田軍は、12月26日、さらに29日にも、吉田城に攻撃を仕掛けますが、ともに有力武将を失う大惨事となり、吉田城は陥落しないまま、年を越す事になってしまいます。

この時、大半の兵士が本城へ戻る事が出来ず、河口湖(かわぐちこ=富士五湖の1つ)に浮かぶ無人島=鵜ノ島(うのしま)にて年を越したと言います。

明けて永正十四年(1517年)正月、小山田氏の有力武将である小林尾張入道(こばやしおわりにゅうどう)は、荒蔵(あらくら=富士吉田市新倉)に出陣し、2日から吉田城への攻撃を開始します。

かくして10日後の永正十四年(1517年)1月12日、ついに吉田城は陥落したのです。

この戦いは、武田信虎にとって、大きな犠牲を払った戦いではあったものの、最終的に勝利した事で、この方面においての優位な態勢を確立する事ができ、

逆に、今川氏親にとっては、一旦、退く決意をせざるを得ない残念な戦いとなってしまいました。

2ヶ月後の3月2日、武田信虎と今川氏親の間に和議の話が持ち上がり、この時点でも、未だ勝山城に詰めていた約2000の今川勢も、やむなく勝山城から撤収して、ほどなく駿河の地へと戻っていきました。

さらに翌永正十五年(1518年)の5月、ここで両者の間で正式な和睦が結ばれたのです。

この和睦によって、この戦いの発端となった大井信達も武田信虎と和睦し、長女を信虎の正室として嫁がせます。

この女性が大井の方(おおいのかた)と呼ばれる女性ですが、上記の通り、負け戦を治めるがための輿入れで、どちらかというと人質に近い物だったと言われています。

しかし、この大井の方が、後に今川義元(いまがわよしもと=氏親の息子)に嫁ぐ長女定恵院(じょうけいいん)を産み、嫡男武田晴信(はるのぶ=武田信玄)を産み、その晴信を支える武田信繁(のぶしげ)を産み、

この姉弟たちが主軸となって武田家の全盛期へと向かって行くのですから、世の中、わからないものです。

とは言え、武田と今川の関係は、まだまだ落ち着くにはほど遠く、そこに北条氏綱(うじつな=北条早雲の息子)も絡んで来て、一悶着も二悶着もあるんですけどね~

そちらのお話は、下記の関連項目からどうぞm(_ _)m

★この後の信虎の動向
 ●大永元年(1521年):飯田河原の戦い>>
 ●大永四年(1524年):猿橋の戦い>>
 ●天文四年(1535年):万沢口・山中の戦い>>
★この後の氏親の動向
 ●半年後の6月:第3次・引馬城の戦い>>
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