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2022年1月19日 (水)

華厳宗の中興の祖~月の歌人・明恵上人

 

寛喜四年(1232年)1月19日、 華厳宗の中興の祖とされる明恵上人が、60歳でこの世を去りました。

・・・・・・・

明恵(みょうえ)上人は、鎌倉時代の僧です。 

現在の和歌山県有田川町の出身で、地元の有力者の家に生まれますが、わずか8歳で母を失い、その翌年に父が源平の合戦で討死した事から、京都神護寺(じんごじ=京都市右京区高雄)にて文覚(もんがく)(7月21日参照>>)の弟子となっていた叔父(母の弟)上覚(じょうかく)を頼って、彼もまた神護寺に入って修行し、17歳となった文治四年(1188年)に出家し、奈良東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)にて戒律を受けました。

この頃の明恵は、神護寺や東大寺だけでなく、仁和寺(にんなじ=京都市右京区御室)に行っては真言密教(しんごんみっきょう)を学び、栄西(えいさい)(7月5日参照>>)のもとに行ってはを学び・・・と、とにかく勉強熱心な僧でした。

ところが21歳の時、誘われた大規模な法会(ほうえ=僧侶・檀信徒の集まり&勉強会)への参加を断るや否や、故郷の有田に戻り、一切の俗世間との縁を断って山中にて修行する遁世生活に入ったのです。

Myoue700at 山寺も 法師くさくは ゐたからず
 心きよくは くそふくにても ♪

これは、明恵がこのころに詠んだとされる歌ですが、、、

「トイレ掃除してたって、心さえキレイなら、山寺の法師より臭くない」
と、まぁ、寺にいる他の僧に対して、かなりご立腹の様子・・・

…というのも、彼は勉学に励むだけでなく、自然の中で厳しい修行に励み、少しでも仏に近づきたいと願っていたようで・・・そのあまりの思いから、右耳を自ら切り落とした事もあったとか・・・とにかく、自分に厳しい人だったようです。

一時は、文覚に誘われて、後進に華厳宗(けごんしゅう=中国大乗仏教の宗派)の教学を講じた事もあったようですが、やっぱり、学問としての教説を理解しつつも実際の修行重視で、結局は山に戻り、座禅修行や戒律厳守で、その身を高める事をよしとしました。

そんな中で、自ら天竺(てんじく=仏教の聖地・現在のインド周辺)に行こうと試みた事もあったようですが、病気やら何やらで断念・・・

していたところに、時の後鳥羽天皇(ごとばてんのう=第84代)から、栂尾(とがのお=京都市右京区)の地を賜り、建永元年(1206年)、そこに高山寺(こうざんじ=京都市右京区梅ヶ畑)開山しました。

有名な歌『女ひとり』の2番の歌詞に出て来る
♪きょうと~とがのおこうざんじ~♪
と、恋に疲れた女がたたずむ、あのお寺です。

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高山寺・金堂

先に書いた通り、驚異的な教説理解による学問僧でありながら実践修行を重んじる明恵は、研究と実践の統一を図るべく尽力し、一般人にも理解しやすい書物の執筆にも力を注ぐ一方で、人々の救済にも、その身を顧みず挑みました。

「無欲無私にて清廉、生きとし生ける物を慈しみ、権勢・権力を恐れず、自らを律し、釈尊(しやくそん=お釈迦様)に一歩でも近づきたい」・・・それが、明恵の考え方でした。

それが見事に表されているのが、承久三年(1221年)に勃発した承久の乱(じょうきゅうのらん)(5月15日参照>>)

この時、敗走して来た京方(後鳥羽上皇=朝廷方)の兵が高山寺に逃げ込んで来て、その引き渡しを要求する幕府方(北条方)に、

「私は仏弟子として学問の道を志してますので、俗世間とは一切関係ございません。
よって、紛争が起こっても、どちらかに味方したり、敵になったりする事はありません。
この高山寺の境内は、すべて仏に捧げた聖地ですから、ここで鳥獣を殺生する事さえ許されませんのに、
増して人間を捕縛&殺傷するなど、ありえません。
私が、この寺にいる限り、切羽詰まって逃げ込んで来る者は助け、敵味方の区別なく庇護します。
それが、仏弟子としての私の責任なんです。
もし、それがソチラにとって不都合なら、私の首を斬りなさい」

と一蹴・・・この明恵上人の言葉を聞いた北条泰時(ほうじょうやすとき=北条義時の息子:後の第3代執権)は、その凛々しい態度に感銘を受けて、明恵上人を罪に問う事は無かったそうです。

この時の初対面以降、明恵を師匠と仰ぐようになった泰時は、自身が鎌倉幕府執権(しっけん=事実上のトップ)に就任した貞応三年(1224年)、丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北部)のある一庄を、まるまる高山寺に寄進しようとしましたが、

明恵は
「寺が所領など持っては贅沢…僧が怠けるやん」
として受け取らなかったと言います。

それでいて知は惜しみなく与える明恵・・・その後も、事あらば泰時に「人の道理」=人が歩かねばならぬ道筋について説き、それは、あの『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』の制定(8月10日参照>>)にも影響を与えたとされます。

もちろん、泰時だけでなく、多くの人々からの尊崇を集めた明恵は、寛喜四年(1232年)1月19日60歳にして入滅します

最期の場所となったその部屋は、華厳と真言密教を融合した独自の宗教観を表すように、様々な曼荼羅(まんだら=仏の集会を図像化した物)諸聖衆図(しょしょうじゅうず=聖者の図)などが飾られる信仰の多様性に満ちた空間だったとか・・・

そんな明恵の有名な言葉が、
「人は阿留辺幾夜宇和と云ふ七文字を持つべきなり」
という言葉・・・

「阿留辺幾夜宇和」「あるべきようわ」と読み、言葉そのままの意味だと「あるがままに…」みたいな感じですが、英語で言う「 Let It Be」とも違い、明恵の言う「あるがままに…」は、

「今、その時、その場面において、自らが最善と思う生き方をしろ」
みたいな事だそうです。

僧なら僧の…あるべきように、
一般人なら一般人の…あるべきように、

帝王なら帝王のあるべきように、
臣下なら臣下のあるべきように、
そうしないから、この世から悪がなくならない…と続けています。

また明恵は、
♪あかあかや あかあかあかや あかあかや
 あかあかあかや あかあかや月 ♪
という歌を詠んで「月の歌人」とも称されますが、

この歌は、
「歌を詠もうとするから、うまく詠めないんよ。
何とは無く、ただ、心のままに感じたまま詠めば良い」
と、これまた「あるべきようわ」の精神を実践した歌です。

明恵は、かの栄西に教えを請うた時、栄西が中国から持ち帰ったお茶の種を分けてもらった事があります。

その時、明恵が植えたお茶の種は高山寺にて成長し、やがて、鎌倉から室町時代にかけて、「栂尾産のお茶は最高級茶葉」(10月31日参照>>)もてはやされるようになります。

その茶葉のように、明恵の精神も脈々と受け継がれていく事になったのです。
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