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2022年1月26日 (水)

戦国を生き抜いた鹿野藩初代藩主~亀井茲矩

 

慶長十七年(1612年)1月26日、鹿野藩初代藩主となった亀井茲矩が死去しました。

・・・・・・・・・

亀井茲矩(かめいこれのり)は、父の湯永綱(ゆながつな)が、月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市広瀬町)を拠点に山陰地方で栄華を誇った尼子(あまご)の家臣であった事から、自身も尼子氏に仕えていましたが、 

ご存知のように永禄九年(1566年)11月、尼子義久(あまごよしひさ)の代に安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)に攻められて降伏(11月28日参照>>)・・・事実上、尼子氏滅亡となったため、亀井茲矩も浪人の身となって各所を点々としていました。

そんな時、因幡(いなば=鳥取県東部)にて、尼子一族の生き残り=尼子勝久(かつひさ=義久のまた従兄弟)還俗(げんぞく=僧となった人が一般人に戻る事)させ、彼を新当主に担ぎ上げて尼子を再興&月山富田城奪回を考える旧尼子家臣の山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)に出会い、天正元年(1573年)から、本格的に鹿介の案に賛同して尼子再興軍(1月22日参照>>)に加わり、各地を転戦します。

ここらあたりで、山中鹿介の養女となっていた同じく尼子の旧一門格家臣の亀井秀綱(かめいひでつな=先の月山富田城の戦いで戦死したと思われます)娘を妻に娶ると同時に、その亀井の家名を継いで、以後、亀井茲矩と名乗るようになります。

しかし、この頃の中国地方は備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)と呼ばれる混乱状態で、幾度転戦しようが、勝ち負けは一時的な物で、頭一つ抜け出した西国の雄=毛利には、どうしても歯が立たない・・・

そこで、尼子勝久と山中鹿介は、永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)して後、しばらくして本願寺顕如(けんにょ)とモメた(9月12日参照>>)事で、その本願寺に味方する毛利輝元(てるもと=元就の孫)とも敵対(7月13日参照>>)し始めた織田信長(おだのぶなが)の後ろ盾を得るべく信長の元へはせ参じ、その傘下となった事から、当然、亀井茲矩も彼らとともに・・・

ただし、ここで、勝久&鹿介が、織田家内で但馬(たじま=兵庫県北部)からの中国攻略(10月23日参照>>)を任されている羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の配下に配属されたのに対し、亀井茲矩は、途中から丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)攻め(10月29日参照>>)明智光秀(あけちみつひで)の配下に配属された事で、運命の分かれ道・・・

天正五年(1577年)12月に、秀吉が播磨(はりま=兵庫県南西部)上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)を落とした事で(12月2日参照>>)、その上月城の守りを任された尼子勝久&山中鹿介は、翌天正六年(1578年)7月に上月城を奪回しようと攻めて来た毛利を防ぎきれず、尼子勝久は籠城のうえ自害(7月3日参照>>)、山中鹿介は捕縛された後に殺害されてしまったのです(7月17日参照>>) 。

尼子再興は風前の灯となったものの、その夢は一門を継いだ亀井茲矩自身に引き継がれ、勝久&鹿介の生き残りの部下たちとともに、その後も秀吉軍に属して戦い続け

Kameikorenori400a 天正九年(1581年)の 鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)攻略(10月25日参照>>)で武功を挙げ、因幡の守りの最前線である鹿野城(しかのじょう=鳥取県鳥取市鹿野町)を任されました。
(亀井茲矩像:出典>>)

翌年の天正十年(1582年)6月の本能寺の変(6月2日参照>>)の時は、やはり秀吉と行動をともにしいていた亀井茲矩は、あの中国大返し(6月6日参照>>)で、万が一、毛利が追って来た時の対処をすべく、途中から別れて鹿野城へと戻り、後詰として睨みを効かせたのでした。

ご存知のように、それからしばらくは清須会議(6月27日参照>>)やら、信長の葬儀(10月15日参照>>)やら、賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)やらに忙しく、中国方面に目を向けられなくなった秀吉・・・

そこで、秀吉は、その中国方面の玄関口を、鳥取城主となっていた宮部継潤(みやべけいじゅん)(3月25日参照>>)に守らせますが、亀井茲矩は、その宮部の配下となって活躍・・・

天正十五年(1587年)の九州征伐にも(4月17日参照>>)、天正十八年(1590年)の小田原征伐にも(3月29日参照>>)従軍し、さらに、文禄元年(1592年)からの文禄&慶長(ぶんろく&けいちょう)朝鮮出兵(4月13日参照>>)でも水軍を率いて渡海し、かなりの奮戦ぶりでした。

その間の(文禄の役後の休戦中)文禄四年(1595年)には、秀吉から西播磨で発見された日野山銀山の経営を任されたとか・・・(1年ほどで吉川広家の所領となって権利を奪われたらしい)

と、ここまで、かなり波乱万丈な人生を送っている亀井茲矩・・・(言うの忘れてましたが)この時点での茲矩さんは、未だ30代半ばの男盛りなんですが、おそらくは、亀井茲矩の名を頻繁に聞くようになるのは、ここらあたりから・・・

そう、あの関ヶ原の戦いです。
(戦いのイロイロは【関ヶ原の戦いの年表】>>で)

秀吉の死を受けて、早いうちから徳川家康(とくがわいえやす)に近づいていた亀井茲矩は、関ヶ原本戦では家康の東軍に属して参戦しますが、布陣した場所が南宮山(なんぐうさん=岐阜県大垣市)の毛利&吉川勢をけん制する位置で、

結局、毛利&吉川は家康との約束通り、最後までまったく動かなかったため(9月28日参照>>)亀井茲矩自身は大した武功を挙げる事ができていませんでした。

そこで茲矩は、すぐさま因幡へと戻り、約400の手勢を率いて西軍についていた垣屋恒総(かきやつねふさ)桐山城(きりやまじょう=鳥取県岩美郡岩美町)接収し、木下重堅(きのしたしげかた)若桜鬼ヶ城(わかさおにがじょう=鳥取県八頭郡若桜町)無血開城させ、最後に残った鳥取城へと向かうのですが、これがなかなか落ちず・・・

やむなく茲矩は、西軍として丹後田辺城(たなべじょう=京都府舞鶴市)の攻撃(7月21日参照>>)に参戦した友人の赤松広秀(あかまつひろひで=広通・広英・斎村政広)を東軍に寝返らせて、ともに城に総攻撃を仕掛けて落城させたのです(10月5日参照>>)

ところが、その後、この鳥取城攻めの際に城下を焼いてしまった事を家康に咎められて赤松広秀が切腹させられてしまうのです(10月28日参照>>)

しかし亀井茲矩は無傷、てか、むしろ加増・・・そのため、今では、鳥取城下を焼いた責任を赤松広秀一人になすりつけたのではないか?と言われています。

また、これまた亀井茲矩と仲が良かった水口城(みなくちじょう=滋賀県甲賀市水口町)長束正家(なつかまさいえ=「ながつか」とも)を攻めた際は、
「すんなり開城したら本領を安堵する」
約束しておきながら、正家が城を出て来た所を捕縛したとか・・・(10月3日参照>>)

なんだか、後味悪いよ~亀井さん!

…と思っちゃいますが、赤松さん&長束さん、それぞれのページで書かせていただいたように、

これは、実際には、友人として、初めは西軍にて参戦していた赤松広秀の罪を、
「ちょっとでも軽くしてあげよう」
として亀井茲矩が鳥取城攻めに誘ったものの、生野銀山(いくのぎんざん)を管轄している赤松の領地を德川の直轄地にしたかった家康のせいかも知れないし、

長束さんを騙したのも、ともに水口城を攻めていた池田長吉(いけだながよし=池田輝政の弟)かも知れないわけで・・・

本日は亀井茲矩さんのご命日で、このページは亀井茲矩さんが主役・・・って事で、ちょっとだけ名誉快復して差し上げたい気分です。

なんせ、この後、德川政権下で鹿野藩初代藩主となった亀井茲矩は、湖山池(こやまいけ=鳥取県鳥取市)干拓に力を注いだり、暴れ川だった千代川に農業用水路の大井手(おおいで)用水を造って新田開発をしたり、

幕府からの朱印状を得てシャム(現在のタイ中部にあったアユタヤ王朝の国)交易船を派遣したり・・・と、かなりの名君ぶりを発揮してくれています。

まぁ、内政が良いからイイ人とも限らないですが、農業用水路を開発した地元では、今も「亀井さんのおおいで」と呼ばれて親しまれているようですので、今日の所はヨシとしましょう。

そんな亀井茲矩は、慶長十七年(1612年)1月26日56歳でこの世を去りました。

当主の座は、嫡子の亀井政矩(まさのり)が継いで、その後も代々江戸時代を生き抜き、亀井家は無事、明治維新を迎えています。
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