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2022年2月22日 (火)

承久の乱に敗れて~後鳥羽上皇、流人の旅路

 

延応元年(1239年)2月22日、承久の乱に敗れて隠岐への流罪となった後鳥羽上皇が崩御されました。

・・・・・・・・

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、後白河法皇(ごしらかわほうおう=第77代天皇)の皇子であった第80代高倉天皇(たかくらてんのう)第4皇子で、母は公卿の娘だった藤原殖子(ふじわらのしょくし=七条院殖子)・・・高倉天皇の中宮なのが、平清盛(たいらのきよもり)の娘の徳子(とくこ)なので、平家全盛の頃に、わずか3歳で即位した第81代安徳天皇(あんとくてんのう)異母弟にあたります。

ご存知のように、あの平家が都落ちの際に、安徳天皇とともに三種の神器(さんしゅのじんき)を持ち去ったため、後鳥羽天皇は後白河法皇の院宣(いんぜん=上皇からの命令を発給する文書)を受ける形で神器の無いまま&安徳天皇が退位しないまま、即位する事になったのです。

その後、あの壇ノ浦(だんのうら=山口県)平家は滅び(2007年3月24日参照>>)源頼朝(みなもとのよりとも)征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となって、世は、日本初の武士政権=鎌倉幕府の世となる(7月12日参照>>)わけですが。。。

とは言え、やはり後鳥羽天皇と言えば、天皇の座を第1皇子の土御門天皇(つちみかどてんのう)に譲って、上皇となってからの、あの承久の乱

後鳥羽上皇自らが、鎌倉幕府を相手に兵を起こして敗れてしまった、あの戦いですが、承久の乱のアレコレについては、
ページ末尾の「関連ページ」のリンクにて、ご覧いただくとして、
本日は、その承久の乱に敗れた後の後鳥羽上皇について、ご紹介させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆ 

戦後・・・
後鳥羽上皇に対する幕府の処断は、都から遠く離れた隠岐(おき=島根県隠岐郡)への配流でした。

乱が終結した2か月後の承久三年(1221年)7月6日、洛中の四辻殿(よつつじどの=院御所の一つ)から洛南の鳥羽離宮(とばりきゅう=伏見区中島御所ノ内町:鳥羽殿)に身柄を移される事になった後鳥羽上皇・・・この鳥羽離宮は、後鳥羽上皇がたびたび骨休みに訪れた大好きな別荘でしたが、今回は敗者としての悲しみの行幸でした。

この行幸には、西園寺実氏(さいおんじさねうじ)藤原信成(ふじわらののぶなり)藤原能茂(よしもち)の3人が騎馬で従います。

Gotobatennou700a 離宮に入って後の7月8日、後鳥羽上皇は、絵がうまい藤原信実(のぶざね)を離宮に呼んで、自らの御影を描かせますが、それが、今も水無瀬神宮(みなせじんぐう=大阪府三島郡島本町:上皇の離宮跡に建てられた)に残る、この肖像なのだとか→

その後、警固していた武士に頼み込んで、母の藤原殖子と涙ながらの対面が叶えられた後、

『慈光寺本』によれば…
7月10日には、北条時氏(ほうじょうときうじ=北条義時の孫)が鳥羽離宮にやって来て、弓の片端で後鳥羽上皇の前の御簾(みす=高級なすだれ)をかき上げながら、
「流罪となりましたので、早くお出ください」
と責め立てられ、
(さすがに、そんな失礼な事はしないと思うが…)

後鳥羽上皇が返事すらできずにいると、
時氏は、もう一度、
「お早く~」
とせかします。

すると、後鳥羽上皇は、
「最後にもう一度、伊王丸(いおうまる)にひと目だけでも会わせてほしい」
と答えました。

伊王丸とは、先の藤原能茂の事で、後鳥羽上皇が寵愛していた美少年・・・

時氏が父の北条泰時(やすとき=北条義時の息子・第3代執権)に、どうすべきか相談し、結局、能茂を出家させた後に後鳥羽上皇に面会させる事に・・・

出家して西蓮(さいれん)と号した伊王丸に面会した後鳥羽上皇は、
「そうか。。。出家したのか…ならば私も」
と、後鳥羽上皇も出家して法皇となって、7月13日、隠岐島への旅路についたのでした。

その旅に従ったのは、先の藤原能茂と女房ら2~3人と、旅先でのアクシデントに備えた僧だけだったとか・・・

移動中に見えた水無瀬離宮に、かつての思い出を噛みしめつつ、播磨(はりま=兵庫県南西部)美作(みまさか=岡山県東北部)伯耆(ほうき=鳥取県中西部)を経て、出雲(いずも=島根県東部)へと入り、この出雲の浜から船に乗ったと・・・警固としてついていた武士のほとんどと、ここで別れた後、大浜漁港にて船を乗り換え、

『吾妻鏡』では、
「八月五日丙辰 上皇遂着御于隠岐国阿摩郡苅田郷」
とあり、8月5日に苅田郷(かったごう)という所に到着・・・現在、島根県隠岐郡海士町にある旧源福寺の場所が後鳥羽上皇の在所跡とされています。

この後、約20年ほどの期間、この流刑先にて日々の生活をする事になる後鳥羽上皇ですが、流されてからも、和歌の才能バツグンで上皇自らが勅撰した『新古今和歌集』の選びなおしを行っていたという話など漏れ聞こえる物の、当然、日々の生活のくわしい記録などは、ほとんどないわけで・・・

そんな中で、結局、延応元年(1239年)2月22日後鳥羽上皇は、60歳にて崩御されるのですが、ここで登場するのが怨霊伝説・・・

崩御の時は、隠岐島全体を覆い隠すほどの数の怪鳥が飛び回ったとか・・・
この頃に琵琶湖(びわこ=滋賀県)に突然現れた足が4本ある巨大な怪鳥を人々は「隠岐掾(おきのじょう=隠岐で1番の身分の人)」と呼んで恐れたとか・・・

果ては、この同じ年の暮れに亡くなった三浦義村(みうらよしむら=鎌倉幕府の有力御家人)や翌年の正月の北条時房(ときふさ=北条義時の異母弟)の死は、後鳥羽上皇の怨霊のせいだとか・・・

このような話は、京都在住の複数の公家の日記に登場しますが、もちろん、そのお公家さんたちが、怨霊を見たとか実際に奇怪な出来事に会ったとかではなく、そのような話が町中の噂となっていて、京都の人々が恐れおののいていたという事でしょう。

その一方で、後鳥羽上皇と親しかった藤原定家(ふじわらのさだいえ)は、この後鳥羽上皇の崩御をキッカケにあの『小倉百人一首』をまとめた・・・つまり、あの小倉百人一首は、後鳥羽上皇に捧げた歌集ではないか?
という見方もあります(5月27日参照>>)

ただ「捧げた」のは仮説であったとしても、定家が後鳥羽上皇とかなり親しかった事は確か・・・

なんせ、定家がこの百人一首に選んだ後鳥羽上皇の
♪人も惜(お)し 人も恨めし 味気(あぢき)なく
 世を思ふゆゑに もの思ふには ♪
「今、思えば世の中には愛すべき人も憎い人もいるなぁ」
の歌は、上皇と定家含む5人の友人たちと開いた建歴二年(1212年)12月の歌会の中で詠まれた歌のうちの一首なんです。

結果から見ると、後鳥羽上皇にとっての「味気ない人」は鎌倉幕府・・・とも見れない事も無いですが、先日ご紹介させていただいたように、後鳥羽上皇と幕府がギクシャクし始めるのは、第3代将軍の源実朝(さねとも)が亡くなって(1月27日参照>>)から・・・

そのページに書かせていただいたように(2月4日参照>>)その寸前まで、上皇と幕府は蜜月関係にあり、最高にゴキゲンだったわけです。

上記の歌会が行われたのは、その10年ほど前の事ですから、皇子に皇位を譲って院政を敷き、治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇or上皇)となっていた後鳥羽上皇にとって最も隆盛を誇った時期では無かったでしょうか?

たとえ定家の選んだ百人一首が、後鳥羽上皇に捧げた物ではなかったとしても、屈指の歌人として多くの歌を詠んだであろう中、
「上皇が最も輝いていた頃の歌を、上皇を代表する一首として歌集に収めてさしあげたい」
という、定家の思いがあったのかも知れませんね。

★関連ページ
 ●【実朝の後継…北条政子上洛】>>
 ●【実朝暗殺事件の謎】>>
 ●【源実朝暗殺犯・公暁の最期】>>
 ●阿野時元の謀反】>>
 ●【北条時房が武装して上洛】>>
 ●【源頼茂謀反事件】>>
 ●【義時追討の院宣発給で乱勃発】>>
 ●【北条政子の演説と泰時の出撃】>>
 ●【承久の乱~木曽川の戦い】>>
 ●【承久の乱~美濃の戦い】>>
 ●【承久の乱~瀬田・宇治の戦い】>>
 ●【戦後処理と六波羅探題の誕生】>>
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2022年2月16日 (水)

北条義時と和田義盛を訣別させた泉親衡の乱発覚

 

建保元年(1213年)2月16日、鎌倉幕府執権の北条義時を狙った泉親衡の乱の計画が発覚しました。

・・・・・・・・・・

鎌倉幕府初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)が死去(12月27日参照>>)して後、建久十年(正治元年・1199年)に2代目将軍を継いだ源頼家(よりいえ=頼朝と北条政子の嫡男)のもと、幕政を将軍一人に任せるのではなく、13人の主たる御家人たちの合議制(4月12日参照>>)によって運営していく事を決定した鎌倉幕府・・・

一見、近代の民主主義のような良さげなシステムですが、結局は、幕府の方針が力のある御家人の思惑に左右される事になり、将軍のリーダシップも失われてしまうし、当然ですが、誰もが、その「力のある御家人」になりたいわけで・・・

まずは正治二年(1200年)の梶原景時(かじわらかげとき)の粛清(1月20日参照>>)に始まり、その後、頼家が嫁さんの実家として頼りにする比企能員(よしかず)(9月2日参照>>)、さらに頼家自身も元久元年(1204年)に殺害されてしまいます(7月18日参照>>)

ちなみに、この間、鎌倉殿の13人の一人である北条時政(ほうじょうときまさ=北条政子の父)は、頼家の次の将軍として、その弟の源実朝(さねよも)3代将軍に据え(9月7日参照>>)、自らは、その後見人として初代執権(しっけん=将軍の補佐&政務の統轄)に就任しています。

さらに元久二年(1205年)には同じく有力御家人だった畠山重忠(はたけやましげただ)を倒した(6月22日参照>>)北条氏は、時政に代わって(1月6日参照>>)北条政子(ほうじょうまさこ=頼朝室)の弟=北条義時(よしとき)第2代・執権となります。 

こうして、有力御家人が去り、意にそぐわねば将軍でさえ首をすげ替え、父でさえ失脚させる政子&義時の強力タッグですが、そんな中でも侍所別当(さむらいどころべっとう=警視総監)として、未だ力を持っていたのが和田義盛(わだよしもり)でした。

Wadayosimori500ats義盛は、もはや長老の域に達するほど長きに渡って侍所別当の地位にあり、御家人たちからの支持も篤く、また幼くして父の頼朝を亡くした将軍・実朝にとって、亡き父と同い年の義盛は、まるで父の様に信頼できる人物であったようですが・・・

お察しの通り、これは政子&義時の二人にとっては少々脅威・・・

とは言え、この義盛も問題を抱えていました。

それは、本家の三浦(みうら)との惣領問題・・・

和田義盛は、苗字を和田と名乗っていますが、その祖父は、頼朝挙兵の際にいち早く味方になって衣笠城(きぬがさじょう=神奈川県横須賀市)で討死した三浦義明(みうらよしあき)(8月27日参照>>)です。

ただ、義盛の父は義明の長男であり、一旦は家督を継いでいたものの、近隣武将との領地争いで早くに亡くなり、その後、家督は弟(義盛にとっては叔父)三浦義澄(よしずみ)が継ぎ、義澄亡き後の今は、その息子の三浦義村(よしむら)三浦氏の当主となってる・・・

そんなこんなの承元三年(1209年)、その和田義盛が、諸大夫(しょだいぶ=公卿ではない貴族相当の階層)である上総介(かずさのすけ=上総国の事実上の長官)に任命してほしいと願出て来たのです。

諸大夫というのは、いわゆる「侍」の身分より格上・・・北条氏の立場としては、あまりよろしくない。

しかし、上記の通り義盛大好きの実朝は、なんとか義盛の願いを叶えてあげたくて、母に相談・・・

相談された政子は、
「源氏一門でもない義盛を?…前例の無い事をしたいなら、勝手にしぃや!」
と、

母に強く反対されたため、結局は、この義盛の願いが実現する事はありませんでしたが、それでも実朝と義盛の関係が崩れる事は無く、実朝の中では、大江広元(おおえのひろもと)や北条義時、義時の弟の北条時房(ときふさ)に並ぶ人物として、序列のトップクラスに義盛を位置付けて、日々、重要な役目を任せていました。

こうして、
母である政子や叔父である義時&時房兄弟にとって、実朝の義盛へのあまりの心酔ぶりが、少々目障りになりつつあった建保元年(1213年)2月16日
事件は起こります。

泉親衡の乱(いずみちかひらのらん)です。 

…と言っても、実はコレ・・・未遂に終わります。

Seiwagenzikeizu2 鎌倉幕府の御家人で信濃源氏(しなのげんじ=長野県の源氏)、小県郡(ちいさがた=長野県上田市周辺)の武将である泉親衡(いずみちかひら=清和天皇の曾孫で頼朝の7代前にあたる源満快の末裔とされる・源氏系図参照→)
郎党(ろうとう=一族・従者)青栗七郎という者の弟と名乗る安念坊(あんねんぼう)なる僧が、

千葉成胤(ちばなりたね)のもとを訪ね、亡き頼家の遺児である千寿丸(せんじゅまる=頼家の三男・後の栄実)を新将軍に担いで、
「北条義時を討とう!」
と誘ったのです。

千葉成胤と言えば、平氏でありながらも、頼朝が大負けした石橋山の戦い(8月23日参照>>)安房(あわ=千葉県南部)に逃走した際、いち早く味方になり、平清盛(たいらのきよもり)の姉婿である藤原親政(ふじわらのちかまさ)を生け捕りにして、なんなら坂東平氏武士団の頼朝派寝返りへをけん引した人・・・ 

「なんで?こんな人を誘たんやろ?」
と、後世の人間としては疑問に思う中、

案の定、成胤は、すぐさま安念坊なる僧を捕縛し、北条義時のもとへと連行・・・

安念坊の自供により、 泉親衡以下、主導した武士130余名、加担した武士200余名に及ぶ事が分かったのです。

義時は、即座に泉親衡捕縛の使者を派遣しますが、それを悟った親衡は、完全武装で抵抗・・・両者合戦となる中、その混乱に乗じて泉親衡は逃走し、以後、行方不明となります。

この合戦時での猛き勇姿や、行方不明という終わり方のおかげで、鎌倉幕府が終わった後の泉親衡には、様々な伝説や民話的な武勇伝が創作される事になるのですが、それらは、また別の機会にお話するとして・・・

そう、今回の謀反は、それ以上に大きな波乱を含んでいたのです。

実は、かの「泉親衡に加担した武将」の中に、和田義盛の息子である和田義直(よしなお)和田義重(よししげ)、甥の和田胤長(たねなが)と他、和田関係十数人が含まれていたのです。

この時、自らの領地にいて鎌倉を留守にしていた和田義盛は、急を聞いてすぐに駆け付けた3月8日、将軍御所に赴いて、息子たちの赦免を実朝に直訴します。

仲良し実朝は、これを衆議にかける事無く、
「父・義盛の勲功に免じて…」
義直と義重=息子二人を許してしまうのです。

すると、その翌日には、和田一族98名を率いて御所の南庭に連座して、今度は、甥の胤長の赦免を嘆願・・・しかし、そこに現れた北条義時が、
「胤長は首謀者の一人やから、許すわけにはイカン!」
と、居並ぶ和田一族の前で、胤長を後ろ手に縛りあげて被官(ひかん=家臣)に引き渡し、屋敷を没収の上、陸奥岩瀬郡(むついわせぐん=福島県)への流罪としたのです。

さらに、通常、罪人となった者のお屋敷は、一族の者に下げ渡される事になっていたのですが、この時の義時は、それを揺るさず、4月になって突然、今回の泉親衡の乱に功績のあった武将へと渡すため、屋敷を管理していた義盛の配下を追い出してしまったのです。

すでに目の上のタンコブだと思っていた和田義盛とその一族に対して、
今回の北条義時は、本気でブチ切れていたのか?

それとも、和田義盛を怒らせるために挑発だったのか?

とにもかくにも、この一件が引き金となって、泉親衡の乱から3ヶ月後の建保元年(1213年)5月2日、幕府を揺るがす和田義盛の乱和田合戦の勃発となるのですが、そのお話は(内容カブッってる部分ありますが)5月3日のページでどうぞ>>
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2022年2月11日 (金)

源実朝の暗殺を受けて~阿野時元の謀反

 

建保七年(1219年)2月11日、阿野全成と阿波局の息子=阿野時元が、鎌倉幕府に反旗をひるがえしました。

・・・・・・・・・

建保七年(1219年)1月27日の源実朝(みなもとのさねとも)の横死は、母の北条政子(ほうじょうまさこ)や、叔父で第2代執権(しっけん=将軍の補佐&政務の統轄)北条義時(よしとき=政子の弟)以下鎌倉幕府に大きな動揺を与えました。
【実朝・暗殺事件の謎】>>
【実朝・暗殺事件の謎part2】>>
【源実朝暗殺犯・公暁の最期】>> 

なんせ実朝は、第3代将軍であり、朝廷からも右大臣・左近衛大将という武家としては未だかつて無いような高い地位にあったのですから・・・

そもそも、
実朝暗殺犯の公暁(くぎょう)も、父である源頼家(よりいえ=実朝の兄)(7月18日参照>>)に代って将軍となった実朝(9月7日参照>>)に対し、父の恨みもさることながら、
「自分も将軍になる資格がある」
とばかりに、実朝に取って代わるつもりで暗殺に走ったわけで・・・

現段階で最高かつ最大の地位が宙に浮いたとなれば、当然、第2第3の公暁=他の源氏の血を引く者が現れんとも限りませんから、政子&義時は動揺しつつも、しっかりと采配を振るわねばなりませんでした。

そこで、すかさず翌日=28日の早朝に鎌倉を発った使者が、2月2日の午後に都へと入り、朝廷に突然の悲報を伝えます。

実朝の名付け親である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)は、水無瀬(みなせ=大阪府三島郡島本町)の離宮にて、この一報を受けますが、早速、都へと戻り、治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇または上皇)として浮足立つ皆々に適切な指示を出し、鎮静化を図りました。

その一つには、実朝を祈祷していた陰陽師(おんみょうじ=占いや祈祷をする陰陽寮に属した官職)全員解任てな事も・・・

これは・・・
そう、実朝は、前年の12月に右大臣に昇進した祝賀ための鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市)参拝途中で暗殺されたわけですから、ここ何日間か、「右大臣に昇進した実朝に幸あれ」と祈祷していた陰陽師たちは、その祈祷に失敗した事になりますからね。

とは言え、その陰陽師たちの先頭にいるのは天子たる後鳥羽上皇自身なんですけどね。。。

まぁ、肉体精神ともに頑丈を絵に描いたような、さすがの後鳥羽上皇も、このあと少々体調を崩されたようなので、やはり、かなりの衝撃だったのでしょう。

Houzyoumasako600ak 一方、鎌倉は・・・

実朝の死を京都に伝えた使者が鎌倉に戻って来たのが2月9日、その4日後の13日には、北条政子は、後鳥羽上皇の皇子である
頼仁親王(よりひとしんのう=母は坊門信清の娘)もしくは雅成親王(まさなりしんのう=母は藤原重子)のどちらかに、速やかに鎌倉に下向願います」
の要請する使者=政所別当二階堂行光(にかいどうゆきみつ)に、御家人たちが連署した奉状を持たせて都に派遣しています。

先日(2月4日参照>>)書かせていただいたように、実朝生前から、これ=「頼仁親王か雅成親王が次期将軍になる事」が幕府の総意であり、すでに約束された事なのです。

さらに、その翌日には伊賀光季(いがみつすえ=北条義時の義息子)を、29日には大江親広(おおえのちかひろ=大江広元の長男)京都の警固のために派遣します。

こうして、必死のパッチで事の鎮静化を図る政子&義時・・・しかし、その懸念は、ほどなく的中するのです。

建保七年(1219年)2月11日、今は亡き阿野全成(あのぜんじょう)の息子=阿野時元(ときもと)が、駿河(するが=静岡県東部)阿野(あの=静岡県沼津市井出周辺)山中に立て籠り、そこに城郭らしき物を構えて
「我こそは東国の支配者!」
とばかりに、謀反を企てたのです。

阿野時元の父である全成という人は、頼朝のお父さんである源義朝と、宮中一の美女・常盤御前(ときわごぜん)との間に生まれた源氏の血脈を持つ人・・・

あの源義経(よしつね)同母兄で、平治の乱に敗北した義朝が亡くなった時に(1月4日参照>>)、勝者=平清盛(たいらのきよもり)のもとに出頭した常盤御前(1月17日参照>>)が連れていた3人の男児のうち、1番年長の男の子。

美人の常盤御前に惚れた?清盛が、常盤御前が自分の愛妾(あいしょう=おめかけさん)なる事を条件に、3人の息子の命を保障すると約束した時、

未だ乳飲み子だった義経だけは、しばらく手元に残したものの(その後、鞍馬寺に預けられます)、全成は醍醐寺(だいごじ=京都市伏見区醍醐)に預けられて出家させられていたのでした。
(真ん中の義円は円城寺=三井寺に預けられます)

その後、頼朝の挙兵を聞いて、治承四年(1180年)、石橋山の戦い(8月23日参照>>)頼朝が敗北した直後に源氏軍に合流し、そのまま、兄の頼朝らとともに平家討伐を成功させましたが、頼朝が亡くなって後の建仁三年(1203年)、2代目将軍を継いだ源頼家との折り合いが悪く、謀反人として捕縛されたあげくに流罪となり、その年の6月に無念の死を遂げていました。

この時、息子である時元の身も、危うかったのですが、実は時元の母は、あの北条政子の妹=阿波局(あわのつぼね=「鎌倉殿の13人」では実衣という名前で登場してます)・・・なので、この時元は、他の女性が産んだ子供を含めたら全成の四男になるのですが、母が北条氏だという事で嫡男として大事にされていた事もあって、

祖父である北条時政(ときまさ=政子の父)や、伯母の政子の働きかけもあって、領地である阿野荘に引き籠って隠棲生活(いんせいせいかつ=俗世間を離れて静かに暮らす)を送る事を条件に命救われていたのでした。

しかし、ここに来て、頼朝の嫡流の実朝が死に、実朝を暗殺した同じく頼朝嫡流の公暁も死に・・・数少ない源氏の血脈を受け継ぐ者の一人として、北条氏が牛耳る鎌倉幕府に反旗をひるがえしたワケです。

この情報を4日後の15日に聞いた鎌倉の北条政子ら・・・早速、北条義時が、武装した御家人たちを駿河に向かわせます。

一方の時元は、
「自らが動けば周囲も動く」
と思っていたものの、実際には思ったように兵は集まらず・・・

しかも義時らが迅速に動いた事で、22日には、時元は自害に追い込まれてしまいました。(『承久記』より)
(『大日本史料』では2月11日に討死)

さらに義時は、今回のような謀反を防ぐべく

時元の弟で実相寺(じっそうじ=静岡県富士市岩本:實相寺とも)の僧侶となっていた道暁(どうきょう)3月27日に殺害。

翌承久二年(1220年)4月15日には、三浦義村(みうらよしむら)の弟=三浦胤義(みうらたねよし)が、京にて助命活動に動いていた源頼家の遺児=禅暁(ぜんぎょう=公暁の異母弟)も、公暁に加担したとする罪で、京都に滞在中の二階堂行光によって、京都の外れにて討たれてしまいました。

一説には、後の承久の乱(じょうきゅうのらん)で、三浦胤義が京方(後鳥羽上皇側)について幕府と敵対するのは、この禅暁の一件が絡んでいるとも言われます(5月15日参照>>)

とまぁ、電光石火の早わざで、次々と源氏の血脈を潰していった鎌倉幕府・・・思えば、頼朝&政子夫婦の血を引く男子は、ここで全滅した事になります。

なんせ、上記の通り、
「後鳥羽上皇の皇子である頼仁親王か雅成親王に次期将軍になってもらう事」
が幕府の方針であり、決定事項なのですから、もはや、いらぬ芽は摘んでおくに越した事は無いのです。

ところが・・・

ここに来て、後鳥羽上皇の親王将軍の考えに揺らぎが・・・・もちろん、それは実朝の死という想定外の出来事があったからなのですが、

結局、この後鳥羽上皇の「やっぱ、皇子を鎌倉になんかやらんゾ!」の手のひら返しから、一刻も早い親王の鎌倉下向を望む幕府が、武装して都へ向かう事態となり(3月9日参照>>)

さらに、この5ヶ月後に起きた源頼茂(みなもとのよりもち)事件(7月13日参照>>)が、後鳥羽上皇をその気にさせ

やがて、かの承久の乱へと向かって行く事になるのは、皆さまご存知の通りです。

承久の乱関連ページ
 【実朝の後継…北条政子上洛】>>
 ●【実朝暗殺】>>
 ●【阿野時元の謀反】←今ココ
 ●【北条時房が武装して上洛】>>
 ●【源頼茂謀反事件】>>
 ●【義時追討の院宣発給で乱勃発】>>
 ●【北条政子の演説と泰時の出撃】>>
 ●【承久の乱~木曽川の戦い】>>
 ●【承久の乱~美濃の戦い】>>
 ●【承久の乱~瀬田・宇治の戦い】>>
 ●【戦後処理と六波羅探題の誕生】>>
 ●【後鳥羽上皇、流罪】>>
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2022年2月 4日 (金)

北条政子の上洛~源実朝の後継者に親王将軍という選択

 

建保六年(1218年)2月4日、北条政子と、その弟の北条時房とともに上洛の途につきました。

・・・・・・・・

鎌倉幕府、初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)が亡くなって17年(12月27日参照>>)・・・さらに、第2代将軍源頼家(よりいえ=頼朝と政子の長男)が亡くなって12年(7月18日参照>>)が過ぎた建保四年(1216年)は、その後を継いだ第3代将軍の源実朝(さねとも=頼朝と政子の嫡出次男)にとって、将軍に就任(9月7日参照>>)して11年めの年でした。

Minamotonosanetomo600 しかし、この頃の幕府にとって懸念される問題が一つ・・・

実は、実朝は、すでに12年前に坊門信清娘(ぼうもんのぶきよのむすめ=信子?)との結婚を果たしていますが、未だに子供をもうけていませんでした。

しかも、実朝には(しょう=側室)もいません

また、『吾妻鏡(あづまかがみ=鎌倉幕府の公式文書)によれば、
ちょうどこの頃、官職についてアドバイスする大江広元(おおえの ひろもと)に対して、
「源氏の正統この時に縮まりをはんぬ
 子孫あへて之を相継ぐべからず
 然らばあくまで官職を帯び
 家名を挙げんと欲す」
つまり
源氏の嫡流は僕の代で終わり、子孫が継ぐ事は無いから、せめて、高い官職について家名を挙げたいと思う」
と、なぜだか、
「もう子供はできない」
と思っていたようです。

それ以上の事は書いてないので、なぜ?本人がそう思ったのか?はわかりませんが、おそらくは、その実朝の思いは、それとなく、母の北条政子(ほうじょうまさこ)や幕府の重鎮たちにも伝わっていたようで・・・

そこで実朝は、自身の名付け親である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)皇子(親王)を、自らの後継将軍に迎えるという策を模索し始めたのです。

それは、やがて幕府全体の意向となっていき、
建保六年(1218年)1月15日に、幕府政所(まんどころ=鎌倉幕府の一般政務・財政を行う)にて、北条政子の熊野詣(くまのもうで)に関する審議が行われ、政子の弟の北条時房(ときふさ)が、それに同行する事が決定されたのです。
熊野詣については…1月22日参照>>)

Houzyoumasako600ak 政子個人の熊野詣を幕府の政所で審議する???

そう、これこそが、「後継将軍に親王を迎える」事を朝廷に打診するための旅だったのです。

ただ、上記の通り、今はまだ打診・・・

正式には何も成っておらず、幕府感を全面に押し出しての上洛ができないため、
政子が熊野詣に行く・・・ほんで、そのついでに上洛して関係者にご挨拶・・・のテイを取ったわけです。

弟の時房が同行すのは・・・
「時房は、蹴鞠(けまり)が、かなり上手だった」と伝わっているところから察すると、おそらく、上洛した事があり、その時に公家衆との交流もあり、京都に慣れてるから・・・って事でしょう。

なんせ、北条政子は、この歳になって京都初体験だったようですから・・・

かくして建保六年(1218年)2月4日北条政子と北条時房が上洛の途についたのです。

京都に着いた政子は、早速、藤原兼子(ふじわらのけんし=卿局・卿二位)に会い、交渉を進めます。

彼女=藤原兼子は、後鳥羽上皇の第?皇子の頼仁親王(よりひとしんのう)の養育係・・・実は、この頼仁親王のお母さんは、実朝の奥さんのお姉さんだったんですね。

 しかも、藤原兼子は頼仁親王を
「サラズハ将軍ニマレ」
つまり
(ホントは皇位について欲しいけど親王多すぎなので)それがダメなら将軍に…」
と、常々思っていたらしく、話はとんとん拍子に進み

見事、
「頼仁親王か、もしくは雅成親王(まさなりしんのう=母は藤原重子のどちらかを鎌倉に下らせる」
という約束を取り付けたのです。

兼子と政子という女性同志の非公式な交渉であったものの、それはお互い、朝廷と幕府の代表であり、後鳥羽上皇対源実朝&北条義時(よしとき=北条政子の弟で鎌倉幕府第2代執権)の代弁者同志の会見でもありました。

もちろん、お互いにメリットがあります。

後鳥羽上皇としては我が子を将軍に据え、さらに自分の事を敬ってくれる実朝を、その後見人とする事で、幕府を自身のコントロール下に置く事ができるかも知れないわけですし、

幕府は幕府で、天皇の皇子を鎌倉に迎え、その後見をする事で、王や公家社会と言う日本の伝統的権威を幕府の中に取り込む事ができるわけです。

以前、政子さんの亀の前(頼朝の愛人)襲撃事件のページ(11月10日参照>>)でもお話させていただきましたが、そもそもの北条氏は、源氏の嫡流と婚姻できるような家柄では無かったですから、その北条氏が、現段階で幕府の中心を成している事に、かなりのコンプレックスがあったでしょうしね。

て、事で、これはまさに「win-win」・・・

後鳥羽上皇もノリノリで、政子と時房を破格の待遇でもてなしたばかりか、政子が京都滞在中の3月6日には、鎌倉にいる実朝を、父・頼朝の右近衛大将を越える左近衛大将に任命し、さらに4月3日には、尼である政子に従三位(じゅさんみ=正三位の下で正四位の上の官位)を授けるのです。

政子は、すでに夫を亡くして出家の身・・・これまで出家している女性に対する叙位は准后(じゅごう=太皇太后・皇太后・皇后)だけに限られていたのですから、ここに来て完全に特別扱い出世です。

しかも後鳥羽上皇は、政子に対して
「拝謁を許すから御所においでよ!」
とまでおっしゃる。。。

さすがにこれは、政子の方が
「田舎者の老尼が天子様のお顔を拝するなど、おそれ多い」
と丁寧に辞退し、あまりのサービスぶりが怖くなったのか、そそくさと鎌倉へ帰って行きました。

それからも2~3月ほど滞在した時房は、お公家さんたちと蹴鞠三昧・・・その姿を見た後鳥羽上皇が、
「君、蹴鞠メッチャうまいやん!日本代表なれるで」
と褒めたたえ、その後鎌倉に戻った時房は自慢しまくりだったとか・・・

その年の暮れには、実朝が右大臣に昇進する事になり、ここに朝廷と幕府の蜜月も極まれり!!!

…だったワケですが・・・

そう・・・年が明けてまもなく、その右大臣昇進の祝賀の儀が行われる建保七年(1219年)1月27日の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市雪ノ下)。。。

その参拝の帰りに、実朝は、兄=頼家の遺児である公暁(くぎょう)殺害されてしまいます。
【実朝・暗殺事件の謎】>>
【実朝・暗殺事件の謎・パート2】>
【源実朝暗殺犯・公暁の最期】>>

ご存知のように、この実朝の死から、朝廷と幕府のすべてが狂い始めるのです。

おそらく「鎌倉殿の13人」でも山場となるであろう【承久の乱】>>ですが、

その前に・・・一応、後鳥羽上皇と鎌倉幕府、お互いに譲り合って「摂家将軍(せっけしょうぐん=摂関家から将軍を出す)で、一旦落ち着くのですが、そのお話は3月9日のページ>>で・・・
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