北条義時と和田義盛を訣別させた泉親衡の乱発覚
建保元年(1213年)2月16日、鎌倉幕府執権の北条義時を狙った泉親衡の乱の計画が発覚しました。
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鎌倉幕府初代将軍=源頼朝(みなもとのよりとも)が死去(12月27日参照>>)して後、建久十年(正治元年・1199年)に2代目将軍を継いだ源頼家(よりいえ=頼朝と北条政子の嫡男)のもと、幕政を将軍一人に任せるのではなく、13人の主たる御家人たちの合議制(4月12日参照>>)によって運営していく事を決定した鎌倉幕府・・・
一見、近代の民主主義のような良さげなシステムですが、結局は、幕府の方針が力のある御家人の思惑に左右される事になり、将軍のリーダシップも失われてしまうし、当然ですが、誰もが、その「力のある御家人」になりたいわけで・・・
まずは正治二年(1200年)の梶原景時(かじわらかげとき)の粛清(1月20日参照>>)に始まり、その後、頼家が嫁さんの実家として頼りにする比企能員(よしかず)(9月2日参照>>)、さらに頼家自身も元久元年(1204年)に殺害されてしまいます(7月18日参照>>) 。
ちなみに、この間、鎌倉殿の13人の一人である北条時政(ほうじょうときまさ=北条政子の父)は、頼家の次の将軍として、その弟の源実朝(さねよも)第3代将軍に据え(9月7日参照>>)、自らは、その後見人として初代執権(しっけん=将軍の補佐&政務の統轄)に就任しています。
さらに元久二年(1205年)には同じく有力御家人だった畠山重忠(はたけやましげただ)を倒した(6月22日参照>>)北条氏は、時政に代わって(1月6日参照>>)、北条政子(ほうじょうまさこ=頼朝室)の弟=北条義時(よしとき)が第2代・執権となります。
こうして、有力御家人が去り、意にそぐわねば将軍でさえ首をすげ替え、父でさえ失脚させる政子&義時の強力タッグですが、そんな中でも侍所別当(さむらいどころべっとう=警視総監)として、未だ力を持っていたのが和田義盛(わだよしもり)でした。
義盛は、もはや長老の域に達するほど長きに渡って侍所別当の地位にあり、御家人たちからの支持も篤く、また幼くして父の頼朝を亡くした将軍・実朝にとって、亡き父と同い年の義盛は、まるで父の様に信頼できる人物であったようですが・・・
お察しの通り、これは政子&義時の二人にとっては少々脅威・・・
とは言え、この義盛も問題を抱えていました。
それは、本家の三浦(みうら)との惣領問題・・・
和田義盛は、苗字を和田と名乗っていますが、その祖父は、頼朝挙兵の際にいち早く味方になって衣笠城(きぬがさじょう=神奈川県横須賀市)で討死した三浦義明(みうらよしあき)(8月27日参照>>)です。
ただ、義盛の父は義明の長男であり、一旦は家督を継いでいたものの、近隣武将との領地争いで早くに亡くなり、その後、家督は弟(義盛にとっては叔父)の三浦義澄(よしずみ)が継ぎ、義澄亡き後の今は、その息子の三浦義村(よしむら)が三浦氏の当主となってる・・・
そんなこんなの承元三年(1209年)、その和田義盛が、諸大夫(しょだいぶ=公卿ではない貴族相当の階層)である上総介(かずさのすけ=上総国の事実上の長官)に任命してほしいと願出て来たのです。
諸大夫というのは、いわゆる「侍」の身分より格上・・・北条氏の立場としては、あまりよろしくない。
しかし、上記の通り義盛大好きの実朝は、なんとか義盛の願いを叶えてあげたくて、母に相談・・・
相談された政子は、
「源氏一門でもない義盛を?…前例の無い事をしたいなら、勝手にしぃや!」
と、
母に強く反対されたため、結局は、この義盛の願いが実現する事はありませんでしたが、それでも実朝と義盛の関係が崩れる事は無く、実朝の中では、大江広元(おおえのひろもと)や北条義時、義時の弟の北条時房(ときふさ)に並ぶ人物として、序列のトップクラスに義盛を位置付けて、日々、重要な役目を任せていました。
こうして、
母である政子や叔父である義時&時房兄弟にとって、実朝の義盛へのあまりの心酔ぶりが、少々目障りになりつつあった建保元年(1213年)2月16日、
事件は起こります。
泉親衡の乱(いずみちかひらのらん)です。
…と言っても、実はコレ・・・未遂に終わります。
鎌倉幕府の御家人で信濃源氏(しなのげんじ=長野県の源氏)、小県郡(ちいさがた=長野県上田市周辺)の武将である泉親衡(いずみちかひら=清和天皇の曾孫で頼朝の7代前にあたる源満快の末裔とされる・源氏系図参照→)
の郎党(ろうとう=一族・従者)の青栗七郎という者の弟と名乗る安念坊(あんねんぼう)なる僧が、
千葉成胤(ちばなりたね)のもとを訪ね、亡き頼家の遺児である千寿丸(せんじゅまる=頼家の三男・後の栄実)を新将軍に担いで、
「北条義時を討とう!」
と誘ったのです。
千葉成胤と言えば、平氏でありながらも、頼朝が大負けした石橋山の戦い(8月23日参照>>)で安房(あわ=千葉県南部)に逃走した際、いち早く味方になり、平清盛(たいらのきよもり)の姉婿である藤原親政(ふじわらのちかまさ)を生け捕りにして、なんなら坂東平氏武士団の頼朝派寝返りへをけん引した人・・・
「なんで?こんな人を誘たんやろ?」
と、後世の人間としては疑問に思う中、
案の定、成胤は、すぐさま安念坊なる僧を捕縛し、北条義時のもとへと連行・・・
安念坊の自供により、 泉親衡以下、主導した武士130余名、加担した武士200余名に及ぶ事が分かったのです。
義時は、即座に泉親衡捕縛の使者を派遣しますが、それを悟った親衡は、完全武装で抵抗・・・両者合戦となる中、その混乱に乗じて泉親衡は逃走し、以後、行方不明となります。
この合戦時での猛き勇姿や、行方不明という終わり方のおかげで、鎌倉幕府が終わった後の泉親衡には、様々な伝説や民話的な武勇伝が創作される事になるのですが、それらは、また別の機会にお話するとして・・・
そう、今回の謀反は、それ以上に大きな波乱を含んでいたのです。
実は、かの「泉親衡に加担した武将」の中に、和田義盛の息子である和田義直(よしなお)と和田義重(よししげ)、甥の和田胤長(たねなが)と他、和田関係十数人が含まれていたのです。
この時、自らの領地にいて鎌倉を留守にしていた和田義盛は、急を聞いてすぐに駆け付けた3月8日、将軍御所に赴いて、息子たちの赦免を実朝に直訴します。
仲良し実朝は、これを衆議にかける事無く、
「父・義盛の勲功に免じて…」
義直と義重=息子二人を許してしまうのです。
すると、その翌日には、和田一族98名を率いて御所の南庭に連座して、今度は、甥の胤長の赦免を嘆願・・・しかし、そこに現れた北条義時が、
「胤長は首謀者の一人やから、許すわけにはイカン!」
と、居並ぶ和田一族の前で、胤長を後ろ手に縛りあげて被官(ひかん=家臣)に引き渡し、屋敷を没収の上、陸奥岩瀬郡(むついわせぐん=福島県)への流罪としたのです。
さらに、通常、罪人となった者のお屋敷は、一族の者に下げ渡される事になっていたのですが、この時の義時は、それを揺るさず、4月になって突然、今回の泉親衡の乱に功績のあった武将へと渡すため、屋敷を管理していた義盛の配下を追い出してしまったのです。
すでに目の上のタンコブだと思っていた和田義盛とその一族に対して、
今回の北条義時は、本気でブチ切れていたのか?
それとも、和田義盛を怒らせるために挑発だったのか?
とにもかくにも、この一件が引き金となって、泉親衡の乱から3ヶ月後の建保元年(1213年)5月2日、幕府を揺るがす和田義盛の乱=和田合戦の勃発となるのですが、そのお話は(内容カブッってる部分ありますが)5月3日のページでどうぞ>>。
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コメント
鎌倉殿の13人でこのくだりを放送するかな?
結局のところ「13人」で義時以外で最後まで残ったのは誰でしょうか?
投稿: えびすこ | 2022年2月27日 (日) 14時12分
えびすこさん、こんばんは~
お公家さんからの登用の方は、比較的穏やかだったのではないでしょうか?
大江広元さんとか…
投稿: 茶々 | 2022年2月28日 (月) 02時45分