承久の乱に敗れて~後鳥羽上皇、流人の旅路
延応元年(1239年)2月22日、承久の乱に敗れて隠岐への流罪となった後鳥羽上皇が崩御されました。
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後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、後白河法皇(ごしらかわほうおう=第77代天皇)の皇子であった第80代高倉天皇(たかくらてんのう)の第4皇子で、母は公卿の娘だった藤原殖子(ふじわらのしょくし=七条院殖子)・・・高倉天皇の中宮なのが、平清盛(たいらのきよもり)の娘の徳子(とくこ)なので、平家全盛の頃に、わずか3歳で即位した第81代安徳天皇(あんとくてんのう)の異母弟にあたります。
ご存知のように、あの平家が都落ちの際に、安徳天皇とともに三種の神器(さんしゅのじんき)を持ち去ったため、後鳥羽天皇は後白河法皇の院宣(いんぜん=上皇からの命令を発給する文書)を受ける形で神器の無いまま&安徳天皇が退位しないまま、即位する事になったのです。
その後、あの壇ノ浦(だんのうら=山口県)で平家は滅び(2007年3月24日参照>>)、源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となって、世は、日本初の武士政権=鎌倉幕府の世となる(7月12日参照>>)わけですが。。。
とは言え、やはり後鳥羽天皇と言えば、天皇の座を第1皇子の土御門天皇(つちみかどてんのう)に譲って、上皇となってからの、あの承久の乱。
後鳥羽上皇自らが、鎌倉幕府を相手に兵を起こして敗れてしまった、あの戦いですが、承久の乱のアレコレについては、
ページ末尾の「関連ページ」のリンクにて、ご覧いただくとして、
本日は、その承久の乱に敗れた後の後鳥羽上皇について、ご紹介させていただきたいと思います。
・‥…━━━☆
戦後・・・
後鳥羽上皇に対する幕府の処断は、都から遠く離れた隠岐(おき=島根県隠岐郡)への配流でした。
乱が終結した2か月後の承久三年(1221年)7月6日、洛中の四辻殿(よつつじどの=院御所の一つ)から洛南の鳥羽離宮(とばりきゅう=伏見区中島御所ノ内町:鳥羽殿)に身柄を移される事になった後鳥羽上皇・・・この鳥羽離宮は、後鳥羽上皇がたびたび骨休みに訪れた大好きな別荘でしたが、今回は敗者としての悲しみの行幸でした。
この行幸には、西園寺実氏(さいおんじさねうじ)・藤原信成(ふじわらののぶなり)・藤原能茂(よしもち)の3人が騎馬で従います。
離宮に入って後の7月8日、後鳥羽上皇は、絵がうまい藤原信実(のぶざね)を離宮に呼んで、自らの御影を描かせますが、それが、今も水無瀬神宮(みなせじんぐう=大阪府三島郡島本町:上皇の離宮跡に建てられた)に残る、この肖像なのだとか→
その後、警固していた武士に頼み込んで、母の藤原殖子と涙ながらの対面が叶えられた後、
『慈光寺本』によれば…
7月10日には、北条時氏(ほうじょうときうじ=北条義時の孫)が鳥羽離宮にやって来て、弓の片端で後鳥羽上皇の前の御簾(みす=高級なすだれ)をかき上げながら、
「流罪となりましたので、早くお出ください」
と責め立てられ、
(さすがに、そんな失礼な事はしないと思うが…)
後鳥羽上皇が返事すらできずにいると、
時氏は、もう一度、
「お早く~」
とせかします。
すると、後鳥羽上皇は、
「最後にもう一度、伊王丸(いおうまる)にひと目だけでも会わせてほしい」
と答えました。
伊王丸とは、先の藤原能茂の事で、後鳥羽上皇が寵愛していた美少年・・・
時氏が父の北条泰時(やすとき=北条義時の息子・第3代執権)に、どうすべきか相談し、結局、能茂を出家させた後に後鳥羽上皇に面会させる事に・・・
出家して西蓮(さいれん)と号した伊王丸に面会した後鳥羽上皇は、
「そうか。。。出家したのか…ならば私も」
と、後鳥羽上皇も出家して法皇となって、7月13日、隠岐島への旅路についたのでした。
その旅に従ったのは、先の藤原能茂と女房ら2~3人と、旅先でのアクシデントに備えた僧だけだったとか・・・
移動中に見えた水無瀬離宮に、かつての思い出を噛みしめつつ、播磨(はりま=兵庫県南西部)→美作(みまさか=岡山県東北部)→伯耆(ほうき=鳥取県中西部)を経て、出雲(いずも=島根県東部)へと入り、この出雲の浜から船に乗ったと・・・警固としてついていた武士のほとんどと、ここで別れた後、大浜漁港にて船を乗り換え、
『吾妻鏡』では、
「八月五日丙辰 上皇遂着御于隠岐国阿摩郡苅田郷」
とあり、8月5日に苅田郷(かったごう)という所に到着・・・現在、島根県隠岐郡海士町にある旧源福寺の場所が後鳥羽上皇の在所跡とされています。
この後、約20年ほどの期間、この流刑先にて日々の生活をする事になる後鳥羽上皇ですが、流されてからも、和歌の才能バツグンで上皇自らが勅撰した『新古今和歌集』の選びなおしを行っていたという話など漏れ聞こえる物の、当然、日々の生活のくわしい記録などは、ほとんどないわけで・・・
そんな中で、結局、延応元年(1239年)2月22日、後鳥羽上皇は、60歳にて崩御されるのですが、ここで登場するのが怨霊伝説・・・
崩御の時は、隠岐島全体を覆い隠すほどの数の怪鳥が飛び回ったとか・・・
この頃に琵琶湖(びわこ=滋賀県)に突然現れた足が4本ある巨大な怪鳥を人々は「隠岐掾(おきのじょう=隠岐で1番の身分の人)」と呼んで恐れたとか・・・
果ては、この同じ年の暮れに亡くなった三浦義村(みうらよしむら=鎌倉幕府の有力御家人)や翌年の正月の北条時房(ときふさ=北条義時の異母弟)の死は、後鳥羽上皇の怨霊のせいだとか・・・
このような話は、京都在住の複数の公家の日記に登場しますが、もちろん、そのお公家さんたちが、怨霊を見たとか実際に奇怪な出来事に会ったとかではなく、そのような話が町中の噂となっていて、京都の人々が恐れおののいていたという事でしょう。
その一方で、後鳥羽上皇と親しかった藤原定家(ふじわらのさだいえ)は、この後鳥羽上皇の崩御をキッカケにあの『小倉百人一首』をまとめた・・・つまり、あの小倉百人一首は、後鳥羽上皇に捧げた歌集ではないか?
という見方もあります(5月27日参照>>)。
ただ「捧げた」のは仮説であったとしても、定家が後鳥羽上皇とかなり親しかった事は確か・・・
なんせ、定家がこの百人一首に選んだ後鳥羽上皇の
♪人も惜(お)し 人も恨めし 味気(あぢき)なく
世を思ふゆゑに もの思ふには ♪
「今、思えば世の中には愛すべき人も憎い人もいるなぁ」
の歌は、上皇と定家含む5人の友人たちと開いた建歴二年(1212年)12月の歌会の中で詠まれた歌のうちの一首なんです。
結果から見ると、後鳥羽上皇にとっての「味気ない人」は鎌倉幕府・・・とも見れない事も無いですが、先日ご紹介させていただいたように、後鳥羽上皇と幕府がギクシャクし始めるのは、第3代将軍の源実朝(さねとも)が亡くなって(1月27日参照>>)から・・・
そのページに書かせていただいたように(2月4日参照>>)、その寸前まで、上皇と幕府は蜜月関係にあり、最高にゴキゲンだったわけです。
上記の歌会が行われたのは、その10年ほど前の事ですから、皇子に皇位を譲って院政を敷き、治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇or上皇)となっていた後鳥羽上皇にとって最も隆盛を誇った時期では無かったでしょうか?
たとえ定家の選んだ百人一首が、後鳥羽上皇に捧げた物ではなかったとしても、屈指の歌人として多くの歌を詠んだであろう中、
「上皇が最も輝いていた頃の歌を、上皇を代表する一首として歌集に収めてさしあげたい」
という、定家の思いがあったのかも知れませんね。
★関連ページ
●【実朝の後継…北条政子上洛】>>
●【実朝暗殺事件の謎】>>
●【源実朝暗殺犯・公暁の最期】>>
●【阿野時元の謀反】>>
●【北条時房が武装して上洛】>>
●【源頼茂謀反事件】>>
●【義時追討の院宣発給で乱勃発】>>
●【北条政子の演説と泰時の出撃】>>
●【承久の乱~木曽川の戦い】>>
●【承久の乱~美濃の戦い】>>
●【承久の乱~瀬田・宇治の戦い】>>
●【戦後処理と六波羅探題の誕生】>>
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コメント
泰時かっこいいですね。強く賢く優しい3代執権、5代時頼もいい。大河の次回タイトル「いざ鎌倉」で謡曲「鉢の木」を思い出しました。
後北条の2代氏綱や3代氏康も庶民からの人気が高いので敵対すると勧善懲悪にされがちですが、あんなリーダーが出て来るには何が要因なのか知りたいところです。
公式どおりいかないのが歴史ですが。
投稿: 通りすがり | 2022年2月22日 (火) 06時29分
>泰時かっこいいですね
ですね。
泰時と言えば、御成敗式目もですね。
北条氏は、血筋が微妙なぶん、庶民目線で色々行った感じがして良いです。
回りの粛清は、ちと、怖いですが…
投稿: 茶々 | 2022年2月23日 (水) 04時02分