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2022年2月11日 (金)

源実朝の暗殺を受けて~阿野時元の謀反

 

建保七年(1219年)2月11日、阿野全成と阿波局の息子=阿野時元が、鎌倉幕府に反旗をひるがえしました。

・・・・・・・・・

建保七年(1219年)1月27日の源実朝(みなもとのさねとも)の横死は、母の北条政子(ほうじょうまさこ)や、叔父で第2代執権(しっけん=将軍の補佐&政務の統轄)北条義時(よしとき=政子の弟)以下鎌倉幕府に大きな動揺を与えました。
【実朝・暗殺事件の謎】>>
【実朝・暗殺事件の謎part2】>>
【源実朝暗殺犯・公暁の最期】>> 

なんせ実朝は、第3代将軍であり、朝廷からも右大臣・左近衛大将という武家としては未だかつて無いような高い地位にあったのですから・・・

そもそも、
実朝暗殺犯の公暁(くぎょう)も、父である源頼家(よりいえ=実朝の兄)(7月18日参照>>)に代って将軍となった実朝(9月7日参照>>)に対し、父の恨みもさることながら、
「自分も将軍になる資格がある」
とばかりに、実朝に取って代わるつもりで暗殺に走ったわけで・・・

現段階で最高かつ最大の地位が宙に浮いたとなれば、当然、第2第3の公暁=他の源氏の血を引く者が現れんとも限りませんから、政子&義時は動揺しつつも、しっかりと采配を振るわねばなりませんでした。

そこで、すかさず翌日=28日の早朝に鎌倉を発った使者が、2月2日の午後に都へと入り、朝廷に突然の悲報を伝えます。

実朝の名付け親である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)は、水無瀬(みなせ=大阪府三島郡島本町)の離宮にて、この一報を受けますが、早速、都へと戻り、治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇または上皇)として浮足立つ皆々に適切な指示を出し、鎮静化を図りました。

その一つには、実朝を祈祷していた陰陽師(おんみょうじ=占いや祈祷をする陰陽寮に属した官職)全員解任てな事も・・・

これは・・・
そう、実朝は、前年の12月に右大臣に昇進した祝賀ための鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市)参拝途中で暗殺されたわけですから、ここ何日間か、「右大臣に昇進した実朝に幸あれ」と祈祷していた陰陽師たちは、その祈祷に失敗した事になりますからね。

とは言え、その陰陽師たちの先頭にいるのは天子たる後鳥羽上皇自身なんですけどね。。。

まぁ、肉体精神ともに頑丈を絵に描いたような、さすがの後鳥羽上皇も、このあと少々体調を崩されたようなので、やはり、かなりの衝撃だったのでしょう。

Houzyoumasako600ak 一方、鎌倉は・・・

実朝の死を京都に伝えた使者が鎌倉に戻って来たのが2月9日、その4日後の13日には、北条政子は、後鳥羽上皇の皇子である
頼仁親王(よりひとしんのう=母は坊門信清の娘)もしくは雅成親王(まさなりしんのう=母は藤原重子)のどちらかに、速やかに鎌倉に下向願います」
の要請する使者=政所別当二階堂行光(にかいどうゆきみつ)に、御家人たちが連署した奉状を持たせて都に派遣しています。

先日(2月4日参照>>)書かせていただいたように、実朝生前から、これ=「頼仁親王か雅成親王が次期将軍になる事」が幕府の総意であり、すでに約束された事なのです。

さらに、その翌日には伊賀光季(いがみつすえ=北条義時の義息子)を、29日には大江親広(おおえのちかひろ=大江広元の長男)京都の警固のために派遣します。

こうして、必死のパッチで事の鎮静化を図る政子&義時・・・しかし、その懸念は、ほどなく的中するのです。

建保七年(1219年)2月11日、今は亡き阿野全成(あのぜんじょう)の息子=阿野時元(ときもと)が、駿河(するが=静岡県東部)阿野(あの=静岡県沼津市井出周辺)山中に立て籠り、そこに城郭らしき物を構えて
「我こそは東国の支配者!」
とばかりに、謀反を企てたのです。

阿野時元の父である全成という人は、頼朝のお父さんである源義朝と、宮中一の美女・常盤御前(ときわごぜん)との間に生まれた源氏の血脈を持つ人・・・

あの源義経(よしつね)同母兄で、平治の乱に敗北した義朝が亡くなった時に(1月4日参照>>)、勝者=平清盛(たいらのきよもり)のもとに出頭した常盤御前(1月17日参照>>)が連れていた3人の男児のうち、1番年長の男の子。

美人の常盤御前に惚れた?清盛が、常盤御前が自分の愛妾(あいしょう=おめかけさん)なる事を条件に、3人の息子の命を保障すると約束した時、

未だ乳飲み子だった義経だけは、しばらく手元に残したものの(その後、鞍馬寺に預けられます)、全成は醍醐寺(だいごじ=京都市伏見区醍醐)に預けられて出家させられていたのでした。
(真ん中の義円は円城寺=三井寺に預けられます)

その後、頼朝の挙兵を聞いて、治承四年(1180年)、石橋山の戦い(8月23日参照>>)頼朝が敗北した直後に源氏軍に合流し、そのまま、兄の頼朝らとともに平家討伐を成功させましたが、頼朝が亡くなって後の建仁三年(1203年)、2代目将軍を継いだ源頼家との折り合いが悪く、謀反人として捕縛されたあげくに流罪となり、その年の6月に無念の死を遂げていました。

この時、息子である時元の身も、危うかったのですが、実は時元の母は、あの北条政子の妹=阿波局(あわのつぼね=「鎌倉殿の13人」では実衣という名前で登場してます)・・・なので、この時元は、他の女性が産んだ子供を含めたら全成の四男になるのですが、母が北条氏だという事で嫡男として大事にされていた事もあって、

祖父である北条時政(ときまさ=政子の父)や、伯母の政子の働きかけもあって、領地である阿野荘に引き籠って隠棲生活(いんせいせいかつ=俗世間を離れて静かに暮らす)を送る事を条件に命救われていたのでした。

しかし、ここに来て、頼朝の嫡流の実朝が死に、実朝を暗殺した同じく頼朝嫡流の公暁も死に・・・数少ない源氏の血脈を受け継ぐ者の一人として、北条氏が牛耳る鎌倉幕府に反旗をひるがえしたワケです。

この情報を4日後の15日に聞いた鎌倉の北条政子ら・・・早速、北条義時が、武装した御家人たちを駿河に向かわせます。

一方の時元は、
「自らが動けば周囲も動く」
と思っていたものの、実際には思ったように兵は集まらず・・・

しかも義時らが迅速に動いた事で、22日には、時元は自害に追い込まれてしまいました。(『承久記』より)
(『大日本史料』では2月11日に討死)

さらに義時は、今回のような謀反を防ぐべく

時元の弟で実相寺(じっそうじ=静岡県富士市岩本:實相寺とも)の僧侶となっていた道暁(どうきょう)3月27日に殺害。

翌承久二年(1220年)4月15日には、三浦義村(みうらよしむら)の弟=三浦胤義(みうらたねよし)が、京にて助命活動に動いていた源頼家の遺児=禅暁(ぜんぎょう=公暁の異母弟)も、公暁に加担したとする罪で、京都に滞在中の二階堂行光によって、京都の外れにて討たれてしまいました。

一説には、後の承久の乱(じょうきゅうのらん)で、三浦胤義が京方(後鳥羽上皇側)について幕府と敵対するのは、この禅暁の一件が絡んでいるとも言われます(5月15日参照>>)

とまぁ、電光石火の早わざで、次々と源氏の血脈を潰していった鎌倉幕府・・・思えば、頼朝&政子夫婦の血を引く男子は、ここで全滅した事になります。

なんせ、上記の通り、
「後鳥羽上皇の皇子である頼仁親王か雅成親王に次期将軍になってもらう事」
が幕府の方針であり、決定事項なのですから、もはや、いらぬ芽は摘んでおくに越した事は無いのです。

ところが・・・

ここに来て、後鳥羽上皇の親王将軍の考えに揺らぎが・・・・もちろん、それは実朝の死という想定外の出来事があったからなのですが、

結局、この後鳥羽上皇の「やっぱ、皇子を鎌倉になんかやらんゾ!」の手のひら返しから、一刻も早い親王の鎌倉下向を望む幕府が、武装して都へ向かう事態となり(3月9日参照>>)

さらに、この5ヶ月後に起きた源頼茂(みなもとのよりもち)事件(7月13日参照>>)が、後鳥羽上皇をその気にさせ

やがて、かの承久の乱へと向かって行く事になるのは、皆さまご存知の通りです。

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