« 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第4回の感想 | トップページ | 源実朝の暗殺を受けて~阿野時元の謀反 »

2022年2月 4日 (金)

北条政子の上洛~源実朝の後継者に親王将軍という選択

 

建保六年(1218年)2月4日、北条政子と、その弟の北条時房とともに上洛の途につきました。

・・・・・・・・

鎌倉幕府、初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)が亡くなって17年(12月27日参照>>)・・・さらに、第2代将軍源頼家(よりいえ=頼朝と政子の長男)が亡くなって12年(7月18日参照>>)が過ぎた建保四年(1216年)は、その後を継いだ第3代将軍の源実朝(さねとも=頼朝と政子の嫡出次男)にとって、将軍に就任(9月7日参照>>)して11年めの年でした。

Minamotonosanetomo600 しかし、この頃の幕府にとって懸念される問題が一つ・・・

実は、実朝は、すでに12年前に坊門信清娘(ぼうもんのぶきよのむすめ=信子?)との結婚を果たしていますが、未だに子供をもうけていませんでした。

しかも、実朝には(しょう=側室)もいません

また、『吾妻鏡(あづまかがみ=鎌倉幕府の公式文書)によれば、
ちょうどこの頃、官職についてアドバイスする大江広元(おおえの ひろもと)に対して、
「源氏の正統この時に縮まりをはんぬ
 子孫あへて之を相継ぐべからず
 然らばあくまで官職を帯び
 家名を挙げんと欲す」
つまり
源氏の嫡流は僕の代で終わり、子孫が継ぐ事は無いから、せめて、高い官職について家名を挙げたいと思う」
と、なぜだか、
「もう子供はできない」
と思っていたようです。

それ以上の事は書いてないので、なぜ?本人がそう思ったのか?はわかりませんが、おそらくは、その実朝の思いは、それとなく、母の北条政子(ほうじょうまさこ)や幕府の重鎮たちにも伝わっていたようで・・・

そこで実朝は、自身の名付け親である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)皇子(親王)を、自らの後継将軍に迎えるという策を模索し始めたのです。

それは、やがて幕府全体の意向となっていき、
建保六年(1218年)1月15日に、幕府政所(まんどころ=鎌倉幕府の一般政務・財政を行う)にて、北条政子の熊野詣(くまのもうで)に関する審議が行われ、政子の弟の北条時房(ときふさ)が、それに同行する事が決定されたのです。
熊野詣については…1月22日参照>>)

Houzyoumasako600ak 政子個人の熊野詣を幕府の政所で審議する???

そう、これこそが、「後継将軍に親王を迎える」事を朝廷に打診するための旅だったのです。

ただ、上記の通り、今はまだ打診・・・

正式には何も成っておらず、幕府感を全面に押し出しての上洛ができないため、
政子が熊野詣に行く・・・ほんで、そのついでに上洛して関係者にご挨拶・・・のテイを取ったわけです。

弟の時房が同行すのは・・・
「時房は、蹴鞠(けまり)が、かなり上手だった」と伝わっているところから察すると、おそらく、上洛した事があり、その時に公家衆との交流もあり、京都に慣れてるから・・・って事でしょう。

なんせ、北条政子は、この歳になって京都初体験だったようですから・・・

かくして建保六年(1218年)2月4日北条政子と北条時房が上洛の途についたのです。

京都に着いた政子は、早速、藤原兼子(ふじわらのけんし=卿局・卿二位)に会い、交渉を進めます。

彼女=藤原兼子は、後鳥羽上皇の第?皇子の頼仁親王(よりひとしんのう)の養育係・・・実は、この頼仁親王のお母さんは、実朝の奥さんのお姉さんだったんですね。

 しかも、藤原兼子は頼仁親王を
「サラズハ将軍ニマレ」
つまり
(ホントは皇位について欲しいけど親王多すぎなので)それがダメなら将軍に…」
と、常々思っていたらしく、話はとんとん拍子に進み

見事、
「頼仁親王か、もしくは雅成親王(まさなりしんのう=母は藤原重子のどちらかを鎌倉に下らせる」
という約束を取り付けたのです。

兼子と政子という女性同志の非公式な交渉であったものの、それはお互い、朝廷と幕府の代表であり、後鳥羽上皇対源実朝&北条義時(よしとき=北条政子の弟で鎌倉幕府第2代執権)の代弁者同志の会見でもありました。

もちろん、お互いにメリットがあります。

後鳥羽上皇としては我が子を将軍に据え、さらに自分の事を敬ってくれる実朝を、その後見人とする事で、幕府を自身のコントロール下に置く事ができるかも知れないわけですし、

幕府は幕府で、天皇の皇子を鎌倉に迎え、その後見をする事で、王や公家社会と言う日本の伝統的権威を幕府の中に取り込む事ができるわけです。

以前、政子さんの亀の前(頼朝の愛人)襲撃事件のページ(11月10日参照>>)でもお話させていただきましたが、そもそもの北条氏は、源氏の嫡流と婚姻できるような家柄では無かったですから、その北条氏が、現段階で幕府の中心を成している事に、かなりのコンプレックスがあったでしょうしね。

て、事で、これはまさに「win-win」・・・

後鳥羽上皇もノリノリで、政子と時房を破格の待遇でもてなしたばかりか、政子が京都滞在中の3月6日には、鎌倉にいる実朝を、父・頼朝の右近衛大将を越える左近衛大将に任命し、さらに4月3日には、尼である政子に従三位(じゅさんみ=正三位の下で正四位の上の官位)を授けるのです。

政子は、すでに夫を亡くして出家の身・・・これまで出家している女性に対する叙位は准后(じゅごう=太皇太后・皇太后・皇后)だけに限られていたのですから、ここに来て完全に特別扱い出世です。

しかも後鳥羽上皇は、政子に対して
「拝謁を許すから御所においでよ!」
とまでおっしゃる。。。

さすがにこれは、政子の方が
「田舎者の老尼が天子様のお顔を拝するなど、おそれ多い」
と丁寧に辞退し、あまりのサービスぶりが怖くなったのか、そそくさと鎌倉へ帰って行きました。

それからも2~3月ほど滞在した時房は、お公家さんたちと蹴鞠三昧・・・その姿を見た後鳥羽上皇が、
「君、蹴鞠メッチャうまいやん!日本代表なれるで」
と褒めたたえ、その後鎌倉に戻った時房は自慢しまくりだったとか・・・

その年の暮れには、実朝が右大臣に昇進する事になり、ここに朝廷と幕府の蜜月も極まれり!!!

…だったワケですが・・・

そう・・・年が明けてまもなく、その右大臣昇進の祝賀の儀が行われる建保七年(1219年)1月27日の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市雪ノ下)。。。

その参拝の帰りに、実朝は、兄=頼家の遺児である公暁(くぎょう)殺害されてしまいます。
【実朝・暗殺事件の謎】>>
【実朝・暗殺事件の謎・パート2】>
【源実朝暗殺犯・公暁の最期】>>

ご存知のように、この実朝の死から、朝廷と幕府のすべてが狂い始めるのです。

おそらく「鎌倉殿の13人」でも山場となるであろう【承久の乱】>>ですが、

その前に・・・一応、後鳥羽上皇と鎌倉幕府、お互いに譲り合って「摂家将軍(せっけしょうぐん=摂関家から将軍を出す)で、一旦落ち着くのですが、そのお話は3月9日のページ>>で・・・
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第4回の感想 | トップページ | 源実朝の暗殺を受けて~阿野時元の謀反 »

鎌倉時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第4回の感想 | トップページ | 源実朝の暗殺を受けて~阿野時元の謀反 »