親王将軍か摂家将軍か…北条時房が千騎を率いて上洛
建保七年(1219年)3月9日、後鳥羽上皇の使者として藤原忠綱が、亡き源実朝の弔問に鎌倉を訪れました。
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未だ子供がいなかった第3代鎌倉幕府将軍の源実朝(みなもとのさねとも)の後継者に、実朝の名付け親でもある後鳥羽上皇(ことばじょうこう=第82代天皇)の皇子を…と願った実朝母の北条政子(ほうじょうまさこ)が、
弟の北条時房(ときふさ)を連れて初めての京都旅行をし、頼仁親王(よりひとしんのう)か雅成親王(まさなりしんのう)のいずれかを、次期将軍として近々鎌倉に下向させるという約束をとりつけたのは、この、わずか1年前の建保六年(1218年)2月の事でした(2月4日参照>>)。
ところが、その翌年・・・年が明けてまもなくの建保七年(1219年)1月27日、その実朝が鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市雪ノ下)にて、甥の公暁(くぎょう・こうきょう)に殺害されてしまい、
【実朝・暗殺事件の謎】>>
【実朝暗殺事件の謎パート2】>>
事は急展開となります。
ポッカリ空いた将軍の座を狙った阿野時元(あのときもと)の謀反(2月11日参照>>)を、なんとか防ぎつつも、実朝の死という想定外の出来事に、揺らぐ上皇の心の内を、北条政子も、そして鎌倉幕府を預かる第2代執権(しっけん)・北条義時(ほうじょうよしとき=政子の弟)も感じ取っていたのです。
先の「政子上洛」のページで書かせていただいたように、皇子の鎌倉下向&次期将軍を後鳥羽上皇が快諾したのは、自らが信頼する実朝が後見人としてサポートしつつ将軍職を引き継ぐ皇子の姿を想像したからであって、肝心の実朝がいなければ、話が変ってくる・・・
その後鳥羽上皇の思惑を重々承知の幕府は、早速翌月=2月1日に政所別当の二階堂行光(にかいどうゆきみつ)を使者にたて、
「実朝が亡くなった今、すぐにでも親王を鎌倉に…」
と願ったのです。
しかし、案の定、後鳥羽上皇の回答は、
「二人のうち、どちらかは鎌倉に下向させよう。ただ、今すぐというのはムリ」
というものでした。
京都からの報告をを受けた政子は、
「今すぐに!と、もっかいお願いしてみて~」
と、京都の二階堂に念を押します。
しかし、上皇からの返答はなく・・・
そんなこんなの建保七年(1219年)3月9日、後鳥羽上皇が、自らの側近で北面の武士(御所を警固する武士)の藤原忠綱(ふじわらのただつな)を弔問の使者という名目で鎌倉に派遣して来たのです。
忠綱は、まずは北条政子の邸宅にて後鳥羽上皇の弔意を伝えた後、北条義時の館に向かいます。
そして忠綱は、その場で、
後鳥羽上皇が寵愛する白拍子の亀菊(かめぎく=伊賀局とも)の持つ摂津(せっつ=大阪府北部)長江(ながえ=現在の大阪府豊中市付近)の荘園と、
尊長(そんちょう=一条能保の息子で後鳥羽上皇の側近)の持つ椋橋(くらはし=同じく豊中市付近)の荘園の地頭の撤廃と、
西面武士(北面と同じく御所の警備)の仁科盛遠(にしなもりとお)の所領没収処分の撤回を求める院宣(いんぜん=天皇の命令)を伝えたのです。
地頭(じとう)とは、ご存知のように、源頼朝が鎌倉幕府を開いた際に、全国の荘園の管理や支配の権限を認めて設置し、御家人や配下の武士を派遣して当たらせた役職(7月12日参照>>)・・・
それを「撤廃しろ」という事は、「荘園は自分らで管理するから、お前ら幕府は関わんなや」という事です。
しかも、その場所は、いずれも川で以って大阪湾へと出られる交通の要所。
また、仁科盛遠の所領没収処分というのは、もともとは幕府御家人だった盛遠が、職務を怠って勝手に西面の武士(北面と同じく御所の警備員)になり後鳥羽上皇から給料をもらっていた(つまり上司にナイショで副業してた)事を知った北条義時が、職務専念義務違反として下した処分です。
もちろん、この彼らは全員、後鳥羽上皇にメッチャ近しい人たち・・・おそらくは上皇の私的がらみとおぼしき要求です。
その一方で、幕府が出していた、先の「親王下向」のお願いについては完全無視のゼロ回答。。。
とりあえずは、
「追って回答させていただきます」
と、結果を保留にして、京都へと戻る藤原忠綱を見送った幕府首脳陣は、
後鳥羽上皇の要求を呑むべきか否か?
また、呑むとしても、どこまで譲歩すべきか?
の話し合いに入ります。
なんせ、こういう場合、相手を怒らしてもアカンし、かと言ってナメられてもアカンわけで・・・
…で、すったもんだして出した結論は・・・
北条時房が千騎の軍勢を率いて上洛し、
「地頭の撤廃を拒否し、親王の早期下向を要求する」
という、完全なる強硬策だったのです。
時房が代表になったのは、例の北条政子の京都旅行の際に(2月4日参照>>)、蹴鞠の腕前を後鳥羽上皇に褒められて親しくなり、お気に入りとなっていたからですが、
時房が京都に到着した3月15日・・・さすがに、昨年とはまったく違う雰囲気で完全武装した時房の姿を見た後鳥羽上皇は、驚いたに違いありません。
ゼロ回答のまま、自らの要求だけを突き付けた後鳥羽上皇も上皇ですが、それに対して武力をチラつかせる幕府も幕府・・・
もはや、両者ともに、お互いの関係に亀裂が入った事を、完全に悟った事でしょう。
とは言え、どちらも、この一国を左右する地位につく人たち・・・いきなり、あからさまに敵対はせぬまま、建保七年(1219年)は4月12日に改元され、承久元年となりました。
そんな中、静かなる譲歩を決めたのは後鳥羽上皇でした。
「親王を下向させると、国が二分するかも知れないから、関白(かんぱく)か摂政(せっしょう)の子供で手ぇ打ってちょ」
との譲歩案を出して来たのです。
それを知った三浦義村(みうらよしむら=幕府有力御家人)は、
「摂関家の九条道家(くじょうみちいえ)の長男で10歳になる九条教実(のりざね)か、その弟の2歳の若君に来ていただいて、コチラで養育し、いずれ君(上皇)をお守りいたしたいと思いますが…そういうのはどうでしょう?」
と提案します。
この提案を受け、交渉の結果、2歳の若君=三寅(みとら)を下向させる事で、ようやく話が落ち着いたのです。
実は、この九条道家という人の母は、源頼朝の妹(姉とも)である坊門姫(ぼうもんひめ)の娘・・・しかも、この道家の奥さんの西園寺掄子(さいおんじりんし)も母親は坊門姫の娘・・・
つまり、頼朝から見れば、姪っ子二人が、それぞれ九条家&西園寺家に嫁いで、その子供(本人たちは従兄弟)どうしが結婚して生まれたのが三寅クンという事です。
この三寅クンが、後の藤原頼経(ふじわらのよりつね=九条頼経とも)・・・鎌倉幕府の第4代将軍、初の摂家将軍となる人です。
6月3日に鎌倉下向の宣下があり、様々な手続きを経て、6月25日に北条時房や三浦義村らに付き添われて京都を後にし、7月19日に鎌倉に到着・・・以後、北条政子が後見人となってサポートする事になるのです。
こうして、鎌倉幕府の将軍は何とか決まったものの、当然、両者に残る少なからずのしこり・・・
しかも、この三寅下向の真っ最中に、京都で後鳥羽上皇を強気にさせる事件も勃発します(【源頼茂事件】参照>>)。
…で、
ご存知のように、この2年後に承久の乱が勃発するのですが、その間のお話のくわしくは、その日付の関連ページで。。。
★承久の乱関連ページ
●【実朝の後継…北条政子上洛】>>
●【実朝暗殺】>>
●【阿野時元の謀反】>>
●【北条時房が武装して上洛】←今ココ
●【源頼茂謀反事件】>>
●【義時追討の院宣発給で乱勃発】>>
●【北条政子の演説と泰時の出撃】>>
●【承久の乱~木曽川の戦い】>>
●【承久の乱~美濃の戦い】>>
●【承久の乱~瀬田・宇治の戦い】>>
●【戦後処理と六波羅探題の誕生】>>
●【後鳥羽上皇、流罪】>>
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