浅井長政の大返し~六角義賢との佐和山城の戦い
永禄四年(1561年)3月22日、六角義賢に佐和山城を攻められた浅井長政配下の磯野員昌が、見事な大返しで美濃から帰還・・・磨針峠まで進出しました。
・・・・・・・
ともに宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏(ささきし)の流れを汲む京極氏(きょうごくし)と六角氏(ろっかくし)は、ご先祖の佐々木道誉(ささきどうよ)(10月12日参照>>)が、室町幕府立ち上げに大きく貢献した事から、幕府政権下において近江(おうみ=滋賀県)守護(しゅご=県知事)を任され、京極氏が北近江、六角氏が南近江を支配していましたが、
京極氏が自らの内紛によって力衰えて来た(8月7日参照>>)ところに、京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)であった浅井亮政(あざいすけまさ)が主家を凌ぐ勢いを持ち始めたため(3月9日参照>>)、同族の六角定頼(ろっかくさだより)が、その武力で以って浅井に立ちはだかる中で、
六角氏との連戦に苦戦した亮政の息子=浅井久政(ひさまさ)は、やむなく六角氏に従属(1月10日参照>>)・・・
息子の浅井長政(ながまさ=つまり亮政の孫)が元服する頃には、六角家臣の娘を娶らせ、その名を、六角義賢(よしかた=承禎・定頼の息子)の一字をとって「浅井賢政」と名乗らせるほどの主従関係を敷いていました
が・・・
永禄二年(1559年)、この状況に不満を持つ浅井家臣らが、元服したての長政を当主と仰いでクーデターを決行・・・
翌永禄三年(1560年)8月には、長政率いる新体制浅井が、野良田(のらだ=滋賀県彦根市野良田町付近)の戦いにて六角氏に勝利して(8月18日参照>>)、六角氏からの離反を明らかにしたのでした。
格下と思っていた浅井にしてやられた六角義賢と、その息子=六角義治(よしはる=義弼とも)は、何とか雪辱せんと狙って、隣国の美濃(みの=岐阜県南部)の斎藤義龍(さいとうよしたつ=斎藤道三の息子・高政とも)に陽動作戦を依頼します。
六角父子の要請に応じた斎藤義龍は、永禄三年(1560年)12月、家臣の竹中重元(たけなかしげちか・しげもと=竹中半兵衛重治の父)を近江に派遣し、浅井配下の刈安尾城(かりやすおじょう=滋賀県米原市藤川)を奪おうとします。
この時は、何とか抵抗して押し戻し、事無きを得た浅井長政でしたが、当然、斎藤義龍とは敵対関係に進む事となり、翌・永禄四年(1561年)3月、長政は美濃に向けて出兵したのでした。
佐和山城の戦い・位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
この長政留守のタイミングを見計らって、配下の将1万余りを従えて中山道へと出た六角義賢は、そのうちの2千を配下の肥田城(ひだじょう=滋賀県彦根市肥田町)と高宮城( たかみやじょう=滋賀県彦根市高宮町)に入れて備えとし、残りの本隊で以って浅井方の佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市佐和山町)を目指したのです。
さらに、かの竹中重元も、このタイミングで再び刈安尾城をけん制し、六角氏の佐和山城攻撃を側面から支援し、おそらく美濃から戻って来るであろう長政らの行く手を阻もうと計算したのです。
この時、当然ですが、佐和山城主である磯野員昌(いそのかずまさ)は、主君である長政とともに美濃に出陣中・・・
留守を預かっていたのは百々盛実(どどもりざね)以下、わずかな城兵でしたが、六角軍の来襲を知るや否や、本城の小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)にいる長政父の浅井久政に連絡し、援軍を要請します。
もちろん、この急変を聞いた美濃の浅井軍も、急きょ退陣し、磯野員昌を先陣に、一路、佐和山城目指して走る一方で、殿(しんがり)を赤尾清綱(あかおきよつな)がキッチリ抑えます。
夜を徹して近江へ取って返した磯野員昌は、永禄四年(1561年)3月22日、磨針峠(すりはりとうげ=滋賀県彦根市北部にある峠・摺針峠)に到着したのでした。
(今回の佐和山城に戦いは『浅井三代記』では永禄6年=1563年の事となっていますが、現在は一般的には永禄四年とされています)
一方の六角義賢は、すでに城兵を打ち破って本丸に侵入・・・百々盛実を自刃に追い込んで、事実上、佐和山城を落城させていましたが、
このタイミングで、浅井勢が、すでに磨針峠まで戻って来ている事を知り、あまりの速さに驚愕・・・
「城を落としたとは言え、未だドタバタ感満載な段階で浅井勢の本隊に囲まれて退路を断たれては、元も子もない」
とばかりに、急きょ全軍に撤退命令を出し、速やかに兵を退いたのでした。
結果的には引き分けとなった今回の佐和山城の戦いですが、一時は落城に追い込まれた事の影響は大きく、江北(こうほく=滋賀県北部)の諸将の中には六角側に寝返る者も多数・・・
そこで長政は、この約3ヶ月後の永禄四年(1561年)7月、六角義賢が、畿内を牛耳る三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)との戦い(【将軍地蔵山の戦い】参照>>)のために京都に出陣したスキを狙って、
かつて父の久政が攻めあぐねた太尾城(ふとおじょう=滋賀県米原市米原・太尾山城とも)を奪わんと、配下の今井定清(いまいさだきよ)と磯野員昌を送りこみますが、残念ながら失敗・・・(前半部分内容カブッてますが…7月1日参照>>)
そのため、長政は、この後、約2年ほど、六角氏とは混沌とした関係が続く事になるのですが、
おそらくは、この状況により、
「六角氏に対抗できる後ろ盾を…」
と、長政は思ったらしく、ここらあたりで越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉氏(あさくらし)と臣従に近い同盟を結んだとされます。
しかし、その2年が経った永禄六年(1563年)10月、六角氏は自ら観音寺騒動(かんのんじそうどう)を起こして自滅(10月7日参照>>)・・・内紛によって大きく力を削がれた六角氏には衰退の影が見え始めますが、
ここらあたりで、美濃攻め真っ最中(9月1日参照>>)の尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)からの使者として不破光治(ふわみつはる)が長政のもとへ・・・
ご存知の、長政とお市の方(おいちのかた=信長の妹もしくは姪)との正式な婚姻が成立するのは、4年後の永禄十年(1567年)の9月頃と言われます。
そして、皆さま、よくご存知のように、浅井長政が全国ネットの大舞台に登場していく事になります。
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コメント
浅井氏と斎藤氏が一時対峙していたのは知りませんでした。近江と美濃は隣どうしでしたが、信長以前の時期に直接攻め込んだとは聞いた事がなかったです。
確か斎藤義龍の妻は近江の出身と聞いています。
おりしも選抜大会は滋賀の近江高校が決勝戦まで進んでいますね。大阪と対戦する明日はどうなるかな?
投稿: | 2022年3月30日 (水) 21時50分
>確か斎藤義龍の妻は近江の出身…
義龍の正室は浅井久政の妹…つまり長政の叔母さんだったようですが、永禄の初め頃に、足利義輝から一色氏を継ぐ事を許された義龍は尾張を手に入れようと画策し、同時期には六角氏と同盟を結んでますので、その頃には、もう、浅井とも敵対する気満々だったんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2022年3月31日 (木) 02時46分