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2022年3月30日 (水)

【平安京ニュース】七光り炸裂!藤原能信の牛車暴行事件

 

長和二年(1013年)3月30日、石清水八幡宮の臨時祭にて、藤原能信が暴行事件を起こしました。

・・・・・・・

第66代一条天皇(いちじょう てんのう)の時代(986年~1011年)に、道隆(みちたか)道兼(みちかね)という二人の兄が相次いで亡くなった事で、棚ぼた的に政権を掌握し、

♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪
「世界はオレの物!」

と高らかに宣言して栄華を極めた、ご存知、藤原道長(ふじわらのみちなが)(12月4日参照>>)

本日の主役は、その道長さんの四男である藤原能信(ふじわらのよしのぶ)なのですが、上記の通り、親が平安時代最大の七光りを放ってるがため、その光浴びまくりの彼は、もう、やりたい放題の、様々な事件をヤラかしてくれているわけです。

それは、能信が未だ19歳の貴公子だった長和二年(1013年)3月30日の事・・・

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石清水八幡宮(本殿)

この日は、「臨時祭(りんじさい)と呼ばれる石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)の祭礼の日で、
(「臨時祭」=天慶五年(942年)将門>>純友>>の乱平定のお礼参りとして臨時に始まった祭礼で後に恒例となるも明治に廃止された祭)

朝廷からは、天皇の勅使(ちょくし=天皇の使者)が八幡宮に向けて派遣されるのですが、この使者の行列がなかなかの見ものだったのです。

それこそ、現在の人が、「葵祭」「時代祭」の王朝行列を見物するのと同じ感覚で、当時の京都の市民たちにも大人気で、市内の大路のそこかしこに人々が群がって見物するのが恒例でした。

…で、その見物人の中には、一般の民衆に交じって見物する貴族層の人たちも・・・

と言っても、さすがに、彼らは一般民衆と違って、見物すると言っても、大路のいっちゃんえぇ場所を見つくろって、周辺の人たちを一定数払いのけ、そこに牛車(ぎっしゃ)を停め、その中から、お見物をあそばされるですが、

誰もがいっちゃんえぇ場所に牛車を停めたいわけで、「ここぞ!」という場所には、有名貴族の車がズラリ・・・

この日は、
藤原景斉(ふじわらのかげなり=前大和守)
源兼澄(みなもとのかねずみ=前加賀守)
大中臣輔親(おおなかとみのすけちか=神祇伯)
藤原為盛(ふじわらのためもり=前越前守)
高階成順(たかしなのなりのぶ=伊勢大輔のダンナ)
源懐信(みなもとのかねのぶ=蔵人所雑色)

といった面々が溜まっていた一画に、

スススーっと、後から牛車を寄せて来たのが藤原能信でした。

上記の通り、この頃の藤原能信は、未だ19歳の少納言(しょうなごん)・・・少納言とは官位相当は従五位下でした。

先の面々は、生没年が不明な人もいますが、前大和守とか前加賀守とかって人たちは、かなりの年上で、なんなら能信の父の藤原道長より年上の人もいましたし、官位も正三位や従四位の人もいたはずなんですが。。。

なぜか、この時の、この状況においては
「能信坊ちゃんのそばで見物する」事を、後からやって来た坊ちゃん自身に許可してもらわねばならない・・・となったのです。

おそらく、親の七光り・・・

坊ちゃんにご機嫌を損ねられて、その事を父親にチクられでもしたら、その後、自身の身はどうなるかわからない…って事なんでしょうが。。。

…で、早速、藤原能信の従者に対して、その許可を求めたわけですが・・・

ところがドッコイ
許してくれるどころか・・・

まずは、はじめに、大中臣輔親と源懐信とが、藤原能信の従者たちによって、牛車から引きずり落とされます。

これまで何度かお話させていただいているように、平安のこの時代・・・公衆の面前で高貴なお方が牛車から降りる事自体が、すでに恥。。。

しかも、今回は祭のさ中の大通りかつ、回りは群衆なわけで。

この醜態を見た藤原為盛と高階成順は、慌てて牛車から降り、車を捨てて逃げ出します。

自分の足で走って逃げる・・・上記の通り、牛車を降りる事だけでも屈辱ですから、自分の足で走って逃げる事も、完全に恥なわけですが、引きずり降ろされるよりは、自分で降りた方がマシなワケで。。。

この4名の醜態を目の当たりにした残りの二人・・・藤原景斉と源兼澄は、もはや恐ろしくて身動きできず。

結果的に牛車に籠る=籠城する形になった両者に、なんと藤原能信の従者たちは、彼ら二人の牛車に石を投げ始めるのです。

当然、その間には、暴言の数々も浴びせられた事でしょうし、おそらくは、相当の時間、石を投げつけられたはず・・・

しかも、結局、藤原景斉は能信の従者らによって牛車から引きずり降ろされ、その場で殴る蹴るの暴行を受けてしまったのでした。

いくらなんでも、めでたい祭の日に、公衆の面前で、ここまでの暴挙に走れば、さすがの七光りも・・・と思いきや、

なんと、捜査を行った検非違使(けびいし=検察)は、藤原能信の従者1名を逮捕してチャンチャン・・・

んな、アホな~!

複数人の貴族が襲われ、暴行を受けたのに、加害者は一人となw(@o@)w

げに恐ろしきは、親の七光り。。。

とにもかくにも、この藤原能信さん、、、この3年後には、あの強姦未遂事件(5月25日参照>>)に関与しちゃったりなんかして、スキャンダルには事欠かない、かなりの暴れん坊なのですが、

それらの事件に関しては、また、その日付にて書かせていただきたいと思います。
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コメント

そういえば源氏物語にも似たような話がありますね。あれは女性同士の騒動ですが。

投稿: えびすこ | 2022年3月30日 (水) 21時53分

えびすこさん、こんばんは~

斎院御禊の日に起こった葵の上と六条御息所との車争いですね。

同時代ですから、紫式部もこういう状況を参考にして書いたんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2022年3月31日 (木) 02時50分

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