古河公方を巡って~北条氏政と簗田晴助の第1次関宿城の戦い
永禄八年(1565年)3月2日、北条氏政が簗田晴助の守る関宿城を攻撃しました。
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関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿三軒家)は、長禄元年(1457年)頃に、簗田成助(やなだしげすけ)によって築城されたと伝えられます。
(成助祖父の簗田満助築城説もあり)
もともと在地領主だった簗田氏は、やがて鎌倉公方(かまくらくぼう)の家臣に・・・
鎌倉公方とは、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)が、自らの本拠が関東にあるにも関わらず京都にて幕府を開く事になり、在京する将軍に代って地元=関東を治めるべく四男の足利基氏(もとうじ)を鎌倉に派遣した事に始まります(9月19日参照>>)。
以降、将軍は尊氏三男の義詮(よしあきら)の家系が、鎌倉公方は基氏の家系が代々継いでいく事に・・・
しかし、第4代鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)の頃に、第6代将軍=足利義教(よしのり)と対立したため(「永享の乱」参照>>)、持氏の息子の足利成氏(しげうじ)は鎌倉を追われて古河(こが=茨城県古河市)を本拠とした事から、以降は古河公方(こがくぼう)と呼ばれる事に・・・
一方、成氏を公方と認めない将軍=義教は、自らの息子=足利政知(まさとも)を公式の鎌倉公方として関東に派遣しますが、関東が動乱のために政知もまた鎌倉に入れず、やむなく、手前の伊豆堀越(ほりごえ)に堀越御所(静岡県伊豆の国市)を建設して、そこを本拠とした事から、コチラは堀越公方(ほりごえ・ほりこしくぼう)と呼ばれる事になります(「五十子・太田庄の戦い」参照>>)。
…で、今回の主役である簗田氏は、もともと下野(しもつけ=栃木県)梁田郡(現在の足利市の渡良瀬川以南周辺)を支配していた在地領主でしたが、上記の通り鎌倉公方の家臣として力をつけて来た関係から、その流れのまま古河公方の配下となっていたワケです。
そんなこんなの延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)、駿河(するが=静岡県東部)の今川氏親(いまがわうじちか)に仕える北条早雲(ほうじょうそううん=当時は伊勢新九郎・氏親の伯父)が伊豆に討ち入りを果たして堀越公方を潰滅させ(10月11日参照>>)、その後も、どんどん支配を広げていったのです。
さらに早雲の後を継いだ北条氏綱(ほうじょううじつな)の代になると、東は江戸(えど=東京都)を(1月13日参照>>)、西は甲斐(かい=山梨県)まで(2月11日参照>>)を脅かすほどに・・・
一方、古河公方家では、第2代足利政氏(まさうじ)と3代目を継いだ長男の足利高基(たかもと)がモメはじめ、さらに高基弟の足利義明(よしあき=政氏の次男)が反発して小弓城(おゆみじょう=千葉県千葉市中央区)にて独立して小弓公方(おゆみくぼう)を名乗り始め、そこに関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐役)の上杉(うえすぎ)や、安房(あわ=千葉県南部)の里見(さとみ)が絡んで来て、もうグダグダ感満載・・・
そこで、この頃の梁田氏を仕切っていた簗田高助 (たかすけ=成助の息子)は、主家=古河公方の勢力挽回を図るべく、
天文六年(1537年)に上杉朝定(うえすぎともさだ=扇谷上杉家)の河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)を奪って(1月30日参照>>)、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの北条氏綱に接近・・・
足利高基の後を継いだ第4代古河公方の足利晴氏(はるうじ)の意向を氏綱に伝え、それに応えた氏綱が小弓公方=足利義明を滅亡に追い込みます(10月7日参照>>)。
ゴキゲンの晴氏は、天文八年(1539年)に氏綱の娘(後の芳春院)と結婚(11月28日参照>>)し、両者の蜜月関係は最高潮に・・・
天文十九年(1550年)には、簗田高助が亡くなり、嫡男の簗田晴助(はるすけ)が後を継ぎますが、その晴助も氏綱の後を継いだ北条氏康(うじやす=氏綱の嫡男)と起請文を交わして同盟を結び、両者の関係が崩れる事はありませんでした。
しかし、北条が氏綱から氏康に代った事に揺らいだのが足利晴氏・・・
いつしか、かの上杉朝定や上杉憲政(のりまさ=山内上杉家)とツルんで河越城を奪回しようと試みますが、残念ながら、北条からの返り討ちに遭ってしまったのでした。(「河越夜戦」参照>>)
この敗戦により、命こそながらえたものの、もはや名ばかりとなった古河公方・・・天文二十一年(1552年)、晴氏は古河公方の座を氏綱の娘との間に生まれた息子=足利義氏(よしうじ=第5代古河公方)に譲ります。
実は、ここまで書ききれていませんでしたが…「氏綱の娘と結婚した」と言っても、その時点で、すでに晴氏には正室がいて、その奥さんとの間に子供ももうけていました。
その正室というのが簗田高助の娘で、その嫡男である足利藤氏(ふじうじ)が本来なら第5代古河公方になるはずでした…てか、その事はすでに決まっていた事でした。
しかし、上記の河越夜戦を受けて、簗田高助の娘を押しのけて氏綱の娘が継室となり、藤氏の嫡子と次期公方を廃して、北条氏康の甥にあたる足利義氏を嫡子にして第5代公方としたのです。
とは言え、これは戦での勝敗によるもの・・・簗田晴助も晴氏の配下として河越夜戦に参戦して負けたワケですから、そこは勝者の意向を汲むしかありません。
しかし永禄元年(1558年)4月、北条氏康が足利義氏を関宿城に移し、「ここを御所にする」と言って来たのです。
冒頭に書いた通り、関宿城は簗田が築城した簗田氏の居城・・・簗田氏は、これからは古河城(こがじょう=茨城県古河市)を本城とするという事で、その約束は取り交わされますが、これは完全に簗田晴助らの力を削ぐ意味を持っていました。
以降、足利義氏は「関宿様」と呼ばれ、側近たちは「関宿の地を手に入れた」と大喜び・・・実は、この周辺、当時は「関宿の地を抑えれば一国に値する」と言われたくらいの要所だったようで、そこが北条の物になったと自信満々だったのです。
そんな中、ここに来て度々関東へ進出して来ていたのが、永禄二年(1559年)に将軍=足利義輝(よしてる=第13代将軍)の承認を得て、かの河越夜戦で北条に敗退した上杉憲政から家督と関東管領職を譲り受けて(6月26日参照>>)、その名を長尾景虎(ながおかげとら)から上杉政虎(まさとら)に改めた越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん=ややこしいので謙信の名で統一させてネ)でした。
そうです。。。
冒頭に書いた通り、将軍に代って関東支配を任されているのが鎌倉公方で、その補佐が関東管領なんですから、当然、その任務は「関東を北条の好きにさせてはならない!」なわけで・・・
…、で、そんな謙信が、簗田晴助に対して
「古河公方を足利藤氏にする用意がある」
と打診して来たのです。
ここで、北条から上杉に舵を切る簗田晴助・・・甥の足利藤氏を我が古河城に招き入れます。
これを知った北条によって、永禄五年(1562年)頃から、古河城への攻撃が度々行われつつも、なんとか死守していた簗田晴助。
そんな中、晴助に呼応するように南下する上杉謙信の影に脅威を覚えた足利義氏が、千葉胤富(ちばたねとみ)を頼って関宿城を脱出したため、簗田晴助は素早く関宿城に入り、古河城に残った足利藤氏は、そこを御所と定めました。
一方の北条・・・
これまでは、周囲に敵が多数なため、その動きを制限していましたが、永禄七年(1564年)1月に第二次国府台(こうのだい=千葉県市川市)の戦いに勝利して里見の衰退を確信した事で、
いよいよ、この古河&関宿問題に決着をつけるべく、
翌永禄八年(1565年)3月2日夜、古河公方の奉公衆であった豊前左京亮(ぶぜんさきょうのすけ)を道案内に、北条氏政(うじまさ=氏康の次男)が大軍を率いて関宿へと侵入して来たのです。
その夜は、関宿城下をことごとく焼き払い、チリ一つ残さぬ勢いでしたが、4日の朝には一旦退き、6日に再び勢いづいて猛攻撃を仕掛けました。
このような状況が2ヶ月近く続くも、簗田晴助が巧みな戦術で何度もかわしているうち、かの上杉謙信と、謙信の要請に応じた常陸(ひたち=茨城県)の佐竹義重(さたけよししげ)が、関宿城救援のために出兵して来た事で、北条軍は撤退し、その後、梁田と北条の間で和議の話し合いが行われる事に・・・
しかし、所詮はかりそめの和議・・・結局、この戦いは、翌永禄十年(1567年)の第2次、さらに天正二年(1574年)の第3次関宿城の戦いへと持ち越される事になるのですが、そのお話は2023年1月16日の【第3次関宿城の戦い】>>でどうぞm(_ _)m
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