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2022年3月16日 (水)

小倉実隆と小倉右京大夫の内訌~小倉兵乱

 

永禄七年(1564年)3月16日、小倉実隆小倉右京大夫以下小倉西家の討伐に出陣しました。

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小倉実隆(おぐらさねたか)は、南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)守護 (しゅご=県知事)六角(ろっかく)の家臣である蒲生定秀(がもうさだひで)の三男・・・

定秀の長男が蒲生賢秀(かたひで)なので、後に信長から秀吉に仕えて有名戦国武将になる蒲生氏郷(うじさと)叔父さんという事になります。

そんな中で、戦国のならいと言いましょうか…愛知郡小椋(えちぐんおぐら=現在の東近江市・彦根市など)周辺を治めていた国人(こくじん=在地の武将)であった小倉氏当主の小倉実光(さだみつ)が実子が無いまま死去してしまったため、

父の定秀の意向で養子として小倉氏に入り、この永禄七年(1564年)の頃は、その名籍を継いで佐久良城(さくらじょう=滋賀県蒲生郡日野町)の城主を務めておりました。

しかし、かつての応仁の乱の頃は、小倉実澄(さねずみ)が一族を率いて、一団となって敵に立ち向かい小倉氏の絶頂期を築いたものの、

永正八年(1511年)頃からは、この周辺を治める者として3~4家の小倉家の名前が見えはじめ、どうやら互いに、その覇権を争っていた・・・

つまり小倉実隆が小倉家を継いだ頃には、すでに内訌状態にあったようなのです。

ちなみに、一応、小倉実隆が継いだ小倉家が宗家とされ、他の2~3家は庶流とされます。

そんなこんなの永禄七年(1564年)、山上城(やまがみじょう=滋賀県甲賀市水口町)城主で、庶流・小倉西家小倉右京大夫(うきょうのだいぶ)が、比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)年貢を横領するという事件が起こります。

この右京大夫の暴挙に激怒した六角義治(ろっかくよしはる=六角義賢の長男・義弼とも)は、すぐさま、小倉宗家の実隆に右京大夫の討伐を命じたのです。

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小倉兵乱の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして永禄七年(1564年)3月16日、小倉実隆は、自らの配下とともに、六角家臣で甲津畑城(こうずはたじょう=滋賀県東近江市永源寺)速水勘解由左衛門(はやみかげゆさえもん)ほか蒲生郡(がもうぐん=現在の近江八幡市と東近江市付近)の諸将の助力を得て、右京大夫討伐に出陣します。

はじめ、千種越え(ちぐさごえ=滋賀か鈴鹿を越えて伊勢に向かう千種街道の峠)の要衝にてぶつかった両者は、

和南城( わなみじょう=滋賀県東近江市和南町)小倉治兵衛(じへえ=源兵衛とも)討ち取るものの、

当然、右京大夫側も西家総動員に加え、味方の諸将に応援を呼びかけており、戦いは山上城周辺に留まらず、小倉宗家と小倉西家の領地全体へと飛び火し、互いの存続をかけた全面戦争となります。

やがて押しに押した右京大夫側が勝ち進み、3月23日には永源寺(えいげんじ=滋賀県東近江市永源寺)を焼き、なおも小競り合いが繰り返されました

さらに、右京大夫は九居瀬(くいせ=滋賀県東近江市九居瀬町)に陣を移し、なおも戦い続け、5月1日には実隆の佐久良城に攻め寄せたのです。

複数の史料に食い違いがあるため、その死没の日付は、今のところ「不明」となっているのですが、おそらくは、この5月1日の合戦にて小倉実隆は討死したものと思われます。

その後も、勢いづく右京大夫は、5月23日にも再び永源寺に放火・・・さらに周辺の寺にも火をかけ、あたりの寺院多くが焼失してしまいました。

諸戦に勝利し、奥津保 (おくつのほ=滋賀県蒲生郡日野町中之郷周辺)まで制圧して意気揚々の右京大夫でしたが、ここで、息子の死を知った蒲生定秀が介入・・・

自ら大軍を率いて右京大夫と西家の討伐に乗り出し、彼らの拠点となっている山上城や 八尾城 (やつおじょう=滋賀県東近江市山上町)報復攻撃を仕掛け、ついに右京大夫以下小倉西家を滅ぼして、何とか、内訌状態の鎮静化に成功したのでした。

この和南合戦佐久良の戦いを含めた一連の合戦は、
小倉兵乱(おぐらひょうらん)とも、小倉の乱とも呼ばれます。

ただし、こうして最終的には小倉宗家の勝利となって丸く収めた小倉内訌からの小倉兵乱ではありましたが、この内輪モメは小倉氏の力を大きく削ぐ事となり、

やがて、この小倉氏は、蒲生氏の配下として生き残るしかなくなってしまったのですが、

ご存知のように、その後、この蒲生氏も衰退・(8月18日参照>>)

その後は、一族の誰かが豊臣に仕えたとか、德川に仕えて旗本として生き残ったとも言われますが定かではありません。

細川にしろ京極にしろ、この小倉の親分の六角でさえ、同族同士の内訌は、負けた側はもちろん、勝った側も大きく力を削がれ、やがては下の者に取って代わられたりして、いずれ衰退していくのは世の常なのに・・・なぜ?

とは言え、戦国の武家で内輪モメがまったく無い家が、ごくわずかな事を考えれば、後世の凡人には計り知れない、その時代の、その武将なりの譲れない何かがあるのでしょうね。。。
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コメント

はじめまして。
小倉家の血を引く者です。
家系を調べる中で、なかなか内輪揉めの件がわからなかったのですが、ものすごく理解できました!わかりやすく解説していただきありがとうございます。

投稿: 小倉さん | 2024年2月 4日 (日) 12時27分

小倉さん、こんばんは~

ご先祖様の事は気になりますよね!

>わかりやすく解説して…

うれしいお言葉をいただき、更新の励みになります。
コメント、ありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2024年2月 5日 (月) 02時19分

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