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2022年4月26日 (火)

関ケ原後の後に…伊達政宗VS上杉景勝の松川の戦い

 

慶長六年(1601年)4月26日、関ヶ原の戦いでの東軍勝利に乗じて福島へと南下する伊達政宗上杉景勝の軍とが戦った松川の戦いがありました。

・・・・・・・・

慶長五年(1600年)6月18日、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)「謀反の疑いあり」(直江状>>)として、豊臣五大老筆頭徳川家康(とくがいえやす)会津征伐を決行すべく伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を出陣したすきに、家康こそ豊臣の敵と考える(7月18日参照>>)石田三成(いしだみつなり)らが、留守となったその伏見城を攻撃した(7月19日参照>>)事に始まる関ケ原の戦い・・・

ご存知のようにこの戦いは東軍=徳川家康の勝利(9月15日参照>>)となるわけですが・・・

Uesugikagekatu600a この時、東北では、東軍に与する伊達政宗(だてまさむね)最上義光(もがみよしあき)らは、その上杉との長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市)争奪戦を繰り広げていましたが、上記の関ヶ原の結果を得た以上、上杉景勝の軍は撤退するしかありませんでした(10月1日参照>>)

関ケ原の本チャン以前から上杉方の白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)を攻略(7月25日参照>>)したりして、家康からも、勝利のあかつきには苅田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井など旧領7ヶ所=50万石加増の約束するという「百万石のお墨付き」(8月12日参照>>)を得ていた伊達政宗は、

東軍の勝利に乗じて、関ヶ原本チャンが終わった後の慶長五年(1600年)10月に、上杉の重臣・本庄繁長(ほんじょうしげなが)の守る福島城(ふくしまじょう=福島県福島市)への攻撃を開始していたのです(10月6日参照>>)が、

一説には、この時に、政宗が福島城を落とす事無く撤退する事になった要因だともされるのが松川の戦い(福島県福島市)・・・

とは言え、実は、この松川の戦いに関しては複数の文献に複数の記述があり、文献によっては上杉×伊達の両方が「自分たちが優勢だった」と書いてあったり、戦いのあった日も上記の福島城と関連ありな慶長五年(1600年)10月と、その翌年の慶長六年(1601年)4月の2種類あるのです。

てな事で、なかなかに曖昧ではありますが、
本日のところは慶長六年(1601年)4月26日の日付で『常山紀談』に沿ってお話を進めさせていただきます。

・‥…━━━☆

とにもかくにも、上記の通り、関ヶ原の勝利に乗じて上杉領の切り取りを狙う伊達政宗は、地元のお百姓を間者に仕立てて敵の様子を探らせていました。

福島県から宮城県へと流れて仙台平野に至る阿武隈川(あぶくまがわ)の支流である松川は、当時は信夫山(しのぶやま=福島県福島市街地北部)の南側を流れており(現在の祓川が古い松川の名残とされる)、上杉領と伊達領の境目であった事から、この時は本庄繁長のほかに、上杉配下の甘糟景継(あまかすかげつぐ)岡定俊(おかさだとし=岡左内・岡野佐内)らなど約5000の兵が警備をしていました。

そこに、国見峠を越え、信夫郡から瀬ノ上(せのうえ=福島県福島市)で川を渡って後、かつては伊達の城だったものの豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命による転封で、今は上杉の物となっている梁川城(やながわじょう=福島県伊達市梁川町)に約5000を向かわせた伊達政宗が、松川を目指して押し寄せて来たのです。

この情報を得た上杉方・・・
「先に川を渡ってから戦うか?向こうが渡って来るところを討つか?」
と、本庄繁長が思案すると、

松本内匠(まつもとたくみ)が、
「向こうは不意を突いて先手必勝とばかりにやって来るのですから、コチラが先に川向こうに渡って待っていたなら『思てたんと違う~』ってなってスピード緩めるかも知れません。渡りましょう」
と進言しますが、

栗生美濃(くりゅうみの)は、
「この川は中央が深くなってるので、簡単には渡れませんから、敵が川を渡ってる途中を討つのが有利や思います」

また、岡定俊は
「いやいや~敵は大軍でっせ。ここで待ってたら、なんや敵を怖がってるように見えますよって、さっさと川を渡ってしまいましょう」
と言います。

そして栗生が、
「孫子(そんし=中国の兵法書)にも『少を以て衆に合ふ是を北と言う(少数で多くの敵と戦う事は敗北だ)(第10章「地形篇」参照>>)ってありますから、無謀な戦はあきません」
と、言い合ってる所に甘粕がやって来て、
「とりあえず、物見に敵の様子を探らせましょう」
となって、物見を派遣します。

こうして、敵の様子を見て来た者の一人は
「敵は馬の沓を取らず、障泥(あおり=鞍の下に敷く布)も外さず、空穂(うつぼ=矢を入れとくヤツ)を平常時のようにしてるんで政宗は川を渡っては来ないでしょう」
と言い、もう一人は、
「僕が見たんも同じですけど、まだ政宗は五~六町(600mくらい?)先にいて、川岸には到着ません。政宗が川岸に到着してすぐに支度したら、大して時間かからんと川を渡り始めるでしょう。2万の軍率いてやって来て、そのまま引き返したりしませんやろ」
と言います。

そこで、河端から二町ほど手前の所に陣を整えて敵を待つ事にしますが、岡定俊が真っ先に馬で駆けて川の中へ・・・
「川を渡るな!」
と、栗生と甘粕が命じて止め、後方の兵は何とか押し止めたものの、前にいた約20騎ほどが川に乗り入れてしまいます。

そうこうしているうちに伊達政宗以下、伊達隊が押し寄せて来て、先陣の片倉景綱(かたくらかげつな=小十郎)勢がドォ~っと斬りかかって来ました。

迎え撃つ岡勢も真向から火花散らして激しく戦いますが、大軍に囲まれて斬られる者も多く、やむなく岡定俊は、この場を切り抜けて、一旦退こうとしますが、そこに馬で駆け寄せて、2太刀ほど岡に斬りつけて来た武将・・・

Kabutosikorocc 岡定俊は振り返って、その武将の兜から鞍にかけて真向から斬りつけ、返す刀で兜の錣(しころ=右のイラスト参照→)を切り払い、相手の右膝口に斬りかかると、敵の馬が飛んで退きました。

その武将の甲冑が大した見た目では無かったので、岡定俊は、さらに追い詰める事無く退きましたが、実はコレ、伊達政宗本人だったと・・・

後で、これを聞いた岡定俊は、
「もう一太刀で、大将を討ち取れたのに~」
とメチャ悔しがったとか・・・

こうして一進一退の激戦が続く中、栗生が陣を整えて敵を待ち、片倉の軍を追い崩して川へと追い詰めたものの、予想以上に多い敵がその後ろから重なるように攻め寄せて来たので、やむなく上杉勢は福島城に退きあげる事に・・・

追う政宗は
「どこまでも逃すな!」
馬煙を立てて続いてきます。

そのスピードに、持って逃げられない武具を打ち捨てて後退する上杉軍・・・

この時、上杉軍の殿(しんがり=撤退する軍の最後尾)を務めた青木新兵衛(あおきしんべえ)なる武将は、小さな馬に乗り、短い槍を持っていた事から、その小回り利く状況を活かし、取って返しては突きはらい、何度も敵を防ぎます。

やがて、岡が福島城に到着・・・その後、甘粕や栗生も城に入ったところで、伊達勢が押し寄せて来たので城の門を閉じてしまったため、青木は、ただ一騎で迎え撃つ事に・・・

そんな青木に馬で駆け寄る伊達政宗・・・
青木は十文字の槍で以って政宗の兜の三日月の立物を突き折りますが、政宗は青木の鎧を蹴って、そのまま駆け過ぎて行きます。

「もう、一突きで討てたのに…口惜しい」
と悔しがる青木・・・

と、そんな時、上杉方の梁川城から須田長義(すだながよし)が撃って出て、阿武隈川を前に陣を敷く伊達勢を狙います。

さらに地の利を知る須田長義は、自軍を二手に分け、自身の率いる一隊を川上へと移動させます。

それを見た政宗の兵も二手に分かれ敵を防ごうとしますが、上手くいかずゴチャらゴチャらやってる間に、須田隊は一気に川を渡って斬りかかり、先の戦いで分捕られた甲冑やら武具を取り返しつつ進みます。

松川にて奮戦中、背後に敵が現れたと聞いた政宗は、一旦、退く事にしますが、そこに本庄繁長が追いうちをかけて来た事で敗色が濃くなったため、伊達勢は信夫山に退きあげようとした所、総大将=上杉景勝が後巻(うしろまき=味方を攻撃する敵を背後から取り巻く)のために出陣します。

Kagetatukonhata100 景勝隊が掲げる「紺地に日の丸」の旗←が山上になびくのを見た政宗は、やむなく全軍を退きあげたのでした。

後々、岡定俊と会った政宗は、松川での思い出話を語りはじめて、
「お前を斬った事、今も忘れてないで~」
と言うと、岡定俊も、
「大将の刀の跡ですから、金糸で縫い合わせて、我が家宝としてます」
と言って、その羽織を見せたところ、政宗は大いに喜んだものの、

続けて、
「そのあと、兜の錣をなぐり切りにしましたけどねww」
と言うと、政宗は不機嫌そうに去って行ったのだとか・・・

にしても、伊達政宗、総大将やのに前に出過ぎやろwww

・‥…━━━☆

このあと、8月には上杉の大幅減封が決定され(8月24日参照>>)、景勝は米沢(よねざわ=山形県米沢市)にお引越し(11月28日参照>>)・・・

さらに翌年の4月には最後までネバった島津義久(しまづよしひさ)が、家康から所領を安堵され(4月11日参照>>)関ヶ原の戦いに関連する出来事には、ほぼ終止符が打たれる事になるのです。

★関ヶ原の戦いの全般のアレコレについては【関ヶ原の合戦の年表】>>でどうぞm(_ _)m
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2022年4月20日 (水)

小田原征伐~上杉&前田&真田による松井田城攻防戦

 

天正十八年(1590年)4月20日、豊臣秀吉小田原征伐北国部隊となった上杉景勝前田利家真田昌幸らによって、北条方の大道寺政繁が守る松井田城が陥落しました。

・・・・・・・・・

永禄(1158年~)の初め頃に、この周辺を治める安中氏(あんなかし)が築城したとされる松井田城(まついだじょう=群馬県安中市松井田町)は、北に東山道、南に中山道が通る交通の要衝で、上野(こうずけ=群馬県)信濃(しなの=長野県)の国境にある碓氷峠(うすいとうげ)を守る最前線の城でもありました。

そのため、永禄七年(1564年)には、甲斐(かい=山梨県)から信濃へと侵攻し、さらに上野を狙う武田信玄(たけだしんげん)の猛攻を受けて開城し、以後は武田の城となりました。

天正十年(1582年)3月に、尾張(おわり=愛知県西部)美濃(みの=岐阜県南部)織田信長(おだのぶなが)に攻められて、武田が滅亡(3月11日参照>>)した後は、信長配下の滝川一益(たきがわかずます)が奪い取りますが、

3ヶ月後の6月に起こった本能寺の変で信長が横死し(6月2日参照>>)、その混乱乗じた北条氏直(ほうじょううじなお)神流川の戦い(かんながわのたたかい)(6月18日参照>>)にて一益に勝利し、一益は本拠の伊勢(いせ=三重県)へ撤退・・・

さらに、その後、織田が取った武田旧領の奪い合いとなった天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)(8月7日参照>>)でも、敵対した徳川家康(とくがわいえやす)を退けた後、速やかに和睦(10月29日参照>>)した事で、北条が上野一国を支配下に治める事になったわけですが、

ご存知のように、相模(さがみ=神奈川県)小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を本拠とする北条は、この松井田城に、家臣の大道寺政繁(だいどうじまさしげ)を入れて国境の守備を固めていたのでした。

一方、信長亡き織田家の家臣筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)を倒して(4月21日参照>>)信長の後を継ぐかの如く頭角をあらわして来た羽柴秀吉(はしばひでよし)は、

Toyotomihideyoshi600 天正十三年(1585年)に四国平定(7月26日参照>>)
翌天正十四年(1586)には、京都に政庁とも言える聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)の普請を開始(2月23日参照>>)し、太政大臣になって朝廷から豊臣の姓を賜って豊臣秀吉(とよとみひでよし)と名乗り(12月19日参照>>)

さらに翌年の天正十五年(1587年)には九州を平定(4月17日参照>>)して、まさに天下人へとまっしぐらな中、

天正十七年(1589年)10月に起こった、北条配下の沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、秀吉が真田昌幸(さなだまさゆき)の物と認めていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を力づくで奪うという事件(10月23日参照>>)を、

すでに自身が発布していた『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令)に違反する行為だとして、秀吉は、北条の本拠である小田原城への攻撃を決意したのです(11月24日参照>>)

ご存知、小田原征伐です。

この時、12月10日に行われた軍議にて(12月10日参照>>)、自身が率いる本隊は、徳川家康の案内で東海道を行くのと同時に、

越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)加賀(かが=石川県西南部)前田利家(まえだとしいえ)を北から小田原へ向かう別動隊=北国部隊とし、その先鋒を信濃の真田に命じたのでした。

Odawaraseibatukougunsimoda
●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正十八年(1590年)3月29日、秀吉本隊の豊臣秀次(ひでつぐ=秀吉の甥)率いる先鋒による
足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)
山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)
韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)
の箱根の山越え縦ラインの総攻撃が開始されるのですが、

そのお話は、2019年3月29日の【山中城落城】>>でご覧いただくとして、

今回は、北から向かった上杉&前田&真田の話・・・・
(長い前置きでスミマセン)

冒頭に書かせていただいた通り、信濃と上野の国境に位置する碓氷峠・・・ここに、秀吉本隊に呼応する上杉&前田の2万を超える大軍が来襲したのは3月半ばの事でした。

さらに、そこに真田の兵も加わり、松井田城を囲み、まずは、ここを守る大道寺政繁に降伏を勧告します。

ご存知のように、この時の北条は、完璧な総構えを持つ不落の城である小田原城に、北条の主だった者たちを召集して、籠城の構えを見せていたので、ここ松井田城に拠る城兵は、そこまで多くは無かったわけですが、そこは戦国武将。。。当然、怯むことなく、降伏勧告は跳ね除けます。

そこで、3月28日にから総攻撃を開始する豊臣北国別動隊・・・完璧な包囲に城下を焼き払い、城壁にに肉薄する北国隊でしたが、峻険な山城を背に命懸けの防戦をする北条勢の抵抗激しく、松井田城はなかなか落ちません。

4月7日には真田昌幸が、3日後の10日には前田利家が、
小田原城を囲む本隊の秀吉に、その苦戦ぶりを報告すると、秀吉からは
「松井田城は持久戦へと持ち込み、その間に周辺の諸城を攻略せよ」
との命が出されます。

そこで、隣接する安中城(あんなかじょう=群馬県安中市)西牧城(さいもくじょう=群馬県甘楽郡下仁田町)には依田信蕃(よだのぶしげ)の息子で徳川配下のまま前田隊に属していた依田康国(やすくに=松平康国)依田康勝(やすかつ=加藤康寛)兄弟を派遣します。

西牧城は北条の部将=多米長定(ためながさだ)が守っていましたが、4月14日前後に陥落・・・長定は自刃しました。

さらに4月17日には上杉景勝隊が、城主の小幡信定(おばたのぶさだ)が小田原城籠城のため留守となっていた国峰城(くにみねじょう=同甘楽郡大字国峰:国峯城)猛攻撃の末に陥落させます。

さらにさらに4月19日には、前田利家隊が厩橋城(まやばしじょう=群馬県前橋市大手町:前橋城)あっけなく攻略します。

この頃も、未だ松井田城を包囲する北国隊は、碓氷川の南に位置する陣場原(じんばばら=群馬県前橋市)八城(やしろ=群馬県安中市)などに布陣して、松井田城の水脈を断つ持久戦を展開していましたが、

隣接する諸城が次々と陥落していく事によって、松井田城一つに北国勢の全兵力を投入する事が可能になる中、同19日に、松井田城の厩曲輪(くるわ)を制圧した事で、もはや負けを悟った大道寺政繁はついに開城を決意・・・

天正十八年(1590年)4月20日、大道寺政繁は息子を人質として送り、豊臣北国隊に降伏したのでした。

ちなみに、このあと、北国隊は
鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)
八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市元八王子町)
へと駒を進めますが、松井田陥落後に北国隊に加わった大道寺政繁は、道案内したり攻略に加わったりして、いや、むしろ率先して中心人物となって豊臣方に貢献します。

しかし、小田原征伐がすべて終わった後に、秀吉から開戦責任を問われ、大道寺政繁は自害(切腹とも処刑とも)・・・息子の大道寺直繁(なおしげ)は、助命されて高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に流罪となった主君=北条氏直(11月4日参照>>)と行動をともにしています。

★「小田原征伐」関連ページ↓m(_ _)m
● 4月 1日:下田城の戦い>>
●5月29日:館林城・攻防戦>>
● 6月 5日:伊達政宗の小田原参陣>>
●6月14日:鉢形城開城>>
●6月16日:忍城攻防戦>>
●6月23日:八王子城陥落>>
●6月26日:石垣山城一夜城完成>>
●7月5日:小田原城開城>>
●7月13日:小田原攻め論功行賞>>
小田原城攻めオモシロ逸話>>
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2022年4月13日 (水)

鎌倉公方・足利氏満の関東支配~小山義政の乱

 

弘和二年(永徳二年=1382年)4月13日、謀反を起こしたとして足利氏満から攻撃されていた小山義政が自害しました。

・・・・・・・

応安元年(正平二十三年=1368年)12月、父=義詮(よしあきら)の死を受けて、次男の足利義満(あしかがよしみつ)室町幕府第3代将軍に就任した時は、未だ11歳の少年でした(12月30日参照>>)

そこでベテランの細川頼之(ほそかわよりゆき)が後見人となって、若き将軍とともに、未だ不安定な将軍権力の確立に向けて奔走する日々を送って行くのです。

そんなこんなの天授三年(永和三年=1377年)、越中(えっちゅう=富山県)守護(しゅご=県知事)斯波義将(しばよしゆき)地域の武将とひと悶着を起こし、敗走した武士が逃げ込んた場所に乱入して荘園を焼き払う・・・という事件が起こったのですが、その荘園が細川頼之の所領だった事で、斯波×細川の両者が一触即発の状況になってしまいます。

しかし、これを見事に治めたのが、誰あろう、成長した足利義満・・・

各大名たちに使者を出して、どちらにも加担せぬよう、さらにイザコザが合戦に発展せぬよう尽くすとともに、細川頼之に、幕府政務を統轄する立場にある者が、故戦防戦(こせんぼうせん=私的な合戦)の禁止私的な事で徒党を組んで合戦に及ぶべきでは無い事を諭し、未然に戦いを防いだのです。

これにより、幕府内での将軍の株は爆上がり・・・天皇や公家たちも、義満に一目置くようになったのですが、一方で、このゴタゴタは、未だくすぶっている南朝勢力を触発し、南朝方の一部が紀伊(きい=和歌山県)で蜂起するまでに・・・

ただ、
この時の南朝方の反撃は大事に至らなかったものの、ここのところのアレやコレやで、幕府内に反細川頼之派がくすぶり始めたのです。

危険を感じた頼之は、自らの領国(四国)に引き籠ろうとしますが、未だ頼之を頼りに思う義満は、頼之反対派の中心人物であった土岐頼康(ときよりやす)討伐の将軍命令を発したのです。

ところがドッコイ・・・時世はすでに義満の思いとは別の方向に・・・

逆に、諸大名から、「土岐を赦免に&頼之を罷免に」の声が上がり、やむなく義満は、
「追討命令は無かった事に…」
「頼之を解任し、代わって斯波義将を管領(かんれい=将軍の補佐)に任命する」
事で、今回の一件を治めたのでした(康暦の政変)

とまぁ、長い前置きになりましたが・・・
(前置きやったんか~いΣ( ̄ロ ̄lll)ガビ~ン)

この一件から3ヶ月後の天授五年(康暦元年=1379年)3月7日、関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐)上杉憲春(うえすぎのりはる)自殺するという事件が起こるのです。

これまで何度か登場しておりますが、この室町幕府は、南北朝の動乱(12月21日参照>>)のせいで、関東が地元の足利氏(あしかがし)が京都にて幕府を開く事になったため、初代将軍=足利尊氏(たかうじ)の嫡男=足利義詮の家系が京都にて将軍職を継ぎ、地元の関東は四男の足利基氏(もとうじ)の家系が鎌倉公方(かまくらくぼう)として治めるという体制をとったわけです(9月19日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

で、その鎌倉公方の補佐役が関東管領・・・その人が自殺したわけで、

実は、上杉憲春の死は、
今回の将軍家のゴタゴタを機に、第2代鎌倉公方足利氏満(うじみつ=基氏の息子)が、自らが将軍に取って代わろうと謀反を起こした・・・
いや、起こすつもりだったところを、それを諌めるべくの自殺=諫死(かんし)だった
というのです。

もちろん、行軍の途中で土岐が赦免されたとの知らせを受けた事もあったようですが、さすがに腹心の自殺はこたえたようで、大いに反省した氏満は、すぐに京都の義満のもとに使者を送って、部下の自殺で世間を騒がせた事を陳謝したのだとか・・・

Asikagauzimitu650a これにより、21歳の若き公方=氏満は将軍になるという思いは捨てて、自らの関東支配に力を注ぎ、鎌倉府の勢力拡大に乗り出す方向に舵を切ったのです。

そんな中、家柄や実力においても拮抗する庶家が群雄割拠していた北関東で、

天授六年(康暦二年=1380年)5月、小山氏(おやまし)宇都宮氏(うつのみやし)が合戦となり、小山義政(おやまよしまさ)宇都宮基綱(うつのみやもとつな)敗死させるという出来事が起こります。

これは隣接する領地を巡って、長年対立関係にあった小山と宇都宮が、その流れで、たまたまこの時期に合戦となり、小山が勝利した・・・と考えようによっちゃ、武士同士の覇権争いなのですが、

上記の通り、関東支配に本腰を入れて、ヤル気満々の足利氏満は、幕府が掲げている故戦防戦の禁止を重視し、これを小山義政の「鎌倉府に対する謀反」と判断します。

実は、このころ、関東の大名の中で最大の勢力を誇っていたのが、小山城(おやまじょう=栃木県小山市城山町・祇園城とも)を拠点とする小山義政で、あの英雄=藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲む小山氏の11代目当主だった義政は、室町幕府創設期にも活躍し、下野(しもつけ=栃木県)の守護に任じられている実力者だったのです。

小山義政としては、氏満が
「例の管領自殺の一件で、公方が幕府中央から睨まれている間なら、幕府との関係も良好で、かつ関東一の実力を持つ自分の力を見せても大丈夫」
と思っていたのかも知れませんが、

氏満は氏満で、関東支配に舵を切った以上、武士同士の私的な合戦を見過ごすわけにはいきません。

早速、氏満は、
「小山を討伐するので速やかに出兵せよ」
との命令を関東八ヶ国の武士たちに発します。

兄の後を継いだ関東管領の上杉憲方(のりまさ・のりかた=上杉憲春の弟)木戸法季(きどのりすえ)を大将に据え、ハリキリまくりの氏満自らも出陣して武蔵府中(むさしふちゅう=東京都府中市)に陣所を構え、さらに北上して村岡(むらおか=埼玉県熊谷市)まで進みます。 

太刀打ちできないと判断した小山義政は降伏を申し入れ・・・これに応じた氏満も、義政の降伏を受け入れて、それ以上の攻撃は止め、事は一旦治まりました。

しかし、
「僕がソチラに行って直接謝りま~す」
と言っていた義政がいつまで経っても参陣しなかったため、

「あの降伏はウソやったんかい!」
と怒り心頭の氏満は、

弘和元年(永徳元年=1381年)2月、上杉朝宗(ともむね=上杉憲方の従兄弟)と木戸法季を大将に、再びの小山討伐命令を出したのです。

ハリキリボーイ氏満は、今回も自ら出陣して鎌倉街道を進み、小山義政が拠る鷲城(わしじょう=栃木県小山市外城)に迫りました。

その後、一進一退の攻防を繰り返す中、12月になって小山義政は、鷲城を開城して小山城に移って降伏を表明・・・その証しとして義政自らは剃髪(ていはつ=坊主)して出家の身となり、嫡子の若犬丸(わかいぬまる=隆政)は氏満の陣までやって来て平謝り。。。

…で、今回も許しちゃう氏満クン。。。

ところが、案の定・・・翌弘和二年(永徳二年=1382年)3月。

小山義政は、いきなり小山城に火を放ち、糟尾(かすお=栃木県鹿沼市・粕尾)にある奥の城塞(寺窪城と櫃沢城?)に籠って徹底抗戦の構えを見せたのです。

再びの約束破りには3度目の討伐を…!

とばかりに、またもや上杉と木戸を奥の城へと派遣・・・

やがて奥の2城も陥落し、小山義政と若犬丸は、一旦、城を脱出して逃走を図りますが、追手が迫ったため、小山義政は、弘和二年(永徳二年=1382年)4月13日自害して果てたのでした。

そのスキに若犬丸は、何処ともなく逃走し、何とか、その血脈が絶える事は無かったようですが、

小山の家督は、同族の結城基光(ゆうきもとみつ)の息子が小山泰朝(やすとも=基光の次男)として相続する事になり、もともとの小山の力は大きく削がれる事になりました。

もちろん、若犬丸も行方知れずのまま、その後は表舞台に登場する事もありませんでした。

これによって、鎌倉公方は、ようやく関東中央部を掌握する事となったのです。

この一連の戦いは小山義政の乱、あるいは小山氏の乱と呼ばれます。

乱から1ヶ月後の5月1日、氏満は鎌倉に戻り、留守を預かっていた上杉憲方とともに、その後しばらくは、公方&管領を中心とした正常運転の政治が展開され、しばらくは比較的円満で安定した関東地方・・・の時代をおくる事になり、

西の「将軍=義満」東の「公方=氏満」で、室町幕府の足利全盛の時代へと進んで行く事になります。
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2022年4月 6日 (水)

今川義忠の遠江争奪戦~命を落とした塩買坂の戦い

 

文明八年(1476年)4月6日、横地城勝間田城を落とした今川義忠が、凱旋途中の塩買坂にて一揆に襲われて討死しました。

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横地城(よこちじょう=静岡県菊川市東横地・金寿城とも)を本拠とする横地氏(よこちし)は、あの八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)の流れを汲む一族として平安後期頃から歴史上に登場し、平家滅亡に貢献したとして鎌倉時代には将軍の御家人として、さらに足利尊氏(あしかがたかうじ)の倒幕にも強力したとして、室町幕府政権下でも将軍の奉公衆として名を馳せる名門で、

14代当主とされる横地秀国(よこちひでくに=横地四郎兵衛)の頃には、やはり源氏の流れを汲み室町幕府政権下で駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)を任されていた今川義忠(いまがわよしただ=今川義元の祖父)の配下として周辺に睨みを効かせておりました。

また、横地氏と同族とも言われる(桓武平氏説もあり)勝間田氏(かつまたし)も、源頼朝(みなもとのよりとも)に従う家人として鎌倉時代から登場し、室町幕府政権下でも幕府方の勢力として、勝間田城(かつまたじょう=静岡県牧之原市勝田)を本拠に、遠江(とおとうみ=静岡県大井川以西)蓁原郡(はいばらぐん)勝田(静岡県牧之原市の勝間田川流域一帯)一帯を治めておりました。

しかし、ここに来て、その今川義忠が領地を拡大すべく、西の遠江へと侵攻する姿勢を見せ始めます。

実は、この遠江・・・かつては、ここも今川の一門が守護を務めていたのですが、応永二十六年(1419年)に守護職を足利一門の有力者=斯波氏(しばし)に代られたばかりか、それに反発した遠江今川氏今川範将(いまがわのりまさ)中遠一揆(ちゅうえんいっき)を起こすも、それも鎮圧され、いくつかの所領も、斯波氏配下の守護代(しゅごだい=副知事)狩野氏(かのし)に抑えられてしまっていたのです。

かくして文明六年(1474年)8月頃から、自軍を西へと向けた今川義忠・・・今回は、かつての中遠一揆の中核である在地領主の(はら)小笠原(おがさわら)久野(くの)らも味方につけ、3ヶ月に渡る戦いの末、11月21日、狩野氏が本拠としている遠江見付城(みつけじょう=静岡県磐田市見付・破城とも見付端城とも)陥落させた今川義忠は、積年の敵=狩野氏を滅ぼしたのです。

しかし、この状況にジッとしていられなかったのが、先の横地秀国と勝間田修理亮(かつまたしゅりのすけ)・・・

文明八年(1476年)に入ると、両者連携して斯波義廉(しばよしかど)に通じ、今川義忠の侵攻を阻止せんと、2年前に義忠に落とされた見付城に入って城を復旧して、今川に敵対する行動を見せ始めるのです。

かくして、これを攻めんと駿河を発った今川義忠・・・

久野佐渡守(くのさどのかみ)奥山民部少輔(おくやまみんぶのしょう)杉森外記(すぎもりげき)岡部五郎兵衛(おかべごろべえ)など500余騎を従え、それを二手に分けて横地城と勝間田城を取り巻き、七日七晩、昼夜を問わず攻撃をを仕掛けた結果・・・7日目の夜に、横地秀国と勝間田修理亮の両人が討死。

見付城に籠っていた者も含め、一族郎党ともども敗北させたのでした。

ところが、この戦いに勝利し、凱旋帰国中の今川義忠は・・・

文明八年(1476年)4月6日小笠郡(おがさぐん)塩買坂(しょうかいざか=静岡県菊川市)に差し掛かった時、潜んでいた横地氏と勝間田氏の残党が率いる一揆に襲撃されるのです。

にわかに合戦となるものの、相手は烏合の衆・・・即座に蹴散らすべく、馬上から賢明に指揮する今川義忠でしたが、残念ながら、誰かが放った流れ矢に当たって命を落としてしまうのです。

享年、41・・・

ただし、この塩買坂の戦いのあった年次に関しては諸説あります。

  • 文明七年(1475年)4月6日
    『今川家略記』『今川記』『駿河記』『駿国雑誌』
  • 文明七年(1475年)6月19日
    『和漢合符』『後鑑』
  • 文明八年(1476年)4月6日
    『寛政重修諸家譜』『今川系図』
  • 文明十一年(1479年)2月19日
    『今川家譜』『正林寺今川系図』

などなど・・・

なので、今川義忠の忌日についても諸説あるのですが、本日のこのブログでは、今のところ、おそらく1番信ぴょう性が高いであろうとされる「文明八年(1476年)4月6日」の日付で書かせていただきました。

いずれにしても、勝利の後に、残党によって当主の命が奪われた今川家・・・

しかも、幕府が認めた守護である斯波氏配下の横地と勝間田を討った事になる今川義忠は、事実上の謀反人になるわけで・・・

そのため、義忠には、未だ幼い竜王丸(りゅうおうまる)という遺児がいたものの、幕府からの咎めを恐れて、後継者には義忠の従兄弟にあたる小鹿範満(おしかのりみつ=義忠父の弟の息子)を擁立しようとする一派が登場し、このあとの今川家内は竜王丸派と小鹿範満派に分裂してしまうのです。

とは言え、なんだかんだで竜王丸は由緒ある今川の嫡流・・・幕府には、竜王丸を亡き者にするほどの考えはなかった事で、この混乱を治めるべく、幕府奉公衆の一人で今川に縁のある武将を駿河に派遣して、事態の収拾を図ります。

Houzyousouun600その人が、今川義忠の奧さん=つまり竜王丸の母である女性(北川殿)の兄か弟だった伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき・長氏)・・・
ご存知の北条早雲(ほうじょうそううん)です。

小鹿範満派には、堀越公方(ほりごえくぼう)の 足利政知(あしかがまさとも)執事(しつじ=公方の補佐)上杉政憲(うえすぎまさのり)がついていたものの(小鹿範満の母が上杉家出身とされる)、そこを早雲が「竜王丸が成人するまで小鹿範満を家督代行とする」ことで、半ば強引に決着させ、今川家の内乱を抑えました。

この竜王丸が、後の今川氏親(うじちか)・・・

北条早雲に助けられつつ成長した氏親は、やがて、この遠江争奪戦に終止符を打ち

その息子の今川義元(よしもと)海道一の弓取りへとつながっていく事になるのですが、そのお話は【今川氏親VS大河内貞綱&斯波~引馬城の戦い×3】>>でどうぞm(_ _)m
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