今川義忠の遠江争奪戦~命を落とした塩買坂の戦い
文明八年(1476年)4月6日、横地城と勝間田城を落とした今川義忠が、凱旋途中の塩買坂にて一揆に襲われて討死しました。
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横地城(よこちじょう=静岡県菊川市東横地・金寿城とも)を本拠とする横地氏(よこちし)は、あの八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)の流れを汲む一族として平安後期頃から歴史上に登場し、平家滅亡に貢献したとして鎌倉時代には将軍の御家人として、さらに足利尊氏(あしかがたかうじ)の倒幕にも強力したとして、室町幕府政権下でも将軍の奉公衆として名を馳せる名門で、
14代当主とされる横地秀国(よこちひでくに=横地四郎兵衛)の頃には、やはり源氏の流れを汲み室町幕府政権下で駿河(するが=静岡県東部)の守護(しゅご=県知事)を任されていた今川義忠(いまがわよしただ=今川義元の祖父)の配下として周辺に睨みを効かせておりました。
また、横地氏と同族とも言われる(桓武平氏説もあり)勝間田氏(かつまたし)も、源頼朝(みなもとのよりとも)に従う家人として鎌倉時代から登場し、室町幕府政権下でも幕府方の勢力として、勝間田城(かつまたじょう=静岡県牧之原市勝田)を本拠に、遠江(とおとうみ=静岡県大井川以西)蓁原郡(はいばらぐん)勝田(静岡県牧之原市の勝間田川流域一帯)一帯を治めておりました。
しかし、ここに来て、その今川義忠が領地を拡大すべく、西の遠江へと侵攻する姿勢を見せ始めます。
実は、この遠江・・・かつては、ここも今川の一門が守護を務めていたのですが、応永二十六年(1419年)に守護職を足利一門の有力者=斯波氏(しばし)に代られたばかりか、それに反発した遠江今川氏の今川範将(いまがわのりまさ)が中遠一揆(ちゅうえんいっき)を起こすも、それも鎮圧され、いくつかの所領も、斯波氏配下の守護代(しゅごだい=副知事)の狩野氏(かのし)に抑えられてしまっていたのです。
かくして文明六年(1474年)8月頃から、自軍を西へと向けた今川義忠・・・今回は、かつての中遠一揆の中核である在地領主の原(はら)や小笠原(おがさわら)や久野(くの)らも味方につけ、3ヶ月に渡る戦いの末、11月21日、狩野氏が本拠としている遠江見付城(みつけじょう=静岡県磐田市見付・破城とも見付端城とも)を陥落させた今川義忠は、積年の敵=狩野氏を滅ぼしたのです。
しかし、この状況にジッとしていられなかったのが、先の横地秀国と勝間田修理亮(かつまたしゅりのすけ)・・・
文明八年(1476年)に入ると、両者連携して斯波義廉(しばよしかど)に通じ、今川義忠の侵攻を阻止せんと、2年前に義忠に落とされた見付城に入って城を復旧して、今川に敵対する行動を見せ始めるのです。
かくして、これを攻めんと駿河を発った今川義忠・・・
久野佐渡守(くのさどのかみ)・奥山民部少輔(おくやまみんぶのしょう)・杉森外記(すぎもりげき)・岡部五郎兵衛(おかべごろべえ)など500余騎を従え、それを二手に分けて横地城と勝間田城を取り巻き、七日七晩、昼夜を問わず攻撃をを仕掛けた結果・・・7日目の夜に、横地秀国と勝間田修理亮の両人が討死。
見付城に籠っていた者も含め、一族郎党ともども敗北させたのでした。
ところが、この戦いに勝利し、凱旋帰国中の今川義忠は・・・
文明八年(1476年)4月6日、小笠郡(おがさぐん)塩買坂(しょうかいざか=静岡県菊川市)に差し掛かった時、潜んでいた横地氏と勝間田氏の残党が率いる一揆に襲撃されるのです。
にわかに合戦となるものの、相手は烏合の衆・・・即座に蹴散らすべく、馬上から賢明に指揮する今川義忠でしたが、残念ながら、誰かが放った流れ矢に当たって命を落としてしまうのです。
享年、41・・・
ただし、この塩買坂の戦いのあった年次に関しては諸説あります。
- 文明七年(1475年)4月6日
『今川家略記』『今川記』『駿河記』『駿国雑誌』 - 文明七年(1475年)6月19日
『和漢合符』『後鑑』 - 文明八年(1476年)4月6日
『寛政重修諸家譜』『今川系図』 - 文明十一年(1479年)2月19日
『今川家譜』『正林寺今川系図』
などなど・・・
なので、今川義忠の忌日についても諸説あるのですが、本日のこのブログでは、今のところ、おそらく1番信ぴょう性が高いであろうとされる「文明八年(1476年)4月6日」の日付で書かせていただきました。
いずれにしても、勝利の後に、残党によって当主の命が奪われた今川家・・・
しかも、幕府が認めた守護である斯波氏配下の横地と勝間田を討った事になる今川義忠は、事実上の謀反人になるわけで・・・
そのため、義忠には、未だ幼い竜王丸(りゅうおうまる)という遺児がいたものの、幕府からの咎めを恐れて、後継者には義忠の従兄弟にあたる小鹿範満(おしかのりみつ=義忠父の弟の息子)を擁立しようとする一派が登場し、このあとの今川家内は竜王丸派と小鹿範満派に分裂してしまうのです。
とは言え、なんだかんだで竜王丸は由緒ある今川の嫡流・・・幕府には、竜王丸を亡き者にするほどの考えはなかった事で、この混乱を治めるべく、幕府奉公衆の一人で今川に縁のある武将を駿河に派遣して、事態の収拾を図ります。
その人が、今川義忠の奧さん=つまり竜王丸の母である女性(北川殿)の兄か弟だった伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき・長氏)・・・
ご存知の北条早雲(ほうじょうそううん)です。
小鹿範満派には、堀越公方(ほりごえくぼう)の 足利政知(あしかがまさとも)と執事(しつじ=公方の補佐)の上杉政憲(うえすぎまさのり)がついていたものの(小鹿範満の母が上杉家出身とされる)、そこを早雲が「竜王丸が成人するまで小鹿範満を家督代行とする」ことで、半ば強引に決着させ、今川家の内乱を抑えました。
この竜王丸が、後の今川氏親(うじちか)・・・
北条早雲に助けられつつ成長した氏親は、やがて、この遠江争奪戦に終止符を打ち、
その息子の今川義元(よしもと)の海道一の弓取りへとつながっていく事になるのですが、そのお話は【今川氏親VS大河内貞綱&斯波~引馬城の戦い×3】>>でどうぞm(_ _)m
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