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2022年4月20日 (水)

小田原征伐~上杉&前田&真田による松井田城攻防戦

 

天正十八年(1590年)4月20日、豊臣秀吉小田原征伐北国部隊となった上杉景勝前田利家真田昌幸らによって、北条方の大道寺政繁が守る松井田城が陥落しました。

・・・・・・・・・

永禄(1158年~)の初め頃に、この周辺を治める安中氏(あんなかし)が築城したとされる松井田城(まついだじょう=群馬県安中市松井田町)は、北に東山道、南に中山道が通る交通の要衝で、上野(こうずけ=群馬県)信濃(しなの=長野県)の国境にある碓氷峠(うすいとうげ)を守る最前線の城でもありました。

そのため、永禄七年(1564年)には、甲斐(かい=山梨県)から信濃へと侵攻し、さらに上野を狙う武田信玄(たけだしんげん)の猛攻を受けて開城し、以後は武田の城となりました。

天正十年(1582年)3月に、尾張(おわり=愛知県西部)美濃(みの=岐阜県南部)織田信長(おだのぶなが)に攻められて、武田が滅亡(3月11日参照>>)した後は、信長配下の滝川一益(たきがわかずます)が奪い取りますが、

3ヶ月後の6月に起こった本能寺の変で信長が横死し(6月2日参照>>)、その混乱乗じた北条氏直(ほうじょううじなお)神流川の戦い(かんながわのたたかい)(6月18日参照>>)にて一益に勝利し、一益は本拠の伊勢(いせ=三重県)へ撤退・・・

さらに、その後、織田が取った武田旧領の奪い合いとなった天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)(8月7日参照>>)でも、敵対した徳川家康(とくがわいえやす)を退けた後、速やかに和睦(10月29日参照>>)した事で、北条が上野一国を支配下に治める事になったわけですが、

ご存知のように、相模(さがみ=神奈川県)小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を本拠とする北条は、この松井田城に、家臣の大道寺政繁(だいどうじまさしげ)を入れて国境の守備を固めていたのでした。

一方、信長亡き織田家の家臣筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)を倒して(4月21日参照>>)信長の後を継ぐかの如く頭角をあらわして来た羽柴秀吉(はしばひでよし)は、

Toyotomihideyoshi600 天正十三年(1585年)に四国平定(7月26日参照>>)
翌天正十四年(1586)には、京都に政庁とも言える聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)の普請を開始(2月23日参照>>)し、太政大臣になって朝廷から豊臣の姓を賜って豊臣秀吉(とよとみひでよし)と名乗り(12月19日参照>>)

さらに翌年の天正十五年(1587年)には九州を平定(4月17日参照>>)して、まさに天下人へとまっしぐらな中、

天正十七年(1589年)10月に起こった、北条配下の沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、秀吉が真田昌幸(さなだまさゆき)の物と認めていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を力づくで奪うという事件(10月23日参照>>)を、

すでに自身が発布していた『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令)に違反する行為だとして、秀吉は、北条の本拠である小田原城への攻撃を決意したのです(11月24日参照>>)

ご存知、小田原征伐です。

この時、12月10日に行われた軍議にて(12月10日参照>>)、自身が率いる本隊は、徳川家康の案内で東海道を行くのと同時に、

越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)加賀(かが=石川県西南部)前田利家(まえだとしいえ)を北から小田原へ向かう別動隊=北国部隊とし、その先鋒を信濃の真田に命じたのでした。

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●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正十八年(1590年)3月29日、秀吉本隊の豊臣秀次(ひでつぐ=秀吉の甥)率いる先鋒による
足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)
山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)
韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)
の箱根の山越え縦ラインの総攻撃が開始されるのですが、

そのお話は、2019年3月29日の【山中城落城】>>でご覧いただくとして、

今回は、北から向かった上杉&前田&真田の話・・・・
(長い前置きでスミマセン)

冒頭に書かせていただいた通り、信濃と上野の国境に位置する碓氷峠・・・ここに、秀吉本隊に呼応する上杉&前田の2万を超える大軍が来襲したのは3月半ばの事でした。

さらに、そこに真田の兵も加わり、松井田城を囲み、まずは、ここを守る大道寺政繁に降伏を勧告します。

ご存知のように、この時の北条は、完璧な総構えを持つ不落の城である小田原城に、北条の主だった者たちを召集して、籠城の構えを見せていたので、ここ松井田城に拠る城兵は、そこまで多くは無かったわけですが、そこは戦国武将。。。当然、怯むことなく、降伏勧告は跳ね除けます。

そこで、3月28日にから総攻撃を開始する豊臣北国別動隊・・・完璧な包囲に城下を焼き払い、城壁にに肉薄する北国隊でしたが、峻険な山城を背に命懸けの防戦をする北条勢の抵抗激しく、松井田城はなかなか落ちません。

4月7日には真田昌幸が、3日後の10日には前田利家が、
小田原城を囲む本隊の秀吉に、その苦戦ぶりを報告すると、秀吉からは
「松井田城は持久戦へと持ち込み、その間に周辺の諸城を攻略せよ」
との命が出されます。

そこで、隣接する安中城(あんなかじょう=群馬県安中市)西牧城(さいもくじょう=群馬県甘楽郡下仁田町)には依田信蕃(よだのぶしげ)の息子で徳川配下のまま前田隊に属していた依田康国(やすくに=松平康国)依田康勝(やすかつ=加藤康寛)兄弟を派遣します。

西牧城は北条の部将=多米長定(ためながさだ)が守っていましたが、4月14日前後に陥落・・・長定は自刃しました。

さらに4月17日には上杉景勝隊が、城主の小幡信定(おばたのぶさだ)が小田原城籠城のため留守となっていた国峰城(くにみねじょう=同甘楽郡大字国峰:国峯城)猛攻撃の末に陥落させます。

さらにさらに4月19日には、前田利家隊が厩橋城(まやばしじょう=群馬県前橋市大手町:前橋城)あっけなく攻略します。

この頃も、未だ松井田城を包囲する北国隊は、碓氷川の南に位置する陣場原(じんばばら=群馬県前橋市)八城(やしろ=群馬県安中市)などに布陣して、松井田城の水脈を断つ持久戦を展開していましたが、

隣接する諸城が次々と陥落していく事によって、松井田城一つに北国勢の全兵力を投入する事が可能になる中、同19日に、松井田城の厩曲輪(くるわ)を制圧した事で、もはや負けを悟った大道寺政繁はついに開城を決意・・・

天正十八年(1590年)4月20日、大道寺政繁は息子を人質として送り、豊臣北国隊に降伏したのでした。

ちなみに、このあと、北国隊は
鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)
八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市元八王子町)
へと駒を進めますが、松井田陥落後に北国隊に加わった大道寺政繁は、道案内したり攻略に加わったりして、いや、むしろ率先して中心人物となって豊臣方に貢献します。

しかし、小田原征伐がすべて終わった後に、秀吉から開戦責任を問われ、大道寺政繁は自害(切腹とも処刑とも)・・・息子の大道寺直繁(なおしげ)は、助命されて高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に流罪となった主君=北条氏直(11月4日参照>>)と行動をともにしています。

★「小田原征伐」関連ページ↓m(_ _)m
● 4月 1日:下田城の戦い>>
●5月29日:館林城・攻防戦>>
● 6月 5日:伊達政宗の小田原参陣>>
●6月14日:鉢形城開城>>
●6月16日:忍城攻防戦>>
●6月23日:八王子城陥落>>
●6月26日:石垣山城一夜城完成>>
●7月5日:小田原城開城>>
●7月13日:小田原攻め論功行賞>>
小田原城攻めオモシロ逸話>>
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