鎌倉公方・足利氏満の関東支配~小山義政の乱
弘和二年(永徳二年=1382年)4月13日、謀反を起こしたとして足利氏満から攻撃されていた小山義政が自害しました。
・・・・・・・
応安元年(正平二十三年=1368年)12月、父=義詮(よしあきら)の死を受けて、次男の足利義満(あしかがよしみつ)が室町幕府第3代将軍に就任した時は、未だ11歳の少年でした(12月30日参照>>)。
そこでベテランの細川頼之(ほそかわよりゆき)が後見人となって、若き将軍とともに、未だ不安定な将軍権力の確立に向けて奔走する日々を送って行くのです。
そんなこんなの天授三年(永和三年=1377年)、越中(えっちゅう=富山県)守護(しゅご=県知事)の斯波義将(しばよしゆき)が地域の武将とひと悶着を起こし、敗走した武士が逃げ込んた場所に乱入して荘園を焼き払う・・・という事件が起こったのですが、その荘園が細川頼之の所領だった事で、斯波×細川の両者が一触即発の状況になってしまいます。
しかし、これを見事に治めたのが、誰あろう、成長した足利義満・・・
各大名たちに使者を出して、どちらにも加担せぬよう、さらにイザコザが合戦に発展せぬよう尽くすとともに、細川頼之に、幕府政務を統轄する立場にある者が、故戦防戦(こせんぼうせん=私的な合戦)の禁止=私的な事で徒党を組んで合戦に及ぶべきでは無い事を諭し、未然に戦いを防いだのです。
これにより、幕府内での将軍の株は爆上がり・・・天皇や公家たちも、義満に一目置くようになったのですが、一方で、このゴタゴタは、未だくすぶっている南朝勢力を触発し、南朝方の一部が紀伊(きい=和歌山県)で蜂起するまでに・・・
ただ、
この時の南朝方の反撃は大事に至らなかったものの、ここのところのアレやコレやで、幕府内に反細川頼之派がくすぶり始めたのです。
危険を感じた頼之は、自らの領国(四国)に引き籠ろうとしますが、未だ頼之を頼りに思う義満は、頼之反対派の中心人物であった土岐頼康(ときよりやす)討伐の将軍命令を発したのです。
ところがドッコイ・・・時世はすでに義満の思いとは別の方向に・・・
逆に、諸大名から、「土岐を赦免に&頼之を罷免に」の声が上がり、やむなく義満は、
「追討命令は無かった事に…」
「頼之を解任し、代わって斯波義将を管領(かんれい=将軍の補佐)に任命する」
事で、今回の一件を治めたのでした(康暦の政変)。
とまぁ、長い前置きになりましたが・・・
(前置きやったんか~いΣ( ̄ロ ̄lll)ガビ~ン)
この一件から3ヶ月後の天授五年(康暦元年=1379年)3月7日、関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐)の上杉憲春(うえすぎのりはる)が自殺するという事件が起こるのです。
これまで何度か登場しておりますが、この室町幕府は、南北朝の動乱(12月21日参照>>)のせいで、関東が地元の足利氏(あしかがし)が京都にて幕府を開く事になったため、初代将軍=足利尊氏(たかうじ)の嫡男=足利義詮の家系が京都にて将軍職を継ぎ、地元の関東は四男の足利基氏(もとうじ)の家系が鎌倉公方(かまくらくぼう)として治めるという体制をとったわけです(9月19日参照>>)。
で、その鎌倉公方の補佐役が関東管領・・・その人が自殺したわけで、
実は、上杉憲春の死は、
今回の将軍家のゴタゴタを機に、第2代鎌倉公方の足利氏満(うじみつ=基氏の息子)が、自らが将軍に取って代わろうと謀反を起こした・・・
いや、起こすつもりだったところを、それを諌めるべくの自殺=諫死(かんし)だったというのです。
もちろん、行軍の途中で土岐が赦免されたとの知らせを受けた事もあったようですが、さすがに腹心の自殺はこたえたようで、大いに反省した氏満は、すぐに京都の義満のもとに使者を送って、部下の自殺で世間を騒がせた事を陳謝したのだとか・・・
これにより、21歳の若き公方=氏満は将軍になるという思いは捨てて、自らの関東支配に力を注ぎ、鎌倉府の勢力拡大に乗り出す方向に舵を切ったのです。
そんな中、家柄や実力においても拮抗する庶家が群雄割拠していた北関東で、
天授六年(康暦二年=1380年)5月、小山氏(おやまし)と宇都宮氏(うつのみやし)が合戦となり、小山義政(おやまよしまさ)が宇都宮基綱(うつのみやもとつな)を敗死させるという出来事が起こります。
これは隣接する領地を巡って、長年対立関係にあった小山と宇都宮が、その流れで、たまたまこの時期に合戦となり、小山が勝利した・・・と考えようによっちゃ、武士同士の覇権争いなのですが、
上記の通り、関東支配に本腰を入れて、ヤル気満々の足利氏満は、幕府が掲げている故戦防戦の禁止を重視し、これを小山義政の「鎌倉府に対する謀反」と判断します。
実は、このころ、関東の大名の中で最大の勢力を誇っていたのが、小山城(おやまじょう=栃木県小山市城山町・祇園城とも)を拠点とする小山義政で、あの英雄=藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲む小山氏の11代目当主だった義政は、室町幕府創設期にも活躍し、下野(しもつけ=栃木県)の守護に任じられている実力者だったのです。
小山義政としては、氏満が
「例の管領自殺の一件で、公方が幕府中央から睨まれている間なら、幕府との関係も良好で、かつ関東一の実力を持つ自分の力を見せても大丈夫」
と思っていたのかも知れませんが、
氏満は氏満で、関東支配に舵を切った以上、武士同士の私的な合戦を見過ごすわけにはいきません。
早速、氏満は、
「小山を討伐するので速やかに出兵せよ」
との命令を関東八ヶ国の武士たちに発します。
兄の後を継いだ関東管領の上杉憲方(のりまさ・のりかた=上杉憲春の弟)と木戸法季(きどのりすえ)を大将に据え、ハリキリまくりの氏満自らも出陣して武蔵府中(むさしふちゅう=東京都府中市)に陣所を構え、さらに北上して村岡(むらおか=埼玉県熊谷市)まで進みます。
太刀打ちできないと判断した小山義政は降伏を申し入れ・・・これに応じた氏満も、義政の降伏を受け入れて、それ以上の攻撃は止め、事は一旦治まりました。
しかし、
「僕がソチラに行って直接謝りま~す」
と言っていた義政がいつまで経っても参陣しなかったため、
「あの降伏はウソやったんかい!」
と怒り心頭の氏満は、
弘和元年(永徳元年=1381年)2月、上杉朝宗(ともむね=上杉憲方の従兄弟)と木戸法季を大将に、再びの小山討伐命令を出したのです。
ハリキリボーイ氏満は、今回も自ら出陣して鎌倉街道を進み、小山義政が拠る鷲城(わしじょう=栃木県小山市外城)に迫りました。
その後、一進一退の攻防を繰り返す中、12月になって小山義政は、鷲城を開城して小山城に移って降伏を表明・・・その証しとして義政自らは剃髪(ていはつ=坊主)して出家の身となり、嫡子の若犬丸(わかいぬまる=隆政)は氏満の陣までやって来て平謝り。。。
…で、今回も許しちゃう氏満クン。。。
ところが、案の定・・・翌弘和二年(永徳二年=1382年)3月。
小山義政は、いきなり小山城に火を放ち、糟尾(かすお=栃木県鹿沼市・粕尾)にある奥の城塞(寺窪城と櫃沢城?)に籠って徹底抗戦の構えを見せたのです。
再びの約束破りには3度目の討伐を…!
とばかりに、またもや上杉と木戸を奥の城へと派遣・・・
やがて奥の2城も陥落し、小山義政と若犬丸は、一旦、城を脱出して逃走を図りますが、追手が迫ったため、小山義政は、弘和二年(永徳二年=1382年)4月13日、自害して果てたのでした。
そのスキに若犬丸は、何処ともなく逃走し、何とか、その血脈が絶える事は無かったようですが、
小山の家督は、同族の結城基光(ゆうきもとみつ)の息子が小山泰朝(やすとも=基光の次男)として相続する事になり、もともとの小山の力は大きく削がれる事になりました。
もちろん、若犬丸も行方知れずのまま、その後は表舞台に登場する事もありませんでした。
これによって、鎌倉公方は、ようやく関東中央部を掌握する事となったのです。
この一連の戦いは小山義政の乱、あるいは小山氏の乱と呼ばれます。
乱から1ヶ月後の5月1日、氏満は鎌倉に戻り、留守を預かっていた上杉憲方とともに、その後しばらくは、公方&管領を中心とした正常運転の政治が展開され、しばらくは比較的円満で安定した関東地方・・・の時代をおくる事になり、
西の「将軍=義満」と東の「公方=氏満」で、室町幕府の足利全盛の時代へと進んで行く事になります。
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コメント
茶々様 おはようございます。
多勢に無勢にもかかわらず、家の存続をかけてまで、三度も義政を駆立てたものって何なんでしょうか?
また、謀叛を二度までも許した氏満の心の内もよくわかりません。
投稿: 山根秀樹 | 2022年4月13日 (水) 09時48分
山根秀樹さん、こんばんは~
小山義政としては「隣国との境界線争い」だと思っていたのが「公方への謀反」とされてしまった事への不満?
あるいは、謀反となった以上、退くに退けない感じだったのでしょうか?
1度目で恭順していたなら、その後も安泰だったかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2022年4月13日 (水) 18時12分