関ケ原後の後に…伊達政宗VS上杉景勝の松川の戦い
慶長六年(1601年)4月26日、関ヶ原の戦いでの東軍勝利に乗じて福島へと南下する伊達政宗と上杉景勝の軍とが戦った松川の戦いがありました。
・・・・・・・・
慶長五年(1600年)6月18日、会津(あいづ=福島県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)に「謀反の疑いあり」(直江状>>)として、豊臣五大老筆頭の徳川家康(とくがいえやす)が会津征伐を決行すべく伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を出陣したすきに、家康こそ豊臣の敵と考える(7月18日参照>>)石田三成(いしだみつなり)らが、留守となったその伏見城を攻撃した(7月19日参照>>)事に始まる関ケ原の戦い・・・
ご存知のようにこの戦いは東軍=徳川家康の勝利(9月15日参照>>)となるわけですが・・・
この時、東北では、東軍に与する伊達政宗(だてまさむね)や最上義光(もがみよしあき)らは、その上杉との長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市)争奪戦を繰り広げていましたが、上記の関ヶ原の結果を得た以上、上杉景勝の軍は撤退するしかありませんでした(10月1日参照>>)。
関ケ原の本チャン以前から上杉方の白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)を攻略(7月25日参照>>)したりして、家康からも、勝利のあかつきには苅田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井など旧領7ヶ所=50万石加増の約束するという「百万石のお墨付き」(8月12日参照>>)を得ていた伊達政宗は、
東軍の勝利に乗じて、関ヶ原本チャンが終わった後の慶長五年(1600年)10月に、上杉の重臣・本庄繁長(ほんじょうしげなが)の守る福島城(ふくしまじょう=福島県福島市)への攻撃を開始していたのです(10月6日参照>>)が、
一説には、この時に、政宗が福島城を落とす事無く撤退する事になった要因だともされるのが松川の戦い(福島県福島市)・・・
とは言え、実は、この松川の戦いに関しては複数の文献に複数の記述があり、文献によっては上杉×伊達の両方が「自分たちが優勢だった」と書いてあったり、戦いのあった日も上記の福島城と関連ありな慶長五年(1600年)10月と、その翌年の慶長六年(1601年)4月の2種類あるのです。
てな事で、なかなかに曖昧ではありますが、
本日のところは慶長六年(1601年)4月26日の日付で『常山紀談』に沿ってお話を進めさせていただきます。
・‥…━━━☆
とにもかくにも、上記の通り、関ヶ原の勝利に乗じて上杉領の切り取りを狙う伊達政宗は、地元のお百姓を間者に仕立てて敵の様子を探らせていました。
福島県から宮城県へと流れて仙台平野に至る阿武隈川(あぶくまがわ)の支流である松川は、当時は信夫山(しのぶやま=福島県福島市街地北部)の南側を流れており(現在の祓川が古い松川の名残とされる)、上杉領と伊達領の境目であった事から、この時は本庄繁長のほかに、上杉配下の甘糟景継(あまかすかげつぐ)、岡定俊(おかさだとし=岡左内・岡野佐内)らなど約5000の兵が警備をしていました。
そこに、国見峠を越え、信夫郡から瀬ノ上(せのうえ=福島県福島市)で川を渡って後、かつては伊達の城だったものの豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命による転封で、今は上杉の物となっている梁川城(やながわじょう=福島県伊達市梁川町)に約5000を向かわせた伊達政宗が、松川を目指して押し寄せて来たのです。
この情報を得た上杉方・・・
「先に川を渡ってから戦うか?向こうが渡って来るところを討つか?」
と、本庄繁長が思案すると、
松本内匠(まつもとたくみ)が、
「向こうは不意を突いて先手必勝とばかりにやって来るのですから、コチラが先に川向こうに渡って待っていたなら『思てたんと違う~』ってなってスピード緩めるかも知れません。渡りましょう」
と進言しますが、
栗生美濃(くりゅうみの)は、
「この川は中央が深くなってるので、簡単には渡れませんから、敵が川を渡ってる途中を討つのが有利や思います」
また、岡定俊は
「いやいや~敵は大軍でっせ。ここで待ってたら、なんや敵を怖がってるように見えますよって、さっさと川を渡ってしまいましょう」
と言います。
そして栗生が、
「孫子(そんし=中国の兵法書)にも『少を以て衆に合ふ是を北と言う(少数で多くの敵と戦う事は敗北だ)』(第10章「地形篇」参照>>)ってありますから、無謀な戦はあきません」
と、言い合ってる所に甘粕がやって来て、
「とりあえず、物見に敵の様子を探らせましょう」
となって、物見を派遣します。
こうして、敵の様子を見て来た者の一人は
「敵は馬の沓を取らず、障泥(あおり=鞍の下に敷く布)も外さず、空穂(うつぼ=矢を入れとくヤツ)を平常時のようにしてるんで政宗は川を渡っては来ないでしょう」
と言い、もう一人は、
「僕が見たんも同じですけど、まだ政宗は五~六町(600mくらい?)先にいて、川岸には到着ません。政宗が川岸に到着してすぐに支度したら、大して時間かからんと川を渡り始めるでしょう。2万の軍率いてやって来て、そのまま引き返したりしませんやろ」
と言います。
そこで、河端から二町ほど手前の所に陣を整えて敵を待つ事にしますが、岡定俊が真っ先に馬で駆けて川の中へ・・・
「川を渡るな!」
と、栗生と甘粕が命じて止め、後方の兵は何とか押し止めたものの、前にいた約20騎ほどが川に乗り入れてしまいます。
そうこうしているうちに伊達政宗以下、伊達隊が押し寄せて来て、先陣の片倉景綱(かたくらかげつな=小十郎)勢がドォ~っと斬りかかって来ました。
迎え撃つ岡勢も真向から火花散らして激しく戦いますが、大軍に囲まれて斬られる者も多く、やむなく岡定俊は、この場を切り抜けて、一旦退こうとしますが、そこに馬で駆け寄せて、2太刀ほど岡に斬りつけて来た武将・・・
岡定俊は振り返って、その武将の兜から鞍にかけて真向から斬りつけ、返す刀で兜の錣(しころ=右のイラスト参照→)を切り払い、相手の右膝口に斬りかかると、敵の馬が飛んで退きました。
その武将の甲冑が大した見た目では無かったので、岡定俊は、さらに追い詰める事無く退きましたが、実はコレ、伊達政宗本人だったと・・・
後で、これを聞いた岡定俊は、
「もう一太刀で、大将を討ち取れたのに~」
とメチャ悔しがったとか・・・
こうして一進一退の激戦が続く中、栗生が陣を整えて敵を待ち、片倉の軍を追い崩して川へと追い詰めたものの、予想以上に多い敵がその後ろから重なるように攻め寄せて来たので、やむなく上杉勢は福島城に退きあげる事に・・・
追う政宗は
「どこまでも逃すな!」
と馬煙を立てて続いてきます。
そのスピードに、持って逃げられない武具を打ち捨てて後退する上杉軍・・・
この時、上杉軍の殿(しんがり=撤退する軍の最後尾)を務めた青木新兵衛(あおきしんべえ)なる武将は、小さな馬に乗り、短い槍を持っていた事から、その小回り利く状況を活かし、取って返しては突きはらい、何度も敵を防ぎます。
やがて、岡が福島城に到着・・・その後、甘粕や栗生も城に入ったところで、伊達勢が押し寄せて来たので城の門を閉じてしまったため、青木は、ただ一騎で迎え撃つ事に・・・
そんな青木に馬で駆け寄る伊達政宗・・・
青木は十文字の槍で以って政宗の兜の三日月の立物を突き折りますが、政宗は青木の鎧を蹴って、そのまま駆け過ぎて行きます。
「もう、一突きで討てたのに…口惜しい」
と悔しがる青木・・・
と、そんな時、上杉方の梁川城から須田長義(すだながよし)が撃って出て、阿武隈川を前に陣を敷く伊達勢を狙います。
さらに地の利を知る須田長義は、自軍を二手に分け、自身の率いる一隊を川上へと移動させます。
それを見た政宗の兵も二手に分かれ敵を防ごうとしますが、上手くいかずゴチャらゴチャらやってる間に、須田隊は一気に川を渡って斬りかかり、先の戦いで分捕られた甲冑やら武具を取り返しつつ進みます。
松川にて奮戦中、背後に敵が現れたと聞いた政宗は、一旦、退く事にしますが、そこに本庄繁長が追いうちをかけて来た事で敗色が濃くなったため、伊達勢は信夫山に退きあげようとした所、総大将=上杉景勝が後巻(うしろまき=味方を攻撃する敵を背後から取り巻く)のために出陣します。
景勝隊が掲げる「紺地に日の丸」の旗←が山上になびくのを見た政宗は、やむなく全軍を退きあげたのでした。
後々、岡定俊と会った政宗は、松川での思い出話を語りはじめて、
「お前を斬った事、今も忘れてないで~」
と言うと、岡定俊も、
「大将の刀の跡ですから、金糸で縫い合わせて、我が家宝としてます」
と言って、その羽織を見せたところ、政宗は大いに喜んだものの、
続けて、
「そのあと、兜の錣をなぐり切りにしましたけどねww」
と言うと、政宗は不機嫌そうに去って行ったのだとか・・・
にしても、伊達政宗、総大将やのに前に出過ぎやろwww
・‥…━━━☆
このあと、8月には上杉の大幅減封が決定され(8月24日参照>>)、景勝は米沢(よねざわ=山形県米沢市)にお引越し(11月28日参照>>)・・・
さらに翌年の4月には最後までネバった島津義久(しまづよしひさ)が、家康から所領を安堵され(4月11日参照>>)、関ヶ原の戦いに関連する出来事には、ほぼ終止符が打たれる事になるのです。
★関ヶ原の戦いの全般のアレコレについては【関ヶ原の合戦の年表】>>でどうぞm(_ _)m
.
「 家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事
- 関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い(2024.08.20)
- 逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア(2023.11.25)
- 徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方(2023.08.22)
- 徳川家康の寵愛を受けて松平忠輝を産んだ側室~茶阿局(2023.06.12)
- 加賀百万石の基礎を築いた前田家家老・村井長頼(2022.10.26)
コメント