« 2022年4月 | トップページ | 2022年6月 »

2022年5月29日 (日)

承久の乱~幕府方と京方が木曽川に展開

 

承久三年(1221年)5月29日、後鳥羽上皇から出された北条義時討伐の院宣を受けた鎌倉幕府が、北条泰時を総大将に据えて鎌倉を進発したという一報が、京都に届きました。

これにて、承久の乱が、武力×武力の決戦へと動きます。

・・・・・・・

まずは、これまでの経緯を…
(読んでくださった方&ご存知の方はスッ飛ばして下さい)

建保六年(1218年)2月:次期将軍に親王?>>
建保七年(1219年)1月:源実朝が暗殺さる>>
承久元年(1219年)4月:摂関家から将軍を>>
承久三年(1221年)4月:乱の準備で天皇交代>>
 ├5月15日:北条義時討伐の院宣発給>>
 ├5月19日:北条政子の演説で潮目が変わり↓
 └5月22日:北条泰時が京へ進発>>

・‥…━━━☆

とにもかくにも、後鳥羽上皇(ことばじょうこう=第82代天皇)から、幕府執権(しっけん=将軍補佐・政務の長)北条義時(ほうじょうよしとき)討伐の命令が出された事で、討伐軍が京都から発信する前に先手必勝とばかりに、総大将となった北条泰時(やすとき=義時の長男)が、わずか18騎で以って鎌倉を進発したのは承久三年(1221年)5月22日早朝の事でした。

その日のうちに、北条時房(ときふさ=政子&義時の異母弟)
足利義氏(あしかがよしうじ=義時の甥で泰時の娘婿)
三浦義村(みうらよしむら=有力御家人)泰村(やすむら)父子が、相次いで出撃し、
北条朝時(ともとき=義時の次男)北陸道の大将軍として鎌倉を進発しました。

一方、名指しされた北条義時に、大江広元(おおえのひろもと=政所別当)三善康信(みよしのやすのぶ=問注所執事)などの幕府文官、院宣の宛先だった小山朝政(おやまともまさ=幕府宿老)宇都宮頼綱(うつのみやよりつな=幕府御家人)幕府重臣たちは鎌倉に残り、必勝祈願や軍勢の調整に力を注ぎます。

『吾妻鏡』によれば、最初の一団が出た5月22日から25日の早朝までに、ほとんどの東国の武将たちが次々に出撃し、それぞれが3方に分かれて京都へと向かうのですが、その数は、
北条泰時率いる東海道=10万
武田信光(たけだのぶみつ=甲斐源氏)率いる東山道=5万
北条朝時率いる北陸道=4万の、
総数=19万の大軍となったと言います。

かくして承久三年(1221年)5月29日「北条時房&泰時らが大軍を率いて上洛の途にある」との急報が京都に届けられます。

「まさか!」・・・
予想外の展開に揺れ動く京方(後鳥羽上皇方)

なんせ後鳥羽上皇側についた三浦胤義(たねよし=義村の末弟)の言い分では、
勅書(ちょくしょ=天皇の命令書)が出て、北条が朝敵(ちょうてき=国家の敵)となったなら、味方する者なんか千人もいてませんて!」
とか、
「僕が、義時が油断するような手紙を、鎌倉のアニキ(義村)宛てに出しときますから、こんなんボロ勝ちでっせ!」
てな勢いでしたから、、、

確かに、この言葉は、油断でもオーバーでもなく、
「おそらく天子様に弓引くなどという大それた事をする御家人はいるまい」
という考えが、実際に京方にはあったのです。

現に、院宣が発給された当初は、幕府も動揺しました。

しかし、あの北条政子(まさこ=源頼朝妻で義時の姉)涙の演説で、義時一人に出された追討命令を幕府全体の危機にして見事に潮目を変え、「いざ!鎌倉」(参照>>)とばかりに御家人のテンションは最高潮・・・となったわけで、

とは言え、そんな経緯を知らない京方は、この5月29日の一報を受けてもなお「本当に?」「誤報やないん?」と揺らいでいましたが、

そんなこんなの6月1日、ここに来て、先日、幕府に捕縛された院の下部(しもべ=上皇の雑用係)押松(おしまつ)院御所(いんごしょ=上皇の居所)に帰還し、北条義時の放った言葉をそのまま伝えます。

「山道・海道・北陸道の三方から19万の精鋭が行きますさかいに、西国の武士を召集されて合戦でもさせてみて、その様子を御簾(みす=高貴の方のすだれ)の隙間から、どうぞご覧になって下さい」

使者が義時から直接聞いた言葉・・・もはや、鎌倉方の出撃は疑いようもなく、ボヤボヤしてたら、ほどなく彼らがやって来ます。

後鳥羽上皇は、藤原秀康(ふじわらのひでやす)を追討使に据え、
「早急に軍勢を整えて迎撃せよ!」
との命令を下します。

いよいよ承久の乱が、直接の武力衝突となります。

6月3日、「鎌倉方が遠江(とおとうみ=静岡県西部)に着いた」との知らせが届く中、京方は公卿たちによる衆議が開かれ、藤原秀康を追討使に、敵方を迎え撃つべく、コチラも三方に分かれての軍勢の派遣が決定します。

藤原秀康&秀澄(ひでずみ)兄弟や佐々木広綱(ささきひろつな=西面の武士)ら近臣の武士に、 大内惟信(おおうちこれのぶ)や三浦胤義といった在京の幕府御家人のほか上皇に味方する軍勢・・・コチラは総数=19326騎(細かっ!ホンマかいな?)

このうち12000騎を東海道と東山道にある12の木戸=つまり12ヶ所の防柵に分散させるという藤原秀澄主導の作戦をとった・・・ていうけど、さすがに、はなから敵より少ない数なのに、さらに12か所に分けちゃったら、よほどのゲリラ的動きをせんと無理なような?

Zyoukyuunoranmino3
承久の乱美濃の戦い・進軍&位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とにもかくにも、熱田神宮(あつたじんぐう=愛知県名古屋市熱田区)を経て、6月5日に尾張一宮(おわりいちのみや=愛知県一宮市)に到着した幕府軍が軍議を開き
鵜沼の渡(うぬまのわたり=岐阜県各務原市東部)
池瀬(いけせ=同各務原市付近:伊義の渡)
板橋(いたばし=同各務原市付近)
摩免戸(まめど=同各務原市前渡)
墨俣(すのまた=岐阜県大垣市)
の5ヶ所の要害に兵を差し向け、特に重要な場所である摩免戸に北条泰時と三浦義村など、墨俣に北条時房と安達景盛(あだちかげもり)などといったメインメンバーを向かわせますが、

奇しくも、この重要地点は京方の配備と、まるかぶり=上記の京方が兵を分散して向かった12ヶ所のうちの5ヶ所でした。
(他の場所=阿井渡・火御子・食渡・上瀬・市脇・大井戸渡・?)

いよいよ一触即発の雰囲気!
…なんですが、実は、この時・・・

すでに美濃(みの=岐阜県南部)大井戸(おおいど=岐阜県可児市土田)近くまで到着していた東山道の幕府方を任された武田信光は、木曽川を前にして、ともにいる小笠原長清(おがさわらながきよ=甲斐源氏一族)に、
「鎌倉勝タバ鎌倉ニ 京方勝タバ京方ニ付ナンズ」=つまり
「鎌倉が勝ちそうなら鎌倉に味方し、京方が勝ちそうなら京方に味方しよ…これこそが武士や!」
と言っていたのだとか・・・

ま、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、この方の父である武田信義(のぶよし)役の八嶋智人さんが、
「わしは一度も頼朝を主人と思った事ないわ~!」
と叫んではりましたから、息子さんも、さもありなんて感じでしょうね~

ところが、武田主従のそういう出方を予想していた北条時房は、ここぞ!というタイミングで、
「渡河作戦が成功したら、美濃尾張甲斐信濃(しなの=長野県)常陸(ひたち=茨城県)下野(しもつけ=栃木県)の6ヶ国を保証しますよ」
と、

後鳥羽上皇の、単に「褒美を与える」「院庁への参上を許可する」といった曖昧な提示とは対照的に、具体的な国名を出して、その武士魂をくすぐったのだとか・・・

より確実な恩賞の提示に気を良くした武田&小笠原は、すぐさま木曽川を渡り
いよいよ京方と幕府方の木曽川美濃の戦いとなりますが、

そのお話は長くなりそうなので、決戦の行われた日付=6月6日のページ>>でどうぞm(_ _)m
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2022年5月22日 (日)

承久の乱~北条政子の演説と北条泰時の鎌倉出撃

 

 承久三年(1221年)5月22日、承久の乱で幕府方の大将軍となった北条泰時が、わずか18騎で京都に向けて出撃しました。

・・・・・・・・・

未だ後継ぎが決まっていない鎌倉幕府第3代将軍源実朝(みなもとのさねとも)・・・朝廷との関係が良好だった実朝が健在の頃は、治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇または上皇)である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)皇子を鎌倉に迎えて親王将軍とする案も出ていたものの(2月4日参照>>)

建保七年(承久元年・1219年)1月に、その実朝が暗殺された(1月27日参照>>)事から、朝廷と幕府の関係もギクシャク(2月11日参照>>)・・・

何とか、摂関家(せっかんけ=摂政や関白を輩出する貴族)九条道家(くじょうみちいえ=頼朝の妹の孫)の息子=三寅(みとら=後の藤原頼経・4代将軍)第4代将軍(摂家将軍)を継ぐ事で話は治まったものの(3月9日参照>>)

幼い将軍(当時2歳)の脇を、亡き源頼朝(よりとも=初代将軍)の妻=北条政子(ほうじょうまさこ)と、その弟で幕府執権(しっけん)北条義時(よしとき)が固めている事にイライラがつのる後鳥羽上皇は、

ついに、承久三年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇自身が持つ北面の武士西面の武士(御所の警備員)や、このために味方に引き入れた御家人たちに、幕府京都守護職の宿所を攻撃させると同時に、北条義時追討の院宣を発給・・・世に言う承久の乱が勃発したのです(くわしくは5月15日参照>>)

…とは言え、追討命令を発給・・・と言っても、現代のように関係者に一斉メールが配信されるわけなく、ピピピッとニュース速報が流れるわけでもないので、当然、複数の同様の文書が各人に宛てに下されるのですが、『承久記』によれば、
武田信光(たけだのぶみつ=甲斐源氏5代)
小笠原長清(おがさわらながきよ=武田信光の従兄弟)
小山朝政(おやまともまさ=幕府宿老)、
宇都宮頼綱(うつのみやよりつな=幕府御家人
長沼宗政(ながぬまむねまさ=幕府御家人)
足利義氏(あしかがよしうじ=北条義時の甥)
北条時房(ときふさ=北条義時の異母弟)
三浦義村(みうらよしむら=幕府有力御家人)
の8名に送ったと言いますが、

いずれもそうそうたるメンバーで在京経験がある=つまり、京都にいて朝廷と直に接した事のある人たちですが、
「おいおい、こんな人らが味方になるとお思いか?」
と、あまりにも幕府ドップリのメンツ宛てに・・・とビックリします。

現に、結局は、誰も京方(後鳥羽上皇方)には回りませんでした。

ただ、これは本気で彼らに「追討せよ」と命じたわけではなく、その目的は、おそらくは幕府側に
「ひょっとして、誰か裏切るんちゃうん?」
という疑心暗鬼をもたらし、内部分裂をはかるためだったのでしょう。

なんせ、先日の(5月15日の>>)ページに書かせていただいたように、すでに、味方になってくれそうな人物には声かけて味方にしてるし(なんなら攻撃開始しちゃってるし)、三浦義村の弟の三浦胤義(たねよし)なんか、率先して後鳥羽上皇について、京方の中心人物となってますから、これは、あくまで敵方への宣戦布告みたいな物だったのでしょう。

そのうえで、追討する相手を幕府ではなく、北条義時一人に絞る事で、
「ひょっとして(義時個人に不満を持ってる)誰か一人でも味方になってくれたら儲けもん」
てな、感じだったかも知れません。

一方、幕府側は・・・
実は、すでに、異変を知らせる文書を持った何名かが院宣発給の前後に京を発ち、当日の5月15日から19日にかけて、相次いで鎌倉に到着しています。

15日朝・・・真っ先に到着したのは、
兄=三浦義村に誘引の書状を送った三浦義胤の使者。

次に、15日の朝から、すでに藤原秀康(ふじわらのひでやす)や三浦胤義ら京方の攻撃を受けていた伊賀光季(いがみつすえ=幕府方京都守護職・北条義時の嫁の兄)が、その直前に家臣に託した緊迫した京都の情勢を伝える使者。

次に、公家の西園寺公経(さいおんじきんつね)家司(けいし=公家の家政を担う職員)である三善長衡(みよしのながひら)が、主人の公経と息子の西園寺実氏(さねうじ)が京方に幽閉された事と、宣旨が五畿七道(ごきしちどう)に下された事を知らせる使者が京都を発った事を伝えて来ます。
(五畿=山城・大和・摂津・河内・和泉の5か国、七道=東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の7道)

当然ですが、これを知った幕府首脳陣は動揺します。

ちょうど、その頃、
三浦義村が、弟=胤義の書状と携えた使者と面会・・・その書状には、
「『勅定に応じ 右京兆を誅すべし 勲功の賞においては請に依るべし』
(勅命に応じて北条義時を討て、恩賞は望みのまま与える)
と後鳥羽上皇から仰せを賜ったのでヨロシク」
と、

しかも、その使者は、自分一人で鎌倉に下ったのではなく、宣旨を持った院の下部(しもべ=雑用係)押松(おしまつ)とともに鎌倉に入ったと言う・・・

三浦義村は返事もせずに、その使者を追い返すと、即座に北条義時のもとへ駆けつけ、
「鎌倉より東の武将たちに知られる前に、はよ!押松を捕まえなアカン」
と進言します。

先ほどは、動揺を隠せなかった幕府首脳陣でしたが、目の前に「やる事」が具体化されれば仕事は早い・・・早速、押松の探索に市中に飛び出し、ほどなく葛西谷(かさいがやつ=鎌倉市大町)に潜んでいたところを捕縛し、宣旨と、源光行(みつゆき)が書いた副状(そえじょう)、東国武士の名前の一覧が書かれた注進状(ちゅうしんじょう=事の次第説明書)などを押収しました。

こうして、何とか、これより東の東国武士たちに院宣が伝わる事を防いだ幕府首脳陣でしたが、人の口の戸はたてられませんから、いずれは日本全国に伝わる・・・その前に、何とか手を打たねば!

なんだかんだで相手は天皇様だし…怒られてんのは北条義時一人だし…
幕府御家人と言えど一個人としては「天子様に弓引く」なんて事は、おそれ多いわけで、やはり心は揺れ動きます。

潮目が変わるのは承久三年(1221年)5月19日・・・
北条政子が、自身の邸宅に御家人たちを集めたのです。

Houzyoumasako600ak そして、先ほどの追討命令の宛名にされたそうそうたるメンバーに加え、上から下までの多くの御家人たちが見守る中、有名な北条政子の演説が始まるのです。

『吾妻鏡』では、
「皆心を一にして奉るべし これ最期の詞也」
(みんな、よー聞いてや。これは最後の言葉やで)
と切り出し、

「頼朝さんが、朝敵を倒して関東にて幕府を開いてから、君ら御家人は官位も俸禄(給料)も手に入れられるようになったやん。
その恩は、すでに、山よりも高いし、海よりも深いんちゃう?
君らが、その恩に報いようという気持ちは、浅いはず無いと私は思う。
今、後鳥羽上皇さんは、悪さをたくらむ逆臣の讒言(ざんげん=事実でない悪口)によって、正しくもない意味わからん命令を下しはった。
名を惜しむ者は、藤原秀康や三浦胤義らを討ち取って、将軍の遺産を守ってほしい。
ただし、後鳥羽上皇側に行きたい者がおるなら、今すぐ申し出てや!」

さらに『承久記』では、
「まずは、長女の大姫(おおひめ)、そして夫の頼朝、長男の頼家に次男の実朝・・・ほんで弟の義時まで失う事になったら、私は5度目の悲しみを味わう事になる~」
と嘆いてみせたとか・・・

心を揺さぶられる名演説・・・本来なら、義時一人に向けられた追討令を、見事、鎌倉幕府全体の出来事に変えちゃいましたね。

すぐさま武田信光が政子に賛同する事を表明すると、もはや、その場には誰一人反対する者はなく、むしろ全員が心を一つにした異様な興奮が渦巻いたのでした。

当然、幕府首脳陣は、この興奮冷めやらぬ雰囲気真っ只中で、素早く事を進めなけらばなりません。

早速、この日の夕刻に北条義時の館にて軍議が開かれます。

いずれは、後鳥羽上皇が追討使を任命し、追討軍が京都を進発する事になりますが、果たして、それを迎撃するのか?
あるいは、これまでの経験から、追討使が任命されるまでの時間を待たずに、コチラから出撃するのか?

軍議では様々な意見を戦わせるのですが、それらの提案を持って、政子に意見を聞くと、
「素早く上洛せぇへんかったら官軍を破る事はできひんかも…安保実光(あぼさねみつ)武蔵(むさし=ほぼ東京都・埼玉&神奈川の一部)の者らが到着次第出撃すべきや思うよ」
と・・・

Houzyouyasutoki500ast 早速、義時は関東一円の武将に、
「朝廷が幕府を襲うという情報が入ったので、北条時房(ときふさ=政子&義時の異母弟)北条泰時(やすとき=義時の長男)が軍勢を率いて出撃する事になった。
北条朝時(ともとき=義時の次男)は北国に差し向ける。
この事を、速やかに家中に伝えるとともに、自らも出撃せよ」
との命令を下したのです。

命を受けた遠方に住む関東武士たち・・・先に書いたように、幕府首脳陣が後鳥羽上皇の院宣を握りつぶしていた事で、事の成り行きがわからず、ただ「出撃せよ」の命令だけを受けて戸惑う者もいたと言います。

その様子を察した大江広元(おおえのひろもと=幕府重臣)が、
「日数が経つと些細な事に疑問を抱き、離反する者が出て来るかも知れんから、テンション高い今のうちに総大将の泰時だけでも出陣してしまえば、東国武士たちは後に続くはずや」
と進言すると、政子も、
「何もせんとチンタラしてるのは怠慢ちゃうんか?まずは総大将一人だけでも進発せな!」
と言います。

かくして承久三年(1221年)5月22日、小雨が降る早朝6時・・・北条泰時が京都に向けて進発します。

つき従うは、息子の北条時氏(ときうじ)をはじめとする、わずか18騎でした。

いよいよ京方と幕府の直接対決が始まります。

★承久の乱関連ページ
 【実朝の後継…北条政子上洛】>>
 ●【実朝暗殺】>>
 ●【阿野時元の謀反】>>
 ●【北条時房が武装して上洛】>>
 ●【源頼茂謀反事件】>>
 ●【義時追討の院宣発給で乱勃発】>>
 ●【北条政子の演説と泰時の出撃】←今ココ
 ●【承久の乱~木曽川の戦い】>>
 ●【承久の乱~美濃の戦い】>>
 ●【承久の乱~瀬田・宇治の戦い】>>
 ●【戦後処理と六波羅探題の誕生】>>
 ●【後鳥羽上皇、流罪】>>
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (6)

2022年5月15日 (日)

承久の乱勃発~北条義時追討の院宣

 

承久三年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇が、鎌倉幕府2代執権である北条義時の追討令を発給・・・承久の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・・

初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)鎌倉(かまくら=神奈川県鎌倉市)にて樹立した初の武家政権は、全国に守護(しゅご=県知事)地頭(じとう=荘園管理)を配置して開幕を実現しましたが(7月12日参照>>)、なんだかんだで、その力は東国が中心・・・西では、やはり朝廷の力が強く、この時期は二元政治な一面もありました。

やがて、2代将軍=源頼家(よりいえ=頼朝と政子の長男)の時には、鎌倉殿の13人の合議制にて政務をこなすシステム(4月12日参照>>)を採用するも、相次ぐ有力御家人の死によって、半ばグダグダになるにつれ、力を増すのは母の北条政子(ほうじょうまさこ=源義朝の妻)と、その弟で2代執権(しっけん=将軍の補佐やけど事実上の政務の長)北条義時(よしとき)。。。
(上記の13人は…足立遠元・安達盛長大江広元梶原景時中原親能二階堂行政・八田知家・比企能員北条時政・北条義時・三浦義澄三善康信・和田義盛=ーは実朝将軍就任までに死去または失脚した御家人・緑色は公家出身の文官

そんな中、建仁三年(1203年)には源実朝(さねとも=頼朝と政子の次男)が3代将軍となりますが(9月7日参照>>)、建保元年(1213年)には、今となっては数少ない北条氏に対抗できる力を持っていた和田義盛(わだよしもり)謀反の末に討死(5月3日参照>>)、ついに北条義時は、政権と軍事の両方を掌握する立場となります。

それでも、朝廷友好派の実朝が健在だった頃は、治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇または上皇)である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)も、やりたい放題の北条氏を「東国での事」と思っていたようで、

なんなら、未だ跡取りのいない将軍の座に自らの皇子を送りこんで、信頼できる実朝に後見人になってもらって自身が幕府をコントロールできるかも…と、政子が持って来た親王将軍(しんのうしょうぐん=後鳥羽上皇の皇子が将軍になる)の話にも乗り気であった(2月4日参照>>)ようなのですが、

ところが、ご存知のように、建保七年(承久元年・1219年)1月、実朝は、(頼家の息子)公暁(くぎょう・こうきょう)によって暗殺されてしまった(1月27日参照>>)事から、

当初の予定が狂ったとおぼしき後鳥羽上皇は、自らの皇子を鎌倉に下向させる事を拒むようになり(2月11日参照>>)・・・

それでも親王将軍を願う幕府方が武装して京都に向かう事態となりますが、

そこを何とか、摂関家(せっかんけ=摂政や関白を輩出する貴族)九条道家(くじょうみちいえ=頼朝の妹の孫)の2歳の若君=三寅(みとら=後の藤原頼経・4代将軍)が鎌倉に下向して、北条政子が後見人となって養育しサポートする=つまり、摂家将軍(せっけしょうぐん)という事で、話は落ち着いたのでした(3月9日参照>>)

しかし、当然、シコリは残ります。。。お互いに、

そんな中、歌や学問だけでなく武勇にも優れていた後鳥羽上皇は、院政を始めて以来、自らの財力に物を言わせて北面の武士西面の武士を雇い、御所の警備に当たらせていたのですが、

その在京武士たちが後鳥羽上皇の命を受けて、幕府側の御所警備担当だった源頼茂(よりもち=源頼政の孫)攻め殺し、そのドサクサで内裏(だいり=御所の天皇の私的区域)の一部が焼失するという事件が起こります。

その理由は史料によって複数あり、よくわからないのですが、とにかく、朝廷と幕府の間が一触即発の状態にまで行っていた事は確かです。

Gotobatennou700a 次第に、北条義時の討伐を考えるようになる後鳥羽上皇・・・土御門上皇(つちみかどじょうこう=第83代天皇:後鳥羽上皇の第1皇子)(10月11日参照>>)や一部の公家が強気の後鳥羽上皇に反対する中、

順徳天皇(じゅんとくてんのう=第84代天皇:後鳥羽上皇の第3皇子)はヤル気満々で、自らの第3皇子である懐成親王(かねなりしんのう=後の仲恭天皇:当時4歳)(4月20日参照>>)に皇位を譲って制約のない自由な上皇の立場となって後鳥羽上皇に協力します。

当然の如く、後鳥羽上皇は反対派を遠ざけて、身辺をイエスマンで固める中、幕府御家人の取り込み工作を進めます。

その最初のターゲットとなったのは、先の和田義盛亡き今、唯一北条氏に対抗できるような力を持つ三浦氏・・・その三浦義村(みうらよしむら)の弟である三浦胤義(たねよし)でした。

後鳥羽上皇の命を受けた藤原秀康(ふじわらのひでやす)が、当時、京都に滞在していた三浦胤義を自宅に招いて酒宴の席を設け、
「後鳥羽上皇側につかないか?」
と誘ったところ、なんと、二つ返事で「OK」・・・

いや、むしろ
「そのために、京都に滞在してました」
と言います。

実は、胤義の奧さんは一品房昌寛(いっぽんぼうしょうかん)という人の娘で、彼女は胤義との結婚は再婚・・・以前は、亡き源頼家の側室で禅暁(ぜんぎょう)という男の子を生んでいました。

そう、その子は、
以前、阿野時元(ときもと)の謀反(2月11日参照>>)のところで出てきましたが、その時、源頼朝の血を引く者として、謀反のとばっちりで北条氏に殺された人で、胤義の奧さんは、胤義と再婚した後も、事あるごとに息子の死を悲しんでおり、その姿を見るたび、胤義も悲しい気持ちになっていて、常々、
「何とか嫁さんの恨みを晴らしたい」
と思っていたと・・・
(もちろん、京方についた原因としては他にも…諸説ありですが)

こうして後鳥羽上皇の味方となった胤義は
勅書(ちょくしょ=天皇の命令書)が出て、北条が朝敵(ちょうてき=国家の敵)となったなら、味方する者なんか千人もいてませんて!」
とか、
「僕が、義時が油断するような手紙を、鎌倉のアニキ(義村)宛てに出しときますから、こんなんボロ勝ちでっせ!」
と豪語して上皇を喜ばせたとか・・・

そんな幕府御家人の取り込みとともに、いよいよ5月14日には、幕府寄りの公家=西園寺公経(さいおんじきんつね)実氏(さねうじ)父子を幽閉し、もろもろ、事を進めた後鳥羽上皇・・・

かくして、運命の承久三年(1221年)5月15日がやって来ます。
(注:この14日の西園寺公経父子の幽閉を以って、乱の勃発とする場合もあります)

朝1番…まずは、後鳥羽上皇の命を受けた藤原秀康が、京都守護職(きょうとしゅごしょく)伊賀光季(いがみつすえ)出頭の要請をします。

この伊賀光季という人は、鎌倉幕府宿老の伊賀朝光(ともみつ)の息子で、その娘(つまり光季の妹)は北条義時の奧さん=後妻の伊賀の方(いがのかた=後に7代執権となる政村含め3男1女をもうける)で、つまりは義時に代わって京都を守護している幕府代表的存在なわけです。

当然、光季は出頭を拒否・・・ここには1000余騎の京方(後鳥羽上皇方=官軍)の兵が差し向けられます。

三浦胤義、佐々木広綱(ささきひろつな=西面の武士)らをはじめとする軍勢は5陣に分かれて光季の宿所を囲みます。

この時、光季側は、わずかに85騎・・・さらに光季が皆を集めて、
「俺は最後まで戦って討死する覚悟やが、命が惜しい者は逃げるがよい」
と言った事から、逃亡者が続出し、残った精鋭は、ほぼ半数になってしまいました。

なんせ、戦う相手は官軍=天皇家やからね~

大きく門を開け放って敵を迎え撃つ光季は、そこに見知った三浦胤義を見つけて、
「大した罪でもない者に勅勘(ちょっかん=天皇の咎め)下すやなんて、どういうつもりやねん」
と問いながら弓を引くと、胤義は
「時世に従うだけや!宣旨(せんじ=天皇の命令書)で招集されたから敵を討つ!それだけや」
と答え、すかざず避けました。

こうして、奮戦する光季勢でしたが、所詮は多勢に無勢・・・戦いの中で負傷した光季は、宿所に火を放ち、我が子とともに炎の中で自害します。

「光季、死す」
の一報を受けた後鳥羽上皇は、
「是非とも味方に引き入れ、コチラ側の大将にしたかったのに…」
と、その死を惜しんだという事です。

一方、もう一人の京都守護職であった大江親広(おおえのちかひろ=大江広元の長男)も藤原秀康からの出頭要請を受けますが、応じて向かった先で後鳥羽上皇から、
「義時に味方するんか、こっちに付くんか、今ここで返答せいや!」
とスゴまれ、やむなく京方に従う事になったとか・・・

そうこうしているうちに後鳥羽上皇の次の一手・・・

いよいよ、北条義時追討の院宣(いんぜん=上皇の意を受けた院司が発給する文書)を発給するのです。

「近曾(ちかごろ)関東成敗と称し
天下の政務を乱る
(わずか)に将軍の名を帯(お)ぶると雖(いえど)
(なお)以って幼稚の齢(よわい)にあり
(しか)る間、彼の義時朝臣(あそん)
(ひとへ)に言詞を教命に仮り
(ほしいまま)に裁断を都鄙(とひ=都市や地方)に致す
(あまつさ)へ己が威を輝かし
皇憲を忘れたるが如し
これを政道に論ずるに、謀反と謂(い)ふべし
早く五機七道の諸国に下知し
彼の朝臣の身を追討せしめよ…」
(このごろ、幕府の命令やって言うて、天下の政治は乱れてる。
将軍ではあるけど、本人は未だ幼いのに、その将軍の名を借りて義時が好き勝手に裁可を下してるだけやなく、
自分の威勢を笠に、まるで朝廷の定めた法令も忘れてるかのようや。
これって正しい政治の在り方から見たら謀反やろ。
早速全国に命令を下して、義時を追討せよ…)
(実際の追討令は、もう少し長文で、史料によって複数ありますが、その内容はだいたい、こんな感じです)
(*五畿=山城・大和・摂津・河内・和泉の5か国)
七道=東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の7道)

さぁ、後鳥羽上皇からの義時追討令が出ました。

どうする?義時。
どうする?鎌倉。。。

なんせ、相手は天皇家ですからね~

しかも、後鳥羽上皇は、より多くの味方が得られるよう、ターゲットを、幕府ではなく義時一人に絞ったわけで。。。

本来なら、三浦胤義が言うように、誰も、天皇家に弓引こうなんて思いませんもの。。。

当然、動揺する幕府、動揺する御家人たち…

Houzyoumasako600ak そこで、
そんな、ザワつく御家人たちの前に登場するのが、尼将軍=北条政子なのですが、

 .

そのお話は、北条政子の演説…からの~幕府軍が鎌倉を進発する5月22日のページ>>でどうぞ。。。

★せっかくの大河「鎌倉殿の13人」の当たり年なので、少々くわしくお話させていただくため、この後も何度か承久の乱の話題になる事、ご了承くださいませm(_ _)m

★承久の乱関連ページ
 【実朝の後継…北条政子上洛】>>
 ●【実朝暗殺】>>
 ●【阿野時元の謀反】>>
 ●【北条時房が武装して上洛】>>
 ●【源頼茂謀反事件】>>
 ●【義時追討の院宣発給で乱勃発】←今ココ
 ●【北条政子の演説と泰時の出撃】>>
 ●【承久の乱~木曽川の戦い】>>
 ●【承久の乱~美濃の戦い】>>
 ●【承久の乱~瀬田・宇治の戦い】>>
 ●【戦後処理と六波羅探題の誕生】>>
 ●【後鳥羽上皇、流罪】>>
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2022年5月11日 (水)

大坂の陣で捕まった長宗我部盛親…処刑までの最後の4日間

 

慶長二十年(元和元年・1615年)5月11日、大坂夏の陣での敗戦を受けて逃亡していた 長宗我部盛親が捕らえられました。

・・・・・・・・

長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、四国を統一するも豊臣秀吉(とよとみひでよし)に敗れて(【一宮城攻防戦】参照>>)配下となり、土佐(とさ=高知県)一国を預かる大名として存続した猛将=長宗我部元親(もとちか)四男です。 

父亡き(5月19日参照>>)後、家督を継ぎますが、あの関ヶ原の戦いで、事実上の参戦はしなかったものの、西軍の一員として南宮山なんぐうさん)に布陣していた事から、勝者である東軍の徳川家康(とくがわいえやす)に謝罪し、領国安堵の交渉に入っていましたが、その交渉の窓口であった兄の津野親忠(つのちかただ)とモメて殺害してしまい、激おこの家康から土佐を没収されてしまいました。

そのため、土佐は山内一豊(やまうちかずとよ)に与えられ、盛親自身は浪人の身となってしまったのです(【浦戸一揆】参照>>)

Tyousokabemoritika600ats その後、京都にて寺子屋の先生をして生計を立てていたところ、ご存知、大坂の陣の勃発で豊臣家からお誘いを受け、真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが=吉政)らと同様に、慶長十九年(1614年)の10月7日に大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)入城しました(10月7日参照>>)

その後、大坂冬の陣夏の陣を経て
(詳しい経緯は【大坂の陣の年表】>>で)
(盛親活躍は【夏の陣~八尾の戦い】>>

…で、ご存知のように慶長二十年(1615年)5月8日、大坂城は落城します(5月8日参照>>)

この日、炎に包まれる大坂城から脱出した盛親は、北へ北へと逃れ、八幡(やわた=京都府八幡市)橋本(はしもと)近く、淀川沿いの葦(よし)の河原に潜んでいましたが、ある日、その隠れ家に家臣の中内三安(なかうちみつやす=惣右衛門)が食べ物を持って行こうとしていた所を、一人の足軽が目に止めます。

その足軽は、もとは土佐の人で、中内とは顔見知り・・・そこで、すぐさま戻って、現在所属している蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)配下の長坂三郎左衛門(ながさかさぶろうざえもん)に、その事を報告したのです。

かくして慶長二十年(元和元年・1615年)5月11日長宗我部盛親は、中内といっしょにいる所を長坂に捕縛されてしまったのです。

伏見(ふしみ=京都市伏見区)に護送される盛親は、
「あの時、赤備え(井伊直孝隊)に妨害されて藤堂高虎(とうどうたかとら)の首が取れんかった事が無念や!」
5日前の八尾の戦いの事を悔しがっていたとか・・・

やがて伏見の城に到着・・・その玄関口に連座するは、
かの井伊直孝(いいなおたか)安藤重信(あんどうしげのぶ)土井利勝(どいとしかつ)

彼らが合戦についての尋問をすると、盛親は、
「6日の晩に決死の反撃をしようと思っていたが、軍兵も疲れていて残念やった」
と述べたという。

この時、格子の向こうで、前面に2~3人の近臣を立たせて、その影から自分を見ている徳川秀忠(ひでただ=家康の三男・2代将軍)に気づいた盛親は、怯むことなく、キ~ッと秀忠を睨みつけたとか。。。

その後、白洲(しらす=裁きの場)に引き出された盛親は、中央に座る秀忠に代わって、側の侍が、
「数千の兵を預かる大将が、本来なら自害すべきところを、そうしないのはなぜか?」
と尋ねると、

「一方の大将たる者、端武者(はむしゃ)みたいに軽々しく討死すべきではないです」
と、そこには、
「何が何でも命をつなぎ、少しでもチャンスがあれば、再び兵を起こして汚名を雪ぎたい」
という思いが込められていのです。

やがて引っ立てられていった牢では、ご飯をうずたかく盛って罪人に差し出すかような出され方をされた時、その警固の者に対して、
「あんな、昔から、どんな名将でも捕まる時は捕まるねんから、捕まる事は恥とは思えへんけど、こんな下品な食事を出されんのは屈辱や!それやったら、さっさと首をはねてくれへんかな?」
とスゴんだのです。

その場に、たまたま通りがかった井伊直孝が、その様子を見て、
「確かに、礼法も何もないですな~」
と、厨房に命じて、料理を整えさせ、

盛親の縄を解いて座敷に招き入れ、
「疲れをお休めください」
と、丁寧に対応したところ、
「おぉ、これぞ礼儀を知る武士道やの~」
とご機嫌で、敗者として怯える様子はみじんも無い、堂々たる姿だったのだとか・・・

こうして、捕縛から4日後の5月15日、盛親は京都市中を引き回された後、六条河原(ろくじょうがわら=鴨川の河原の刑)にて処刑されたのです。
(内容カブってるし、ずいぶん昔(2008年)のページですが、処刑された日付けでupした【長宗我部盛親~起死回生を賭けた大坂夏の陣】>>もどうぞ)

ちなみに、ともに捕まった中内は、主君に最期までつき従った忠誠心が買われて助命され、その後は蜂須賀の家臣となったそうですが、盛親の子供たちは・・・

長男は伏見で斬首、土佐に逃げた次男と三男は山内一豊に処刑され、四男&五男も八幡にて捕縛されて処刑されたため、これにて長宗我部氏は滅亡となりました。

一説には、慶安四年(1651年)に德川幕府転覆を企てる由比正雪(ゆいしょうせつ)(7月23日参照>>)の一番弟子とされる丸橋忠弥(まるばしちゅうや)盛親の息子(側室の子)という噂もありますが、確かな話ではありません。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (2)

2022年5月 3日 (火)

北条義時が和田義盛を討つ~和田合戦をくわしく

 

建暦三年(1213年)5月3日、北条義時に反発した和田義盛が討死し、和田合戦=和田義盛の乱が終結しました。

・・・・・・・・

初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)亡き(12月27日参照>>)後、建久十年(正治元年・1199年)より嫡男の源頼家(よりいえ)のもと、13人の有力者による合議制(4月12日参照>>)にて運営される事になった鎌倉幕府・・・
(足立遠元・安達盛長・大江広元・梶原景時・中原親能・二階堂行政・八田知家・比企能員・北条時政・北条義時・三浦義澄・三善康信・和田義盛の13人)

しかし、その翌年の梶原景時(かじわらかげとき)(1月20日参照>>)に始まり、
元久元年(1204年)の比企能員(ひきよしかず)(9月2日参照>>)
元久二年(1205年)の畠山重忠(はたけやましげただ)(6月22日参照>>)
と、次々と有力御家人を排除し、

その途中には、比企能員に味方した将軍=頼家まで死に追いやった(7月18日参照>>)北条氏・・・

さらに父の北条時政(ほうじょうときまさ)を追放(1月6日参照>>)して執権(しっけん=将軍補佐:事実上の最高権力者)となり、姉の北条政子(まさこ=頼朝の妻で頼家の母で義時の姉)とともに、更なる幕府掌握を計る北条義時(よしとき)でしたが、

Wadayosimori500ats それでも侍所別当(さむらいどころべっとう=警視総監)として、未だ幕府内で大きな力を持っていたのが和田義盛(わだよしもり)でした。

義盛は、頼朝挙兵の時にいち早く味方についた三浦義明(みうらよしあき)(8月27日参照>>)の孫で、先の合議制13人の一人の三浦義澄(よしずみ)の甥っ子。

しかも、亡き頼朝と同い年でもあった事から、頼家の後を継いで第3代将軍となった源実朝(さねとも=頼朝・政子の次男)(9月7日参照>>)父のように慕う人物でした。

そんな、
実朝の義盛への、あまりの心酔ぶりが、政子&義時姉弟に目につき始めた建保元年(1213年)2月、亡き頼家の遺児である千寿丸(せんじゅまる=頼家の三男・後の栄実)新将軍に担いで北条義時を討つという泉親衡(いずみちかひら)による謀反の計画が発覚します。(2月16日参照>>)

先に計画がバレて謀反自体は未然に防いだものの、その計画に関わった330名の中に、和田義盛の息子である和田義直(よしなお)和田義重(よししげ)、甥の和田胤長(たねなが)他、和田関係十数人が含まれていた事が発覚してしまいます。

義盛大好きの実朝の采配によって息子の義直と義重は何とか許されたものの、甥の胤長は、義盛の嘆願空しく屋敷を没収の上、陸奥岩瀬郡(むついわせぐん=福島県)への流罪となりました。

しかも、北条義時は、義盛に見せつけるように目の前で胤長を捕縛し、本来なら一族に下げ渡されるはずの屋敷も別の者に与えたのです。

こうして、義時と義盛の間に生まれた亀裂・・・

何とか事態を収拾したい実朝は、4月に入って、その心中を慰める旨の使者を義盛に送りますが、戻って来た返事は、
「実朝さんには、まったく恨みは持ってませんけど、アイツが、ほんま好き勝手やりよるから、事情を確かめるために出向こうと、ウチの若いもんが密かに集まって話し合うてましたわ。
僕は、アカンで~って諌めたんですけど、もうすでに一致団結して、ヤル気満々で、もう止められまへんわ」
と。。。

かくして建暦三年(1213年)5月2日、夏も近づく、いや、旧暦なので、もはや夏真っ盛りの昼下がり・・・和田義盛は挙兵に踏み切ったのです。

んん?? 昼下がり?? 午後?? なんで?

そもそも謀反や奇襲のように、無防備な相手に急襲を仕掛ける場合は、真夜中に準備して、夜明け前あるいは明け方の薄暗い頃に行動を起こすのが常とう手段のはず。。。
【河越夜戦】>>【厳島の戦い】>>【本能寺の変】>>

もちろん、織田信長(おだのぶなが)【桶狭間】>>なんて真昼間のもありますが、アレは、総大将の今川義元(いまがわよしもと)一人を標的にして、ちょうど昼休憩で大軍が移動を停めた時間帯に本陣をピンポイントで・・・

そう・・・実は、和田義盛も、同様の作戦だったようなのです。

本来なら翌日=3日の明け方に行動を起こすつもりであった?ようで…

それは、義盛と姻戚関係にあり、おそらく加勢する兵の数が最も大いであろうと思われる横山党の党首=横山時兼(よこやまときかね=叔母が義盛の妻)が、この時、腰越(こしごえ=神奈川県鎌倉市南西部)付近に到着するのが5月3日の午前4時頃だったからです。

おそらく、本来は、この3日の明け方に横山党と合流して事を起こすはずだった???

しかし、この5月2日という日の午後という時間帯・・・
実は、将軍=実朝と幕府重鎮の大江広元(おおえひろもと)が、それぞれ宴会を執権の北条義時が囲碁の会を開催していたのです。

…となると、おそらくこの時間帯は御所の警備も甘々なはず・・・
「主要メンバーが宴会やら囲碁の会やらで、御所の守りが手薄になる~今がチャ~ンス!!
と、降って湧いた好機に行動を起こしたのではなかろうか?

Wadayosimorinoran
和田合戦時の鎌倉・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とにもかくにも、
謀反の準備真っ只中の5月2日午後4時ごろ、
和田邸の近くに住んでいた八田知重( はったともしげ=八田知家の息子:小田知重)が、和田邸内の不穏な空気に気づき、将軍御所の近くに住む大江広元邸に急使を送ります。

上記の通り、宴会の真っ最中だった広元が急いで将軍御所に入ると同時に、三浦義村(みうらよしむら=三浦義澄の息子・兄)三浦胤義(たねよし=同息子・弟)兄弟が北条義時邸に駆け込み、義盛の挙兵を知らせました。

実は、この三浦義村兄弟・・・彼らの祖父も和田義盛と同じ三浦義明=つまり彼らは従兄弟同士だったわけで(義盛の父は義澄の兄)

何日か前に、義盛からの謀反のお誘いを受けており
「同族として味方するで~」
と言って、
「俺ら兄弟は北門を警固する」
との約束を交わしていたのですが、

ここに来て、まるっと、スッキリ、見事な、寝返りをやってのけたのです。
(先の2月16日=「泉親衡の乱」>>で書かせていただいたように、三浦家当主の座について義盛と義村の間でわだかまりがあった模様)

確かに、ともに戦う約束をしていたはずの三浦兄弟が、義盛挙兵の知らせを受けて、慌てて義時に知らせに行った感じがするのも、予定時間が早まったからと考えれば辻褄が合いますね。

もちろん、知らせを聞いた北条義時も即座に御所へ・・・

そんな中、
和田義盛、土屋義清(つちやよしきよ=三浦義明の弟=岡崎義実の息子)古郡保忠(ふるごおりやすただ=横山党に属す)ら、約150騎は3手に分かれ、1手は御所の南門(北門は義村に任せてるんで…)、残りの2手は北条義時邸の西と北の両門に分かれて、それぞれ一斉に襲いかかりました。

しかし・・・
上記の通り、本来なら三浦兄弟が固めているはずの北門・・・しかも、義村の邸宅は御所の西門の真ん前にあるので、義盛は南門さえ攻めれば、南と西と北の三方を抑える事ができるはずだったわけですが、それが裏切られたとなったら、いくら南門から攻め込んでも、御所の北と西と東が空きまくりなわけで・・・

案の定、広元と義時は、実朝を連れて北門から脱出・・・武勇の誉れ高き義盛三男の朝比奈義秀(あさひなよしひで)が、実朝の身柄を確保すべく総門を推し破って御所に乱入した時は、もはや実朝の姿はありませんでした。

それでも奮戦する和田勢は一昼夜に渡って戦い続け、翌5月3日明け方、ここで到着した、先ほどの横山党の加勢を得て、和田勢は幕府相手に盛り返しをはかります。

そうこうしているうちに、騒ぎを聞きつけた相模(さがみ=神奈川県の大部分)周辺の武士たちが武装してやって来ますが、目の前で戦ってるのは執権と侍所別当・・・21世紀の今だと、大統領と軍が戦ってるような感じ???

そんなもん、事情がよくわからないまま今来た彼らにしたら、どっちの味方として参戦して良いのやら・・・そりゃ、迷いまくりで、動けませんがな。

御所を脱出して、父=頼朝の墓所である法華堂(ほっけどう=鎌倉市西御門2丁目)に入っていた実朝は、自らの花押(かおう=直筆サイン)を記した御教書(みぎょうしょ=将軍の命令書)を、参戦に戸惑っている各人に対して発給し、自身が身を置く幕府方=つまり北条義時の側に加わるよう命じました。

そうなると、もはや時間の問題・・・

建暦三年(1213年)5月3日・・・午後6時頃には、義盛をはじめ和田勢の多くが戦死し、 戦いは終わりました。

和田義盛、享年67・・・息子の朝比奈義秀ら約500騎だけが、船6艘にて安房(あわ=千葉県南部)へと逃れたのです。

翌日、片瀬川(かたせがわ)の川べりに晒された234の首を実検した実朝は、幕府側の負傷者をねぎらうとともに、勲功の審理を行い、欠員となった侍所別当に北条義時を任命したのでした。

北条家にとって最大のライバルを葬り去り、政権と軍事の両方を手に入れた、この和田合戦・・・

とは言え、
ウハウハの義時&政子は良いとして、義盛を父の様に慕っていた実朝の心情はどうだったのでしょう?

思えば、勝敗を分けたのは、ご本人=実朝の身柄の確保・・・もし、和田義盛側が実朝を確保している状況で、実朝が御教書を発給していたら、多くの者はソチラの味方をし、結果は変わっていたかも知れません。

もともと、和田義盛も、実朝に対しては何とも思ってない・・・いや、日頃の動向から見る限り、むしろ将軍として大事に思っていたでしょうしね。

そんな中、この和田合戦から、わずか17日後の5月21日に鎌倉は大地震に見舞われるのですが、その時、実朝は、自らの名付け親でもある後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)に一首の歌を詠んでいます。

♪山は裂け 海は浅(あ)せなむ 世なりとも
 君にふた心 わがあらめやも ♪
「たとえ、山が裂けて海が干上がってしまう世になったとしても、私は君(後鳥羽上皇)に背く事はありません」

実際に山が裂けた大地震と、自身の心が裂けた和田合戦・・・実朝にとっては、立て続けに起こった激震。

やがて、この6年後に、実朝が亡くなってしまう(1月27日参照>>)事で、後鳥羽上皇と北条義時がギクシャクし始める(3月9日参照>>)という未来を知っている者からしたら、何やら、不安げで悲し気な歌に聞こえてしまう一首でした。

ちなみに、見事に裏切った三浦義村兄弟は、
「友を喰らう三浦犬」
と、陰口たたかれたようですが、上記の通り、
「もともと友達じゃなく、後継を争ってた仲なのよね~」
て事で・・・
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (6)

« 2022年4月 | トップページ | 2022年6月 »