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2022年5月22日 (日)

承久の乱~北条政子の演説と北条泰時の鎌倉出撃

 

 承久三年(1221年)5月22日、承久の乱で幕府方の大将軍となった北条泰時が、わずか18騎で京都に向けて出撃しました。

・・・・・・・・・

未だ後継ぎが決まっていない鎌倉幕府第3代将軍源実朝(みなもとのさねとも)・・・朝廷との関係が良好だった実朝が健在の頃は、治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇または上皇)である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)皇子を鎌倉に迎えて親王将軍とする案も出ていたものの(2月4日参照>>)

建保七年(承久元年・1219年)1月に、その実朝が暗殺された(1月27日参照>>)事から、朝廷と幕府の関係もギクシャク(2月11日参照>>)・・・

何とか、摂関家(せっかんけ=摂政や関白を輩出する貴族)九条道家(くじょうみちいえ=頼朝の妹の孫)の息子=三寅(みとら=後の藤原頼経・4代将軍)第4代将軍(摂家将軍)を継ぐ事で話は治まったものの(3月9日参照>>)

幼い将軍(当時2歳)の脇を、亡き源頼朝(よりとも=初代将軍)の妻=北条政子(ほうじょうまさこ)と、その弟で幕府執権(しっけん)北条義時(よしとき)が固めている事にイライラがつのる後鳥羽上皇は、

ついに、承久三年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇自身が持つ北面の武士西面の武士(御所の警備員)や、このために味方に引き入れた御家人たちに、幕府京都守護職の宿所を攻撃させると同時に、北条義時追討の院宣を発給・・・世に言う承久の乱が勃発したのです(くわしくは5月15日参照>>)

…とは言え、追討命令を発給・・・と言っても、現代のように関係者に一斉メールが配信されるわけなく、ピピピッとニュース速報が流れるわけでもないので、当然、複数の同様の文書が各人に宛てに下されるのですが、『承久記』によれば、
武田信光(たけだのぶみつ=甲斐源氏5代)
小笠原長清(おがさわらながきよ=武田信光の従兄弟)
小山朝政(おやまともまさ=幕府宿老)、
宇都宮頼綱(うつのみやよりつな=幕府御家人
長沼宗政(ながぬまむねまさ=幕府御家人)
足利義氏(あしかがよしうじ=北条義時の甥)
北条時房(ときふさ=北条義時の異母弟)
三浦義村(みうらよしむら=幕府有力御家人)
の8名に送ったと言いますが、

いずれもそうそうたるメンバーで在京経験がある=つまり、京都にいて朝廷と直に接した事のある人たちですが、
「おいおい、こんな人らが味方になるとお思いか?」
と、あまりにも幕府ドップリのメンツ宛てに・・・とビックリします。

現に、結局は、誰も京方(後鳥羽上皇方)には回りませんでした。

ただ、これは本気で彼らに「追討せよ」と命じたわけではなく、その目的は、おそらくは幕府側に
「ひょっとして、誰か裏切るんちゃうん?」
という疑心暗鬼をもたらし、内部分裂をはかるためだったのでしょう。

なんせ、先日の(5月15日の>>)ページに書かせていただいたように、すでに、味方になってくれそうな人物には声かけて味方にしてるし(なんなら攻撃開始しちゃってるし)、三浦義村の弟の三浦胤義(たねよし)なんか、率先して後鳥羽上皇について、京方の中心人物となってますから、これは、あくまで敵方への宣戦布告みたいな物だったのでしょう。

そのうえで、追討する相手を幕府ではなく、北条義時一人に絞る事で、
「ひょっとして(義時個人に不満を持ってる)誰か一人でも味方になってくれたら儲けもん」
てな、感じだったかも知れません。

一方、幕府側は・・・
実は、すでに、異変を知らせる文書を持った何名かが院宣発給の前後に京を発ち、当日の5月15日から19日にかけて、相次いで鎌倉に到着しています。

15日朝・・・真っ先に到着したのは、
兄=三浦義村に誘引の書状を送った三浦義胤の使者。

次に、15日の朝から、すでに藤原秀康(ふじわらのひでやす)や三浦胤義ら京方の攻撃を受けていた伊賀光季(いがみつすえ=幕府方京都守護職・北条義時の嫁の兄)が、その直前に家臣に託した緊迫した京都の情勢を伝える使者。

次に、公家の西園寺公経(さいおんじきんつね)家司(けいし=公家の家政を担う職員)である三善長衡(みよしのながひら)が、主人の公経と息子の西園寺実氏(さねうじ)が京方に幽閉された事と、宣旨が五畿七道(ごきしちどう)に下された事を知らせる使者が京都を発った事を伝えて来ます。
(五畿=山城・大和・摂津・河内・和泉の5か国、七道=東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の7道)

当然ですが、これを知った幕府首脳陣は動揺します。

ちょうど、その頃、
三浦義村が、弟=胤義の書状と携えた使者と面会・・・その書状には、
「『勅定に応じ 右京兆を誅すべし 勲功の賞においては請に依るべし』
(勅命に応じて北条義時を討て、恩賞は望みのまま与える)
と後鳥羽上皇から仰せを賜ったのでヨロシク」
と、

しかも、その使者は、自分一人で鎌倉に下ったのではなく、宣旨を持った院の下部(しもべ=雑用係)押松(おしまつ)とともに鎌倉に入ったと言う・・・

三浦義村は返事もせずに、その使者を追い返すと、即座に北条義時のもとへ駆けつけ、
「鎌倉より東の武将たちに知られる前に、はよ!押松を捕まえなアカン」
と進言します。

先ほどは、動揺を隠せなかった幕府首脳陣でしたが、目の前に「やる事」が具体化されれば仕事は早い・・・早速、押松の探索に市中に飛び出し、ほどなく葛西谷(かさいがやつ=鎌倉市大町)に潜んでいたところを捕縛し、宣旨と、源光行(みつゆき)が書いた副状(そえじょう)、東国武士の名前の一覧が書かれた注進状(ちゅうしんじょう=事の次第説明書)などを押収しました。

こうして、何とか、これより東の東国武士たちに院宣が伝わる事を防いだ幕府首脳陣でしたが、人の口の戸はたてられませんから、いずれは日本全国に伝わる・・・その前に、何とか手を打たねば!

なんだかんだで相手は天皇様だし…怒られてんのは北条義時一人だし…
幕府御家人と言えど一個人としては「天子様に弓引く」なんて事は、おそれ多いわけで、やはり心は揺れ動きます。

潮目が変わるのは承久三年(1221年)5月19日・・・
北条政子が、自身の邸宅に御家人たちを集めたのです。

Houzyoumasako600ak そして、先ほどの追討命令の宛名にされたそうそうたるメンバーに加え、上から下までの多くの御家人たちが見守る中、有名な北条政子の演説が始まるのです。

『吾妻鏡』では、
「皆心を一にして奉るべし これ最期の詞也」
(みんな、よー聞いてや。これは最後の言葉やで)
と切り出し、

「頼朝さんが、朝敵を倒して関東にて幕府を開いてから、君ら御家人は官位も俸禄(給料)も手に入れられるようになったやん。
その恩は、すでに、山よりも高いし、海よりも深いんちゃう?
君らが、その恩に報いようという気持ちは、浅いはず無いと私は思う。
今、後鳥羽上皇さんは、悪さをたくらむ逆臣の讒言(ざんげん=事実でない悪口)によって、正しくもない意味わからん命令を下しはった。
名を惜しむ者は、藤原秀康や三浦胤義らを討ち取って、将軍の遺産を守ってほしい。
ただし、後鳥羽上皇側に行きたい者がおるなら、今すぐ申し出てや!」

さらに『承久記』では、
「まずは、長女の大姫(おおひめ)、そして夫の頼朝、長男の頼家に次男の実朝・・・ほんで弟の義時まで失う事になったら、私は5度目の悲しみを味わう事になる~」
と嘆いてみせたとか・・・

心を揺さぶられる名演説・・・本来なら、義時一人に向けられた追討令を、見事、鎌倉幕府全体の出来事に変えちゃいましたね。

すぐさま武田信光が政子に賛同する事を表明すると、もはや、その場には誰一人反対する者はなく、むしろ全員が心を一つにした異様な興奮が渦巻いたのでした。

当然、幕府首脳陣は、この興奮冷めやらぬ雰囲気真っ只中で、素早く事を進めなけらばなりません。

早速、この日の夕刻に北条義時の館にて軍議が開かれます。

いずれは、後鳥羽上皇が追討使を任命し、追討軍が京都を進発する事になりますが、果たして、それを迎撃するのか?
あるいは、これまでの経験から、追討使が任命されるまでの時間を待たずに、コチラから出撃するのか?

軍議では様々な意見を戦わせるのですが、それらの提案を持って、政子に意見を聞くと、
「素早く上洛せぇへんかったら官軍を破る事はできひんかも…安保実光(あぼさねみつ)武蔵(むさし=ほぼ東京都・埼玉&神奈川の一部)の者らが到着次第出撃すべきや思うよ」
と・・・

Houzyouyasutoki500ast 早速、義時は関東一円の武将に、
「朝廷が幕府を襲うという情報が入ったので、北条時房(ときふさ=政子&義時の異母弟)北条泰時(やすとき=義時の長男)が軍勢を率いて出撃する事になった。
北条朝時(ともとき=義時の次男)は北国に差し向ける。
この事を、速やかに家中に伝えるとともに、自らも出撃せよ」
との命令を下したのです。

命を受けた遠方に住む関東武士たち・・・先に書いたように、幕府首脳陣が後鳥羽上皇の院宣を握りつぶしていた事で、事の成り行きがわからず、ただ「出撃せよ」の命令だけを受けて戸惑う者もいたと言います。

その様子を察した大江広元(おおえのひろもと=幕府重臣)が、
「日数が経つと些細な事に疑問を抱き、離反する者が出て来るかも知れんから、テンション高い今のうちに総大将の泰時だけでも出陣してしまえば、東国武士たちは後に続くはずや」
と進言すると、政子も、
「何もせんとチンタラしてるのは怠慢ちゃうんか?まずは総大将一人だけでも進発せな!」
と言います。

かくして承久三年(1221年)5月22日、小雨が降る早朝6時・・・北条泰時が京都に向けて進発します。

つき従うは、息子の北条時氏(ときうじ)をはじめとする、わずか18騎でした。

いよいよ京方と幕府の直接対決が始まります。

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鎌倉時代」カテゴリの記事

コメント

実話で十分十分面白いですね~。それに引き換え「鎌倉殿」の盛りっぷりったら。最近ツィッターを始めたおっさんですが、さすが三谷っ!伏線回収!と演出面の礼賛の嵐でびっくりしてます。自分的には唯一史料義経ぐらいしか安心して読めません。とは言っても麒麟も確かにたくさん盛られてましたが、あれはあれで良い世の中をつくる目的が明確だったので駒や東庵もまだ許せてました。(麒麟の頃のツィッターはどうだったのかな?) いや本題は残り半年でちゃんと承久の乱まで描けるのかな? です。政子演説で中心的な頼朝の恩の大きさが視聴者までよく伝わっていないので御家人にも伝わってない気もするし。

投稿: 通りすがり | 2022年5月23日 (月) 21時33分

通りすがりさん、こんばんは~

まぁ、ドラマなのである程度の創作はアリだと思いますが、堀川夜討が「お妾に嫉妬した奥さんの命」には、私も驚いてしまいました~襲撃が頼朝の命でないなら土佐坊は誰から成功報酬をもらうのか?と…(笑)

おっしゃる通り、このスピードだと後半が心配ですし、今のところの頼朝さんだと、御家人たちがこの方のどこに恩を感じるのかが微妙な感じですしね。

ここから大泉頼朝の見事なイメチェンが始まるかも知れませんww
楽しみです。

投稿: 茶々 | 2022年5月24日 (火) 04時30分

後鳥羽さんは、ちんは上皇で偉いんやから、皆んなわしの言うことをきくやろと思っていたのですかね。義時の巧妙さ、客観情勢が読めなかったのか。
考えてみれば、後鳥羽さんは安徳さんの弟ですよね。

「鎌倉殿の13人」は順序が違うのでは。
頼朝は義経を、謝れば許してやろうと思っていなかったと思う。
どの段階で、頼朝は義経をなき者にしようと考えたかは知らないけれど、土佐坊に殺されかけて、義経は頼朝の真意を知って、行家と組んで後白河さんをを脅して、頼朝追討の宣旨を出させて、挙兵したけど人が集まらなかった。今度は後白河さんが自発的に義経追討の宣旨を出したみたいに描いていたけど、頼朝が派遣した時政に脅されて出してますよね。
義経と静は大物から船に乗って西国に逃げるつもりが大阪湾に着いて四天王寺に泊まったんですね。会いにいけばよかったわ。

投稿: 浅井お市 | 2022年5月27日 (金) 08時43分

浅井お市さん、こんばんは~

行家さんもナレ死だったし…ドラマは色々とハショらねばならない部分もあるのでしょうね~

このままだと、ラストに1番盛り上がるであろう承久の乱もナレーションスルーしなくちゃいけなくなるかも知れませんものね。

後鳥羽さんは安徳さんの弟だけど、いっしょに西海に行かなかったんで天皇になれたけど、この承久の乱の一件で、やむなく、いっしょに西海に行っちゃった人に院政を任せるハメになっちゃいましたねww

投稿: 茶々 | 2022年5月28日 (土) 03時51分

今年の大河ドラマでは北条泰時は坂口健太郎くんですね。
いよいよ来週の「巻狩」(江戸時代で言う鷹狩のようなものか?)の場面からの登場となります。楽しみです。
なお、12日の回では曽我兄弟の仇討のくだりもあるようです。

投稿: えびすこ | 2022年6月 7日 (火) 12時42分

えびすこさん、こんばんは~

予告編で急に大人になってましたねww
ドラマなので仕方ない事はわかっているんですが、実朝誕生から狩りまで、実際には半年くらいなので、ちょっとビックリしましたね。

投稿: 茶々 | 2022年6月 8日 (水) 03時20分

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