承久の乱勃発~北条義時追討の院宣
承久三年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇が、鎌倉幕府2代執権である北条義時の追討令を発給・・・承久の乱が勃発しました。
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初代将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉(かまくら=神奈川県鎌倉市)にて樹立した初の武家政権は、全国に守護(しゅご=県知事)&地頭(じとう=荘園管理)を配置して開幕を実現しましたが(7月12日参照>>)、なんだかんだで、その力は東国が中心・・・西では、やはり朝廷の力が強く、この時期は二元政治な一面もありました。
やがて、2代将軍=源頼家(よりいえ=頼朝と政子の長男)の時には、鎌倉殿の13人の合議制にて政務をこなすシステム(4月12日参照>>)を採用するも、相次ぐ有力御家人の死によって、半ばグダグダになるにつれ、力を増すのは母の北条政子(ほうじょうまさこ=源義朝の妻)と、その弟で2代執権(しっけん=将軍の補佐やけど事実上の政務の長)の北条義時(よしとき)。。。
(上記の13人は…足立遠元・安達盛長・大江広元・梶原景時・中原親能・二階堂行政・八田知家・比企能員・北条時政・北条義時・三浦義澄・三善康信・和田義盛=ーは実朝将軍就任までに死去または失脚した御家人・緑色は公家出身の文官)
そんな中、建仁三年(1203年)には源実朝(さねとも=頼朝と政子の次男)が3代将軍となりますが(9月7日参照>>)、建保元年(1213年)には、今となっては数少ない北条氏に対抗できる力を持っていた和田義盛(わだよしもり)も謀反の末に討死し(5月3日参照>>)、ついに北条義時は、政権と軍事の両方を掌握する立場となります。
それでも、朝廷友好派の実朝が健在だった頃は、治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇または上皇)である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)も、やりたい放題の北条氏を「東国での事」と思っていたようで、
なんなら、未だ跡取りのいない将軍の座に自らの皇子を送りこんで、信頼できる実朝に後見人になってもらって自身が幕府をコントロールできるかも…と、政子が持って来た親王将軍(しんのうしょうぐん=後鳥羽上皇の皇子が将軍になる)の話にも乗り気であった(2月4日参照>>)ようなのですが、
ところが、ご存知のように、建保七年(承久元年・1219年)1月、実朝は、甥(頼家の息子)の公暁(くぎょう・こうきょう)によって暗殺されてしまった(1月27日参照>>)事から、
当初の予定が狂ったとおぼしき後鳥羽上皇は、自らの皇子を鎌倉に下向させる事を拒むようになり(2月11日参照>>)・・・
それでも親王将軍を願う幕府方が武装して京都に向かう事態となりますが、
そこを何とか、摂関家(せっかんけ=摂政や関白を輩出する貴族)の九条道家(くじょうみちいえ=頼朝の妹の孫)の2歳の若君=三寅(みとら=後の藤原頼経・4代将軍)が鎌倉に下向して、北条政子が後見人となって養育しサポートする=つまり、摂家将軍(せっけしょうぐん)という事で、話は落ち着いたのでした(3月9日参照>>)。
しかし、当然、シコリは残ります。。。お互いに、
そんな中、歌や学問だけでなく武勇にも優れていた後鳥羽上皇は、院政を始めて以来、自らの財力に物を言わせて北面の武士や西面の武士を雇い、御所の警備に当たらせていたのですが、
その在京武士たちが後鳥羽上皇の命を受けて、幕府側の御所警備担当だった源頼茂(よりもち=源頼政の孫)を攻め殺し、そのドサクサで内裏(だいり=御所の天皇の私的区域)の一部が焼失するという事件が起こります。
その理由は史料によって複数あり、よくわからないのですが、とにかく、朝廷と幕府の間が一触即発の状態にまで行っていた事は確かです。
次第に、北条義時の討伐を考えるようになる後鳥羽上皇・・・土御門上皇(つちみかどじょうこう=第83代天皇:後鳥羽上皇の第1皇子)(10月11日参照>>)や一部の公家が強気の後鳥羽上皇に反対する中、
順徳天皇(じゅんとくてんのう=第84代天皇:後鳥羽上皇の第3皇子)はヤル気満々で、自らの第3皇子である懐成親王(かねなりしんのう=後の仲恭天皇:当時4歳)(4月20日参照>>)に皇位を譲って制約のない自由な上皇の立場となって後鳥羽上皇に協力します。
当然の如く、後鳥羽上皇は反対派を遠ざけて、身辺をイエスマンで固める中、幕府御家人の取り込み工作を進めます。
その最初のターゲットとなったのは、先の和田義盛亡き今、唯一北条氏に対抗できるような力を持つ三浦氏・・・その三浦義村(みうらよしむら)の弟である三浦胤義(たねよし)でした。
後鳥羽上皇の命を受けた藤原秀康(ふじわらのひでやす)が、当時、京都に滞在していた三浦胤義を自宅に招いて酒宴の席を設け、
「後鳥羽上皇側につかないか?」
と誘ったところ、なんと、二つ返事で「OK」・・・
いや、むしろ
「そのために、京都に滞在してました」
と言います。
実は、胤義の奧さんは一品房昌寛(いっぽんぼうしょうかん)という人の娘で、彼女は胤義との結婚は再婚・・・以前は、亡き源頼家の側室で禅暁(ぜんぎょう)という男の子を生んでいました。
そう、その子は、
以前、阿野時元(ときもと)の謀反(2月11日参照>>)のところで出てきましたが、その時、源頼朝の血を引く者として、謀反のとばっちりで北条氏に殺された人で、胤義の奧さんは、胤義と再婚した後も、事あるごとに息子の死を悲しんでおり、その姿を見るたび、胤義も悲しい気持ちになっていて、常々、
「何とか嫁さんの恨みを晴らしたい」
と思っていたと・・・
(もちろん、京方についた原因としては他にも…諸説ありですが)
こうして後鳥羽上皇の味方となった胤義は
「勅書(ちょくしょ=天皇の命令書)が出て、北条が朝敵(ちょうてき=国家の敵)となったなら、味方する者なんか千人もいてませんて!」
とか、
「僕が、義時が油断するような手紙を、鎌倉のアニキ(義村)宛てに出しときますから、こんなんボロ勝ちでっせ!」
と豪語して上皇を喜ばせたとか・・・
そんな幕府御家人の取り込みとともに、いよいよ5月14日には、幕府寄りの公家=西園寺公経(さいおんじきんつね)と実氏(さねうじ)父子を幽閉し、もろもろ、事を進めた後鳥羽上皇・・・
かくして、運命の承久三年(1221年)5月15日がやって来ます。
(注:この14日の西園寺公経父子の幽閉を以って、乱の勃発とする場合もあります)
朝1番…まずは、後鳥羽上皇の命を受けた藤原秀康が、京都守護職(きょうとしゅごしょく)の伊賀光季(いがみつすえ)に出頭の要請をします。
この伊賀光季という人は、鎌倉幕府宿老の伊賀朝光(ともみつ)の息子で、その娘(つまり光季の妹)は北条義時の奧さん=後妻の伊賀の方(いがのかた=後に7代執権となる政村含め3男1女をもうける)で、つまりは義時に代わって京都を守護している幕府代表的存在なわけです。
当然、光季は出頭を拒否・・・ここには1000余騎の京方(後鳥羽上皇方=官軍)の兵が差し向けられます。
三浦胤義、佐々木広綱(ささきひろつな=西面の武士)らをはじめとする軍勢は5陣に分かれて光季の宿所を囲みます。
この時、光季側は、わずかに85騎・・・さらに光季が皆を集めて、
「俺は最後まで戦って討死する覚悟やが、命が惜しい者は逃げるがよい」
と言った事から、逃亡者が続出し、残った精鋭は、ほぼ半数になってしまいました。
なんせ、戦う相手は官軍=天皇家やからね~
大きく門を開け放って敵を迎え撃つ光季は、そこに見知った三浦胤義を見つけて、
「大した罪でもない者に勅勘(ちょっかん=天皇の咎め)下すやなんて、どういうつもりやねん」
と問いながら弓を引くと、胤義は
「時世に従うだけや!宣旨(せんじ=天皇の命令書)で招集されたから敵を討つ!それだけや」
と答え、すかざず避けました。
こうして、奮戦する光季勢でしたが、所詮は多勢に無勢・・・戦いの中で負傷した光季は、宿所に火を放ち、我が子とともに炎の中で自害します。
「光季、死す」
の一報を受けた後鳥羽上皇は、
「是非とも味方に引き入れ、コチラ側の大将にしたかったのに…」
と、その死を惜しんだという事です。
一方、もう一人の京都守護職であった大江親広(おおえのちかひろ=大江広元の長男)も藤原秀康からの出頭要請を受けますが、応じて向かった先で後鳥羽上皇から、
「義時に味方するんか、こっちに付くんか、今ここで返答せいや!」
とスゴまれ、やむなく京方に従う事になったとか・・・
そうこうしているうちに後鳥羽上皇の次の一手・・・
いよいよ、北条義時追討の院宣(いんぜん=上皇の意を受けた院司が発給する文書)を発給するのです。
「近曾(ちかごろ)関東成敗と称し
天下の政務を乱る
纔(わずか)に将軍の名を帯(お)ぶると雖(いえど)も
猶(なお)以って幼稚の齢(よわい)にあり
然(しか)る間、彼の義時朝臣(あそん)
偏(ひとへ)に言詞を教命に仮り
恣(ほしいまま)に裁断を都鄙(とひ=都市や地方)に致す
剰(あまつさ)へ己が威を輝かし
皇憲を忘れたるが如し
これを政道に論ずるに、謀反と謂(い)ふべし
早く五機七道の諸国に下知し
彼の朝臣の身を追討せしめよ…」
(このごろ、幕府の命令やって言うて、天下の政治は乱れてる。
将軍ではあるけど、本人は未だ幼いのに、その将軍の名を借りて義時が好き勝手に裁可を下してるだけやなく、
自分の威勢を笠に、まるで朝廷の定めた法令も忘れてるかのようや。
これって正しい政治の在り方から見たら謀反やろ。
早速全国に命令を下して、義時を追討せよ…)
(実際の追討令は、もう少し長文で、史料によって複数ありますが、その内容はだいたい、こんな感じです)
(*五畿=山城・大和・摂津・河内・和泉の5か国)
(七道=東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の7道)
さぁ、後鳥羽上皇からの義時追討令が出ました。
どうする?義時。
どうする?鎌倉。。。
なんせ、相手は天皇家ですからね~
しかも、後鳥羽上皇は、より多くの味方が得られるよう、ターゲットを、幕府ではなく義時一人に絞ったわけで。。。
本来なら、三浦胤義が言うように、誰も、天皇家に弓引こうなんて思いませんもの。。。
当然、動揺する幕府、動揺する御家人たち…
そこで、
そんな、ザワつく御家人たちの前に登場するのが、尼将軍=北条政子なのですが、
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そのお話は、北条政子の演説…からの~幕府軍が鎌倉を進発する5月22日のページ>>でどうぞ。。。
★せっかくの大河「鎌倉殿の13人」の当たり年なので、少々くわしくお話させていただくため、この後も何度か承久の乱の話題になる事、ご了承くださいませm(_ _)m
★承久の乱関連ページ
●【実朝の後継…北条政子上洛】>>
●【実朝暗殺】>>
●【阿野時元の謀反】>>
●【北条時房が武装して上洛】>>
●【源頼茂謀反事件】>>
●【義時追討の院宣発給で乱勃発】←今ココ
●【北条政子の演説と泰時の出撃】>>
●【承久の乱~木曽川の戦い】>>
●【承久の乱~美濃の戦い】>>
●【承久の乱~瀬田・宇治の戦い】>>
●【戦後処理と六波羅探題の誕生】>>
●【後鳥羽上皇、流罪】>>
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