承久の乱~幕府方と京方が木曽川に展開
承久三年(1221年)5月29日、後鳥羽上皇から出された北条義時討伐の院宣を受けた鎌倉幕府が、北条泰時を総大将に据えて鎌倉を進発したという一報が、京都に届きました。
これにて、承久の乱が、武力×武力の決戦へと動きます。
・・・・・・・
まずは、これまでの経緯を…
(読んでくださった方&ご存知の方はスッ飛ばして下さい)
建保六年(1218年)2月:次期将軍に親王?>>
建保七年(1219年)1月:源実朝が暗殺さる>>
承久元年(1219年)4月:摂関家から将軍を>>
承久三年(1221年)4月:乱の準備で天皇交代>>
├5月15日:北条義時討伐の院宣発給>>
├5月19日:北条政子の演説で潮目が変わり↓
└5月22日:北条泰時が京へ進発>>
・‥…━━━☆
とにもかくにも、後鳥羽上皇(ことばじょうこう=第82代天皇)から、幕府執権(しっけん=将軍補佐・政務の長)の北条義時(ほうじょうよしとき)の討伐の命令が出された事で、討伐軍が京都から発信する前に先手必勝とばかりに、総大将となった北条泰時(やすとき=義時の長男)が、わずか18騎で以って鎌倉を進発したのは承久三年(1221年)5月22日早朝の事でした。
その日のうちに、北条時房(ときふさ=政子&義時の異母弟)、
足利義氏(あしかがよしうじ=義時の甥で泰時の娘婿)、
三浦義村(みうらよしむら=有力御家人)&泰村(やすむら)父子が、相次いで出撃し、
北条朝時(ともとき=義時の次男)も北陸道の大将軍として鎌倉を進発しました。
一方、名指しされた北条義時に、大江広元(おおえのひろもと=政所別当)や三善康信(みよしのやすのぶ=問注所執事)などの幕府文官、院宣の宛先だった小山朝政(おやまともまさ=幕府宿老)や宇都宮頼綱(うつのみやよりつな=幕府御家人)ら幕府重臣たちは鎌倉に残り、必勝祈願や軍勢の調整に力を注ぎます。
『吾妻鏡』によれば、最初の一団が出た5月22日から25日の早朝までに、ほとんどの東国の武将たちが次々に出撃し、それぞれが3方に分かれて京都へと向かうのですが、その数は、
北条泰時率いる東海道=10万、
武田信光(たけだのぶみつ=甲斐源氏)率いる東山道=5万、
北条朝時率いる北陸道=4万の、
総数=19万の大軍となったと言います。
かくして承久三年(1221年)5月29日、「北条時房&泰時らが大軍を率いて上洛の途にある」との急報が京都に届けられます。
「まさか!」・・・
予想外の展開に揺れ動く京方(後鳥羽上皇方)
なんせ後鳥羽上皇側についた三浦胤義(たねよし=義村の末弟)の言い分では、
「勅書(ちょくしょ=天皇の命令書)が出て、北条が朝敵(ちょうてき=国家の敵)となったなら、味方する者なんか千人もいてませんて!」
とか、
「僕が、義時が油断するような手紙を、鎌倉のアニキ(義村)宛てに出しときますから、こんなんボロ勝ちでっせ!」
てな勢いでしたから、、、
確かに、この言葉は、油断でもオーバーでもなく、
「おそらく天子様に弓引くなどという大それた事をする御家人はいるまい」
という考えが、実際に京方にはあったのです。
現に、院宣が発給された当初は、幕府も動揺しました。
しかし、あの北条政子(まさこ=源頼朝妻で義時の姉)の涙の演説で、義時一人に出された追討命令を幕府全体の危機にして見事に潮目を変え、「いざ!鎌倉」(参照>>)とばかりに御家人のテンションは最高潮・・・となったわけで、
とは言え、そんな経緯を知らない京方は、この5月29日の一報を受けてもなお「本当に?」「誤報やないん?」と揺らいでいましたが、
そんなこんなの6月1日、ここに来て、先日、幕府に捕縛された院の下部(しもべ=上皇の雑用係)の押松(おしまつ)が院御所(いんごしょ=上皇の居所)に帰還し、北条義時の放った言葉をそのまま伝えます。
「山道・海道・北陸道の三方から19万の精鋭が行きますさかいに、西国の武士を召集されて合戦でもさせてみて、その様子を御簾(みす=高貴の方のすだれ)の隙間から、どうぞご覧になって下さい」
使者が義時から直接聞いた言葉・・・もはや、鎌倉方の出撃は疑いようもなく、ボヤボヤしてたら、ほどなく彼らがやって来ます。
後鳥羽上皇は、藤原秀康(ふじわらのひでやす)を追討使に据え、
「早急に軍勢を整えて迎撃せよ!」
との命令を下します。
いよいよ承久の乱が、直接の武力衝突となります。
6月3日、「鎌倉方が遠江(とおとうみ=静岡県西部)に着いた」との知らせが届く中、京方は公卿たちによる衆議が開かれ、藤原秀康を追討使に、敵方を迎え撃つべく、コチラも三方に分かれての軍勢の派遣が決定します。
藤原秀康&秀澄(ひでずみ)兄弟や佐々木広綱(ささきひろつな=西面の武士)ら近臣の武士に、 大内惟信(おおうちこれのぶ)や三浦胤義といった在京の幕府御家人のほか上皇に味方する軍勢・・・コチラは総数=19326騎(細かっ!ホンマかいな?)
このうち12000騎を東海道と東山道にある12の木戸=つまり12ヶ所の防柵に分散させるという藤原秀澄主導の作戦をとった・・・ていうけど、さすがに、はなから敵より少ない数なのに、さらに12か所に分けちゃったら、よほどのゲリラ的動きをせんと無理なような?
承久の乱美濃の戦い・進軍&位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
とにもかくにも、熱田神宮(あつたじんぐう=愛知県名古屋市熱田区)を経て、6月5日に尾張一宮(おわりいちのみや=愛知県一宮市)に到着した幕府軍が軍議を開き、
鵜沼の渡(うぬまのわたり=岐阜県各務原市東部)、
池瀬(いけせ=同各務原市付近:伊義の渡)、
板橋(いたばし=同各務原市付近)、
摩免戸(まめど=同各務原市前渡)、
墨俣(すのまた=岐阜県大垣市)
の5ヶ所の要害に兵を差し向け、特に重要な場所である摩免戸に北条泰時と三浦義村など、墨俣に北条時房と安達景盛(あだちかげもり)などといったメインメンバーを向かわせますが、
奇しくも、この重要地点は京方の配備と、まるかぶり=上記の京方が兵を分散して向かった12ヶ所のうちの5ヶ所でした。
(他の場所=阿井渡・火御子・食渡・上瀬・市脇・大井戸渡・?)
いよいよ一触即発の雰囲気!
…なんですが、実は、この時・・・
すでに美濃(みの=岐阜県南部)大井戸(おおいど=岐阜県可児市土田)近くまで到着していた東山道の幕府方を任された武田信光は、木曽川を前にして、ともにいる小笠原長清(おがさわらながきよ=甲斐源氏一族)に、
「鎌倉勝タバ鎌倉ニ 京方勝タバ京方ニ付ナンズ」=つまり
「鎌倉が勝ちそうなら鎌倉に味方し、京方が勝ちそうなら京方に味方しよ…これこそが武士や!」
と言っていたのだとか・・・
ま、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、この方の父である武田信義(のぶよし)役の八嶋智人さんが、
「わしは一度も頼朝を主人と思った事ないわ~!」
と叫んではりましたから、息子さんも、さもありなんて感じでしょうね~
ところが、武田主従のそういう出方を予想していた北条時房は、ここぞ!というタイミングで、
「渡河作戦が成功したら、美濃・尾張・甲斐・信濃(しなの=長野県)・常陸(ひたち=茨城県)・下野(しもつけ=栃木県)の6ヶ国を保証しますよ」
と、
後鳥羽上皇の、単に「褒美を与える」「院庁への参上を許可する」といった曖昧な提示とは対照的に、具体的な国名を出して、その武士魂をくすぐったのだとか・・・
より確実な恩賞の提示に気を良くした武田&小笠原は、すぐさま木曽川を渡り、
いよいよ京方と幕府方の木曽川美濃の戦いとなりますが、
そのお話は長くなりそうなので、決戦の行われた日付=6月6日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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