大坂の陣で捕まった長宗我部盛親…処刑までの最後の4日間
慶長二十年(元和元年・1615年)5月11日、大坂夏の陣での敗戦を受けて逃亡していた 長宗我部盛親が捕らえられました。
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長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、四国を統一するも豊臣秀吉(とよとみひでよし)に敗れて(【一宮城攻防戦】参照>>)配下となり、土佐(とさ=高知県)一国を預かる大名として存続した猛将=長宗我部元親(もとちか)の四男です。
父亡き(5月19日参照>>)後、家督を継ぎますが、あの関ヶ原の戦いで、事実上の参戦はしなかったものの、西軍の一員として南宮山(なんぐうさん)に布陣していた事から、勝者である東軍の徳川家康(とくがわいえやす)に謝罪し、領国安堵の交渉に入っていましたが、その交渉の窓口であった兄の津野親忠(つのちかただ)とモメて殺害してしまい、激おこの家康から土佐を没収されてしまいました。
そのため、土佐は山内一豊(やまうちかずとよ)に与えられ、盛親自身は浪人の身となってしまったのです(【浦戸一揆】参照>>)。
その後、京都にて寺子屋の先生をして生計を立てていたところ、ご存知、大坂の陣の勃発で豊臣家からお誘いを受け、真田幸村(さなだゆきむら=信繁)や毛利勝永(もうりかつなが=吉政)らと同様に、慶長十九年(1614年)の10月7日に大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に入城しました(10月7日参照>>)。
その後、大坂冬の陣→夏の陣を経て
(詳しい経緯は【大坂の陣の年表】>>で)
(盛親活躍は【夏の陣~八尾の戦い】>>)
…で、ご存知のように慶長二十年(1615年)5月8日、大坂城は落城します(5月8日参照>>)。
この日、炎に包まれる大坂城から脱出した盛親は、北へ北へと逃れ、八幡(やわた=京都府八幡市)の橋本(はしもと)近く、淀川沿いの葦(よし)の河原に潜んでいましたが、ある日、その隠れ家に家臣の中内三安(なかうちみつやす=惣右衛門)が食べ物を持って行こうとしていた所を、一人の足軽が目に止めます。
その足軽は、もとは土佐の人で、中内とは顔見知り・・・そこで、すぐさま戻って、現在所属している蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)配下の長坂三郎左衛門(ながさかさぶろうざえもん)に、その事を報告したのです。
かくして慶長二十年(元和元年・1615年)5月11日、長宗我部盛親は、中内といっしょにいる所を長坂に捕縛されてしまったのです。
伏見(ふしみ=京都市伏見区)に護送される盛親は、
「あの時、赤備え(井伊直孝隊)に妨害されて藤堂高虎(とうどうたかとら)の首が取れんかった事が無念や!」
5日前の八尾の戦いの事を悔しがっていたとか・・・
やがて伏見の城に到着・・・その玄関口に連座するは、
かの井伊直孝(いいなおたか)と安藤重信(あんどうしげのぶ)と土井利勝(どいとしかつ)。
彼らが合戦についての尋問をすると、盛親は、
「6日の晩に決死の反撃をしようと思っていたが、軍兵も疲れていて残念やった」
と述べたという。
この時、格子の向こうで、前面に2~3人の近臣を立たせて、その影から自分を見ている徳川秀忠(ひでただ=家康の三男・2代将軍)に気づいた盛親は、怯むことなく、キ~ッと秀忠を睨みつけたとか。。。
その後、白洲(しらす=裁きの場)に引き出された盛親は、中央に座る秀忠に代わって、側の侍が、
「数千の兵を預かる大将が、本来なら自害すべきところを、そうしないのはなぜか?」
と尋ねると、
「一方の大将たる者、端武者(はむしゃ)みたいに軽々しく討死すべきではないです」
と、そこには、
「何が何でも命をつなぎ、少しでもチャンスがあれば、再び兵を起こして汚名を雪ぎたい」
という思いが込められていたのです。
やがて引っ立てられていった牢では、ご飯をうずたかく盛って罪人に差し出すかような出され方をされた時、その警固の者に対して、
「あんな、昔から、どんな名将でも捕まる時は捕まるねんから、捕まる事は恥とは思えへんけど、こんな下品な食事を出されんのは屈辱や!それやったら、さっさと首をはねてくれへんかな?」
とスゴんだのです。
その場に、たまたま通りがかった井伊直孝が、その様子を見て、
「確かに、礼法も何もないですな~」
と、厨房に命じて、料理を整えさせ、
盛親の縄を解いて座敷に招き入れ、
「疲れをお休めください」
と、丁寧に対応したところ、
「おぉ、これぞ礼儀を知る武士道やの~」
とご機嫌で、敗者として怯える様子はみじんも無い、堂々たる姿だったのだとか・・・
こうして、捕縛から4日後の5月15日、盛親は京都市中を引き回された後、六条河原(ろくじょうがわら=鴨川の河原の刑)にて処刑されたのです。
(内容カブってるし、ずいぶん昔(2008年)のページですが、処刑された日付けでupした【長宗我部盛親~起死回生を賭けた大坂夏の陣】>>もどうぞ)
ちなみに、ともに捕まった中内は、主君に最期までつき従った忠誠心が買われて助命され、その後は蜂須賀の家臣となったそうですが、盛親の子供たちは・・・
長男は伏見で斬首、土佐に逃げた次男と三男は山内一豊に処刑され、四男&五男も八幡にて捕縛されて処刑されたため、これにて長宗我部氏は滅亡となりました。
一説には、慶安四年(1651年)に德川幕府転覆を企てる由比正雪(ゆいしょうせつ)(7月23日参照>>)の一番弟子とされる丸橋忠弥(まるばしちゅうや)が盛親の息子(側室の子)という噂もありますが、確かな話ではありません。
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コメント
6年前の大河ドラマ・真田丸では阿南さんが演じていましたね。今回の鎌倉殿の13人では土肥実平役ですね。
10年ほど前に大学野球の選手で長宗我部元親の末裔と言う人がいました。苗字はそのまま「長宗我部」でした。以前にも言及したかもしれません。
さらに先日、あるBSの番組で「夫人の先祖が長宗我部元親の家老」であると、番組に出ていたお笑い芸人さんが言及していました。
投稿: えびすこ | 2022年5月30日 (月) 11時35分
えびすこさん、こんばんは~
戦国時代くらいからは武家の苗字をそのまま末裔が受け継いでいる方が、けっこうおられますね。
知り合いには奈良の筒井さんや姫路の小寺さんがいますww
私も、元瀬戸内の村上ですが…(#^o^#)
投稿: 茶々 | 2022年5月31日 (火) 02時13分