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2022年6月29日 (水)

信長より三好より先に京を制す~柳本賢治の波乱万丈

 

享禄三年(1530年)6月29日、播磨依藤城を攻撃中の柳本賢治が、細川高国方の放った刺客に殺害されました。

・・・・・・

柳本賢治(やなぎもとかたはる)の出自は、厳密には不明なのですが、一般的に、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川勝元(ほそかわかつもと)に仕えた波多野清秀(はたのきよひで)の息子と考えられています。

かの応仁の乱にて武功を挙げた波多野清秀は、細川勝元亡き後、その息子で管領となっていた細川政元(まさもと=24・26・27・28代管領)から丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)多紀郡(たきぐん=現在の丹波篠山周辺)を与えられた後、さらに政元配下として、丹波一国から摂津(せっつ=大阪府北中部)へと勢力を延ばしつつありました。

一方、主君の細川政元は、明応二年(1493年)に、時の将軍である足利義稙(よしたね=義材・第10代将軍)を廃し、自らの思うままの足利義澄(よしずみ=第11代将軍)を擁立するという明応の政変(4月22日参照>>)なるクーデターを成功させ、事実上政権トップの座を手に入れましたが、

その政元が永正四年(1507年)6月に、実子がいないまま暗殺(6月23日参照>>)されると、
関白・九条政基(くじょうまさもと)の息子=澄之(すみゆき)
阿波(あわ=徳島県)の細川家から来た澄元(すみもと)
備中(びっちゅう=岡山県)細川家の高国(たかくに)
という3人の養子の間で後継者争いが勃発・・・

ここで、亡き父の後を継いでいた波多野元清(はたのもときよ=稙通 )細川高国を支持・・・高国は「敵の敵は味方」とばかりに、細川澄元と協力して、養父の死からわすが2か月後の8月に百々橋(どどばし=京都市下京区)の戦い澄之を追い落としました(8月1日参照>>)

この戦いで澄之配下として参戦して戦死した香西元長(こうざいもとなが)讃岐(さぬき=香川県)の領地を、波多野元清の弟が継ぎ、香西元盛(こうざいもともり)と名乗ります。

しかし案の定、共通の敵がいなくなると、今度は、この高国と澄元が後継者を巡って争う事に・・・

やがて周防(すおう=山口県)の大物=大内義興(おおうちよしおき)を味方につけた高国は、亡き政元に追放されていた前将軍の義稙を奉じて京へと上り、永正八年(1511年)8月の船岡山(ふなおかやま=京都市北区)の戦いで勝利(8月24日参照>>)し、澄元は一旦、地元の阿波へと逃亡・・・おかげで足利義稙は将軍に復帰します。

しかし態勢を立て直した澄元が、阿波から家臣の三好之長(みよしゆきなが)を連れて舞い戻った永正十七年(1520年)1月、腰水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)を攻撃された高国らは、やむなく近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと退き(1月10日参照>>)ますが、この時、「ともに近江へ…」と高国から誘われた足利義稙は同行を拒否し、以後、澄元についたのです。

ところが、その4か月後の5月、近江守護の六角氏(ろっかくし)をはじめとする多くの援軍を得た細川高国が等持院表(とうじいんおもて=京都市北区)の戦いにて澄元に勝利します(5月5日参照>>)

細川澄元は再び四国に逃亡し、捕縛された三好之長は切腹・・・この時に戦死した澄元派の柳本長治(やなぎもとながはる)の後継として柳本氏を継いだのが波多野元清&香西元盛兄弟のさらに弟の柳本賢治=本日の主役という事になります。
Yanagimotosoukanzu
長い前置きになって申し訳なかったですが、とにもかくにも、波多野元清&香西元盛&柳本賢治の三兄弟は、常に細川高国と行動をともにし、養子同士の後継者争いに打ち勝った高国は、先の明応の政変で擁立された足利義澄の息子=足利義晴(よしはる)第12代室町幕府将軍として迎えてその補佐をし、まさに我が世の春を迎えるわけですが・・・

そんなこんなの大永六年(1526年)7月、高国の従兄弟である細川尹賢(ほそかわ ただかた)が、「香西元盛が敵対勢力=澄元らに内通している」と高国に告げ口・・・このフェイクニュースを信じた高国が香西元盛を殺害してしまった事から、波多野元清&柳本賢治兄弟は激怒して、波多野元清は八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)に、柳本賢治は神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)と、それぞれ自身の城に籠城します。

これに驚いた高国が、自軍で以って神尾山城を攻めますが、柳本賢治は、これを撃破!(10月23日参照>>)

しかも、完全に高国から離反した波多野&柳本兄弟が、高国と敵対して四国へ去り、その後その地で亡くなった細川澄元の息子=細川晴元(はるもと)と連携を取った事から、

この絶好のタイミングで、晴元は配下の三好元長(もとなが=三好之長の息子or孫)引き連れて渡海・・・この晴元勢と合流した柳本賢治は、大永七年(1527年)2月の桂川原(かつらかわら)の戦いへと持ち込み(2月13日参照>>)見事勝利して、またもや高国と将軍=義晴を近江坂本へと退かせたのです。

敵が去った京都を、山崎城(やまざきじょう=京都府乙訓郡大山崎町)にて支配する柳本賢治は、その1週間後の2月19日からは、未だ残る高国派の一掃をはかるべく、伊丹元扶(いたみもとすけ)伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)を包囲します。

しかし、その堅固さを武器に籠城し、高国らの勢力回復の時間稼ぎをする伊丹城は、なかなか落ちず・・・

一方、その間、細川晴元と三好元長は(さかい=大阪府堺市)に、四国にて晴元とともにいた足利義維(よしつな=義晴の弟)を呼び寄せて、義維を堺公方(さかいくぼう)に擁立し、事実上の堺幕府が誕生します(3月1日の真ん中あたり参照>>)

9月に入って、ようやく落ち着いた三好元長が柳本賢治に加勢すべく伊丹城にやって来ますが、やっぱり落ちない伊丹城・・・

そうこうしている10月に、今度は、態勢を整えた細川高国が、足利義晴の呼びかけに応えた近江守護(しゅご=南部滋賀県知事)六角定頼(ろっかくさだより)越前守護(東部福井県知事)朝倉孝景(あさくらたかかげ)らの支援を受けて入京して来たため、柳本賢治はやむなく伊丹城の包囲を解いて、京都の西郊へと退きました。

この頃の畿内は、京都を制した柳本賢治と河内(かわち=大阪府東南部)に展開する三好元長の勢力に堺の細川晴元・・・そこに細川高国らの思惑が火花を散らしたり治まったりを繰り返す混沌とした雰囲気を醸し出していたのですが、

そんな中の享禄元年(1528年=大永八年・8月に改元)8月、柳本賢治らを重用する細川晴元と対立した三好元長が阿波に帰ってしまうという事件が起こります。

その一方で、この年の11月に、柳本賢治がようやく伊丹城を落城させた事で、細川晴元は、この伊丹城を配下の高畠長直(たかばたけながなお)に守らせました。

しかし、ここに来て、細川高国に更なる味方が・・・

それは備前(びぜん=岡山県東南部)三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)浦上村宗(うらがみむらむね)・・・浦上村宗が畿内を脅かし始めた事で、柳本賢治は細川晴元に足利義晴との和睦を進言しますが、晴元は
「足利義維はんがおるのに、無理やろ」
と聞く耳持たず・・・

そのため、享禄三年(1530年)5月に柳本賢治は、幕府政所執事(さむらいどころしつじ=政務の長官)伊勢貞忠(いせさだただ)と結託して利義晴の帰京を画策しますが、空しく失敗・・・

その落胆も癒えぬ間に、今度は東播磨(はりま=兵庫県西南部)別所就治(べっしょなりはる)からの援軍要請が舞い込んで来ます。

実は、この別所就治・・・以前から、この東播磨の地を依藤氏(よりふじし=依藤弥三郎?)と取ったり取られたりしていたのですが、ここに来て、その依藤氏が浦上村宗の支援を受けて力をつけ、別所就治の三木城(みきじょう=兵庫県三木市)を脅かすようになっていたのです。

そこで、別所就治の要請を受けた柳本賢治は播磨へと出陣・・・依藤城(よりふじじょう=兵庫県加東市・小沢城)を攻撃します。

押しては退き、退いては押す籠城戦は、約1ヶ月半に渡る激戦となりますが、その戦いの終わりは、あっけなくやって来るのです。

享禄三年(1530年)6月29日浄春坊(じょうしゅんぼう)なる山伏が夜陰に紛れて柳本の陣所に忍び込み、昼間の合戦の疲れを癒すべく酒を飲んでいた柳本賢治を刺殺したのです。

浄春坊は、細川高国と組む浦上村宗の被官(ひかん=近臣)である 中村助三郎(なかむらすけさぶろう)が放った刺客だったのです。

総大将を失った軍は哀れ・・・これをキッカケに襲い掛かる依藤軍によって、瞬く間に100人ほどが討たれ、柳本軍は、依藤城から撤退せざるを得ませんでした。

この柳本賢治の死をキッカケに挽回しはじめた細川高国は、別所就治の三木城に、先の伊丹城、さらに尼崎城(あまがさきじょう=兵庫県尼崎市)をも落とす快進撃を見せますが、

これで、柳本賢治を失ったヤバさを痛感した細川晴元が、阿波に引き籠っていた三好元長を呼び戻した事で形勢逆転・・・

細川高国は翌享禄四年(1531年)6月の大物崩れ(だいもつくずれ)天王寺の戦いで敗れ、自刃しました(6月8日参照>>)

一方、亡くなった柳本賢治の後継は、息子の虎満丸(とらみつまる)が幼かった事から、一族の柳本甚次郎(じんじろう=神二郎)が当主名代を務め、晴れて細川管領家の後継者となった細川晴元の配下となりますが、

この翌年の享禄五年(1532年)、細川晴元と、またまた袂を分かった三好元長に居城を攻められ、柳本甚次郎は討死・・・

この一件によって細川晴元と三好元長の関係はさらに悪化していく事になり、それは天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)から、大和一向一揆へと進み、三好元長が自刃するまで(7月17日参照>>)続く事になります。

・‥…━━━☆

「京を制すれば天下を制す」と言われた時代(この時代の天下は畿内ですが…・・・思えば、織田信長(おだのぶなが)はもちろん、三好長慶(ながよし)よりも先に、京都を制したのは、ひょっとして柳本賢治って事になる?

もちろん、その前に細川政元もいるし、その養子たちの取ったり取られたりもあるし、なんたってこの時代には足利将軍という存在があるわけですが、なんだかんだで彼らは「超えぇトコのボンボン」なわけで、いわゆる下剋上絡みの戦国武将的な人たちではない・・・

そういう意味で、柳本賢治という人は、かなり貴重な存在ですが、回りと比べると、知名度的にはちょっと低い感じ???

結果的には、ただ「京都を制する権」を細川高国から細川晴元にバトンタッチさせただけの役割のようになってしまった事が残念ですね。

ちなみに、三好元長亡き後、その息子である三好長慶の登場は、もう少し先・・・天文十五年(1546年)9月の【最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転】>>でどうぞm(_ _)m
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2022年6月23日 (木)

承久の乱終結~戦後処理と六波羅探題のはじまり

 

承久三年(1221年)6月23日、北条泰時による「承久の乱に勝利」の報告が鎌倉にいる北条義時のもとに到着しました・

・・・・・・

後鳥羽上皇(ことばじょうこう=第82代天皇)が、幕府執権(しっけん=将軍補佐・政務の長)北条義時(ほうじょうよしとき)討伐の命令を出した事に始まる承久の乱(じょうきゅうのらん)・・・

これまでの経緯↓
(読んでくださった方&ご存知の方はスッ飛ばして下さい)

建保六年(1218年)2月:次期将軍に親王?>>
建保七年(1219年)1月:源実朝が暗殺さる>>
承久元年(1219年)4月:摂関家から将軍を>>
承久三年(1221年)4月:乱の準備で天皇交代>>
 ├5月15日:北条義時討伐の院宣発給>>
 ├5月19日:北条政子の演説で潮目が変わり↓
 ├5月22日:北条泰時が京へ進発>>
 ├5月29日:幕府軍の出撃を京方が知る>>
 ├6月 6日:美濃の戦いに幕府方が勝利>>
 └6月14日:瀬田・宇治の戦いに幕府方が勝利>>

と、瀬田と宇治での戦いに勝利した北条泰時(やすとき=北条義時の長男)率いる幕府軍が、翌6月15日に京都に進入して京方(後鳥羽上皇方)の諸将が各地へと落ちて行った事で、承久の乱における直接対決は終了する事になりました。

・‥…━━━☆

入京した幕府軍は、その足で、かつては、あの平清盛(たいらのきよもり)が拠点の一つとした六波羅(ろくはら=鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯)に到着し、以後、ここを拠点として戦後処理に入る事になりますが、これが後に六波羅探題(ろくはらたんだい)と呼ばれる京都守護職に代わる鎌倉幕府の出先機関の始まりとされます。

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六波羅探題跡に建つ六波羅蜜寺

未だ、市中の京方諸将の宿所にて火の手が上がり、次々と敵方が捕縛される中、大将軍の北条泰時はもちろん、北条時房(ときふさ=義時の異母弟)三浦義村(みうらよしむら=有力御家人)毛利季光(もうりすえみつ=大江広元の四男)をはじめとする有力武士たちが、六条河原にて、勅使(ちょくし=天皇の使者)小槻国宗(おづき のくにむね)らと対面する事になります。

もちろん、その勅使が持って来たのは院宣(いんぜん=上皇の文書)・・・そこには、この乱における最重要課題である「北条義時追討の宣旨の撤回」とともに、「帝都での狼藉禁止」「申請による聖断(幕府の申請通りに天皇が命を下す)が記されておりました。

北条泰時は即座に内容を承諾・・・鎌倉武士たちが禁中(天皇の宮城)に参入しない事を約束するとともに、すでに「関東にて命を受けている」として、三浦義村に宮中の警固をするよう示唆したのです。

翌6月17日(24日とも)には、北陸道を進んでした北条朝時(ともとき=北条義時の次男)率いる別動隊も入京し、6月19日には、藤原秀康(ふじわらのひでやす=追討使)以下
「逃亡した京方を追討せよ」
の宣旨が下されますが、

それに前後して北条泰時が発進した「戦勝報告」の飛脚が鎌倉に到着したのは、承久三年(1221年)6月23日未明の事でした。

京方との合戦に勝利し、天下が治まった事を細かに報告する息子からの書状を読んだ北条義時は、
「今は、もう、思う事もないわ~俺の幸運は王の幸運にも勝るよな。ただ、前世の行いがちょっと悪くて、(王よりは低い)武士という身分に生まれてもたというだけやな」
と喜びをあらわにしたとか・・・

とは言え、ここまでの大ごと・・・喜んでばかりはいられませんから、早速、その日のうちに大江広元(おおえのひろもと=幕府官僚)が、先の平家滅亡時の前例に基づく様々な落としどころを指示する文書を書いて使者の安藤光成(あんどうみつなり=北条家の御内人・被官)に持たせ、その安藤には義時自身が直接、内容についての事細かな指示を伝えるという徹底ぶりでした。

  • 持明院宮(じみょういんの みや)守貞親王(もりさだしんのう=母は藤原殖子)(太政天皇)
  • 守貞親王の第三皇子=茂仁親王(とよひとしんのう=後堀河天皇)天皇
  • 本院(後鳥羽上皇)隠岐(おき=島根県の北の隠岐の島)流罪
  • 宮々(後鳥羽上皇の皇子ら)は泰時の判断で適切な場所に流罪
  • 公卿殿上人坂東に下向させ、それ以下の身分の者は斬首
  • 都での狼藉禁止…破った者は鎌倉方の者でも斬首せよ

てな感じの内容。。。

ちなみに、
義時によって院とされた上記の守貞親王という人は、亡き高倉天皇(たかくらてんのう=第80代・後白河の第7皇子)の第2皇子で後鳥羽上皇のお兄さん。

ご存知のように、この高倉天皇の第1皇子であった安徳天皇(あんとくてんのう=第81代・母は平徳子)は、かの平家の都落ち(7月25日参照>>)の時に同行して、あの壇ノ浦で海に沈んでいます(3月24日参照>>)が、

この時に第2皇子であった守貞親王も、平家と行動をともにしていたために、源氏の世となるにあたって後白河法皇(ごしらかわほうおう=77代天皇)の意向によって、都に残っていた皇子の中から第4皇子の尊成親王=後鳥羽天皇を第82代天皇に

となったわけですが、今回、その後鳥羽上皇がこうしてこうなったために、平家都落ちの際は未だ幼くて本人の意思とは関係ないであろうからと、守貞親王が院政を行い、その皇子である茂仁親王を第83代天皇にとなったわけです。

一方、京都では、高陽院(かやのいん=京都市中京区:後鳥羽上皇の院御所)に、未だ京方の残党が隠れている事を警戒した北条泰時らによって、後鳥羽上皇は四辻殿(よつつじどの=院御所の一つ)、同調した土御門上皇(つちみかどじょうこう=後鳥羽の第1皇子・83代天皇)(10月11日参照>>)順徳上皇(じゅんとくじょうこう=後鳥羽の第3皇子・84代天皇)(12月28日参照>>)雅成親王(まさなりしんのう=後鳥羽の皇子)頼仁親王(よりひとしんのう=後鳥羽の皇子)らは元の御所にお戻りいただき、

6月20日には幼き仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう=順徳の第4皇子)里内裏(さとだいり=皇居)に・・・と、かの指示書が鎌倉から到着する前に動きはじめていたのです。

さらに6月25日からは京方に与した公卿らが次々と六波羅に移される中、6月29日には、かの安藤光成が京都に到着した事から、北条泰時らは指示書の内容を次々に実行していく事になります。

7月9日には、仲恭天皇から茂仁親王への譲位がなされ(即位は12月)、その後は父の院政のもと第86代・後堀河天皇(ごほりかわてんのう)となり、今回の乱におけるゴタゴタは、おおむね終焉を迎える事となります。

一方、敗れた京方の張本人=後鳥羽上皇のその後は・・・2月22日のページ【後鳥羽上皇、流人の旅路】>>でご覧あれm(_ _)m

★関連ページ・・・
 ●【明恵上人と北条泰時】>>
 ●【北条義時の最期】>>
 ●【北条政子の最期】>>
 ●【御成敗式目の制定】>>
 ●その他モロモロは【鎌倉時代の年表】>>からどうぞ。
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2022年6月14日 (火)

承久の乱の山場~瀬田・宇治の戦い

 

承久三年(1221年)6月14日、承久の乱の山場となる瀬田・宇治の戦いが展開されました。

・・・・・・・・・・

後鳥羽上皇(ことばじょうこう=第82代天皇)が、幕府執権(しっけん=将軍補佐・政務の長)北条義時(ほうじょうよしとき)討伐の命令を出した事に始まる承久の乱(じょうきゅうのらん)・・・

これまでの経緯は…
(読んでくださった方&ご存知の方はスッ飛ばして下さい)

建保六年(1218年)2月:次期将軍に親王?>>
建保七年(1219年)1月:源実朝が暗殺さる>>
承久元年(1219年)4月:摂関家から将軍を>>
承久三年(1221年)4月:乱の準備で天皇交代>>
 ├5月15日:北条義時討伐の院宣発給>>
 ├5月19日:北条政子の演説で潮目が変わり↓
 ├5月22日:北条泰時が京へ進発>>
 ├5月29日:幕府軍の出撃を京方が知る>>
 └6月 6日:美濃の戦いが終結>>

木曽川(きそがわ)を挟んだ美濃の戦いに押し勝った幕府軍に、やむなく撤退する京方(後鳥羽上皇側)・・・いよいと京都周辺での合戦へとなだれ込みます。

・‥…━━━☆

承久三年(1221年)6月7日の軍議にて
瀬田(せた=滋賀県大津市)北条時房(ときふさ=政子&義時の異母弟)
手上(たのかみ=同大津市)武田信光(たけだのぶみつ=甲斐源氏・信義の息子)安達景盛(あだちかげもり)
宇治(うじ=京都府宇治市)北条泰時(ほうじょうやすとき=義時の長男・幕府軍総大将)
芋洗(いもあらい= 京都府久世郡久御山町東一口付近)毛利季光(もうりすえみつ=大江広元の四男)
淀渡(よどのわたり=京都府京都市伏見区西南部)三浦義村(みうらよしむら=有力御家人・三浦氏当主)結城朝光(ゆうきともみつ=有力御家人・結城氏当主)
を向かわせる事に決定した幕府軍。。。。

翌日の6月8日には、北陸道を行く北条朝時(ともとき=義時の次男)の軍勢が、砺波(となみ=富山県礪波市)にて越中の京方を打ち破って、京に向け進軍中・・・との報告を受けた幕府軍は、6月12日には東海道の野路宿(のじじゅく=滋賀県草津市)に陣を敷き、しばしの休憩を取ります。

一方、この同じ12日、京方も、
瀬田の山田重忠(やまだしげただ=山田重広・山田重定・泉重忠とも)はじめ、宇治周辺の要衝に藤原秀康(ふじわらのひでやす)秀澄(ひでずみ)父子や三浦胤義(みうらたねよし=三浦義村の弟)佐々木広綱(ささきひろつな=西面の武士)などを配置し、やって来る幕府軍に備えます。

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承久の乱~瀬田・宇治の戦いの幕府軍進路図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

翌13日の夕刻=18時頃から、雨が降りしきる中、幕府軍の面々が次々と出陣して行きましたが、北条時房が瀬田に着いた時には、すでに瀬田の唐橋(せたのからはし=滋賀県大津市瀬田の瀬田川に架かる橋)の中ほどの二間(にけん=約3.6m)の板が引き落とされており、

その向こうには、外した板を縦に並べて盾とし、すでに(やじり)をコチラに向けた山田重忠が僧兵など3000騎を従えて待ち構えていたのです。

雨のために川は激流と化していて、とても渡れる状態では無かった事から、幕府方の武士たちは何とか橋を渡ろうと押し寄せますが、そこを京方が雨霰のごとく矢を射かけます。

やむなく橋げたから行こうとすると、そこを今度は、手慣れた薙刀で僧兵たちが襲い掛かりました。

苦戦する幕府軍・・・そこにやって来た宇都宮頼業(うつのみやよりなり=頼成)は、
「まともに橋を渡っては殺られる!」
とばかりに、少し川上に移り、そこから遠矢を放って対岸の京方や、舟に乗る敵を狙います。

あまりの激戦に、そのうち双方の矢の数も底が見え始めたため、この日の合戦は決着つかぬまま終わりました。

一方、同じ13日に開戦すべく宇治に向かった北条泰時でしたが、すでに前日12日に、三浦泰村(やすむら=三浦義村の息子)足利義氏(あしかがよしうじ=幕府御家人)らが泰時を待たずに宇治橋に攻め寄せたため、そこに待ち構える佐々木広綱らと激しい戦闘となり、すでに多くの死傷者が出ていました。

宇治に着いた泰時も、そのまま戦いに突入しますが、血気にはやる武士たちがやみくもに橋げたを渡ろうとし戦闘に苦戦するのを見た泰時は、
「これは川を渡らねば京方を破れない!」
と思い、その日の戦闘を中止し、平等院(びょうどういん=京都府宇治市)に陣を取ったところで、水泳の得意な芝田兼義(しばたかねよし)に命じて、川の中で渡れそうな浅瀬を探らせる事に・・・

前日からの大雨で増水した川はあちこちに白波が立つ状態でしたが、何とか真木島(まきしま=宇治川の中州・槙島)までたどり着き、そこにいた地元の老人から浅瀬の位置を聞き出します。
(ここで敵方の兵糧を奪い取ったとも、地元の老人を斬ったとも)

かくして承久三年(1221年)6月14日早朝(午前6時頃?)、北条泰時は、芝田兼義、佐々木信綱(のぶつな=佐々木広綱の弟)らに渡河を命じました。

北条義時から、御局(おつぼね)という駿馬を賜って大ハリキリの信綱は、先陣を切って進み、中洲に着く手前で、
「近江の住人、佐々木四郎左衛門尉源信綱(ささきしろうさえもんのじょうみなもとののぶつな)、今日の宇治河の先陣也(うじがわのせんじんなり)
と高らかに名乗りを挙げ、続く芝田兼義も中洲に上がって名乗りを挙げると、岸の鎌倉武士たちが一斉に川へ突入・・・京方は、そこに矢を放って防戦します。

さすがの鎌倉武士も、戦う前に川に流される者や矢に射抜かれる者が続出し、見かねた北条泰時は、息子の北条時氏(ときうじ=泰時の長男)を呼び寄せ、
「命捨てる覚悟で、とにかく対岸に渡って、敵の陣中に入れ!」
と命じます。

「承知!」
と、北条時氏が主従わずか6騎で、続く三浦泰村も5騎にて、敵の攻撃をかいくぐりつつ、何とか対岸にたどり着いた頃には、一旦中洲に上陸していた佐々木信綱も対岸に到着。。。

芝田兼義は馬を射られて少し流されたものの、得意の泳ぎで何とか踏ん張り、彼らに続くように上陸し、皆、そのまま流れるように敵陣に・・・

そんな中、尾藤景綱(びとうかげつな=北条得宗家被官)らが、近隣の民家を壊して筏を造り、北条泰時や足利義氏らが、それに乗って川を渡り始めます。

もちろん、この間も、ある者は溺れ、ある者は討たれながらも、鎌倉武士たちは、どんどん川を渡って行くわけで・・・

北条泰時の「川を渡らねば…!」の予想通り・・・川を渡ってさえしまえば、当然、もともとの数が多い幕府方が優勢になっていく。。。

やがて形勢は逆転します。

防戦もせず逃げ出す者、何とか抗戦するも力尽きる者・・・京方の姿が戦場から消えていきました。

その頃には瀬田で戦っていた北条時房率いる幕府軍も優勢となっており、淀や芋洗の毛利光季や三浦義村も敵を撃破・・・夜にはほとんどの京方の面々が京都へと逃げ帰った事で、

この日の戦いは幕府方の勝利となり、北条泰時は深草(ふかくさ=京都市伏見区)に陣を敷き、いよいよ明日、入京する事を皆々に伝えたのでした。

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宇治橋

一方、次々と帰京する京方の面々・・・14日の夜半、藤原秀康三浦胤義、山田重忠らが、後鳥羽上皇のおわす院御所の門前までやって来て、瀬田や宇治での敗戦を報告するとともに、
「我らは、御所に籠って敵勢を待ち受け、力の限り戦う様をお見せして、皆で討死する覚悟ですよって、門を開けてください!」
と奏上しますが、

後鳥羽上皇の返答は、
「君らが、ここに立て籠もったら、鎌倉武士がここを包囲して、(自分=後鳥羽上皇に)攻撃して来る事になるやん。そんなん困るわ~」

そして
「只今(ただいま)ハ トクトク何(いず)クヘモ引退(ひきしりぞ)ケ」
(こうなったら、どこへなりとも立ち去りなはれ)
と言い、門を開ける事も無かったとか・・・

後鳥羽上皇の態度に、驚き呆れた三浦胤義が、
「どうせなら、淀から入京して来る兄=三浦義村に思いの丈をぶつけて、その手にかかろう」
と覚悟して、東寺(とうじ=京都市南区九条町)に立て籠もっていたところ、

果たして翌朝、見慣れた「黄紫紅(きむらごう=三浦氏の三引両の紋章)」の旗を見つけた胤義・・・馬で以って駆け寄り、
「俺が謀反を起こしたんは、従兄弟の和田義盛(わだよしもり)を滅ぼすような北条義時と、根っからの友達やった兄ちゃんが嫌いやったからや!
そんな兄ちゃんに、京方へのお誘いの手紙書いた事は、一生の不覚やったわ!」
(【和田義盛の乱】参照>>)

その様子を見た三浦義村は
「無益なり」
と、弟と戦う事を避けて西へと退いたため、

やむなく胤義は、残った三浦配下の者たちと一戦交えた後、洛西へと落ちて行き、息子とともに自害したと言います。

また、やはり入京して来た幕府軍と最後まで戦おうと留まっていた山田重忠ら京方の勇士たちも、それぞれ一戦交えた後、ある者は嵯峨(さが=京都市右京区)方面へ、ある者は大江山(おおえやま=京都府福知山市と宮津市)へと落ち、それぞれ、そこで果てたとされます。

また、追討使(ついとうし=京方の総大将)に任命されていた藤原秀康は、後鳥羽上皇が「義時朝臣追討の宣旨(皇室の命令書)」を撤回して、今回の事は、
「謀臣(ぼうしん=逆心を持つ家臣)による企みで起こった」
として、逆に、「秀康逮捕の院宣」を出した事により、奈良(なら=奈良県)に潜伏していた所を、10月に捕縛され、息子の秀澄とともに斬られたという事です。

こうして承久の乱は、終焉を迎えたのです。

このあと、六波羅探題(ろくはらたんだい)の誕生など、戦後処理についてお話したいところですが、それは、6月23日の【承久の乱終結~戦後処理と六波羅探題のはじまり】>>でどうぞm(_ _)m

…にしても、今回、「謀臣による企み」として、すべての罪を部下になすりつけた感のある後鳥羽上皇ですが・・・

もちろん、上皇個人の責任逃れ的な部分は多少あったかも知れませんが、これは鎌倉幕府にとっても「良き落としどころ」であっような気がしてます。

罪に問われた方々はお気の毒ではありますが、もし後鳥羽上皇が「何が何でも自分の責任…自分が全部やった」と言い続けた場合、鎌倉幕府は天皇家自体を倒さない限り、ずっと朝敵であり謀反人なのかも知れないわけで・・・「なら、どうする?」って、もう、さらに悲惨な結果しか見えません。

それを考えると、ここでこうして終結するのが、1番良かったのかも知れません。

★その後の関連ページ・・・
 ●【戦後処理と六波羅探題のはじまり】>>
 ●【後鳥羽上皇、流人の旅路】>>
 ●【明恵上人と北条泰時】>>
 ●【北条義時の最期】>>
 ●【北条政子の最期】>>
 ●【御成敗式目の制定】>>
 ●その他モロモロは【鎌倉時代の年表】>>からどうぞ。
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2022年6月 6日 (月)

鎌倉幕府軍・西へ…承久の乱、美濃の戦い~山田重忠の奮戦

 

承久三年(1221年)6月6日、朝廷VS幕府の承久の乱にて、木曽川を挟んだ美濃の戦いが終わりました。

・・・・・・・

後鳥羽上皇(ことばじょうこう=第82代天皇)が、幕府執権(しっけん=将軍補佐・政務の長)北条義時(ほうじょうよしとき)討伐の命令を出した事に始まる承久の乱(じょうきゅうのらん)・・・

これまでの経緯は…
(読んでくださった方&ご存知の方はスッ飛ばして下さい)

建保六年(1218年)2月:次期将軍に親王?>>
建保七年(1219年)1月:源実朝が暗殺さる>>
承久元年(1219年)4月:摂関家から将軍を>>
承久三年(1221年)4月:乱の準備で天皇交代>>
 ├5月15日:北条義時討伐の院宣発給>>
 ├5月19日:北条政子の演説で潮目が変わり↓
 ├5月22日:北条泰時が京へ進発>>
 └5月29日:幕府軍の出撃を京方が知る>>

・‥…━━━☆

かくして美濃(みの=岐阜県南部)木曽川を挟んで、京方(後鳥羽上皇方)幕府方が布陣する中、幕府東山道の大将だった武田信光(たけだのぶみつ=甲斐源氏・武田信義の息子)大井戸(おおいど=岐阜県可児市土田)から木曽川を渡ったのは承久三年(1221年)6月5日の事でした。

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承久の乱美濃の戦い・進軍&位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

迎え撃つ京方も奮戦はしますが、はなから兵の数に大差ありで、どうにもならず・・・やがて、息子の 惟忠(これただ)の討死を知った大内惟信(おおうちこれのぶ)何処ともなく逃亡し、近くの阿井渡(あいのわたり)を守っていた蜂屋入道(はちやにゅうどう)は手傷を負ったために自害し、息子の鉢屋三郎 (さぶろう)戦死してしまいます。

この武田&小笠原隊の勢いに押される京方は、ズルズルと後退・・・それを追うように武田信光は、その矛先を木曽川の下流へと向け鵜沼の渡(うぬまのわたり=岐阜県各務原市東部)方面へと進撃していきます

鵜沼を守っていた京方の神地頼経(こうづちのりつね)は、
『承久記』では、「もはやこれまで!」と思い、幕府方総大将北条泰時(やすとき=北条義時の長男)のもとに投降するものの、「こうまでアッサリと主君を裏切るとは!」と激怒され、逆に殺されてさらし首となったとされますが、『吾妻鏡』では生け捕りにされた(つまり生きてる)事になってます。

一方、その、東海道を行く総大将の北条泰時を迎える池瀬(いけせ=同各務原市付近:伊義の渡)板橋(いたばし=同各務原市付近)の京方軍勢は、必死に防戦し幕府方に大きな損失を出しますが、所詮は多勢に無勢・・・いつしか力尽きて多くは戦死し、徐々に後退していきます。

京方&幕府ともに重要拠点と認識する摩免戸(まめど=同各務原市前渡)も、京方追討使(総大将)藤原秀康(ふじわらのひでやす)三浦胤義(みうらたねよし=三浦義村の弟)らが奮戦するも、最終的には退却するしかありませんでした。

翌6月6日早朝、北条有時(ありとき=義時の四男)北条時氏(ときうじ=泰時の長男・義時の孫)=ともに20歳前後の二人の若武者が率いる部隊が摩免戸を打ち破って京方に迫ると、もはや京方は矢を射る事も無く我先に西へ西へと敗走していくのですが、

そこを、山田重忠(やまだしげただ=山田重広・山田重定・泉重忠とも)鏡久綱(かがみひさつな=西面の武士の佐々木広綱の甥) が、何とか踏ん張って留まりますが、鏡久綱があえなく戦死したところで、やむなく山田重忠も退却します。

Yamadasigetada600 実は、この山田重忠・・・美濃源氏の流れを汲む名門出身ですが、父が源行家(みなもとのゆきいえ=源頼朝の叔父)(5月12日参照>>)に従ったり、自身も木曽義仲(きそよしなか=源義仲・頼朝の従兄弟)(1月21日参照>>)とともにいたりと、これまで、鎌倉よりは京都寄りの立ち位置ながら、何とかここまで生き残っていたわけで、

ここで一発!起死回生の生き残りとばかりに朝廷側につき、合戦前の軍議では京方一丸となっての先攻=積極策を進言していたものの、ビビる藤原秀澄(ひでずみ=藤原秀康の弟)その案を一蹴され、京方を12ヶ所に分散させて、やって来る敵を迎える消極的作戦を取ってしまい、上記のような退却に次ぐ退却となってしまっていたのです。

…で、結局、その京方東海道大将の藤原秀澄自身も、守りの要であった墨俣(すのまた=岐阜県大垣市)を捨てて退却を余儀なくされる事になったわけですが、

まだ諦めない山田重忠は、その後、約300騎を率いて東海道と東山道の合流地点である杭瀬川(くいせがわ=同大垣市・木曽川水系)に陣を構えて、やって来る幕府軍を待ち構えたのです。

そこにやって来たのは武蔵七党(むさしななとう=ほぼ東京都の武蔵を中心にした同族的武士団)の一つに数えられた児玉党(こだまとう)3000騎。。。

「美濃ト尾張ノ堺ニ 六孫王(ろくそんのう=清和源氏の祖・源経基の事)の末葉(ばつよう=末裔) 山田次郎重定(重忠)トハ我事ナリ」
と名乗りを挙げるや否や山田重忠は激しく斬りかかり、アッと言う間に100騎ほどの敵を仕留めます

その後も、退いては攻め、攻めては退いて…と巧みに軍勢を操り、命惜しまず戦いますが、なんせ敵は10倍の兵力・・・その差はいかんともしがたく、最後は、都目指して撤退するしかありませんでした。

こうして、承久の乱の美濃における戦いは、承久三年(1221年)6月6日・・・開戦から、わずか2日ほどで幕を閉じ、合戦の舞台は、いよいよ京都へ・・・

戦い終えた幕府軍は、6月7日、垂井(たるい=岐阜県不破郡垂井町)野上(のがみ)の宿にて軍議を開きます。

「北陸道を行く北条朝時(ともとき=義時の次男)の軍勢が上洛する前に、それぞれの要害に軍勢を派遣し、準備を整えておくべき」
という三浦義村(みうらよしむら=有力御家人・三浦氏当主)の進言を採用した幕府軍は、
瀬田(せた=滋賀県大津市)北条時房(ときふさ=政子&義時の異母弟)
手上(たのかみ=同大津市)に武田信光と安達景盛(あだちかげもり)
宇治(うじ=京都府宇治市)に北条泰時、
芋洗(いもあらい= 京都府久世郡久御山町東一口付近)毛利季光(もうりすえみつ=大江広元の四男)
淀渡(よどのわたり=京都府京都市伏見区西南部)に三浦義村と結城朝光(ゆうきともみつ=有力御家人・結城氏当主)
を向かわせる事を決定します。

そうこうしていた6月8日には、
「北陸道を行く別動隊が越中(えっちゅう=富山県)の京方を打ち破って進軍中」
の情報が寄せられ、ほどなく合流できるであろう事に安堵する幕府軍・・・

一方、そんな6月8日には、美濃で敗れた京方の面々が次々と京都に帰還・・・敗戦を知った院中が騒然となる中、彼らは、その傷が癒える間もなく、今度は、京都防衛のため、瀬田や宇治へと向かう事になります。

「全勢力を傾けても勝てないかも…」
と、不安に駆られる後鳥羽上皇は、久我通光(こがみちてる=源通光)ら複数人の公卿(くぎょう=大臣並みの高官)や、幼い孫の仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう=第85代天皇)まで連れて、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市坂本)へと行幸し、
「延暦寺の僧兵の力を借りられないか?」
と頼み込みますが、
「我が衆徒は微力にて東士の強威には勝てぬ」
断られてしまいます。

空しく京都に戻った後鳥羽上皇は、これまで幕府と親密な関係にあるとして捕縛していた西園寺公経(さいおんじきんつね)西園寺実氏(さねうじ)父子を解放して、幕府との交渉を…との思いを抱きますが、どうにもこうにも、もう、事は止まりません。

さぁ、いよいよ京都の地をめぐる最後の決戦が始まりますが、そのお話は長くなりそうなので、その日の日付にて。。。

承久の乱関連ページ
 ●【承久の乱~瀬田・宇治の戦い】>>
 ●【戦後処理と六波羅探題の誕生】>>
 ●【後鳥羽上皇、流罪】>>
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