鎌倉幕府軍・西へ…承久の乱、美濃の戦い~山田重忠の奮戦
承久三年(1221年)6月6日、朝廷VS幕府の承久の乱にて、木曽川を挟んだ美濃の戦いが終わりました。
・・・・・・・
後鳥羽上皇(ことばじょうこう=第82代天皇)が、幕府執権(しっけん=将軍補佐・政務の長)の北条義時(ほうじょうよしとき)の討伐の命令を出した事に始まる承久の乱(じょうきゅうのらん)・・・
これまでの経緯は…
(読んでくださった方&ご存知の方はスッ飛ばして下さい)
建保六年(1218年)2月:次期将軍に親王?>>
建保七年(1219年)1月:源実朝が暗殺さる>>
承久元年(1219年)4月:摂関家から将軍を>>
承久三年(1221年)4月:乱の準備で天皇交代>>
├5月15日:北条義時討伐の院宣発給>>
├5月19日:北条政子の演説で潮目が変わり↓
├5月22日:北条泰時が京へ進発>>
└5月29日:幕府軍の出撃を京方が知る>>
・‥…━━━☆
かくして美濃(みの=岐阜県南部)の木曽川を挟んで、京方(後鳥羽上皇方)と幕府方が布陣する中、幕府東山道の大将だった武田信光(たけだのぶみつ=甲斐源氏・武田信義の息子)が大井戸(おおいど=岐阜県可児市土田)から木曽川を渡ったのは承久三年(1221年)6月5日の事でした。
承久の乱美濃の戦い・進軍&位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
迎え撃つ京方も奮戦はしますが、はなから兵の数に大差ありで、どうにもならず・・・やがて、息子の 惟忠(これただ)の討死を知った大内惟信(おおうちこれのぶ)が何処ともなく逃亡し、近くの阿井渡(あいのわたり)を守っていた蜂屋入道(はちやにゅうどう)は手傷を負ったために自害し、息子の鉢屋三郎 (さぶろう)も戦死してしまいます。
この武田&小笠原隊の勢いに押される京方は、ズルズルと後退・・・それを追うように武田信光は、その矛先を木曽川の下流へと向け鵜沼の渡(うぬまのわたり=岐阜県各務原市東部)方面へと進撃していきます。
鵜沼を守っていた京方の神地頼経(こうづちのりつね)は、
『承久記』では、「もはやこれまで!」と思い、幕府方総大将の北条泰時(やすとき=北条義時の長男)のもとに投降するものの、「こうまでアッサリと主君を裏切るとは!」と激怒され、逆に殺されてさらし首となったとされますが、『吾妻鏡』では生け捕りにされた(つまり生きてる)事になってます。
一方、その、東海道を行く総大将の北条泰時を迎える池瀬(いけせ=同各務原市付近:伊義の渡)や板橋(いたばし=同各務原市付近)の京方軍勢は、必死に防戦し幕府方に大きな損失を出しますが、所詮は多勢に無勢・・・いつしか力尽きて多くは戦死し、徐々に後退していきます。
京方&幕府ともに重要拠点と認識する摩免戸(まめど=同各務原市前渡)も、京方追討使(総大将)の藤原秀康(ふじわらのひでやす)や三浦胤義(みうらたねよし=三浦義村の弟)らが奮戦するも、最終的には退却するしかありませんでした。
翌6月6日早朝、北条有時(ありとき=義時の四男)と北条時氏(ときうじ=泰時の長男・義時の孫)=ともに20歳前後の二人の若武者が率いる部隊が摩免戸を打ち破って京方に迫ると、もはや京方は矢を射る事も無く我先に西へ西へと敗走していくのですが、
そこを、山田重忠(やまだしげただ=山田重広・山田重定・泉重忠とも)と鏡久綱(かがみひさつな=西面の武士の佐々木広綱の甥) が、何とか踏ん張って留まりますが、鏡久綱があえなく戦死したところで、やむなく山田重忠も退却します。
実は、この山田重忠・・・美濃源氏の流れを汲む名門出身ですが、父が源行家(みなもとのゆきいえ=源頼朝の叔父)(5月12日参照>>)に従ったり、自身も木曽義仲(きそよしなか=源義仲・頼朝の従兄弟)(1月21日参照>>)とともにいたりと、これまで、鎌倉よりは京都寄りの立ち位置ながら、何とかここまで生き残っていたわけで、
ここで一発!起死回生の生き残りとばかりに朝廷側につき、合戦前の軍議では京方一丸となっての先攻=積極策を進言していたものの、ビビる藤原秀澄(ひでずみ=藤原秀康の弟)にその案を一蹴され、京方を12ヶ所に分散させて、やって来る敵を迎える消極的作戦を取ってしまい、上記のような退却に次ぐ退却となってしまっていたのです。
…で、結局、その京方東海道大将の藤原秀澄自身も、守りの要であった墨俣(すのまた=岐阜県大垣市)を捨てて退却を余儀なくされる事になったわけですが、
まだ諦めない山田重忠は、その後、約300騎を率いて東海道と東山道の合流地点である杭瀬川(くいせがわ=同大垣市・木曽川水系)に陣を構えて、やって来る幕府軍を待ち構えたのです。
そこにやって来たのは武蔵七党(むさしななとう=ほぼ東京都の武蔵を中心にした同族的武士団)の一つに数えられた児玉党(こだまとう)3000騎。。。
「美濃ト尾張ノ堺ニ 六孫王(ろくそんのう=清和源氏の祖・源経基の事)の末葉(ばつよう=末裔) 山田次郎重定(重忠)トハ我事ナリ」
と名乗りを挙げるや否や山田重忠は激しく斬りかかり、アッと言う間に100騎ほどの敵を仕留めます。
その後も、退いては攻め、攻めては退いて…と巧みに軍勢を操り、命惜しまず戦いますが、なんせ敵は10倍の兵力・・・その差はいかんともしがたく、最後は、都目指して撤退するしかありませんでした。
こうして、承久の乱の美濃における戦いは、承久三年(1221年)6月6日・・・開戦から、わずか2日ほどで幕を閉じ、合戦の舞台は、いよいよ京都へ・・・
戦い終えた幕府軍は、6月7日、垂井(たるい=岐阜県不破郡垂井町)野上(のがみ)の宿にて軍議を開きます。
「北陸道を行く北条朝時(ともとき=義時の次男)の軍勢が上洛する前に、それぞれの要害に軍勢を派遣し、準備を整えておくべき」
という三浦義村(みうらよしむら=有力御家人・三浦氏当主)の進言を採用した幕府軍は、
瀬田(せた=滋賀県大津市)に北条時房(ときふさ=政子&義時の異母弟)、
手上(たのかみ=同大津市)に武田信光と安達景盛(あだちかげもり)、
宇治(うじ=京都府宇治市)に北条泰時、
芋洗(いもあらい= 京都府久世郡久御山町東一口付近)に毛利季光(もうりすえみつ=大江広元の四男)、
淀渡(よどのわたり=京都府京都市伏見区西南部)に三浦義村と結城朝光(ゆうきともみつ=有力御家人・結城氏当主)
を向かわせる事を決定します。
そうこうしていた6月8日には、
「北陸道を行く別動隊が越中(えっちゅう=富山県)の京方を打ち破って進軍中」
の情報が寄せられ、ほどなく合流できるであろう事に安堵する幕府軍・・・
一方、そんな6月8日には、美濃で敗れた京方の面々が次々と京都に帰還・・・敗戦を知った院中が騒然となる中、彼らは、その傷が癒える間もなく、今度は、京都防衛のため、瀬田や宇治へと向かう事になります。
「全勢力を傾けても勝てないかも…」
と、不安に駆られる後鳥羽上皇は、久我通光(こがみちてる=源通光)ら複数人の公卿(くぎょう=大臣並みの高官)や、幼い孫の仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう=第85代天皇)まで連れて、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市坂本)へと行幸し、
「延暦寺の僧兵の力を借りられないか?」
と頼み込みますが、
「我が衆徒は微力にて東士の強威には勝てぬ」
と断られてしまいます。
空しく京都に戻った後鳥羽上皇は、これまで幕府と親密な関係にあるとして捕縛していた西園寺公経(さいおんじきんつね)&西園寺実氏(さねうじ)父子を解放して、幕府との交渉を…との思いを抱きますが、どうにもこうにも、もう、事は止まりません。
さぁ、いよいよ京都の地をめぐる最後の決戦が始まりますが、そのお話は長くなりそうなので、その日の日付にて。。。
★承久の乱関連ページ
●【承久の乱~瀬田・宇治の戦い】>>
●【戦後処理と六波羅探題の誕生】>>
●【後鳥羽上皇、流罪】>>
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コメント
茶々様
おはようございます。
後鳥羽さん
坂東の武者が強くて平家を滅ぼしたから、自分は三種の神器無しでも天皇、上皇になれたんでしょ。
京に戦の戦略戦術に長けた人材はいてるのですか。全然客観情勢がみえてませんね。
比叡山に見捨てられたのはショックやったでしょうね。
投稿: 浅井お市 | 2022年6月 6日 (月) 08時10分
浅井お市さん、こんばんは~
あくまで予想を含む個人の見解ですが…
おそらく、後鳥羽上皇自身がかなりスーパーな人だったんじゃないでしょうか?
何でもできるし、何でもこなすし、頭良いし…で、京方にもある程度戦略戦術に長けた人もいたでしょうけど、皆が「スゴイ」と思う後鳥羽さんが「これでイケる!」って言えば、なんか「イケそうな気がする~」ってな感じだったんじゃないか?と…
あと、ターゲットを北条義時一人に絞った事で、ここまで一丸となった大人数が京都までやって来るとは思ってなかったのでは?
なんなら、北条に不満を持つ関東武士が、関東同士でワチャワチャやって自滅するくらいに思ってたかも知れません。
そこは、追討の院宣を自分とこで早々に握りつぶして他には伝えず、逆に伝える時には幕府全体の危機のように誘導した幕府首脳部のやり方がウマかったって事なのかも…
投稿: 茶々 | 2022年6月 7日 (火) 03時17分
山田重忠の父親と言う人は「鎌倉殿の13人」に出ていますか?
今週水曜日に「歴史探偵」で北条政子を取り挙げていましたね。
あと「鉢屋三郎」は「忍たま乱太郎」の登場人物の名前にもあったような…。
投稿: えびすこ | 2022年6月18日 (土) 23時10分
えびすこさん、お早うございます。
「麒麟がくる」では三好三人衆っぽい設定の人が映ってましたが、モブキャラ化してましたから、
今回も、その設定の人がいたかも知れませんがクレジットには無かったと思います。
あと、今回の蜂屋さんは美濃土岐氏の一族の蜂屋さんなので…
たぶん、忍たまの蜂屋さんのモデルは、尼子の忍びだった鉢屋衆の鉢屋弥之三郎さんか、その仲間だと思いますよ。
あくまで忍者つながりの勝手な予想ですが…
投稿: 茶々 | 2022年6月19日 (日) 05時55分