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2022年6月23日 (木)

承久の乱終結~戦後処理と六波羅探題のはじまり

 

承久三年(1221年)6月23日、北条泰時による「承久の乱に勝利」の報告が鎌倉にいる北条義時のもとに到着しました・

・・・・・・

後鳥羽上皇(ことばじょうこう=第82代天皇)が、幕府執権(しっけん=将軍補佐・政務の長)北条義時(ほうじょうよしとき)討伐の命令を出した事に始まる承久の乱(じょうきゅうのらん)・・・

これまでの経緯↓
(読んでくださった方&ご存知の方はスッ飛ばして下さい)

建保六年(1218年)2月:次期将軍に親王?>>
建保七年(1219年)1月:源実朝が暗殺さる>>
承久元年(1219年)4月:摂関家から将軍を>>
承久三年(1221年)4月:乱の準備で天皇交代>>
 ├5月15日:北条義時討伐の院宣発給>>
 ├5月19日:北条政子の演説で潮目が変わり↓
 ├5月22日:北条泰時が京へ進発>>
 ├5月29日:幕府軍の出撃を京方が知る>>
 ├6月 6日:美濃の戦いに幕府方が勝利>>
 └6月14日:瀬田・宇治の戦いに幕府方が勝利>>

と、瀬田と宇治での戦いに勝利した北条泰時(やすとき=北条義時の長男)率いる幕府軍が、翌6月15日に京都に進入して京方(後鳥羽上皇方)の諸将が各地へと落ちて行った事で、承久の乱における直接対決は終了する事になりました。

・‥…━━━☆

入京した幕府軍は、その足で、かつては、あの平清盛(たいらのきよもり)が拠点の一つとした六波羅(ろくはら=鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯)に到着し、以後、ここを拠点として戦後処理に入る事になりますが、これが後に六波羅探題(ろくはらたんだい)と呼ばれる京都守護職に代わる鎌倉幕府の出先機関の始まりとされます。

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六波羅探題跡に建つ六波羅蜜寺

未だ、市中の京方諸将の宿所にて火の手が上がり、次々と敵方が捕縛される中、大将軍の北条泰時はもちろん、北条時房(ときふさ=義時の異母弟)三浦義村(みうらよしむら=有力御家人)毛利季光(もうりすえみつ=大江広元の四男)をはじめとする有力武士たちが、六条河原にて、勅使(ちょくし=天皇の使者)小槻国宗(おづき のくにむね)らと対面する事になります。

もちろん、その勅使が持って来たのは院宣(いんぜん=上皇の文書)・・・そこには、この乱における最重要課題である「北条義時追討の宣旨の撤回」とともに、「帝都での狼藉禁止」「申請による聖断(幕府の申請通りに天皇が命を下す)が記されておりました。

北条泰時は即座に内容を承諾・・・鎌倉武士たちが禁中(天皇の宮城)に参入しない事を約束するとともに、すでに「関東にて命を受けている」として、三浦義村に宮中の警固をするよう示唆したのです。

翌6月17日(24日とも)には、北陸道を進んでした北条朝時(ともとき=北条義時の次男)率いる別動隊も入京し、6月19日には、藤原秀康(ふじわらのひでやす=追討使)以下
「逃亡した京方を追討せよ」
の宣旨が下されますが、

それに前後して北条泰時が発進した「戦勝報告」の飛脚が鎌倉に到着したのは、承久三年(1221年)6月23日未明の事でした。

京方との合戦に勝利し、天下が治まった事を細かに報告する息子からの書状を読んだ北条義時は、
「今は、もう、思う事もないわ~俺の幸運は王の幸運にも勝るよな。ただ、前世の行いがちょっと悪くて、(王よりは低い)武士という身分に生まれてもたというだけやな」
と喜びをあらわにしたとか・・・

とは言え、ここまでの大ごと・・・喜んでばかりはいられませんから、早速、その日のうちに大江広元(おおえのひろもと=幕府官僚)が、先の平家滅亡時の前例に基づく様々な落としどころを指示する文書を書いて使者の安藤光成(あんどうみつなり=北条家の御内人・被官)に持たせ、その安藤には義時自身が直接、内容についての事細かな指示を伝えるという徹底ぶりでした。

  • 持明院宮(じみょういんの みや)守貞親王(もりさだしんのう=母は藤原殖子)(太政天皇)
  • 守貞親王の第三皇子=茂仁親王(とよひとしんのう=後堀河天皇)天皇
  • 本院(後鳥羽上皇)隠岐(おき=島根県の北の隠岐の島)流罪
  • 宮々(後鳥羽上皇の皇子ら)は泰時の判断で適切な場所に流罪
  • 公卿殿上人坂東に下向させ、それ以下の身分の者は斬首
  • 都での狼藉禁止…破った者は鎌倉方の者でも斬首せよ

てな感じの内容。。。

ちなみに、
義時によって院とされた上記の守貞親王という人は、亡き高倉天皇(たかくらてんのう=第80代・後白河の第7皇子)の第2皇子で後鳥羽上皇のお兄さん。

ご存知のように、この高倉天皇の第1皇子であった安徳天皇(あんとくてんのう=第81代・母は平徳子)は、かの平家の都落ち(7月25日参照>>)の時に同行して、あの壇ノ浦で海に沈んでいます(3月24日参照>>)が、

この時に第2皇子であった守貞親王も、平家と行動をともにしていたために、源氏の世となるにあたって後白河法皇(ごしらかわほうおう=77代天皇)の意向によって、都に残っていた皇子の中から第4皇子の尊成親王=後鳥羽天皇を第82代天皇に

となったわけですが、今回、その後鳥羽上皇がこうしてこうなったために、平家都落ちの際は未だ幼くて本人の意思とは関係ないであろうからと、守貞親王が院政を行い、その皇子である茂仁親王を第83代天皇にとなったわけです。

一方、京都では、高陽院(かやのいん=京都市中京区:後鳥羽上皇の院御所)に、未だ京方の残党が隠れている事を警戒した北条泰時らによって、後鳥羽上皇は四辻殿(よつつじどの=院御所の一つ)、同調した土御門上皇(つちみかどじょうこう=後鳥羽の第1皇子・83代天皇)(10月11日参照>>)順徳上皇(じゅんとくじょうこう=後鳥羽の第3皇子・84代天皇)(12月28日参照>>)雅成親王(まさなりしんのう=後鳥羽の皇子)頼仁親王(よりひとしんのう=後鳥羽の皇子)らは元の御所にお戻りいただき、

6月20日には幼き仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう=順徳の第4皇子)里内裏(さとだいり=皇居)に・・・と、かの指示書が鎌倉から到着する前に動きはじめていたのです。

さらに6月25日からは京方に与した公卿らが次々と六波羅に移される中、6月29日には、かの安藤光成が京都に到着した事から、北条泰時らは指示書の内容を次々に実行していく事になります。

7月9日には、仲恭天皇から茂仁親王への譲位がなされ(即位は12月)、その後は父の院政のもと第86代・後堀河天皇(ごほりかわてんのう)となり、今回の乱におけるゴタゴタは、おおむね終焉を迎える事となります。

一方、敗れた京方の張本人=後鳥羽上皇のその後は・・・2月22日のページ【後鳥羽上皇、流人の旅路】>>でご覧あれm(_ _)m

★関連ページ・・・
 ●【明恵上人と北条泰時】>>
 ●【北条義時の最期】>>
 ●【北条政子の最期】>>
 ●【御成敗式目の制定】>>
 ●その他モロモロは【鎌倉時代の年表】>>からどうぞ。
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鎌倉時代」カテゴリの記事

コメント

そうなんですね
狼藉は禁止やったんですね。
私は、坂東の野蛮な武者が貴族の屋敷に押し入って、略奪はするは、官女を強姦するはの狼藉を働いたと思ってました。
藤原定家が、もう都は無茶苦茶やと嘆いていたというのをみたような気がしていたのです。

投稿: 浅井お市 | 2022年6月29日 (水) 11時37分

浅井お市さん、こんばんは~

命令は出しても、どこまで徹底されてたかは微妙かも知れませんね。

信長が京に入った時も配下の兵に乱暴狼藉の禁止を命じてましたが、この時は見事に徹底されてたようで、お公家さんの日記にもそのように書かれていますので…

そういう描写は日記の方が正しいかも知れません。

投稿: 茶々 | 2022年6月30日 (木) 04時04分

この1カ月ほどの「承久の乱」の各記事を拝見しました。大河ドラマの今後の展開を推測するに、坂口健太郎くん扮する北条泰時は終盤に大活躍ですね。
10日は投票日なので「鎌倉殿の13人」は放送がないです。

藤原定家は今回の大河ドラマに出てくるかな?
歌人でもある源実朝の和歌の師匠として登場すれば最適です。

投稿: えびすこ | 2022年7月 1日 (金) 10時54分

えびすこさん、こんばんは~

『愚管抄』の慈円が出るので、定家も出るんじゃないですか?
楽しみですね。

投稿: 茶々 | 2022年7月 2日 (土) 05時29分

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