信長より三好より先に京を制す~柳本賢治の波乱万丈
享禄三年(1530年)6月29日、播磨依藤城を攻撃中の柳本賢治が、細川高国方の放った刺客に殺害されました。
・・・・・・
柳本賢治(やなぎもとかたはる)の出自は、厳密には不明なのですが、一般的に、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)の細川勝元(ほそかわかつもと)に仕えた波多野清秀(はたのきよひで)の息子と考えられています。
かの応仁の乱にて武功を挙げた波多野清秀は、細川勝元亡き後、その息子で管領となっていた細川政元(まさもと=24・26・27・28代管領)から丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)多紀郡(たきぐん=現在の丹波篠山周辺)を与えられた後、さらに政元配下として、丹波一国から摂津(せっつ=大阪府北中部)へと勢力を延ばしつつありました。
一方、主君の細川政元は、明応二年(1493年)に、時の将軍である足利義稙(よしたね=義材・第10代将軍)を廃し、自らの思うままの足利義澄(よしずみ=第11代将軍)を擁立するという明応の政変(4月22日参照>>)なるクーデターを成功させ、事実上政権トップの座を手に入れましたが、
その政元が永正四年(1507年)6月に、実子がいないまま暗殺(6月23日参照>>)されると、
関白・九条政基(くじょうまさもと)の息子=澄之(すみゆき)、
阿波(あわ=徳島県)の細川家から来た澄元(すみもと)、
備中(びっちゅう=岡山県)細川家の高国(たかくに)、
という3人の養子の間で後継者争いが勃発・・・
ここで、亡き父の後を継いでいた波多野元清(はたのもときよ=稙通 )は細川高国を支持・・・高国は「敵の敵は味方」とばかりに、細川澄元と協力して、養父の死からわすが2か月後の8月に百々橋(どどばし=京都市下京区)の戦いで澄之を追い落としました(8月1日参照>>)。
この戦いで澄之配下として参戦して戦死した香西元長(こうざいもとなが)の讃岐(さぬき=香川県)の領地を、波多野元清の弟が継ぎ、香西元盛(こうざいもともり)と名乗ります。
しかし案の定、共通の敵がいなくなると、今度は、この高国と澄元が後継者を巡って争う事に・・・
やがて周防(すおう=山口県)の大物=大内義興(おおうちよしおき)を味方につけた高国は、亡き政元に追放されていた前将軍の義稙を奉じて京へと上り、永正八年(1511年)8月の船岡山(ふなおかやま=京都市北区)の戦いで勝利(8月24日参照>>)し、澄元は一旦、地元の阿波へと逃亡・・・おかげで足利義稙は将軍に復帰します。
しかし態勢を立て直した澄元が、阿波から家臣の三好之長(みよしゆきなが)を連れて舞い戻った永正十七年(1520年)1月、腰水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)を攻撃された高国らは、やむなく近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと退き(1月10日参照>>)ますが、この時、「ともに近江へ…」と高国から誘われた足利義稙は同行を拒否し、以後、澄元についたのです。
ところが、その4か月後の5月、近江守護の六角氏(ろっかくし)をはじめとする多くの援軍を得た細川高国が等持院表(とうじいんおもて=京都市北区)の戦いにて澄元に勝利します(5月5日参照>>)。
細川澄元は再び四国に逃亡し、捕縛された三好之長は切腹・・・この時に戦死した澄元派の柳本長治(やなぎもとながはる)の後継として柳本氏を継いだのが波多野元清&香西元盛兄弟のさらに弟の柳本賢治=本日の主役という事になります。
長い前置きになって申し訳なかったですが、とにもかくにも、波多野元清&香西元盛&柳本賢治の三兄弟は、常に細川高国と行動をともにし、養子同士の後継者争いに打ち勝った高国は、先の明応の政変で擁立された足利義澄の息子=足利義晴(よしはる)を第12代室町幕府将軍として迎えてその補佐をし、まさに我が世の春を迎えるわけですが・・・
そんなこんなの大永六年(1526年)7月、高国の従兄弟である細川尹賢(ほそかわ ただかた)が、「香西元盛が敵対勢力=澄元らに内通している」と高国に告げ口・・・このフェイクニュースを信じた高国が香西元盛を殺害してしまった事から、波多野元清&柳本賢治兄弟は激怒して、波多野元清は八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)に、柳本賢治は神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)と、それぞれ自身の城に籠城します。
これに驚いた高国が、自軍で以って神尾山城を攻めますが、柳本賢治は、これを撃破!(10月23日参照>>)
しかも、完全に高国から離反した波多野&柳本兄弟が、高国と敵対して四国へ去り、その後その地で亡くなった細川澄元の息子=細川晴元(はるもと)と連携を取った事から、
この絶好のタイミングで、晴元は配下の三好元長(もとなが=三好之長の息子or孫)を引き連れて渡海・・・この晴元勢と合流した柳本賢治は、大永七年(1527年)2月の桂川原(かつらかわら)の戦いへと持ち込み(2月13日参照>>)、見事勝利して、またもや高国と将軍=義晴を近江坂本へと退かせたのです。
敵が去った京都を、山崎城(やまざきじょう=京都府乙訓郡大山崎町)にて支配する柳本賢治は、その1週間後の2月19日からは、未だ残る高国派の一掃をはかるべく、伊丹元扶(いたみもとすけ)の伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)を包囲します。
しかし、その堅固さを武器に籠城し、高国らの勢力回復の時間稼ぎをする伊丹城は、なかなか落ちず・・・
一方、その間、細川晴元と三好元長は堺(さかい=大阪府堺市)に、四国にて晴元とともにいた足利義維(よしつな=義晴の弟)を呼び寄せて、義維を堺公方(さかいくぼう)に擁立し、事実上の堺幕府が誕生します(3月1日の真ん中あたり参照>>)。
9月に入って、ようやく落ち着いた三好元長が柳本賢治に加勢すべく伊丹城にやって来ますが、やっぱり落ちない伊丹城・・・
そうこうしている10月に、今度は、態勢を整えた細川高国が、足利義晴の呼びかけに応えた近江守護(しゅご=南部滋賀県知事)の六角定頼(ろっかくさだより)や越前守護(東部福井県知事)の朝倉孝景(あさくらたかかげ)らの支援を受けて入京して来たため、柳本賢治はやむなく伊丹城の包囲を解いて、京都の西郊へと退きました。
この頃の畿内は、京都を制した柳本賢治と河内(かわち=大阪府東南部)に展開する三好元長の勢力に堺の細川晴元・・・そこに細川高国らの思惑が火花を散らしたり治まったりを繰り返す混沌とした雰囲気を醸し出していたのですが、
そんな中の享禄元年(1528年=大永八年・8月に改元)8月、柳本賢治らを重用する細川晴元と対立した三好元長が阿波に帰ってしまうという事件が起こります。
その一方で、この年の11月に、柳本賢治がようやく伊丹城を落城させた事で、細川晴元は、この伊丹城を配下の高畠長直(たかばたけながなお)に守らせました。
しかし、ここに来て、細川高国に更なる味方が・・・
それは備前(びぜん=岡山県東南部)三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)の浦上村宗(うらがみむらむね)・・・浦上村宗が畿内を脅かし始めた事で、柳本賢治は細川晴元に足利義晴との和睦を進言しますが、晴元は
「足利義維はんがおるのに、無理やろ」
と聞く耳持たず・・・
そのため、享禄三年(1530年)5月に柳本賢治は、幕府政所執事(さむらいどころしつじ=政務の長官)の伊勢貞忠(いせさだただ)と結託して足利義晴の帰京を画策しますが、空しく失敗・・・
その落胆も癒えぬ間に、今度は東播磨(はりま=兵庫県西南部)の別所就治(べっしょなりはる)からの援軍要請が舞い込んで来ます。
実は、この別所就治・・・以前から、この東播磨の地を依藤氏(よりふじし=依藤弥三郎?)と取ったり取られたりしていたのですが、ここに来て、その依藤氏が浦上村宗の支援を受けて力をつけ、別所就治の三木城(みきじょう=兵庫県三木市)を脅かすようになっていたのです。
そこで、別所就治の要請を受けた柳本賢治は播磨へと出陣・・・依藤城(よりふじじょう=兵庫県加東市・小沢城)を攻撃します。
押しては退き、退いては押す籠城戦は、約1ヶ月半に渡る激戦となりますが、その戦いの終わりは、あっけなくやって来るのです。
享禄三年(1530年)6月29日、浄春坊(じょうしゅんぼう)なる山伏が夜陰に紛れて柳本の陣所に忍び込み、昼間の合戦の疲れを癒すべく酒を飲んでいた柳本賢治を刺殺したのです。
浄春坊は、細川高国と組む浦上村宗の被官(ひかん=近臣)である 中村助三郎(なかむらすけさぶろう)が放った刺客だったのです。
総大将を失った軍は哀れ・・・これをキッカケに襲い掛かる依藤軍によって、瞬く間に100人ほどが討たれ、柳本軍は、依藤城から撤退せざるを得ませんでした。
この柳本賢治の死をキッカケに挽回しはじめた細川高国は、別所就治の三木城に、先の伊丹城、さらに尼崎城(あまがさきじょう=兵庫県尼崎市)をも落とす快進撃を見せますが、
これで、柳本賢治を失ったヤバさを痛感した細川晴元が、阿波に引き籠っていた三好元長を呼び戻した事で形勢逆転・・・
細川高国は翌享禄四年(1531年)6月の大物崩れ(だいもつくずれ)天王寺の戦いで敗れ、自刃しました(6月8日参照>>)。
一方、亡くなった柳本賢治の後継は、息子の虎満丸(とらみつまる)が幼かった事から、一族の柳本甚次郎(じんじろう=神二郎)が当主名代を務め、晴れて細川管領家の後継者となった細川晴元の配下となりますが、
この翌年の享禄五年(1532年)、細川晴元と、またまた袂を分かった三好元長に居城を攻められ、柳本甚次郎は討死・・・
この一件によって細川晴元と三好元長の関係はさらに悪化していく事になり、それは天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)から、大和一向一揆へと進み、三好元長が自刃するまで(7月17日参照>>)続く事になります。
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「京を制すれば天下を制す」と言われた時代(この時代の天下は畿内ですが…)・・・思えば、織田信長(おだのぶなが)はもちろん、三好長慶(ながよし)よりも先に、京都を制したのは、ひょっとして柳本賢治って事になる?
もちろん、その前に細川政元もいるし、その養子たちの取ったり取られたりもあるし、なんたってこの時代には足利将軍という存在があるわけですが、なんだかんだで彼らは「超えぇトコのボンボン」なわけで、いわゆる下剋上絡みの戦国武将的な人たちではない・・・
そういう意味で、柳本賢治という人は、かなり貴重な存在ですが、回りと比べると、知名度的にはちょっと低い感じ???
結果的には、ただ「京都を制する権」を細川高国から細川晴元にバトンタッチさせただけの役割のようになってしまった事が残念ですね。
ちなみに、三好元長亡き後、その息子である三好長慶の登場は、もう少し先・・・天文十五年(1546年)9月の【最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転】>>でどうぞm(_ _)m
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コメント
ここで少し触れている三好長慶について、先日の「英雄たちの選択」で取り上げていました。
三好長慶は前々作の大河ドラマでも序盤で出ていますね。
さて、来年の大河ドラマ「どうする家康」では先月から撮影が始まり、順次新キャストが発表されていますが、「尾張関係者」の配役の発表がまだありません。信長・秀吉の親族・家臣の配役がまだ未発表です。
前々作には出ていなかった人物が出るかな?
投稿: えびすこ | 2022年7月 1日 (金) 10時43分
えびすこさん、こんばんは~
三好長慶は有名武将の部類に入りますものね。
来年も楽しみです。
投稿: 茶々 | 2022年7月 2日 (土) 05時27分
茶々様
おはようございます
今回のお話、登場人物が多く、経緯が複雑で、正直よくのみ込めないのですが、堺幕府とか出てきて、ちょっと嬉しいです。
リンク先をみると、開口神社ということで、朝のウォーキングコースに入っているわ。
この辺りの寺社は大概説明板がついているし、道端に何とかの跡とかの看板も立っていたりするのですが、何度かの戦禍で
元々の場所から移転しているのが残念です。
投稿: 浅井お市 | 2022年7月 3日 (日) 06時59分
浅井お市さん、こんばんは~
本当、細川の内訌はややこしいです。
おっしゃる通り、関連人物多いし、その関連人物がず~っと同じグループではないですし、そこに将軍家が復権狙いで関わって来るので、もうグチャグチャです。
堺の町も、趣のある建物が多く残ってますね。
投稿: 茶々 | 2022年7月 4日 (月) 03時23分