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2022年7月27日 (水)

上杉と北条の間で揺れ動く忍城~成田長泰の生き残り作戦

 

天正二年(1574年)7月27日、武蔵に侵入して来た上杉謙信が成田長泰の忍城を攻めました。

・・・・・・・

あのHIT映画「のぼうの城」の舞台として知られる忍城(おしじょう=埼玉県行田市)は、あの応仁の乱が終わったであろう頃に、

藤原北家(ふじわらほっけ=不比等の次男・藤原房前 が祖)の流れを汲む名門で、室町時代に入ってからは代々、関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐&関東支配)山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)被官(ひかん=側近)を務めていた成田顕泰(なりたあきやす)なる武将が、この地を支配していた(おし)を倒して築城したとされ(その辺はちと曖昧)

戦国時代には、その成田顕泰の孫にあたる成田長泰(なりたながやす)も、忍城を居城としながら、時の関東管領である上杉憲政(うえすぎのりまさ)に仕えておりました。

しかし、やがて、代々関東管領を務めて来た上杉と、徐々に関東支配に手を伸ばしてきた北条(ほうじょう)がぶつかる事になります。
(このあたりは【北条氏綱、武蔵江戸に進出】を参照>>)

上杉憲政が、足利晴氏(あしかがはるうじ=4代古河公方)上杉朝定(うえすぎともさだ=山内上杉家)らもろともに、北条氏康(ほうじょううじやす=後北条3代当主)に敗れた天文十五年(1546年)4月の河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)の時には、

父の死を受けて家督を継いで間もない成田長泰も、上杉憲政からの出陣要請を受けている記録が残っていますので(『小山文書』)、この時期には、未だ上杉の配下であったのでしょう。 

そのため、7年後の天文二十二年(1553年)には、北条氏康に忍城を攻められますが、この時は城は落ちず・・・成田長泰は死守しています。

しかし、その後も、真里谷(まりやつ)武田氏を滅ぼし(11月4日参照>>)安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)と戦って(1月20日参照>>)房総半島を脅かす北条に対し、河越以降の上杉憲政らは、もはや打つ手なしの状態・・・

こうなると、何と言っても世は戦国・・・
生き残るためには、上手く立ち行かねば・・・

てな事で、ここらあたりで上杉憲政を見限った成田長泰は、勢いのある北条に服す事にします。

ところがドッコイ・・・
「もう、アカン(ToT)」
と思った上杉憲政は、北条に対抗するため、ここで、これまた勢いのある越後(えちご=新潟県)長尾景虎(ながおかげとら)のもとへ上杉家の系譜と先祖代々のお宝を手に逃げ込み、彼に関東管領職を譲るというのです(6月26日参照>>)

この時点で北条配下となっている忍城・・・今度は、謙信のターゲットとなってしまうわけで。。。

Uesugikensin500 案の定、永禄二年(1559年)、景虎は忍城にやって来ます。

これを知った成田長泰が、一族配下に下知を飛ばし、
大手(おおて=正面)搦手(からめて=側面)に兵を集中させ、籠城の構えを見せると、守備配置を確認しようと、景虎が大手に姿を見せます。

このチャンスに城内から一斉に鉄砲を撃ちかけた成田勢ではありましたが、残念ながら、弾は一発も景虎に当たらず・・・

この後は・・・
景虎が忍城攻撃に着手するも、小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)から北条の援軍が出陣したとの知らせが入ったため、やむなく景虎は兵を退きあげた・・・という説と、

忍城が、なかなか落ちなかったため、長期戦を覚悟した景虎が埼玉古墳群に陣を据え、城下に火を放って民家を焼き払った事から、成田長泰は末の息子を人質に出し、和睦交渉に入った・・・という2つの説がありますが、

いずれにしても、ここで成田長泰が北条に離反して、景虎の傘下となった事は確か・・・

というのは、この後、関東管領並みとなって上杉謙信(うえすぎけんしん)と名を改めた景虎が(ここからは謙信と呼びます)、北条の本拠地を攻めた永禄三年(1560年)の小田原城の戦いには、キッチリ、謙信傘下の人として、北条を攻める側に回ってますので・・・

しかし、小田原攻めを終えた謙信が越後に戻ってしまうと、成田長泰はチャッカリと、またもや北条の傘下に・・・

といっても、これには成田長泰の言い分もあるようです。

以前、太田資正(おおたすけまさ・三楽斎=太田道灌の曾孫)のページ(9月8日参照>>)でも触れましたが、

このころ、北条に抵抗していた関東武士の中には、なかなかの名門出身の武将も多く

「成り上がり的に関東支配進める北条」への名門が故の敵意を持っていた者も多かったのですが、

そんな彼らから見たら、越後の守護であった上杉に取って代わった守護代長尾家の謙信だって「下剋上の成り上がり」なわけで

『相州兵乱記』『関八州古戦録』などによれば、 この小田原攻めついでで関東遠征して来た謙信の、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で行われた関東管領就任式にて、成田長泰が謙信の前で下馬しなかった事から、謙信が、持っていた扇で長泰の烏帽子を打ち落とす…という一件があり、

長泰は「あの八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)にさえ下馬しなかった名門のオレが辱めを受けた」と、激激怒して、そのまま居城に戻るなり北条に寝返ったとされています。

実は、この小田原城攻めを終えた謙信が越後へ帰郷…のタイミングでは、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲む名門で唐沢山城からさわやまじょう=栃木県佐野市)主の佐野昌綱(さのまさつな)(10月27日参照>>)や、

これまた名門の鎌倉殿の13人の一人=八田知家(はったともいえ)を祖とする小田城(おだじょう=茨城県つくば市)小田氏治(おだうじはる)(11月13日参照>>)などの関東の名門武士が、やはり成田長泰と同じく、謙信の小田原城攻めに参加しておきながら、その後に北条へと転じています。

こうして再び北条傘下となった成田長泰は、永禄五年(1562年)3月に、関東に戻って来た謙信が佐野昌綱を攻めた時には、北条氏照(うじてる=北条氏康の三男)上杉軍の動きを伝えるとともに、氏照と連携を取って後詰(ごづめ=後方支援)に務めたと言います。

そうなると当然ですが、成田長泰の忍城は、またまた上杉謙信のターゲットとなるわけですが・・・

この間、永禄八年(1565年)9月や元亀元年(1570年)3月などに、北条や上杉が放った書状に忍城の文字が見え、おそらく両者の間で成田長泰が揺れ動いていたであろう中、

いよいよ天正二年(1574年)7月27日、 上杉謙信が武蔵(むさし=東京都と埼玉&神奈川の一部)に侵入し鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)とともに忍城を攻撃・・・城下をことごとく焼き払ったのです。

結局、これに屈した成田長泰は降伏・・・謙信から隠居を命じられて、家督を嫡男の成田氏長(うじなが)に譲りました。

こうやって、何とか居城とともに生き残る事ができた成田氏・・・

この後、上記の経緯から上杉傘下となった成田氏ですが、形勢不利と見るや、またまた北条へ寝返り・・・

しかし、織田信長(おだのぶなが)が台頭して来ると、その配下で関東支配担当だった滝川一益(たきがわかずます)の傘下になりますが、その一益が、本能寺の変のゴタゴタのさ中に北条に負けた(6月18日参照>>)事で、またもや北条に返り咲き・・・と、まだまだ、やっぱり揺れ動く成田氏。。。

で、結局、この北条傘下の時代に豊臣秀吉(とよとみひでよし)北条を潰しに来て~~てな事で、冒頭の「のぼうの城」は、天正十八年(1590年)の、この秀吉の小田原攻めの時のお話です。
●【のぼうの城の感想】>>
【水の要塞・忍の浮城】>>
【留守を守った成田氏長夫人と甲斐姫】>>

ただし、この時は、小田原攻めの一環での忍城攻めだったので、城主の氏長は小田原城に出張しており、映画の主役として忍城を守ったのは、従兄弟(成田長泰の弟の子)城代を務めていた成田長親(ながちか)(12月11日参照>>)なのですが・・・

そのページに書かせていただいたように、どうやら氏長の娘の甲斐姫(かいひめ)が、かの秀吉の寵愛を受けた?とおぼしき事から、成田氏は、負け組でありながら近江(おうみ=滋賀県)2万500石を与えられて、ここに来ても見事、またの生き残りを果たしました。
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2022年7月19日 (火)

武田信玄VS小笠原長時~塩尻峠の戦い

 

天文十七年(1548年)7月19日、武田信玄小笠原長時に勝利した塩尻峠の戦いがありました。

・・・・・・・・・

東に北条氏康(ほうじょううじやす)相模(さがみ=神奈川県)、南に今川義元(いまがわよしもと)駿河(するが=静岡県東部)という 大国に隣接する甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=当時は晴信)にとって、北方に広がる信濃(しなの=長野県)の地を手に入れる事は、父=信虎(のぶとら)の時代からの悲願でした。

当時の信濃は、府中(ふちゅう=長野県松本市)に代々守護(しゅご=県知事)を務める小笠原長時(おがさわらながとき)がいるものの、群雄割拠の戦国となった今は、その勢力範囲も松本周辺に限られ、国内には多数の国人(こくじん=地侍)うごめいていたのです。

そんな中で、有力国人だったのが諏訪(すわ=長野県諏訪市周辺)諏訪頼重(すわよりしげ)と、北信濃村上義清(むらかみよしきよ)でした。

Takedasingen600b 天文十年(1541年)6月に父の信虎を追放して(6月14日参照>>)21歳で家督を継いだ信玄は、すぐさま信濃攻略に取り掛かり 、わずか1年で諏訪の上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)を攻略し、諏訪頼重を自刃に追い込みます(6月24日参照>>)

その2年後の天文十三年(1544年)10月には伊那(いな=長野県南部)に侵攻して(10月29日参照>>)福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町:箕輪城とも)を落とし、

さらに天文十六年(1547年)8月には志賀城(しがじょう=長野県佐久市)を陥落させて(8月17日参照>>)その勢力は信濃東部にまで進みました。

しかし、そこに立ちはだかったのが葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡坂城町)の村上義清だったのです。

天文十七年(1548年)2月の 上田原(うえだはら=長野県上田市)にて村上義清と戦った信玄は、生まれて初めて苦汁を飲む事になります(2月14日参照>>)

そのページにも書かせていただきましたが、この戦いは、『甲陽軍艦』では、一応、信玄が勝利した事になってますが、戦死者の数もさることながら、父の代からの重臣である板垣信方(いたがきのぶかた)甘利虎泰(あまりとらやす)を失い、信玄自身も負傷した事などから、一般的には村上方の勝利との見方がされています。

おそらく信玄自身も、そして回りの人々の目にも、武田の負け…と映った事でしょう。

しかし、納得がいかない信玄は2月14日の最大の戦いのあとも兵を退こうとせず、母の大井夫人(おおいふじん=大井の方)の説得によって、3月3日にようやく陣を引き払っています。

このゴタゴタをチャンスと見たのが、これまで武田に圧迫されていた信濃府中林城(はやしじょう=長野県松本市)の小笠原長時・・・このタイミングで、武田に反攻の意を示したのです。

まずは、信玄撤退から1ヶ月チョイの4月15日、諏訪へと侵入して諏訪大社(すわたいしゃ=諏訪湖周辺4か所にある神社)下社(しもしゃ)乱入して周辺を荒らしまわりました。

社人らが対抗してなんとか撃退しましたが、その乱入行為は6月10日にも。。。(6月10日の乱入にて諏訪下社を小笠原が占領したとも)

その後の内応策によって、武田方の諏訪西方衆の花岡(はなおか)矢島(やじま)を寝返らせる事に成功した小笠原長時は、7月10日、上諏訪に侵攻・・・危険を感じた神官らは上原城へと避難して、武田の援軍が来るのを待ちました。

これを知った信玄は、翌7月11日に甲府(こうふ=山梨県甲府市)を出陣し、しばらく跡部勝忠(あとべかつただ=武田家譜代家臣)の陣所に滞在した後、大井ヶ森(おおいがもり=山梨県北杜市長坂町)まで出て、敵陣の様子をうかがいます。

実は、この時・・・武田3000に小笠原5000という信玄には不利な兵数でしたが、武田勢の結束の固さに対し、一方の小笠原勢は、この時点で、すでに一枚岩では無かったのです。

この合戦の始め=諏訪でのアレコレの時に、小笠原長時の舅である仁科盛能(にしなもりよし)が、長時の力攻め案に反対して和睦した後に盛能自身が諏訪を支配する事を進言したにも関わらず、長時が、それを認めずに強行突破した事で、舅としての面目を失った仁科盛能は、ここで怒りがピークに達し、与力同心引き連れて撤兵してしまったのです。

さらに一説には、すでに水面下で行っていた小笠原方の山家(やまべ)三村(みむら)などへの内応工作が成功して彼らが寝返った?という話もありますが(信ぴょう性が薄いとされる)

とにもかくにも、
「ここでイケる!」
との感触を得た信玄は、様子うかがい作戦から一転…7月18日に上原城へ入ると、休む間もなく再び出陣し、小笠原方に気づかれぬよう、夜のうちに塩尻峠(しおじりとうげ=長野県塩尻市と岡谷市)へと向かいます。

かくして天文十七年(1548年)7月19日の朝6時、武田軍が一斉に、塩尻峠の小笠原軍を急襲したのです。

武田軍の夜の動きを察知できず、未だ「信玄は様子見ぃの段階」との判断をしていた小笠原軍は、そのほとんどが武具をはずしての就寝中であったらしく、

いきなりの奇襲に大慌てで、反撃する間もなく総崩れとなり、小笠原軍は、あっけなく敗走する事になってしまいました。

小笠原方の記録『小笠原系図』では、
一日の内で6度の戦いがあったものの、6度目の決戦の直前に、すでに武田方に内通していた山家&三村らが、戦わずして戦場離脱した事から、残された小笠原勢が雪崩のように崩れていったように記されていますが、

小笠原方が1000人に及ぶ戦死者を出したという中で、武田方で発給された感状には敵の大将クラスの名がほとんど無い事から、6度の合戦というのは、やはり少々オーバーで、実際には、奇襲に慌てた小笠原方が、大した激戦もしないまま、ただただ逃げるしかなった…というのがホントのところのようです。

もちろん、総大将の小笠原長時も・・・命からがら林城(はやしじょう=長野県松本市)へと逃走しました。

こうして、長時の命は助かったものの、信濃の守護を預かる名家で、反武田の中心的存在だった小笠原が、信玄の急襲によって、あっけなく敗れ去った状況は、もはや、その反武田の結束をも崩壊させるに十分である状況を示す事になってしまうのです。

なんせ、先の上田原の戦いで村上義清に敗れた事で激ヤバ状態だった信玄が、今回の勝利でプラマイ0どころか、さらに何倍もの勢いをつけてしまう結果になったのですから。。。

この後、信玄が9月6日に佐久(さく)へと侵攻して前山城(まえやまじょう=長野県佐久市)を落城させると、その勢いを恐れた周辺の13城が自落し、さらに駒を進める信玄は、10月4日に松本平(まつもとだいら=長野県中央部にある盆地で安曇平とも)へ入り、小笠原長時が拠る林城から、南へわずか8kmの場所に、長時抹殺を見据えた村井城(むらいじょう=長野県松本市)を構築する事になるのです。

・・・で、結局、天文十九年(1550年)に、その林城を追われた小笠原長時が村上義清を頼り、その村上義清が上杉謙信(うえすぎけんしん)を頼り・・・で、やがて十数年に渡る、あの川中島(かわなかじま=長野県長野市)の戦いへと発展していく事になります。

★今後の流れ
 ●戸石城攻防戦>>
 ●更科八幡の戦い>>
 ●川中島1~布施の戦い>>
 ●川中島2~犀川の戦い>>
 ●川中島3~上野原の戦い>>
 ●川中島4~八幡原の戦い>>
 ●川中島5~塩崎の対陣>>
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2022年7月13日 (水)

承久の乱へ~後鳥羽上皇をその気にさせた?源頼茂事件

 

建保七年(1219年)7月13日、後鳥羽上皇の命で動いた在京武士の襲撃を受けた源頼茂が、仁寿殿に火をかけて自害しました。

・・・・・・・

鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)の奧さん=北条政子(ほうじょうまさこ)の実家である北条氏(ほうじょうし)執権(しっけん)という役どころについて将軍をサポートする形で力をつけて来た中、第3代将軍=源実朝(さねとも=頼朝と政子の次男)の時代に、数少ない北条氏の対抗馬である和田義盛(わだよしもり)を倒した(5月3日参照>>)事で、軍事と政務の両方を手にした2代目執権=北条義時(よしとき=政子の弟)。。。

そんな時、未だ子供のいない実朝の後継者として治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇または上皇)である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)皇子を鎌倉に迎えて将軍職を継いでもらう親王将軍(しんのうしょうぐん)の話が持ち上がりますが(2月4日参照>>)

建保七年(承久元年・1219年)も明けたばかりの1月に、後鳥羽上皇からの信頼篤かった実朝が暗殺(1月27日参照>>)された事で、その予定が狂い始めたものの(2月11日参照>>)、何とか、摂関家(せっかんけ=摂政や関白を出す家柄)九条道家(くじょうみちいえ)の若君を鎌倉に迎える摂家将軍(せっけしょうぐん)という事で折り合いをつけて双方同意・・・(3月9日参照>>)

今後の展開を見る限りでは、この時の後鳥羽上皇にはなかなかの不満が残ったようですが、とりあえず表面的には波風立てず・・・

やがて、若君の三寅(みとら=当時2歳)クンが、北条時房(ときふさ=政子&義時の末弟)三浦義村(みうらよしむら=有力御家人)らに付き添われて京都を出発したのは、実朝暗殺から約半年後の6月25日の事でした。

しかし、それからわずか半月後の建保七年(1219年)7月13日、彼らが去った京都で事件が起こります。

朝廷にて、右馬権頭(うまごんのかみ)を務めていた源頼茂(みなもとのよりもち)が、在京の武士たちの襲撃を受けて自害したのです。 

源頼茂は、かつて以仁王(もちひとおう=第77代・後白河天皇の皇子)(4月9日参照>>)とともに、平家打倒を掲げていち早く挙兵して散った源頼政(よりまさ)(5月26日参照>>)にあたる人物で、

右馬権頭とは、
もともとの名前的には朝廷が保有する馬の管理をする右馬寮(うめりょう)の長官の事ですが、平安後期&鎌倉初期には皇居を守る武官であり、治安維持を担う警察的な要素もあり、そのトップ=頭の座は、後に将軍となる人が通る道(かつては実朝も左馬寮御監になってます)で、なんなら副将軍的な見方もできる武士憧れの役職だったのです。

ところが、鎌倉幕府と朝廷を仲介する立場にあった、そんな源頼茂を在京の武士たちが、大内裏(だいだいり=宮城)に攻めたのです。

Dairiminamotonoyorimoti ←大内裏の図
(クリックで大きく

襲撃を察知したその時、昭陽舎(しょうようしゃ)にいた源頼茂は、諸門を閉じて、正面の承明門(しょうめいもん)だけを開いて迎撃せんと挑みましたが、最後は仁寿殿(じんじゅでん)に追いつめられて、そこに火をかけて自害しました。

その火は仁寿殿だけでなく、宜陽殿(ぎようでん)校書殿(きょうしょでん)へ燃え移り、所蔵されていた仏像や応神天皇御輿(天皇の車)、大嘗祭などの装束などの宝物の数々を焼き尽くしたのです。

平安京の大内裏は、平安の時代には度々の火災に見舞われたため、いつしか天皇や皇子たちは、それぞれ、里内裏(さとだいり)と呼ばれる、いわゆる別荘で暮らすようになっていて、この鎌倉時代には、天皇が日常的に大内裏で暮らす事は無かったものの、儀式の時などは立派な殿舎で行われ、政務も行うにも充分に使用可能でした。

むしろ、日常生活がされないぶん、ここ100年以上は火災もなく平穏に・・・なのに今回、それが兵火によって殿舎が焼け落ちてしまったのは、前代未聞の出来事でした。

ところで、今回の「在京の武士」という人たち・・・彼らの内わけは、おおまかに、「在京の御家人」「京武者」の2種類に分かれます。

在京御家人というのは、鎌倉幕府の御家人のうち京都に派遣されて、都で何らかの役職をこなしている人で、都にて事が起これば、鎌倉殿の命を受けて任務を遂行する・・・ただ、今のところ朝廷と幕府の間にギクシャク感は表に出てないので、この時点では幕府と朝廷の両方に属してるような感じです。

一方の京武者というのは、いわゆる北面の武士西面の武士と呼ばれる人たちで、一部、西国出身の幕府御家人も含まれるものの、そんな御家人に比べると未だ個々には弱小な後鳥羽上皇おかかえの武士たちも多くいて、御所の北面や西面などの警固につきつつ、後鳥羽上皇自身が組織し育成していた武士たちでした。

ご存知のように、御所を守る北面の武士は平安時代からありましたが(11月26日参照>>)西面の武士は後鳥羽上皇が作ったとされています。

それは、この10年前くらいに起こった北条時政(ときまさ=政子と義時の父)と、その後妻の牧の方(まきのかた)の事件・・・時政が牧の方の進言により、現将軍の源実朝を廃して、牧の方の連れ子(娘)の夫である平賀朝雅(ひらがともまさ)新将軍に擁立しようとした事件で、結局、計画は未遂に終わったものの(1月6日参照>>)

この時、当の娘婿=平賀朝雅は京都勤務・・・

つまり義父と義母の事は東国で処理され、娘婿は京都にて…ってなった時、在京の御家人たちは鎌倉の命を受けて平賀朝雅の追討に当たったわけです。

その状況を目の当たりにした後鳥羽上皇・・・この時、普段は御所を警備している=朝廷を守ってくれている武士たちは「鎌倉の命で動くのだ」という事を思い知らされたのではないでしょうか?

もちろん、人の心の内はわかりませんから、あくまで憶測ですが、実際に後鳥羽上皇が北面の武士に加えて、西面の武士を創設したのがこの頃で、やはり、自らの命で動く武力集団が欲しかったのでは?と考えられますね~

ところが…です。

今回の源頼茂謀反事件・・・源頼茂を追い込んだのは京武者と在京御家人の両方を含む在京武士だった。。。

しかも、それは後鳥羽上皇の院宣(いんぜん=上皇の発する命令書)を受けての事だったのです。

それは・・・
『吾妻鏡(あづまかがみ=幕府公式記録)では「後鳥羽上皇の意に背いたため」とされ、
『愚管抄(ぐかんしょう=同時代の僧=慈円の記した歴史解説書)『保暦間記(ほうりゃくかんき=南北朝時代に成立した歴史書)では「後鳥羽上皇の近臣である藤原忠綱(ふじわらのただつな)が、自らが養育係だった九条基家もといえ=九条道家の異母弟)を次期将軍に擁立しようと企んでいて、源頼茂が彼らに通じていたため」あるいは「源頼茂自らが次期将軍になろうと企てたため」などとされ、

上記の史料を統合すると、
「大内ニ候シヲ 謀反ノ心ヲコシ 在京ノ武士ドモ申テ」
(大内裏仕えていたのに謀反の心を起こしたと在京の武士が訴えた)
この訴え↑を受けた後鳥羽上皇が、源頼茂を召喚したものの、彼がそれに応じなかった事から上皇が追討の院宣を発した…というのが事件の流れのようです。

しかし、実際には、なぜに?後鳥羽上皇が突如として『源頼茂追討』の宣旨を出したのか?、明確な理由は、よくわかっていないのです。

一説には、後鳥羽上皇自身が、「実朝の後継者には源頼茂」と考えていて、頼茂本人もその気になっていたいたところ、冒頭に書いた通り、幕府との話し合いにより、九条道家の若君の三寅に決定してしまったために、口封じのために源頼茂を襲撃させた・・・なんて話もあったりしますが、

一応、現段階では、おそらくは先の牧の方の事件や、れ以前の御家人たちのゴタゴタ(↓参照)
 ●梶原景時の乱>>
 ●比企能員の乱>>
 ●2代将軍・源頼家の暗殺>>
 ●畠山重忠の二俣川の戦い>>
 ●阿野時元の謀反>>
のような、幕府御家人同士のモメ事だったのだろうというのが、一般的な見解となっているようです。

とまぁ、上記の通り、その原因に関しては曖昧なのですが、この事件の最大の関心事は、原因ではなく結果・・・

おそらくは、これまでもあったであろう
幕府御家人同士のモメ事に、
後鳥羽上皇が院宣を出し、
その院宣に従って在京武士たちが一丸となって動いた
というところにあるのです。

そう・・・冒頭に書いた通り、この事件が起こったのは、北条時房や三浦義村といった幕府首脳陣が、新将軍とともに鎌倉に向かっている最中・・・

新将軍の三寅クンたちが鎌倉に到着するのは7月19日の事で、この事件の一報が鎌倉に届くのは7月25日の事。 

この事件を鎌倉に知らせた京都守護伊賀光季(いがみつすえ=幕府が派遣した在京御家人)も、使者に託したその手紙の中で
「新将軍の下向中だったので飛脚を派遣するのを控えた」
と言っています。

つまり、
「幕府御家人同士のモメ事を関東の命を受けずに後鳥羽上皇が処理した」
しかも「それに在京武士たちが従った」
という事になるわけです。

もちろん、これまでに後鳥羽上皇が自らの命で在京武士たちを動かした事が無かったわけではありません。

しかし、それは寺社の強訴(ごうそ=僧や神官が神仏の威をかざして力づくで強引に訴える事)への対策や都の治安維持に関する事であり、今回のとは、ちと色が違う・・・

なので後鳥羽上皇は、今回の事で、
自らの命で在京武士が動く事を実感し、この先、彼らを、鎌倉とは一線を画す存在としてウマく育て上げ、時を見て幕府内の対立を生じさせたなら・・・

「コレ…ひょっとしてイケるんじゃネ?」
と思ったのかも。。。

てな事で、今回の『源頼茂事件』は、後鳥羽上皇を、幕府との関係において「妥協から敵対へと導いた事件」とも言われ、2年後に勃発する承久の乱(5月15日参照>>)へ向かうキッカケの一つとも考えられています。

とは言え、さすがに大内裏の一部が焼失した事には、後鳥羽上皇もショックだったようで、この後、1ヶ月ほど寝込んだそうですが、

体調が快復した秋ごろからは、幕府とのギクシャク感は、一旦、棚の上に上げてチャンスを待つとして、まずは大内裏の再建に取り組む事になります。

★承久の乱関連ページ
 【実朝の後継…北条政子上洛】>>
 ●【実朝暗殺】>>
 ●【阿野時元の謀反】>>
 ●【北条時房が武装して上洛】>>
 ●【源頼茂謀反事件】←今ココ
 ●【義時追討の院宣発給で乱勃発】>>
 ●【北条政子の演説と泰時の出撃】>>
 ●【承久の乱~木曽川の戦い】>>
 ●【承久の乱~美濃の戦い】>>
 ●【承久の乱~瀬田・宇治の戦い】>>
 ●【戦後処理と六波羅探題の誕生】>>
 ●【後鳥羽上皇、流罪】>>
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2022年7月 5日 (火)

秀吉の援軍空し…上月城が落城

 

天正六年(1578年)7月5日、吉川元春と小早川隆景が、織田信長方の上月城を落としました。

・・・・・・・・・

★上月城攻防戦は、これまで何度か書かせていただいておりますので、以前のページと内容がカブる箇所がありますが、
ご了承のほど…m(_ _)m

群雄割拠する戦国となった中国地方では、周防(すおう=山口県東部)大内氏(おおうちし)と、出雲(いずも=島根県東部)尼子氏(あまごし)2大勢力が雌雄を争っていましたが、その両者の間を渡り歩きつつ、いつしか大内氏を取り込んでのし上がって来たのが、安芸(あき=広島県)郡山城(こおりやまじょう=広島県安芸高田市吉田町)毛利元就(もうりもとなり)でした。
 ●【厳島の戦い】参照>>
 ●【大内義長が自刃】参照>>

大内の領地の大半が毛利の物となる中、更なる領地拡大で石見銀山(いわみぎんざん=島根県大田市)を狙う毛利元就を警戒しつつも、尼子当主の尼子晴久(あまごはるひさ) は永禄三年(1560年)に急死・・・(12月24日参照>>)

弱冠20歳で息子の尼子義久(よしひさ)が後を継いだ、この当主交代劇をチャンスと見た毛利元就は、永禄六年(1563年)の出雲白鹿城(はくろくじょう・しらがじょう=島根県松江市法吉町)(8月13日参照>>)を手始めに尼子の領地へと侵攻し、永禄九年(1566年)11月、ついに尼子の本拠地である月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市広瀬町)を落とし(11月21日参照>>)降伏した義久らは幽閉の身となります。

これで事実上の滅亡となった尼子氏ですが、未だ諦めない尼子家臣の山中幸盛(ゆきもり=鹿介)が、尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)を当主と仰ぎつつ、月山富田城奪回&尼子再興を目指し備中兵乱(びっちゅうひょうらん=岡山周辺の動乱)(6月2日参照>>)のドサクサに紛れて各地を転戦しはじめますが(1月22日参照>>)

さすがに相手は毛利・・・尼子を倒した事で中国地方一の大大名となった西国の雄ですから、もはや太刀打ちできず・・・

一方、この頃、大内氏の残党である大内輝弘(おおうちてるひろ)との交戦中だった毛利元就は、その背後を突いて出雲を奪回しよう転戦する尼子氏残党に協力する姿勢を見せていた但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)「けん制してほしい」と依頼・・・

その依頼した相手が、永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)織田信長(おだのぶなが)だったのです。

さっそく信長は、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)を大将にした2万の軍勢を但馬に派遣し、山名祐豊の居城である此隅山城(このすみやまじょう=兵庫県豊岡市)を奪取したのです。

実は、これが、信長の命による秀吉の中国攻めの最初の最初段階です。

しかし、その後、 元亀二年(1571年)に毛利元就が亡くなった事で後を継いだ孫の毛利輝元(てるもと)が、
信長に敵対して追放された義昭を受け入れたり(7月18日参照>>)
やはり信長と敵対する本願寺顕如(けんにょ)(9月14日参照>>)味方をした事から、

信長は、天正三年~四年(1576年)頃から、配下の明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らを丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部)(10月29日参照>>)、秀吉を但馬から美作(みまさか=岡山県東北部)さらに備前(びぜん=岡山県東南部)等の中国攻略へと派遣し(10月23日参照>>)西国の毛利との徹底抗戦を決意したわけです。

そうなると、敵の敵は味方とばかりに、かの山名祐豊も、そして尼子勝久&山中幸盛コンビも信長の傘下に・・・

そんな中、天正五年(1577年)12月1日に福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)(12月1日参照>>)、12月3日に上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)(12月2日参照>>)

と、いずれも毛利に味方する城を落とした秀吉は、次に、やはり毛利方の別所長治(べっしょながはる)の守る播磨三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)へと向かうため、この奪い取った上月城に山中幸盛を駐屯させる事にします。

早速、山中幸盛は、京都に滞在中の尼子勝久を迎えに上洛しますが、幸盛の留守を知った宇喜多直家(うきたなおいえ)が、翌天正六年(1578年)1月に上月城に攻撃を仕掛け、まんまと城を占拠するも、

1月下旬に尼子勝久を奉じた幸盛以下1千騎が戻って来ると、直家から城の守備を任されていた真壁彦九郎(まかべひこくろう)がビビッって守備を放棄してしまい、おかげで尼子勝久&山中幸盛コンビは楽々入城・・・

尼子の殿が城将となった事で、山中幸盛が呼びかけると、尼子残党がどんどん集まって来て城内の士気は大盛り上がり・・・これに気を良くした尼子勢が備前に進出する気配を見せ始めたため、真壁の失態を挽回すべく宇喜多直家は、頻繁に上月城奪回を試みます。

そのため、上月城内の尼子勢は、ある時は城を捨てたり、ある時は秀吉に救援を求めたりするハメになりますが、かと言って、宇喜多直家が上月城を完全掌握する事もできず・・・両者の小競り合いは、なかなか進展を見せませんでした。

そこで毛利輝元は、天正六年(1578年)の正月頃から、家臣の粟屋元種(あわやもとたね)木津城(きづじょう=徳島県鳴門市撫養町)に派遣したり、児玉就英(こだまなりひで)淡路(あわじ=淡路島)岩屋城(いわやじょう=兵庫県淡路市)に駐屯させたり、配下の水軍を使って瀬戸内海を制圧したりして、秀吉と戦う三木城への後方支援をし、間接的に秀吉をかく乱すると同時に、

4月1日には、別所重宗(しげむね・重棟=別所長治の叔父だけど秀吉の味方)播磨別府城(べふじょう=兵庫県加古川市別府町)を攻撃しますが、これは秀吉からの援軍の登場により阻まれてしまいます

思うように事が進まない毛利・・・
そこで、この状況を打開すべく吉川元春(きっかわもとはる=毛利元就の次男)小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男)を大将に3万余の大軍で以って上月城の攻略に乗り出したのです。

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上月城攻防戦・関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

4月上旬、まずは吉川元春が土居(どい=岡山県美作市)から大日山川(だいにちやまがわ)に沿って西上し、上月城の西麓と北麓の高所に陣取る一方で、作用川(さようがわ)沿いの山脇(やまわき=兵庫県佐用郡佐用町)杉原盛重(すぎはら もりしげ)ら5千を置き、上月城の大手には益田元祥(ますだもとなが)ら5千を向かわせて砦を構築させました。

一方の小早川隆景は、八塔寺峠(はっとうじとうげ=岡山県と兵庫県の国境)から播磨に侵入した後、三村親成(みむらちかしげ)姫路(ひめじ=兵庫県姫路市)方面を警戒させつつ、自身は秋里川(あきさとがわ)に沿って北上して上月城背後の山に登り目高大成(めたかおおなり=兵庫県佐用郡佐用町目高)を占拠しました。

実は、この近くの菖蒲谷(しょうぶだに)には上月城の水源があり、
「水の手を断ってしまおう」
との作戦・・・

また、宇喜多直家も、弟の宇喜多忠家(ただいえ)を援軍として派遣して、千種川(ちくさがわ)沿いの高所に陣取らせ、三日月(みかづき=同佐用郡佐用町三日月)方面からやって来るであろう秀吉軍を警戒します。

さらに児玉就英配下の軍船700隻播磨灘(はりまなだ=瀬戸内海西部の海域)に展開・・・この完璧なる布陣が完成形になるのは5月上旬頃で、その時には軍勢の総数は6万以上に膨れ上がっていたのだとか・・・

一方、三木城攻略中の秀吉・・・三木城がなかなか攻略できない事から、まずは周辺の支城を落とす作戦に切り替えつつあったところに、この「毛利軍による上月城包囲」のニュースが飛び込んで来ます。

早速、秀吉は、竹中半兵衛(たけなかはんべえ=竹中重治)安土(あづち=滋賀県近江八幡市)に派遣して、信長に現状報告させる一方で、5000の兵を三木城の押さえとして残し、自らは、武器や兵糧をほぼ持たぬまま、取るものもとりあえず、上月城の救援へと向かいます。

そこに、伊丹(いたみ=兵庫県伊丹市)からの荒木村重(あらきむらしげ)加古川(かこがわ=兵庫県加古川市)からの羽柴小一郎(こいちろう=秀吉の弟・豊臣秀長)が合流した約1万の軍勢が作用に到着したのは5月3日の事でした。

しかし、そこで秀吉らが見たのは、もはや完璧に上月城を包囲した毛利の軍勢・・・1万の手勢で、包囲だけでも3万の相手は、どうにもこうにも、

この時の吉川元春が
「向いの山で夜な夜なかがり火焚いて、昼は山とか谷とかを兵がせわしく行ったり来たりしてるけど、ぜんぜんコッチ来んのよ~アイツら…」
と実家への手紙に書くほどに、さすがの秀吉にも、なす術が無かったようです。

5月14日には、毛利方から上月城に大砲がブチ込まれ、多くの死傷者を出したりしますが(5月14日参照>>)、かと言って、互いが斬り合うような白兵戦が無いまま・・・

しかも、もうとっくに到着してるはずだった織田信忠(のぶただ=信長の嫡男)を総大将に据えた2万の援軍は、武将同士がモメて加古川あたりで停滞していて、いっこうにやって来る気配もなく。

やむなく秀吉は、上洛して信長に謁見し、
「今は三木城を落とす事を最優先にすべき状況なので、上月城は放棄してもよろしいでしょうか?」
提案して信長のOKをもらい、5月19日のうちに山中幸盛の娘婿にあたる亀井茲矩(かめいこれのり)を使者として、幸盛以下、上月城に籠る尼子勢に、
「速やかに城を脱出するように」
との伝言を授けて上月城内に向かわせたのです。

Yamanakasikanosuke500 包囲をくぐりぬけ、無事、上月城に入った亀井茲矩は、幸盛らに秀吉からの伝言を伝えますが、
幸盛の返事は「No!」
「同じ犠牲者を出すなら、城に留まって最後まで戦いたい」
と言ったのです。

完全拒否された秀吉軍は、やむなく6月24日の真夜中から撤退を開始しますが、翌25日の朝、徐々に周辺が明るくなる中で、

秀吉軍の中村一氏(なかむらかずうじ)らの一軍が千種川を渡って撤退していく姿を見て取った宇喜多直家配下の中村三郎左衛門(なかむらさぶろうざえもん)なる武将が、この中村一氏軍の追撃を開始した事から、この上月城攻防戦における最初で最後の白兵戦の火蓋が切られます。

そこに吉川方&小早川方の諸将が突っ込むと、秀吉軍側からも福島政則(ふくしままさのり)隊や堀尾吉晴(ほりおよしはる)隊やらが応戦する激戦が展開されました。

上記の通り、1万VS3万のため、秀吉軍にはかなりアブナイ場面もあったようですが、幸いにも毛利からの追撃が、あまり深く無かったおかげで、翌26日には、秀吉軍のほぼ全軍が戦線を離脱する事ができたのです。

その頃、上月城内では、
「もはや勝ち目は無い」
として、こうなったら、いかに犠牲者を少なくして降伏するかの話し合いに入っていたのです。

…で、城内での結論は、尼子十旗(あまごじっき=出雲国内の主要な10の支城)の一つである神西城(じんざいじょう=島根県出雲市)を任されていた老臣=神西元通(じんざいもとみち)切腹を以って、尼子勝久以下将兵の助命を願い出る事に決定し、その旨を伝える使者が毛利方に走ります。

7月2日、未だ毛利からの返事がないまま、城を出た神西元通は、敵に見えるように自刃して果てたのです。

しかし、翌7月3日に届いた毛利からの返信は・・・
「尼子勝久以下、弟の尼子通久(みちひさ)と嫡男の豊若丸(とよわかまる)3名の切腹を以って城兵の命を保障する…コレ以外は総攻撃するからな」
という物でした。

悲しいかな、老臣の死は完全に無駄になってしまいました。

これを受けた尼子勝久・・・もはや覚悟を決め、弟と息子とともに自刃して果てたのです。

かくして天正六年(1578年)7月5日、3名の切腹を確認した吉川元春と小早川隆景が「城兵助命」の起請文(きしょうもん=神仏に誓って遵守する旨を記した文書)を山中幸盛に手渡した事で、上月城は開城となるのです。

主君の尼子勝久が自害したにも関わらず、幸盛が命ながらえたのは、勝久からの
「生きて、今1度、尼子を再興せよ」
の遺命があったから・・・なんて事も言われますが、

結局、捕縛された山中幸盛は、この12日後の7月17日、護送中に殺害されてしまいます(7月17日参照>>)

んん?勝久以下3名が切腹したら「城兵助命」のはず・・・山中幸盛は城兵の中には入らんの?
と思いますが、それだけ「まだ何かしそう」な気配を持っていたのかも知れませんね。

なんせ、(尼子再興の為になら)「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に願っちゃう人ですからね~

それにしても・・・
秀吉の進言どおり、上月城を脱出してたら、また、別の展開があったのでしょうか?

イロイロな展開を考えてしまいますね。
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