秀吉の援軍空し…上月城が落城
天正六年(1578年)7月5日、吉川元春と小早川隆景が、織田信長方の上月城を落としました。
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★上月城攻防戦は、これまで何度か書かせていただいておりますので、以前のページと内容がカブる箇所がありますが、
ご了承のほど…m(_ _)m
群雄割拠する戦国となった中国地方では、周防(すおう=山口県東部)の大内氏(おおうちし)と、出雲(いずも=島根県東部)の尼子氏(あまごし)の2大勢力が雌雄を争っていましたが、その両者の間を渡り歩きつつ、いつしか大内氏を取り込んでのし上がって来たのが、安芸(あき=広島県)郡山城(こおりやまじょう=広島県安芸高田市吉田町)の毛利元就(もうりもとなり)でした。
●【厳島の戦い】参照>>
●【大内義長が自刃】参照>>
大内の領地の大半が毛利の物となる中、更なる領地拡大で石見銀山(いわみぎんざん=島根県大田市)を狙う毛利元就を警戒しつつも、尼子当主の尼子晴久(あまごはるひさ) は永禄三年(1560年)に急死・・・(12月24日参照>>)
弱冠20歳で息子の尼子義久(よしひさ)が後を継いだ、この当主交代劇をチャンスと見た毛利元就は、永禄六年(1563年)の出雲白鹿城(はくろくじょう・しらがじょう=島根県松江市法吉町)(8月13日参照>>)を手始めに尼子の領地へと侵攻し、永禄九年(1566年)11月、ついに尼子の本拠地である月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市広瀬町)を落とし(11月21日参照>>)、降伏した義久らは幽閉の身となります。
これで事実上の滅亡となった尼子氏ですが、未だ諦めない尼子家臣の山中幸盛(ゆきもり=鹿介)が、尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)を当主と仰ぎつつ、月山富田城奪回&尼子再興を目指し、備中兵乱(びっちゅうひょうらん=岡山周辺の動乱)(6月2日参照>>)のドサクサに紛れて各地を転戦しはじめますが(1月22日参照>>)、
さすがに相手は毛利・・・尼子を倒した事で中国地方一の大大名となった西国の雄ですから、もはや太刀打ちできず・・・
一方、この頃、大内氏の残党である大内輝弘(おおうちてるひろ)との交戦中だった毛利元就は、その背後を突いて出雲を奪回しよう転戦する尼子氏残党に協力する姿勢を見せていた但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)を「けん制してほしい」と依頼・・・
その依頼した相手が、永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)織田信長(おだのぶなが)だったのです。
さっそく信長は、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)を大将にした2万の軍勢を但馬に派遣し、山名祐豊の居城である此隅山城(このすみやまじょう=兵庫県豊岡市)を奪取したのです。
実は、これが、信長の命による秀吉の中国攻めの最初の最初段階です。
しかし、その後、 元亀二年(1571年)に毛利元就が亡くなった事で後を継いだ孫の毛利輝元(てるもと)が、
信長に敵対して追放された義昭を受け入れたり(7月18日参照>>)、
やはり信長と敵対する本願寺顕如(けんにょ)(9月14日参照>>)の味方をした事から、
信長は、天正三年~四年(1576年)頃から、配下の明智光秀(あけちみつひで)や細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らを丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)や丹後(たんご=京都府北部)に(10月29日参照>>)、秀吉を但馬から美作(みまさか=岡山県東北部)さらに備前(びぜん=岡山県東南部)等の中国攻略へと派遣し(10月23日参照>>)、西国の毛利との徹底抗戦を決意したわけです。
そうなると、敵の敵は味方とばかりに、かの山名祐豊も、そして尼子勝久&山中幸盛コンビも信長の傘下に・・・
そんな中、天正五年(1577年)12月1日に福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)を(12月1日参照>>)、12月3日に上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)を(12月2日参照>>)…
と、いずれも毛利に味方する城を落とした秀吉は、次に、やはり毛利方の別所長治(べっしょながはる)の守る播磨三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)へと向かうため、この奪い取った上月城に山中幸盛を駐屯させる事にします。
早速、山中幸盛は、京都に滞在中の尼子勝久を迎えに上洛しますが、幸盛の留守を知った宇喜多直家(うきたなおいえ)が、翌天正六年(1578年)1月に上月城に攻撃を仕掛け、まんまと城を占拠するも、
1月下旬に尼子勝久を奉じた幸盛以下1千騎が戻って来ると、直家から城の守備を任されていた真壁彦九郎(まかべひこくろう)がビビッって守備を放棄してしまい、おかげで尼子勝久&山中幸盛コンビは楽々入城・・・
尼子の殿が城将となった事で、山中幸盛が呼びかけると、尼子残党がどんどん集まって来て城内の士気は大盛り上がり・・・これに気を良くした尼子勢が備前に進出する気配を見せ始めたため、真壁の失態を挽回すべく宇喜多直家は、頻繁に上月城奪回を試みます。
そのため、上月城内の尼子勢は、ある時は城を捨てたり、ある時は秀吉に救援を求めたりするハメになりますが、かと言って、宇喜多直家が上月城を完全掌握する事もできず・・・両者の小競り合いは、なかなか進展を見せませんでした。
そこで毛利輝元は、天正六年(1578年)の正月頃から、家臣の粟屋元種(あわやもとたね)を木津城(きづじょう=徳島県鳴門市撫養町)に派遣したり、児玉就英(こだまなりひで)を淡路(あわじ=淡路島)の岩屋城(いわやじょう=兵庫県淡路市)に駐屯させたり、配下の水軍を使って瀬戸内海を制圧したりして、秀吉と戦う三木城への後方支援をし、間接的に秀吉をかく乱すると同時に、
4月1日には、別所重宗(しげむね・重棟=別所長治の叔父だけど秀吉の味方)の播磨別府城(べふじょう=兵庫県加古川市別府町)を攻撃しますが、これは秀吉からの援軍の登場により阻まれてしまいます。
思うように事が進まない毛利・・・
そこで、この状況を打開すべく吉川元春(きっかわもとはる=毛利元就の次男)と小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男)を大将に3万余の大軍で以って上月城の攻略に乗り出したのです。
上月城攻防戦・関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
4月上旬、まずは吉川元春が土居(どい=岡山県美作市)から大日山川(だいにちやまがわ)に沿って西上し、上月城の西麓と北麓の高所に陣取る一方で、作用川(さようがわ)沿いの山脇(やまわき=兵庫県佐用郡佐用町)に杉原盛重(すぎはら もりしげ)ら5千を置き、上月城の大手には益田元祥(ますだもとなが)ら5千を向かわせて砦を構築させました。
一方の小早川隆景は、八塔寺峠(はっとうじとうげ=岡山県と兵庫県の国境)から播磨に侵入した後、三村親成(みむらちかしげ)に姫路(ひめじ=兵庫県姫路市)方面を警戒させつつ、自身は秋里川(あきさとがわ)に沿って北上して上月城背後の山に登り、目高大成(めたかおおなり=兵庫県佐用郡佐用町目高)を占拠しました。
実は、この近くの菖蒲谷(しょうぶだに)には上月城の水源があり、
「水の手を断ってしまおう」
との作戦・・・
また、宇喜多直家も、弟の宇喜多忠家(ただいえ)を援軍として派遣して、千種川(ちくさがわ)沿いの高所に陣取らせ、三日月(みかづき=同佐用郡佐用町三日月)方面からやって来るであろう秀吉軍を警戒します。
さらに児玉就英配下の軍船700隻を播磨灘(はりまなだ=瀬戸内海西部の海域)に展開・・・この完璧なる布陣が完成形になるのは5月上旬頃で、その時には軍勢の総数は6万以上に膨れ上がっていたのだとか・・・
一方、三木城攻略中の秀吉・・・三木城がなかなか攻略できない事から、まずは周辺の支城を落とす作戦に切り替えつつあったところに、この「毛利軍による上月城包囲」のニュースが飛び込んで来ます。
早速、秀吉は、竹中半兵衛(たけなかはんべえ=竹中重治)を安土(あづち=滋賀県近江八幡市)に派遣して、信長に現状報告させる一方で、5000の兵を三木城の押さえとして残し、自らは、武器や兵糧をほぼ持たぬまま、取るものもとりあえず、上月城の救援へと向かいます。
そこに、伊丹(いたみ=兵庫県伊丹市)からの荒木村重(あらきむらしげ)と加古川(かこがわ=兵庫県加古川市)からの羽柴小一郎(こいちろう=秀吉の弟・豊臣秀長)が合流した約1万の軍勢が作用に到着したのは5月3日の事でした。
しかし、そこで秀吉らが見たのは、もはや完璧に上月城を包囲した毛利の軍勢・・・1万の手勢で、包囲だけでも3万の相手は、どうにもこうにも、
この時の吉川元春が
「向いの山で夜な夜なかがり火焚いて、昼は山とか谷とかを兵がせわしく行ったり来たりしてるけど、ぜんぜんコッチ来んのよ~アイツら…」
と実家への手紙に書くほどに、さすがの秀吉にも、なす術が無かったようです。
5月14日には、毛利方から上月城に大砲がブチ込まれ、多くの死傷者を出したりしますが(5月14日参照>>)、かと言って、互いが斬り合うような白兵戦が無いまま・・・
しかも、もうとっくに到着してるはずだった織田信忠(のぶただ=信長の嫡男)を総大将に据えた2万の援軍は、武将同士がモメて加古川あたりで停滞していて、いっこうにやって来る気配もなく。
やむなく秀吉は、上洛して信長に謁見し、
「今は三木城を落とす事を最優先にすべき状況なので、上月城は放棄してもよろしいでしょうか?」
と提案して信長のOKをもらい、5月19日のうちに山中幸盛の娘婿にあたる亀井茲矩(かめいこれのり)を使者として、幸盛以下、上月城に籠る尼子勢に、
「速やかに城を脱出するように」
との伝言を授けて上月城内に向かわせたのです。
包囲をくぐりぬけ、無事、上月城に入った亀井茲矩は、幸盛らに秀吉からの伝言を伝えますが、
幸盛の返事は「No!」
「同じ犠牲者を出すなら、城に留まって最後まで戦いたい」
と言ったのです。
完全拒否された秀吉軍は、やむなく6月24日の真夜中から撤退を開始しますが、翌25日の朝、徐々に周辺が明るくなる中で、
秀吉軍の中村一氏(なかむらかずうじ)らの一軍が千種川を渡って撤退していく姿を見て取った宇喜多直家配下の中村三郎左衛門(なかむらさぶろうざえもん)なる武将が、この中村一氏軍の追撃を開始した事から、この上月城攻防戦における最初で最後の白兵戦の火蓋が切られます。
そこに吉川方&小早川方の諸将が突っ込むと、秀吉軍側からも福島政則(ふくしままさのり)隊や堀尾吉晴(ほりおよしはる)隊やらが応戦する激戦が展開されました。
上記の通り、1万VS3万のため、秀吉軍にはかなりアブナイ場面もあったようですが、幸いにも毛利からの追撃が、あまり深く無かったおかげで、翌26日には、秀吉軍のほぼ全軍が戦線を離脱する事ができたのです。
その頃、上月城内では、
「もはや勝ち目は無い」
として、こうなったら、いかに犠牲者を少なくして降伏するかの話し合いに入っていたのです。
…で、城内での結論は、尼子十旗(あまごじっき=出雲国内の主要な10の支城)の一つである神西城(じんざいじょう=島根県出雲市)を任されていた老臣=神西元通(じんざいもとみち)の切腹を以って、尼子勝久以下将兵の助命を願い出る事に決定し、その旨を伝える使者が毛利方に走ります。
7月2日、未だ毛利からの返事がないまま、城を出た神西元通は、敵に見えるように自刃して果てたのです。
しかし、翌7月3日に届いた毛利からの返信は・・・
「尼子勝久以下、弟の尼子通久(みちひさ)と嫡男の豊若丸(とよわかまる)の3名の切腹を以って城兵の命を保障する…コレ以外は総攻撃するからな」
という物でした。
悲しいかな、老臣の死は完全に無駄になってしまいました。
これを受けた尼子勝久・・・もはや覚悟を決め、弟と息子とともに自刃して果てたのです。
かくして天正六年(1578年)7月5日、3名の切腹を確認した吉川元春と小早川隆景が「城兵助命」の起請文(きしょうもん=神仏に誓って遵守する旨を記した文書)を山中幸盛に手渡した事で、上月城は開城となるのです。
主君の尼子勝久が自害したにも関わらず、幸盛が命ながらえたのは、勝久からの
「生きて、今1度、尼子を再興せよ」
の遺命があったから・・・なんて事も言われますが、
結局、捕縛された山中幸盛は、この12日後の7月17日、護送中に殺害されてしまいます(7月17日参照>>)。
んん?勝久以下3名が切腹したら「城兵助命」のはず・・・山中幸盛は城兵の中には入らんの?
と思いますが、それだけ「まだ何かしそう」な気配を持っていたのかも知れませんね。
なんせ、(尼子再興の為になら)「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に願っちゃう人ですからね~
それにしても・・・
秀吉の進言どおり、上月城を脱出してたら、また、別の展開があったのでしょうか?
イロイロな展開を考えてしまいますね。
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