上杉と北条の間で揺れ動く忍城~成田長泰の生き残り作戦
天正二年(1574年)7月27日、武蔵に侵入して来た上杉謙信が成田長泰の忍城を攻めました。
・・・・・・・
あのHIT映画「のぼうの城」の舞台として知られる忍城(おしじょう=埼玉県行田市)は、あの応仁の乱が終わったであろう頃に、
藤原北家(ふじわらほっけ=不比等の次男・藤原房前 が祖)の流れを汲む名門で、室町時代に入ってからは代々、関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐&関東支配)の山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の被官(ひかん=側近)を務めていた成田顕泰(なりたあきやす)なる武将が、この地を支配していた忍(おし)氏を倒して築城したとされ(その辺はちと曖昧)、
戦国時代には、その成田顕泰の孫にあたる成田長泰(なりたながやす)も、忍城を居城としながら、時の関東管領である上杉憲政(うえすぎのりまさ)に仕えておりました。
しかし、やがて、代々関東管領を務めて来た上杉と、徐々に関東支配に手を伸ばしてきた北条(ほうじょう)がぶつかる事になります。
(このあたりは【北条氏綱、武蔵江戸に進出】を参照>>)
上杉憲政が、足利晴氏(あしかがはるうじ=4代古河公方)や上杉朝定(うえすぎともさだ=山内上杉家)らもろともに、北条氏康(ほうじょううじやす=後北条3代当主)に敗れた天文十五年(1546年)4月の河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)の時には、
父の死を受けて家督を継いで間もない成田長泰も、上杉憲政からの出陣要請を受けている記録が残っていますので(『小山文書』)、この時期には、未だ上杉の配下であったのでしょう。
そのため、7年後の天文二十二年(1553年)には、北条氏康に忍城を攻められますが、この時は城は落ちず・・・成田長泰は死守しています。
しかし、その後も、真里谷(まりやつ)武田氏を滅ぼし(11月4日参照>>)、安房(あわ=千葉県南部)の里見(さとみ)と戦って(1月20日参照>>)房総半島を脅かす北条に対し、河越以降の上杉憲政らは、もはや打つ手なしの状態・・・
こうなると、何と言っても世は戦国・・・
生き残るためには、上手く立ち行かねば・・・
てな事で、ここらあたりで上杉憲政を見限った成田長泰は、勢いのある北条に服す事にします。
ところがドッコイ・・・
「もう、アカン(ToT)」
と思った上杉憲政は、北条に対抗するため、ここで、これまた勢いのある越後(えちご=新潟県)の長尾景虎(ながおかげとら)のもとへ上杉家の系譜と先祖代々のお宝を手に逃げ込み、彼に関東管領職を譲るというのです(6月26日参照>>)。
この時点で北条配下となっている忍城・・・今度は、謙信のターゲットとなってしまうわけで。。。
これを知った成田長泰が、一族配下に下知を飛ばし、
大手(おおて=正面)口と搦手(からめて=側面)口に兵を集中させ、籠城の構えを見せると、守備配置を確認しようと、景虎が大手に姿を見せます。
このチャンスに城内から一斉に鉄砲を撃ちかけた成田勢ではありましたが、残念ながら、弾は一発も景虎に当たらず・・・
この後は・・・
景虎が忍城攻撃に着手するも、小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)から北条の援軍が出陣したとの知らせが入ったため、やむなく景虎は兵を退きあげた・・・という説と、
忍城が、なかなか落ちなかったため、長期戦を覚悟した景虎が埼玉古墳群に陣を据え、城下に火を放って民家を焼き払った事から、成田長泰は末の息子を人質に出し、和睦交渉に入った・・・という2つの説がありますが、
いずれにしても、ここで成田長泰が北条に離反して、景虎の傘下となった事は確か・・・
というのは、この後、関東管領並みとなって上杉謙信(うえすぎけんしん)と名を改めた景虎が(ここからは謙信と呼びます)、北条の本拠地を攻めた永禄三年(1560年)の小田原城の戦いには、キッチリ、謙信傘下の人として、北条を攻める側に回ってますので・・・
しかし、小田原攻めを終えた謙信が越後に戻ってしまうと、成田長泰はチャッカリと、またもや北条の傘下に・・・
といっても、これには成田長泰の言い分もあるようです。
以前、太田資正(おおたすけまさ・三楽斎=太田道灌の曾孫)のページ(9月8日参照>>)でも触れましたが、
このころ、北条に抵抗していた関東武士の中には、なかなかの名門出身の武将も多く、
「成り上がり的に関東支配進める北条」への名門が故の敵意を持っていた者も多かったのですが、
そんな彼らから見たら、越後の守護であった上杉に取って代わった守護代長尾家の謙信だって「下剋上の成り上がり」なわけで
『相州兵乱記』や『関八州古戦録』などによれば、 この小田原攻めついでで関東遠征して来た謙信の、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で行われた関東管領就任式にて、成田長泰が謙信の前で下馬しなかった事から、謙信が、持っていた扇で長泰の烏帽子を打ち落とす…という一件があり、
長泰は「あの八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)にさえ下馬しなかった名門のオレが辱めを受けた」と、激激怒して、そのまま居城に戻るなり北条に寝返ったとされています。
実は、この小田原城攻めを終えた謙信が越後へ帰郷…のタイミングでは、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲む名門で唐沢山城(からさわやまじょう=栃木県佐野市)主の佐野昌綱(さのまさつな)(10月27日参照>>)や、
これまた名門の鎌倉殿の13人の一人=八田知家(はったともいえ)を祖とする小田城(おだじょう=茨城県つくば市)の小田氏治(おだうじはる)(11月13日参照>>)などの関東の名門武士が、やはり成田長泰と同じく、謙信の小田原城攻めに参加しておきながら、その後に北条へと転じています。
こうして再び北条傘下となった成田長泰は、永禄五年(1562年)3月に、関東に戻って来た謙信が佐野昌綱を攻めた時には、北条氏照(うじてる=北条氏康の三男)に上杉軍の動きを伝えるとともに、氏照と連携を取って後詰(ごづめ=後方支援)に務めたと言います。
そうなると当然ですが、成田長泰の忍城は、またまた上杉謙信のターゲットとなるわけですが・・・
この間、永禄八年(1565年)9月や元亀元年(1570年)3月などに、北条や上杉が放った書状に忍城の文字が見え、おそらく両者の間で成田長泰が揺れ動いていたであろう中、
いよいよ天正二年(1574年)7月27日、 上杉謙信が武蔵(むさし=東京都と埼玉&神奈川の一部)に侵入し鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)や松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)とともに忍城を攻撃・・・城下をことごとく焼き払ったのです。
結局、これに屈した成田長泰は降伏・・・謙信から隠居を命じられて、家督を嫡男の成田氏長(うじなが)に譲りました。
こうやって、何とか居城とともに生き残る事ができた成田氏・・・
この後、上記の経緯から上杉傘下となった成田氏ですが、形勢不利と見るや、またまた北条へ寝返り・・・
しかし、織田信長(おだのぶなが)が台頭して来ると、その配下で関東支配担当だった滝川一益(たきがわかずます)の傘下になりますが、その一益が、本能寺の変のゴタゴタのさ中に北条に負けた(6月18日参照>>)事で、またもや北条に返り咲き・・・と、まだまだ、やっぱり揺れ動く成田氏。。。
で、結局、この北条傘下の時代に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が北条を潰しに来て~~てな事で、冒頭の「のぼうの城」は、天正十八年(1590年)の、この秀吉の小田原攻めの時のお話です。
●【のぼうの城の感想】>>
●【水の要塞・忍の浮城】>>
●【留守を守った成田氏長夫人と甲斐姫】>>
ただし、この時は、小田原攻めの一環での忍城攻めだったので、城主の氏長は小田原城に出張しており、映画の主役として忍城を守ったのは、従兄弟(成田長泰の弟の子)で城代を務めていた成田長親(ながちか)(12月11日参照>>)なのですが・・・
そのページに書かせていただいたように、どうやら氏長の娘の甲斐姫(かいひめ)が、かの秀吉の寵愛を受けた?とおぼしき事から、成田氏は、負け組でありながら近江(おうみ=滋賀県)に2万500石を与えられて、ここに来ても見事、またの生き残りを果たしました。
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