武田信玄VS小笠原長時~塩尻峠の戦い
天文十七年(1548年)7月19日、武田信玄が小笠原長時に勝利した塩尻峠の戦いがありました。
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東に北条氏康(ほうじょううじやす)の相模(さがみ=神奈川県)、南に今川義元(いまがわよしもと)の駿河(するが=静岡県東部)という 大国に隣接する甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん=当時は晴信)にとって、北方に広がる信濃(しなの=長野県)の地を手に入れる事は、父=信虎(のぶとら)の時代からの悲願でした。
当時の信濃は、府中(ふちゅう=長野県松本市)に代々守護(しゅご=県知事)を務める小笠原長時(おがさわらながとき)がいるものの、群雄割拠の戦国となった今は、その勢力範囲も松本周辺に限られ、国内には多数の国人(こくじん=地侍)うごめいていたのです。
そんな中で、有力国人だったのが諏訪(すわ=長野県諏訪市周辺)の諏訪頼重(すわよりしげ)と、北信濃の村上義清(むらかみよしきよ)でした。
天文十年(1541年)6月に父の信虎を追放して(6月14日参照>>)、21歳で家督を継いだ信玄は、すぐさま信濃攻略に取り掛かり 、わずか1年で諏訪の上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)を攻略し、諏訪頼重を自刃に追い込みます(6月24日参照>>)。
その2年後の天文十三年(1544年)10月には伊那(いな=長野県南部)に侵攻して(10月29日参照>>)福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町:箕輪城とも)を落とし、
さらに天文十六年(1547年)8月には志賀城(しがじょう=長野県佐久市)を陥落させて(8月17日参照>>)、その勢力は信濃東部にまで進みました。
しかし、そこに立ちはだかったのが葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡坂城町)の村上義清だったのです。
天文十七年(1548年)2月の 上田原(うえだはら=長野県上田市)にて村上義清と戦った信玄は、生まれて初めて苦汁を飲む事になります(2月14日参照>>)。
そのページにも書かせていただきましたが、この戦いは、『甲陽軍艦』では、一応、信玄が勝利した事になってますが、戦死者の数もさることながら、父の代からの重臣である板垣信方(いたがきのぶかた)や甘利虎泰(あまりとらやす)を失い、信玄自身も負傷した事などから、一般的には村上方の勝利との見方がされています。
おそらく信玄自身も、そして回りの人々の目にも、武田の負け…と映った事でしょう。
しかし、納得がいかない信玄は2月14日の最大の戦いのあとも兵を退こうとせず、母の大井夫人(おおいふじん=大井の方)の説得によって、3月3日にようやく陣を引き払っています。
このゴタゴタをチャンスと見たのが、これまで武田に圧迫されていた信濃府中林城(はやしじょう=長野県松本市)の小笠原長時・・・このタイミングで、武田に反攻の意を示したのです。
まずは、信玄撤退から1ヶ月チョイの4月15日、諏訪へと侵入して諏訪大社(すわたいしゃ=諏訪湖周辺4か所にある神社)下社(しもしゃ)に乱入して周辺を荒らしまわりました。
社人らが対抗してなんとか撃退しましたが、その乱入行為は6月10日にも。。。(6月10日の乱入にて諏訪下社を小笠原が占領したとも)
その後の内応策によって、武田方の諏訪西方衆の花岡(はなおか)氏や矢島(やじま)氏を寝返らせる事に成功した小笠原長時は、7月10日、上諏訪に侵攻・・・危険を感じた神官らは上原城へと避難して、武田の援軍が来るのを待ちました。
これを知った信玄は、翌7月11日に甲府(こうふ=山梨県甲府市)を出陣し、しばらく跡部勝忠(あとべかつただ=武田家譜代家臣)の陣所に滞在した後、大井ヶ森(おおいがもり=山梨県北杜市長坂町)まで出て、敵陣の様子をうかがいます。
実は、この時・・・武田3000に小笠原5000という信玄には不利な兵数でしたが、武田勢の結束の固さに対し、一方の小笠原勢は、この時点で、すでに一枚岩では無かったのです。
この合戦の始め=諏訪でのアレコレの時に、小笠原長時の舅である仁科盛能(にしなもりよし)が、長時の力攻め案に反対して和睦した後に盛能自身が諏訪を支配する事を進言したにも関わらず、長時が、それを認めずに強行突破した事で、舅としての面目を失った仁科盛能は、ここで怒りがピークに達し、与力同心引き連れて撤兵してしまったのです。
さらに一説には、すでに水面下で行っていた小笠原方の山家(やまべ)氏や三村(みむら)氏などへの内応工作が成功して彼らが寝返った?という話もありますが(信ぴょう性が薄いとされる)、
とにもかくにも、
「ここでイケる!」
との感触を得た信玄は、様子うかがい作戦から一転…7月18日に上原城へ入ると、休む間もなく再び出陣し、小笠原方に気づかれぬよう、夜のうちに塩尻峠(しおじりとうげ=長野県塩尻市と岡谷市)へと向かいます。
かくして天文十七年(1548年)7月19日の朝6時、武田軍が一斉に、塩尻峠の小笠原軍を急襲したのです。
武田軍の夜の動きを察知できず、未だ「信玄は様子見ぃの段階」との判断をしていた小笠原軍は、そのほとんどが武具をはずしての就寝中であったらしく、
いきなりの奇襲に大慌てで、反撃する間もなく総崩れとなり、小笠原軍は、あっけなく敗走する事になってしまいました。
小笠原方の記録『小笠原系図』では、
一日の内で6度の戦いがあったものの、6度目の決戦の直前に、すでに武田方に内通していた山家&三村らが、戦わずして戦場離脱した事から、残された小笠原勢が雪崩のように崩れていったように記されていますが、
小笠原方が1000人に及ぶ戦死者を出したという中で、武田方で発給された感状には敵の大将クラスの名がほとんど無い事から、6度の合戦というのは、やはり少々オーバーで、実際には、奇襲に慌てた小笠原方が、大した激戦もしないまま、ただただ逃げるしかなった…というのがホントのところのようです。
もちろん、総大将の小笠原長時も・・・命からがら林城(はやしじょう=長野県松本市)へと逃走しました。
こうして、長時の命は助かったものの、信濃の守護を預かる名家で、反武田の中心的存在だった小笠原が、信玄の急襲によって、あっけなく敗れ去った状況は、もはや、その反武田の結束をも崩壊させるに十分である状況を示す事になってしまうのです。
なんせ、先の上田原の戦いで村上義清に敗れた事で激ヤバ状態だった信玄が、今回の勝利でプラマイ0どころか、さらに何倍もの勢いをつけてしまう結果になったのですから。。。
この後、信玄が9月6日に佐久(さく)へと侵攻して前山城(まえやまじょう=長野県佐久市)を落城させると、その勢いを恐れた周辺の13城が自落し、さらに駒を進める信玄は、10月4日に松本平(まつもとだいら=長野県中央部にある盆地で安曇平とも)へ入り、小笠原長時が拠る林城から、南へわずか8kmの場所に、長時抹殺を見据えた村井城(むらいじょう=長野県松本市)を構築する事になるのです。
・・・で、結局、天文十九年(1550年)に、その林城を追われた小笠原長時が村上義清を頼り、その村上義清が上杉謙信(うえすぎけんしん)を頼り・・・で、やがて十数年に渡る、あの川中島(かわなかじま=長野県長野市)の戦いへと発展していく事になります。
★今後の流れ
●戸石城攻防戦>>
●更科八幡の戦い>>
●川中島1~布施の戦い>>
●川中島2~犀川の戦い>>
●川中島3~上野原の戦い>>
●川中島4~八幡原の戦い>>
●川中島5~塩崎の対陣>>
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