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2022年8月24日 (水)

遠藤盛数VS東常慶の東殿山城の戦い~城下町・郡上八幡誕生物語

 

永禄二年(1559年)8月24日、遠藤盛数が東常慶を攻めた兄の弔い合戦である東殿山城の戦いがありました。

・・・・・・・・・

本日の主役=東常慶(とうつねよし)は、今年の大河ドラマ「鎌倉殿13人」で、お爺ちゃんチームの一人として活躍の千葉常胤(ちばつねたね=岡本信人さんの役です)の子孫で、元の領地の下総(しもうさ=千葉)から美濃(みの=岐阜県南部)へと移り住んだ分家の血筋

この戦国時代は、篠脇城(しのわきじょう=岐阜県郡上市大和町牧)を拠点に、美濃の郡上(ぐじょう=岐阜県郡上市&下呂市)一帯を治める武将で、かつて、斎藤妙椿(さいとうみょうちん)から和歌で領地を取り戻した逸話(5月12日参照>>)が有名な風流人=東常緑(つねより)にあたります。

ここのところは、新たに東殿山城(とうどやまじょう=岐阜県郡上市八幡町・赤谷山城とも)を築き、篠脇城から本拠を移して、軍事の立て直しを図っておりました。

一方、もう一人の主役である遠藤盛数(えんどうもりかず)遠藤氏は、木越城(きごえじょう=岐阜県郡上市大和町島倉通)を拠点にした東氏の重臣で、千葉から引っ越して来た時からの古参でした。

常に一心同体の間柄の両者は、東氏に抵抗して来た和田一族を滅ぼしたり越前(えちぜん=福井県東部)から南下して来た朝倉孝景(あさくらたかかげ)撃退するなど(9月3日参照>>)度々、見事なタッグを組んで戦国を乗り切って来ていたのです。

しかも、遠藤盛数の奧さんは東常慶の娘=つまり東常慶にとって、遠藤盛数は頼もしい娘婿でもあったわけです。

ちなみに、この遠藤盛数の娘が、あの内助の功で有名山内一豊(やまうちかずとよ)の妻=見性院(けんしょういん)さん(12月4日参照>>)だとも言われています(諸説あり)

とは言え、東常慶には、一つ困った事が・・・それは、自身の息子である常堯(つねたけ)の事。。。

実は、息子の常堯は、その気性が荒く粗暴で、近所でも評判最悪のダメ息子だったのです。

なので、東常慶は遠藤盛数を婿養子として東家に迎え、自身の後継ぎとしようと考えていたとか・・・(一説には、すでに弘治年間(1555年~1558年)に家督を譲っていた話も…)

しかし、そんなボンクラ息子でも、年頃になれば
「身を固めてほしい」
と思うのが親の常・・・

なんせ、この令和と違って
「結婚だけが幸せじゃ無いのよ」
「独身貴族しか勝たん!」
「結婚しても子供は欲しくないかも…」
てな多様な人生観は無い時代ですから・・・

そこで東常慶は、遠藤盛数の兄である遠藤胤縁(たねより)の娘が、ちょうど良いお年頃なので、
「息子の嫁に来てチョーダイ」
と胤縁に打診します。

ところが胤縁は、
「あんなDV案件のボンクラに、ウチの可愛い娘をやれるかい!」
と、一蹴し、

「ボヤボヤして押し切られたらヤバイ」
とばかりに、そそくさと娘を、畑佐備後守(はたさびんごのかみ)の息子=六郎右衛門(ろくろうえもん)に嫁がせたのです。

これに
「面目を潰された!」
と激怒する東常慶。。。

永禄二年(1559年)8月1日に、遠藤胤縁を東殿山城に誘い出し、登城して来た彼を、家臣に命じて鉄砲で射殺してしまいます。

この一報を聞いた遠藤盛数・・・ここ最近は、郡上の南端に刈安城 (かりやすじょう=岐阜県郡上市美並町白山)を構築し、
「なんなら東氏に取って代わってやる」
てな野望も湧き始めていた盛数は、

早速、亡き兄の長男である遠藤胤俊(たねとし)を伴って、兄の弔い合戦に挑みます。

Guzyouhatimantoudoyamazyou 東殿山城の戦い・位置関係図→
クリックで大きく→(背景は地理院地図>>)

8月14日、味方を募って出陣した遠藤盛数らは、東殿山城から吉田川(よしだがわ)を挟んだ八幡山山頂に布陣し、ここから東殿山城に向けて、連日の攻撃を仕掛けます。

この時、和良村(わらむら=現在の岐阜県郡上市和良町付近) や気良郷(けらごう=現在の岐阜県郡上市明宝気良付近)など、一部の郷士は東常慶&常堯父子に味方しましたが、粥川氏(かゆかわし)餌取氏(えどり氏)をはじめとする、それ以外のほとんどの郡上の諸士は遠藤盛数側に味方・・・

なんなら飛騨(ひだ=岐阜県北部)から姉小路頼綱(あねがこうじよりつな=斎藤道三の娘婿・三木頼綱)も援軍に駆け付けた…とかで、数的には遠藤勢が、かなり優勢な状況でした。

とは言え東殿山城は険しい場所に建つ要害で、数の差のワリには、なかなかな苦戦を強いられ、小競り合いが何日も続きます。

かくして、出陣から10日が経った永禄二年(1559年)8月24日、業を煮やした遠藤盛数は、この日に決着をつけるべく総攻撃を仕掛け、力攻めの末、東殿山城を攻略したのです。

東常慶は、合戦中に討死・・・息子の常堯は、妻の父親(…って、結婚しとんのかい!)である帰雲城(かえりくもじょう=岐阜県大野郡白川村)内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ)を頼って飛騨へと逃走しますが、

その後、天正十三年(1586年)11月29日の天正大地震の際に崩れた帰雲城の下敷きになって亡くなったと言います。

一方、勝利した遠藤盛数は、戦勝の記念の地である陣地=八幡山の山上に城を築きます。

ご存知!
この後、江戸時代を通じて城下町として栄える通称=郡上八幡(ぐじょうはちまん=岐阜県郡上市八幡町)のシンボルとなる八幡城(はちまんじょう)です。
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コメント

 昨日の朝倉孝景の件に続いて、奥美濃や飛騨をはじめとする山岳地の戦国史及び通行について研究させてもらいます。先祖代々の昔からの連れと既に親戚であるにも関わらず、馬鹿息子のせいで殺し合いとは悲し過ぎますね。それと山内一豊の妻や斎藤道三の娘等、以外にこの地域との婚姻があるのも驚きました。

投稿: | 2023年4月 6日 (木) 12時46分

戦国時代は、イザとなったら身内とも戦いますから…

投稿: 茶々 | 2023年4月 7日 (金) 03時26分

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