関ヶ原の影響を受けた東濃~土岐高山の戦い
慶長五年(1600年)9月1日、関ヶ原の戦いで西軍についた田丸直昌配下の田丸主水が構築した高山砦に、敵対する妻木頼忠らが放火しました。
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伊勢(いせ=三重県)の名門=北畠氏の一族で、もともとは田丸城(たまるじょう・三重県度会郡玉城町)の城主だった田丸直昌(たまるなおまさ)でしたが、かの織田信長(おだのぶなが)の伊勢侵攻(11月25日参照>>)にて信長傘下となった後、蒲生氏郷(がもううじさと)(2月7日参照>>)の娘と結婚した縁から、豊臣秀吉(とよとみひでよし)政権下では氏郷の与力として活躍し、その後に岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)を任されておりました。
そんなこんなの慶長五年(1600年)に起こったのが、ご存知、関ヶ原の戦い・・・(細かな事は【関ヶ原の戦いの年表】>>で)
この時、直昌は、会津征伐(4月14日参照>>)として東北に向かった徳川家康(とくがわいえやす)軍に従軍していましたが、例の石田三成(いしだみつなり)らの伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)攻撃(8月1日参照>>)を知った家康が、7月25日の小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にてUターンする決意を表明した事を受けて、直昌は西軍に属すべく、心を同じくした苗木城(なえきじょう=岐阜県中津川市)城主の河尻秀長(かわじりひでなが)とともに、すぐさま家康軍と決別して領国へと戻り、家老の田丸主水(もんど)に留守を頼んで、自らは大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)へと向かったのでした。
この直昌の治める岩村城周辺の東美濃は、もともとは、遠山氏(とおやまし)や土岐氏(ときし)が割拠していた地域・・・
●【土岐頼芸~国盗られ物語】参照>>
●【岩村城攻防戦】参照>>
戦国乱世となって領国を奪われた遠山&土岐系の諸士の中には、この頃、徳川家康の庇護のもとで生き抜いていた者も多く、そんな中での今回の、天下を東西に分けて戦う関ヶ原・・・
となったからには、東軍=家康の味方をして一旗揚げ、失った領地を回復せん!とウズウズし始めます。
そんな彼らを一まとめにし、蜂起の首謀者となったのが妻木城(つまきじょう=岐阜県土岐市)の妻木頼忠(つまきよりただ)でした。
土岐高山の戦い・関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
そんな状況を知った留守を預かる田丸主水は、妻木城に近い土岐と高山(たかやま=岐阜県土岐市土岐津町高山)に砦を築き、蜂起した諸将の動きを封じようとしますが、逆に妻木頼忠は、岩崎城(いわさきじょう=愛知県日進市)主の丹羽氏次(にわうじつぐ)らを誘って田丸領内に放火して抵抗します。
そこで主水は、8月14日、家臣の寺本吉左衛門(てらもときちざえもん)に300の兵をつけ高山砦を出て多治見(たじみ=岐阜県多治見市)方面へ向かい、妻木領への放火を試みようと進みます。
しかし、スパイによって、すでにこれを察知していた妻木頼忠は、自ら出陣して迎撃・・・多治見境にて激しい合戦となりました。
寺本吉左衛門は、やむなく引き返そうとしますが、時すでに遅し・・・急襲を受けて寺本吉左衛門は討死しました。
これを救援せんと高山砦を出陣した木原清左衛門(きはらせいざえもん)も討ち取られてしまいます。
さらに両者は、8月20日にも、柿野(かきの=岐阜県土岐市鶴里町柿野)にて交戦しますが、この時も田丸勢は妻木に押し切られて高山砦に退却しました。
かくして慶長五年(1600年)9月1日、この小競り合いに決着をつけるべく妻木頼忠は、父の妻木貞徳(さだのり=伝入)とともに高山砦に侵入して放火・・・ついでに周辺も焼き払います。
後がなくなった田丸勢は、翌9月2日、自ら高山砦に火を放ち、土岐砦へと移動し、ここで籠城作戦を取る事に・・・
そこで妻木頼忠は、田丸勢の退路を断つべく、瑞浪(みずなみ=岐阜県瑞浪市)の寺河戸(てらかわど=岐阜県瑞浪市寺河戸町)に砦を築いて田丸勢を孤立させたのです。
そうしておいて、この間に、田丸の支城となっていた明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市明智町)と小里城(おりじょう=岐阜県瑞浪市)のかつての城主である遠山利景(とおやまとしかげ=もと明知城主)と小里光明(おりみつあき=もと小里城主)を呼び寄せ、ともに両城の奪回をはかったのでした。
その日のうちに明知城を、翌3日に小里城を落とした妻木勢は、その勢いのまま、田丸の本拠である岩村城を攻めるべく、突き進みます。
しかし岩村城は要害ゆえ攻めるに難しく、とりあえずは全面包囲して、城内を監視しつつ、次なる作戦を練るのですが・・・
しかし、そうこうしているうちに・・・
そうです。。。肝心の関ヶ原の戦いが慶長五年(1600年)9月15日、わずか半日で決着がついてしまったのです。
この日の「東軍勝利!」の一報は、波紋が広がるように各所に伝わっていき、しばらくして、その知らせは岩村城にも届きますが、それでも留守を預かる田丸主水は、
「主君の指示があるまでは!」
と、決死の籠城を続けていましたが、
やがて大阪城の田丸直昌から、岩村城の主水らに、
「犠牲を最小限にして、速やかに開城するように」
との命が届けられます。
そして、
「ひと目、頑張った将兵らと会ってから別れたい」
と、
岩村城に入った田丸直昌は髻(もとどり=チョンマゲ)を切り、主水をはじめとする家臣らが夜陰にまぎれて西美濃方面へと落ちて行った後、自らは高野山に向けて旅立ったと言います。
かくして慶長五年(1600年)10月10日、空になった岩村城が、東軍に明け渡されたのでした。
(連続した戦いなので、かなり内容カブッてますが、よろしければ…10月10日【岩村城開城】も参照>>)
その後の田丸直昌は、命は助かったものの、お家はお取り潰しとなり、ご本人は越後(えちご=新潟県)への流罪となり、福島城(ふくしまじょう=福島県福島市)の堀秀治(ほりひではる)に預けられたという事です。
関ケ原の戦いは、おおもとの関ヶ原だけではなく、多くの武将&その領地を巻き込んでいた事がわかりますね。
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