乱世の南部氏を支えた水先案内人~北信愛
慶長十八年(1613年)8月17日、戦国時代から江戸初期にかけて、南部氏4代に仕えた功臣=北信愛が、この世を去りました。
・・・・・・・
北信愛(きたのぶちか)は、
清和源氏の流れを汲む陸奥(むつ=福島県・宮城県・岩手県・青森県)の戦国武将である南部氏(なんぶし)の24代当主の南部晴政(なんぶはるまさ)から4代に渡って仕えた功臣です。
信愛の父である北致愛(むねちか)は、21代当主の南部信義(のぶよし)の嫡男として生まれますが、誕生の直前に父が亡くなり、その弟である南部政康(まさやす)が22代当主となった事から、致愛は母方の北氏を継いで、その一門として南部氏を支えて行く立場となったとされ、
その息子である北信愛も、父の後を継いで南部氏の重臣として剣吉城(けんよしじょう=青森県三戸郡南部町・剣吉館とも)にて腕を奮う事になります。
そんな中、24代当主となっていた南部晴政には、一つの悩みが・・・
実は晴政・・・すでに3人の女の子はもうけているものの、50歳近くになっても男の子が誕生していなかったのです。
そこで晴政さん、
永禄八年(1565年)頃に、叔父の石川高信(いしかわたかのぶ)の息子である南部信直(なんぶのぶなお)を自身の長女と結婚させて養子とし、信直を後継者と定めたのです。
ところが、元亀元年(1570年)になって、嫡男=晴継(はるつぐ=晴政の嫡男・25代当主)が誕生・・・そうなると実子に継がせたくなるのが親の常。。。
実は、この翌年の元亀二年(1571年)に、津軽為信(つがるためのぶ=南部一族の説あり)が石川城(いしかわじょう=青森県弘前市)を攻めて城主の石川高信を自害(生存説あり)させ、津軽地方(青森県西部)を切り取るという一件が勃発するのですが、これには、信直をうっとぉしく思い始めた晴政がウラで糸を引いていたとの噂も・・・
いや、少なくとも信直は、そう感じていたようで、天正四年(1576年)に晴政長女の奥さんが亡くなってからは、晴政との養子縁組を返上したうえに南部氏の居城である三戸城(さんのへじょう=青森県三戸郡三戸町)を出て、田子館(たっこだて=青森県三戸郡田子町)に引き籠っていたのだとか・・・
そんなこんなの天正十年(1582年)、その南部晴政と、上記の経緯から後継者に定められていた南部晴継が相次いで亡くなっってしまうのです。
コレ・・・ちょっと怪しい。。。
なんせ、晴政さんの病死が天正十年(1582年)1月4日で、晴継の死がその20日後の1月24日。
ま、晴政は66歳なので、当時の平均寿命から見れば病死もアリかと思いますが、晴継は、わずか13歳・・・一応、死因は天然痘と記録されていますが、やっぱりあります、父の葬儀の帰り道に暴漢に襲われた=暗殺説。
とは言え、噂は、あくまで噂・・・
で以って、ここで登場するのが、本日の主役=北信愛さん。
なんせ、信直が養子として南部家に入ったあの時から、ず~っと一貫して信直推しで、なんなら実子推しの南部晴政との関係がギクシャクした頃もあった信愛ですから、
ここは一つ、対抗馬の晴政次女の婿殿である九戸実親(くのへさねちか)を推す声を押さえつけ、見事、信直を25代当主に擁立したのです。
こうして、何とか南部家内部のゴタゴタに終止符を打った北信愛・・・ここで、目を外に向けてみると、、、
お~っと、
天下を統べる勢いやった織田信長(おだのぶなが)が、殺られとるやないかい!(6月2日参照>>)
ほんで、織田家家臣同士による主導権争いで豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)が勝って(4月23日参照>>)、織田信雄(おだのぶお・のぶかつ=信長の次男)も丸め込んどるやないかい!(11月16日参照>>)
てな事で、中央の情勢を読んだ北信愛は、天正十五年(1587年)、自らが、秀吉の盟友である加賀(かが=石川県南西部)の前田利家(まえだとしいえ)を金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)に訪ね、手土産とともに秀吉に臣従する旨を伝えます。
すでに前年の暮れに、太政大臣(だいじょうだいじん=政務の長)に任じられ(12月19日参照>>)、豊臣の姓を賜り、九州をも平定(4月12日参照>>)した秀吉にとって、関東の北条(ほうじょう)と、その向こうにある東北は、今後の目標でもあるわけで・・・
そんな中で、仲良し前田クンに自ら使者としてやって来て忠誠を誓ってくれた北信愛の行動を大いに喜んだ秀吉は、主君の南部信直に向けて、今後の南部氏の領地についての安堵(あんど=所有権の保障)状を送ったと言います。
ただ、同時期、同じ東北から、いち早く秀吉の味方を表明したライバル=津軽為信(12月5日参照>>)にも、秀吉は所領安堵の約束してしまったので、そこのところは、北信愛にとっても、少しイラッとしたかも知れませんが、ここは安全第一で不満は漏らさず。。。
なんせ、この後に始まるのが、あの北条攻めの小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)からの奥州仕置(おうしゅうしおき=小田原攻めに参戦しなかった東北地方の武将の平定)なのですから・・・
ご存知のように、伊達政宗(だてまさむね)(6月5日参照>>)や最上義光(もがみよしあき)(1月18日参照>>)など、はなから小田原征伐に参戦していた武将もいましたが、未だ秀吉の東北進出をヨシとしない武将もいて、
案の定、小田原城落城から4ヶ月ちょっとの天正十八年(1590年)11月、小田原に参陣せず領地の没収を言い渡された者たちの葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)が勃発します(11月24日参照>>)。
その一揆に同調して挙兵したのが九戸政実(まさざね)・・・お名前でお察しの通り、南部晴政&晴継父子が亡くなった時の後継者争いで南部信直に敗れた九戸実親のお兄さんです。
九戸は、もともとは南部氏から枝分かれした同族で、先にも書いたように九戸実親は南部晴政の娘婿ですから、ほぼほぼ南部信直と条件は同じで、なんなら嫁が早くに亡くなってる信直より可能性は高かったはず・・・
で、兄の九戸政実としては、どうしても納得がいかず、今回のゴタゴタに紛れて挙兵し、南部信直を倒そうとしたわけです。
これを九戸の乱(くのへのらん)または九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)と呼びます。
そこで北信愛は、自ら上洛して秀吉に謁見して援軍を要請・・・秀吉は葛西大崎一揆には伊達政宗を、九戸の乱には蒲生氏郷(がもううじさと)を総大将とした援軍を派遣して対処に当たらせました。
おかげで天正十九年(1591年)9月4日に九戸城(くのへじょう=岩手県二戸市福岡城ノ内)は開城となり、乱は終結・・・北信愛の水面下での政治工作が功を奏し、一門が起こした乱ながら南部家が処罰される事もありませんでした。
ただし、この九戸の乱で、北信愛は次男の北秀愛(ひでちか)を失います。
複数の説があるものの、一般的に、この合戦中に銃撃を受けたらしく、その傷がもと(悪化?)で慶長三年(1598年)に亡くなったとされています。
おそらく、その息子の死が影響したのか?、慶長四年(1599年)10月5日に主君の南部信直が亡くなった時、それをキッカケに、信愛は隠居を申し出るのですが、
信直の後を継いだ信直嫡男の南部利直(としなお=27代当主)がそれを許さず…強く説得した事から、剃髪はしたものの、花巻城(はなまきじょう=岩手県花巻市)の城代として、引き続き、南部家の要職を務めます。
やがて訪れた慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦い・・・
この時、当主の南部利直は、ほとんどの将兵を連れて、東北の関ヶ原と呼ばれるあの長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市)の戦い(慶長出羽合戦)(10月1日参照>>)に出張中でした。
この留守を狙って仕掛けて来たのが、かつての小田原征伐で秀吉の呼びかけに応じなかった事で罰せられた和賀義忠(わがよしただ)の息子=和賀忠親(ただちか)らをはじめとする奥州仕置され浪人たち・・・
一説には、この時の和賀忠親は、伊達政宗からの援助の確約を取り付けて、密かに旧領へ舞い戻り、反南部の意思を持つ農民などを集めて、花巻城襲撃のチャンスを狙っていたとか・・・
しかし、この時、その襲撃のお誘いを受けた中に柏山明助(かしやまあきすけ)なる人物が・・・
彼もまた、奥州仕置きでヤラれた葛西氏(かさいし)の家臣でしたが、むしろ今回は、この好機に南部家に恩を売り、そこで出世しようと考え、この情報を持って、留守を預かる北信愛のもとへ駆け込んだのです。
このころ、北信愛は、病を得て、すでに失明していましたが、すぐさま城下にかん口令を敷き、城下の住民を城に入れ、城内の各所の守備を固めました。
和賀忠親率いる軍団は一揆と化して城へと攻め寄せ、わずか20~30人の将兵しかいなかった花巻城は、二の丸&三の丸を敵方に奪われながらも、北信愛は怯むことなく、城内の婦女子までもを動員して抵抗し、最終的に一揆を撃退するに至りました。(花巻城の夜討ち)
ちなみに、この時に長谷堂城の戦いに出張中だった当主の南部利直は、東軍=徳川家康(とくがわいえやす)側についた最上義光の後援として出陣してるので、同じ東軍である伊達政宗がチャチャを入れていた事になるわけで(政宗本人は現地に行ってないけど家臣の留守政景(るすまさかげ)が最上の後援で参戦中)(9月15日参照>>)・・・
この一件を知った利直は、すぐさま許可を得て兵とともに北信愛のもとへと戻り、ほどなく一揆そのものを鎮圧させています。
…で、ご存知のように、関ヶ原の戦いは東軍=徳川家康方の勝利となりますから、勝ち組に乗っかった南部家は、その後は、内政に力を入れ、居城である盛岡城(もりおかじょう=岩手県盛岡市)を中心とした城下町の整備を行う事になるのですが、
南部利直からの篤い信頼を受ける北信愛は、その都市計画にも参画しています。
やがて慶長十八年(1613年)8月17日、南部家4代に仕えた北信愛は、91歳で、返らぬ人となったのです。
思えば、その舵取りが最も難しい戦国最後の頃・・・ここで選択を間違えて散って行った戦国武将も数多くいる中で、北信愛は南部家という船を操って見事生き残らせた、まさに水先案内人のよう。。。
その遺言で、名跡の継承を望まなかった信愛の花巻領は、死後、主君の南部家に接収される事になりますが、その血脈は、長男の北愛一(ちかかず)をはじめとする4人の兄弟に受け継がれ、南部家の家臣として幕末まで続く事になります。
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コメント
そうなると今でも東北には「北さん」がいることになりますね。東北の北姓の人の先祖は北信愛になるのかな?
実は私の父親の小学生当時の同級生の女性が、南部氏の末裔らしいです。いま健在なら80歳近い年齢です。
投稿: えびすこ | 2022年8月27日 (土) 10時20分
えびすこさん、こんにちは~
血脈は受け継がれているようですので、ご子孫の方もいらっしゃるでしょうね~
投稿: 茶々 | 2022年8月28日 (日) 05時23分