家康家臣「岡崎衆」の活躍~蟹江七本槍
弘治元年(1555年)8月3日 、今川義元配下の岡崎衆が、織田方の蟹江城を落とた蟹江城の戦いがありました。
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蟹江城(かにえじょう=愛知県海部郡蟹江町)は、
事実上の鎌倉幕府最後の執権(実際にはあと3人?執権がいる)となる北条高時(ほうじょうたかとき)(5月22日参照>>)の息子で、幕府滅亡後に中先代の乱(なかせんだいのらん)(7月23日参照>>)を引き起こす北条時行(ときゆき)の孫だとされる北条時任(ときとう)が永享年間(1429年 ~1440年)に築いたと言います。
とは言え、蟹江城と言えば、
何と言っても、徳川家康(とくがわいえやす)と豊臣秀吉(とよとみひでよし)の唯一の直接対決となった小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市など)の戦い(11月16日参照>>)の舞台の一つ(6月15日参照>>)として有名ですが、
今回のお話は、それより30年ほど前の弘治元年(1555年)にあった蟹江城の攻防のお話です。
このころの徳川家康(幼名:竹千代→松平元康ですが、ややこしいので家康さんで統一します)は、今川の人質生活状態でした。
それは・・・
駿河&遠江(するが&とおとうみ=静岡県)の今川と尾張(おわり=愛知県西部)の織田に挟まれつつ奮戦していた祖父の松平清康(まつだいらきよやす)が森山崩れ(12月5日参照>>)で亡くなった後に、家督を継いだ息子の松平広忠(ひろただ=つまり家康の父)は、放浪の末に何とか岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)に復帰するも(8月27日参照>>)弱小ゆえに戦国の動乱では分が悪く、やむなく今川義元(いまがわよしもと)に長男=家康を人質に出して、大大名の今川の後ろ盾を得る事に・・・
ところが、今川へ行くはずだった家康が、敵陣である織田信秀(おだのぶひで=信長の父)に奪われてしまう(8月2日参照>>)中、天文十八年(1549年)3月に広忠は殺害されてしまうのです(3月6日参照>>)。
その9か月後に起こった今川VS織田の安祥城 (あんしょうじょう=愛知県安城市安城町)の戦いで、今川勢に生け捕りにされた織田信秀の息子=織田信広(のぶひろ=信長の兄)との人質交換によって(11月6日参照>>)、家康は無事(って言って良いのかワカランがww)今川義元のもとで人質生活を送る事になっていたわけです。(←今ココ)
つまり、父の広忠が死んでしまった事で、松平の当主は家康であるものの、その家康は、現状人質状態なので、その家臣は、おのずと今川の配下として動くって事になってるわけで・・・
…で、今川配下の中で「岡崎衆」と呼ばれる家康の家臣たちは、このころは、今川が「いざ!戦い」となれば、1番危ない先手に配置され、討死する者も多かったわけですが、なんせ主君が人質なので、そこは我慢するしかありません。
そんなこんなの弘治元年(1555年)8月、今川義元は、その岡崎衆の松平親乗(ちかのり)を先鋒の将として、
「蟹江城を攻めよ!」
と命じたのです。
このころの蟹江城を守っていたのは、織田民部(みんぶ)なる武将・・・
ご承知の通り、この「民部」は役職名なので、織田某(織田家の誰か)という事になりますが、
このころの織田家は、天文二十年(1551年)に亡くなった信秀(3月3日参照>>)の後を、あの織田信長(のぶなが)が継いだものの、ここに来て、やっとこさ清州城(きよすじょう=愛知県清須市:清須城)を乗っ取って、守護代(上司)だった清須織田家を倒したばかり・・・(4月20日参照>>)
まだ、尾張一国を統一してませんから、同じ織田家と言っても、信長との関係はどうなんでしょう?
後に民部大輔となって「織田民部と言えば…」となる信長の弟の織田信包(のぶかね)(7月17日参照>>)は、このころは、まだ13~14歳くらいだと思うので、おそらく信包ではないはず…と思うのですが・・・(詳しい事ご存知の方はご一報乞う)
(確かに、この前年、信長は今川方の村木城を攻め落としてはいるんですが>>)
とにもかくにも、こうして弘治元年(1555年)8月3日 、岡崎衆を先鋒とする今川軍が、織田方の蟹江城に攻め込んだのです。
戦闘は激しく、岡崎衆の中でも、最も先手となった松平親乗家人の松平新助(しんすけ)&隼人(はやと)や武井角左衛門(たけいかくざえもん)、大橋新三郎(おおはししんざぶろう)、河合才兵衛(かわいさいべえ)といった面々が、組み討ち&槍などで応戦するも討死・・・
敗戦の色濃くなる中、父の杉浦吉貞(すぎうらよしさだ)とともに参戦していた杉浦勝吉(かつよし)も、その身に槍を受け、
「もはや!これまで」
と覚悟を決めますが、
そこに7人の勇士現れ、
取って返し、敵に槍を突き立て…
「遂に城を攻め落とす
尾張蟹江七本槍とは此七人の事」(『松平記』)
とまぁ、こうして、とうとう城を落とした・・・という事らしい。
一体全体、敗戦の色濃いのを7人で?どうやって?どうなった?
と、もっとくわしく話を聞きたいのはやまやまですが、
なんせ、史料が少ない・・・
とは言え、この時の岡崎衆の大活躍を、大いに喜んだ今川義元が、家康に自らの名にちなむ「元康」の諱(いみな)を与え、姪っ子(妹の娘)の瀬名姫(せなひめ=築山殿)と結婚させる事を決意したとの話もあるので、やはり、この日の蟹江城陥落に岡崎衆が活躍したという事でしょう。
ちなにみ、この「蟹江七本槍」とは、
大久保忠俊(おおくぼただとし)、
大久保忠員(ただかず=忠俊の弟)、
大久保忠世(ただよ=忠員の長男・徳川十六神将)、
大久保忠佐(ただすけ=忠員の次男・徳川十六神将)、
阿倍忠政(あべただまさ=忠俊&忠員の甥)
に、先ほどの
杉浦吉貞&勝吉父子の7人とされます。
ただし、『大成記』では、大久保忠佐の代わりに大久保忠勝(ただかつ=忠俊の息子)になってます。
また、
『寛政重修諸家譜』にも
「弘治元年尾張国蟹江城攻め 松平和泉守親乗に属し軍功励む」
という松平一党の記録もある事から、
詳細は不明なれど、今川の者として、家康配下の皆さまが勝利に貢献した事は確かでしょう。
・・・にしても、今回の七本槍って、全員、後に徳川譜代の家臣となって活躍する面々ですね~
このあと、
家康自身は、永禄元年(1558年)2月の寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)の戦いで初陣を飾り(2月5日参照>>)、
一方の信長は、さらに2年後の永禄三年(1560年)5月に、あの桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市か豊明市)で今川義元を破り(2007年5月19日参照>>)、その桶狭間キッカケで家康は人質生活から解放される(2008年5月19日参照>>)事に・・・
思えば、あと5年・・・
主君の立場上、アブナイ場所ばっかり任されてた家康さんの配下の人たちの苦労は、この戦いから、あと5年で終わりを迎えるわけですね~
豊臣恩顧の茶々ではありますが、今日ばかりは
「もう少しの間やからガンバレ!」
って応援したくなります。。。
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