今川氏親の甲斐侵攻~守る武田信虎…万力の戦い
永正十三年(1516年)9月28日、甲斐統一を目指す武田信虎が、甲斐に侵攻して来た今川氏親勢と戦った万力の戦いがありました。
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武田家は、戦国武将の中では指折りの由緒正しき御家柄・・・
「鎌倉殿の13人」の八嶋智人さん演じる武田信義(たけだのぶよし)の甲斐源氏(かいげんじ)の鎌倉時代から、続く室町時代でも甲斐(かい=山梨県)の守護(しゅご=県知事)を任されていたエリートだったわけですが、10代当主の武田信満(のぶみつ)が、応永二十三年(1416年)の上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)(10月2日参照>>)に関わった事で失脚したため、
国内が守護不在の無法状態になるわ(7月22日参照>>)、武田家同士でモメるわ…していたのを、永正五年(1508年)に武田宗家をまとめたのが第15代当主の武田信虎(のぶとら)でした。
ただ、武田宗家を統一したとは言え、長らく守護不在状態が続いた甲斐では、河内地方(山梨県西八代郡&南巨摩郡一帯)の穴山氏(あなやまし)や郡内地方(山梨県都留郡一帯)の小山田氏(おやまだし)らなど、各地域の国衆がそれぞれ力を持ち、守護そっちのけで互いに侵攻を繰り返す戦乱状態だったのです。
武田宗家を背負った信虎としては、今度は、それらを一つ一つ傘下に収めていかなくては甲斐統一とはいかないわけで・・・
永正六年(1509年)には、都留郡(つるぐん=山梨県大月市・上野原市・都留市・富士吉田市など)に侵攻して、小山田信有(おやまだのぶあり)を従属させた信虎でしたが(10月4日参照>>)、 一方でゴチャゴチャやってる間に、駿河(するが=静岡県東部)の今川氏親(いまがわうじちか)が甲斐へと侵攻・・・
穴山氏当主の穴山信風(あなやまのぶかぜ)や西部の国衆である大井信達(おおいのぶさと)&大井信業(のぶなり)父子が、今川の傘下となってしまう事態になります。
そこで信虎は、永正十二年(1515年)10月、小山田信有とともに大井信達の富田城(とだじょう=山梨県南アルプス市戸田)を包囲します。
大井信達からの救援要請を受けた今川は、早速、配下の兵=2000余を甲斐に送り込み、まずは、駿河と甲斐を結ぶ、すべての道を封鎖した後、勝山城(かつやまじょう=山梨県甲府市上曾根)と吉田城(よしだじょう=山梨県富士吉田市:吉田山城)を占拠させ、ここを拠点に、周辺各地へのゲリラ的襲撃を繰り返していくのです。
それは、年が明けた永正十三年(1516年)も変わらず続けられますが、
当然、そのまま黙ってはいない信虎は、 永正十三年(1516年)9月28日、信虎の本拠である川田館(かわだやかた=山梨県甲府市川田町)に近い万力(まんりき=山梨県山梨市万力)において今川勢とぶつかります。
この時の戦いの火の手は、八幡(やわた=山梨県東山梨郡)の大井俣窪八幡神社(おおいまたくぼはちまんじんじゃ=山梨県山梨市)や松本(まつもと=山梨県笛吹市石和町)の大蔵経寺(だいぞうきょうじ=山梨県笛吹市石和町)、右左口(うばぐち=山梨県甲府市南部)の円楽寺(えんらくじ=山梨県甲府市右左口町)などを焼き尽くし、
自軍に多くの戦死者を出した武田信虎は、やむなく恵林寺(えりんじ=山梨県甲州市塩山小屋敷)へと逃れて身を隠したまま、約1ヶ月ほど自陣には戻れなかったというほどの敗北を喫してしまったのです。
しかし、このまま沈んでしまわないのが信虎のスゴイとこ・・・
同年の暮れ、小山田らを吉田城の攻略に向かわせ、年が明けた永正十四年(1517年)正月12日、吉田城の奪回に成功するのです(1月12日参照>>)。
しかも、この頃になると、今川方に属していた幾人かの国衆が、信虎の懐柔作戦に応じて寝返ってくれた事で、残った勝山城の今川勢は孤立してしまいます。
というのも、実はこの時、今川氏親の甲斐出兵を好機と見た三河(みかわ=愛知県東部)吉良(きら)の家臣=大河内貞綱(おおこうちさだつな)が尾張(おわり=愛知県西部)&遠江(とおとうみ=静岡県西部)の守護である斯波義達(しばよしたつ)と組んで、今川の配下となった飯尾乗連(いのおのりつら=もしくは父の飯尾賢連)の曳馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区:引間城とも後の浜松城)を攻撃し、城を占拠してしまっていたのです。
甲斐と遠江の両面と戦う事になった今川氏親・・・どうやら、彼ににとっては、甲斐よりも遠江優先?
…というよりは、旗色が悪くなって来た甲斐にてこれ以上の侵攻を続けるより、配下となってた遠江を奪回する方を優先したのか?
とにもかくにも、孤立した勝山城含め、ここは一旦、甲斐から退く事として、連歌師(れんがし=長短句を複数人で交互に詠むプロ)の宗長(そうちょう)を使者に立てて甲斐へとよこし、信虎との和睦を提案して来たのです。
宗長との和睦交渉は、かの吉田城奪還から半月後の1月28日から約50日間に渡って行われ、3月2日、ようやく、今川と武田の和議が成立し、勝山城に拠っていた2000余の今川勢は駿河へと帰国しました。
と言っても、これは、今川氏親にとって、あくまで勝山城に籠っていた今川勢を撤退させるための和睦であって、富士山麓など別方面では、まだまだ小競り合いが続いています。
とは言え、信虎ととりあえずの和睦した今川氏親は、この6月に曳馬城に向かい、城を包囲・・・3ヶ月の籠城戦の後、兵糧が枯渇した8月に入った頃に大河内貞綱が自刃した事で斯波義達が降伏し、曳馬城は、再び今川の傘下となっています(6月21日の後半部分参照>>)。
ちなみに、今回の万力の戦いの根本原因とも言える大井信達・・・
この流れから、徐々に今川の勢力が甲斐から離れていったため、ほどなく(永正14年~17年頃と思われる)大井信達も武田信虎と和睦し、その証しとして、自身の娘を信虎に嫁がせる事に・・・
この女性が大井の方(おおいのかた=大井夫人)と呼ばれる信虎の正室で、あの武田信玄(しんげん)&信繁(のぶしげ)& 信廉(のぶかど)という三兄弟の生母となる人ですが・・・
ちなみのちなみ、
信虎は、この後の大永元年(1521年)、甲斐統一を成し遂げる事になる 飯田河原の戦い &上条河原の戦い(山梨県甲斐市)の陣中にて、大井の方の出産=嫡男(信玄)の誕生を知る事になりますが、そのお話は10月16日のページでどうぞ>>。
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