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2022年9月28日 (水)

今川氏親の甲斐侵攻~守る武田信虎…万力の戦い

 

永正十三年(1516年)9月28日、甲斐統一を目指す武田信虎が、甲斐に侵攻して来た今川氏親勢と戦った万力の戦いがありました。

・・・・・・・・

武田家は、戦国武将の中では指折りの由緒正しき御家柄・・・

「鎌倉殿の13人」八嶋智人さん演じる武田信義(たけだのぶよし)甲斐源氏(かいげんじ)の鎌倉時代から、続く室町時代でも甲斐(かい=山梨県)守護(しゅご=県知事)を任されていたエリートだったわけですが、10代当主の武田信満(のぶみつ)が、応永二十三年(1416年)の上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)(10月2日参照>>)に関わった事で失脚したため、

Takedanobutora500a 国内が守護不在の無法状態になるわ(7月22日参照>>)武田家同士でモメるわ…していたのを、永正五年(1508年)に武田宗家をまとめたのが第15代当主の武田信虎(のぶとら)でした。

ただ、武田宗家を統一したとは言え、長らく守護不在状態が続いた甲斐では、河内地方(山梨県西八代郡&南巨摩郡一帯)穴山氏(あなやまし)郡内地方(山梨県都留郡一帯)小山田氏(おやまだし)らなど、各地域の国衆がそれぞれ力を持ち、守護そっちのけで互いに侵攻を繰り返す戦乱状態だったのです。

武田宗家を背負った信虎としては、今度は、それらを一つ一つ傘下に収めていかなくては甲斐統一とはいかないわけで・・・

永正六年(1509年)には、都留郡(つるぐん=山梨県大月市・上野原市・都留市・富士吉田市など)に侵攻して、小山田信有(おやまだのぶあり)を従属させた信虎でしたが(10月4日参照>>)、 一方でゴチャゴチャやってる間に、駿河(するが=静岡県東部)今川氏親(いまがわうじちか)が甲斐へと侵攻・・・

穴山氏当主の穴山信風(あなやまのぶかぜ)や西部の国衆である大井信達(おおいのぶさと)大井信業(のぶなり)父子が、今川の傘下となってしまう事態になります。

そこで信虎は、永正十二年(1515年)10月、小山田信有とともに大井信達の富田城(とだじょう=山梨県南アルプス市戸田)を包囲します。

大井信達からの救援要請を受けた今川は、早速、配下の兵=2000余を甲斐に送り込み、まずは、駿河と甲斐を結ぶ、すべての道を封鎖した後、勝山城(かつやまじょう=山梨県甲府市上曾根)吉田城(よしだじょう=山梨県富士吉田市:吉田山城)占拠させ、ここを拠点に、周辺各地へのゲリラ的襲撃を繰り返していくのです。

それは、年が明けた永正十三年(1516年)も変わらず続けられますが、

当然、そのまま黙ってはいない信虎は、 永正十三年(1516年)9月28日、信虎の本拠である川田館(かわだやかた=山梨県甲府市川田町)に近い万力(まんりき=山梨県山梨市万力)において今川勢とぶつかります。

この時の戦いの火の手は、八幡(やわた=山梨県東山梨郡)大井俣窪八幡神社(おおいまたくぼはちまんじんじゃ=山梨県山梨市)松本(まつもと=山梨県笛吹市石和町)大蔵経寺(だいぞうきょうじ=山梨県笛吹市石和町)右左口(うばぐち=山梨県甲府市南部)円楽寺(えんらくじ=山梨県甲府市右左口町)などを焼き尽くし、

自軍に多くの戦死者を出した武田信虎は、やむなく恵林寺(えりんじ=山梨県甲州市塩山小屋敷)へと逃れて身を隠したまま、約1ヶ月ほど自陣には戻れなかったというほどの敗北を喫してしまったのです。

しかし、このまま沈んでしまわないのが信虎のスゴイとこ・・・

同年の暮れ、小山田らを吉田城の攻略に向かわせ、年が明けた永正十四年(1517年)正月12日、吉田城の奪回に成功するのです(1月12日参照>>)

しかも、この頃になると、今川方に属していた幾人かの国衆が、信虎の懐柔作戦に応じて寝返ってくれた事で、残った勝山城の今川勢は孤立してしまいます。

というのも、実はこの時、今川氏親の甲斐出兵を好機と見た三河(みかわ=愛知県東部)吉良(きら)の家臣=大河内貞綱(おおこうちさだつな)尾張(おわり=愛知県西部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)の守護である斯波義達(しばよしたつ)と組んで、今川の配下となった飯尾乗連(いのおのりつら=もしくは父の飯尾賢連)曳馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区:引間城とも後の浜松城)攻撃し、城を占拠してしまっていたのです。

甲斐と遠江の両面と戦う事になった今川氏親・・・どうやら、彼ににとっては、甲斐よりも遠江優先?
…というよりは、旗色が悪くなって来た甲斐にてこれ以上の侵攻を続けるより、配下となってた遠江を奪回する方を優先したのか?

とにもかくにも、孤立した勝山城含め、ここは一旦、甲斐から退く事として、連歌師(れんがし=長短句を複数人で交互に詠むプロ)宗長(そうちょう)を使者に立てて甲斐へとよこし、信虎との和睦を提案して来たのです。

宗長との和睦交渉は、かの吉田城奪還から半月後の1月28日から約50日間に渡って行われ、3月2日、ようやく、今川と武田の和議が成立し、勝山城に拠っていた2000余の今川勢は駿河へと帰国しました。

と言っても、これは、今川氏親にとって、あくまで勝山城に籠っていた今川勢を撤退させるための和睦であって、富士山麓など別方面では、まだまだ小競り合いが続いています。

とは言え、信虎ととりあえずの和睦した今川氏親は、この6月に曳馬城に向かい、城を包囲・・・3ヶ月の籠城戦の後、兵糧が枯渇した8月に入った頃に大河内貞綱が自刃した事で斯波義達が降伏し、曳馬城は、再び今川の傘下となっています(6月21日の後半部分参照>>)

ちなみに、今回の万力の戦いの根本原因とも言える大井信達・・・

この流れから、徐々に今川の勢力が甲斐から離れていったため、ほどなく(永正14年~17年頃と思われる)大井信達も武田信虎と和睦し、その証しとして、自身の娘を信虎に嫁がせる事に・・・

この女性が大井の方(おおいのかた=大井夫人)と呼ばれる信虎の正室で、あの武田信玄(しんげん)信繁(のぶしげ)信廉(のぶかど)という三兄弟の生母となる人ですが・・・

ちなみのちなみ、
信虎は、この後の大永元年(1521年)、甲斐統一を成し遂げる事になる 飯田河原の戦い上条河原の戦い(山梨県甲斐市)の陣中にて、大井の方の出産=嫡男(信玄)の誕生を知る事になりますが、そのお話は10月16日のページでどうぞ>>
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2022年9月22日 (木)

参戦か?スルーか?…伊達政宗と長谷堂城の戦い

 

慶長五年(1600年)9月22日、上杉方の直江兼続に長谷堂城を攻められている最上義光の援軍として、伊達政宗配下の留守政景が山形の小白川に着陣しました。

・・・・・・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後、五大老(ごたいろう)の筆頭となった徳川家康(とくがわいえやす)が、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)謀反の疑いあり(4月14日参照>>)として、豊臣家臣を率いて会津征伐に向かった留守を突いて、

家康に不満を持つ(7月18日参照>>)石田三成(いしだみつなり)らが、その留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)攻撃を仕掛けた(7月19日参照>>)事に始まる関ヶ原の戦い。。
(くわしくは【関ケ原の合戦の年表】>>で)

東北に向かっていた家康がUターンして西へと舞い戻り(7月25日参照>>)、かの関ヶ原(せきがはら=岐阜県不破郡関ケ原町 )にて石田三成らとぶつかるわけですが、

一方、家康からの征伐が無くなった東北で、家康に味方する東軍と三成に味方する西軍がぶつかった代理戦争長谷堂城の戦いあるいは慶長出羽合戦と呼ばれる戦いです。

・‥…━━━☆

家康Uターンの少し前、会津征伐があるとの前提で、
7月22日に上杉の執政=直江兼続(なおえかねつぐ)越後一揆を扇動(7月22日参照>>)すれば、

その同日に北目城(きためじょう=宮城県仙台市)を出陣した伊達政宗(だてまさむね)上杉方の城を攻撃し始め、7月25日には白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)を開城に追い込んでいたのですが、

ここで、かの家康Uターン・・・となった事を知った政宗は、奪い取った白石城を返還して一旦、休戦状態になります。

そこで、すかさず家康は政宗に、(東北での)作戦の遂行を継続を伝え、世に言う「百万石のお墨付き」を与えて、德川=東軍として、西軍の上杉と戦うよう指示します(8月12日参照>>)

一方、何があろうとヤル気満々の直江兼続は、この家康のUターンを好機と見て、東軍に与する最上義光(もがみよしあき)の領地(山形県)へと侵攻を開始するのです。

9月9日に米沢城(よねざわじょう=山形県米沢市丸の内)を出陣した直江兼続率いる上杉軍は、畑谷城(はたやじょう=山形県東村山郡)をはじめとする最上の支城を攻撃しながら北上(9月9日参照>>)長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市長谷堂)へと向かっていきます。

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長谷堂の戦いの位置関係&進路図
↑クリックで大きく→(背景は地理院地図>>)

この長谷堂城は、義光の本拠である 山形城(やまがたじょう=山形県山形市霞城町)から南西にわずか6kmの城・・・ここは本拠を守る最後の要なのです。

ここを突破されて、上杉勢が山形になだれ込んで来たら、もはや防ぎようもありませんから、何としてもこらえたい義光は、かの伊達政宗に援軍を要請します。

要請を受けた伊達家内では、重臣の片倉景綱(かたくらかげつな=小十郎)が、この援軍要請を拒否するように進言します。

何たって、上記の通り、こないだまで上杉とは休戦状態でしたし、
「ここは、戦いを引き延ばしておいて、なんなら、山形城を直江兼続が陥落させた後に、戦いに疲弊した上杉勢を伊達勢が急襲すれば、直江も討ち取れるし、山形も手に入る」
…とも言えるわけです。

とは言え、最上義光は、伊達政宗の生母の兄(つまり伯父さん)・・・このまま見過して良いものか?

しかも、もし、そのまま、山形が上杉の物になってしまうような事があれば、自分とこの領地のそばに上杉が来ちゃうわけですし、上記の通り、「百万石のお墨付き」で以って東軍参戦を約束してるわけですし・・・

そこで伊達政宗は、自らは参戦せず、叔父の留守政景(るすまさかげ)5000の兵をつけて、援軍として出陣させる事にします。

一方、この伊達勢の援軍を予想していた直江兼続は、何とか援軍が到着する前にカタをつけようと、西方にて関ヶ原の本チャンが行われた翌日の慶長五年(1600年)9月16日、長谷堂城に総攻撃を仕掛けるのです。

とは言え、この長谷堂城を守るのは、智将として知られる志村光安(しむらあきやす)・・・

しかも、長谷堂城は周囲を深田や川に囲まれた天然の要害であり、それに加えて、山形城から猛将の名高い鮭延秀綱(さけのべひでつな)(6月21日参照>>) も救援に駆け付けて来ており、上杉勢は、なかなかの苦戦を強いられます(9月16日参照>>)

そんな中、慶長五年(1600年)9月22日笹谷峠(ささやとうげ=宮城県と山形県にまたがる峠)を越えた伊達勢が、山形城下の小白川(こじらかわ=山形市小白川町)に着陣したのです。

もちろん、政宗も、ただただスルーするではなく、時期がくれば、宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市本丸町)にて、父から、後方の守りを任されている結城秀康(ゆうきひでやす=家康の次男:松平秀康)と連携を取り、ともに上杉領へと侵攻する手はずになっていたとか・・・

しかし、そのような好機は、なかなか訪れる事無く、小白川の伊達勢も長谷堂城に向かう事もないまま、、、

また、上杉を預かる直江兼続も、この苦戦に、上杉景勝の出陣を求めるため、ムリな攻めを控えた事で、

ここで、しばらくの間、長谷堂城をめぐる攻防戦は、こう着状態となります。

動きが出るのは、1週間後の9月29日・・・この日は、思うわぬ事から戦いが始まり、上杉方の上泉憲元(かみいずみのりもと=上泉泰綱?)が討死してしまうのでうが(9月29日参照>>)

そんなさ中、大将である直江兼続が、遠く西で行われていた関ヶ原の結果を知るです。。。

そう・・・西軍が負けた。。。と、

大元の関ヶ原で西軍が負けた以上、上杉は退くしかありません。

しかし、ご存知のように、合戦という物は、攻めるよりも退く方がはるかに難しい・・・
撤退戦は多くの犠牲者を出すのが常なのですが・・・

と、そのお話は、その撤退戦が始まる10月1日のページ>>でどうぞm(_ _)m

★その後の上杉
【上杉家~大幅減封の危機】>>
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2022年9月15日 (木)

関ケ原~小早川秀秋の天下分け目の東軍参戦

 

慶長五年(1600年)9月15日は、ご存知、天下分け目の関ヶ原・・・

・・・・・・・・

毛利輝元(もうりてるもと)総大将石田三成(いしだみつなり)が主導する西軍と、徳川家康(とくがわいえやす)が率いる東軍

その経緯は…(ご存知の方はスッ飛ばして下さい)

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、豊臣家内で武闘派(合戦にて武功を挙げる人)文治派(政務をこなす人)の間の亀裂が表面化する中(3月4日参照>>)上杉景勝(うえすぎかげかつ=西軍)に謀反の疑い(4月1日参照>>)をかけた家康は、

豊臣家臣たちを引き連れ、景勝の領国である会津(あいづ=福島県)征伐に出陣しますが、その間に、留守となった伏見城(ふしみじょう=京都府京都市)を、13条に渡る告発状(7月18日参照>>)を発して家康に反発する石田三成らが攻撃(8月1日参照>>)

それを知った家康は、北上をストップしてUターン(7月25日参照>>)・・・
なんやかんやあって(さらにくわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で)

両者は、関ヶ原(せきがはら=岐阜県不破郡関ケ原町)にてぶつかる事に・・・

・‥…━━━☆

この時、西軍・東軍の両方から声をかけられながらも、未だ、どちらに着くかの返答をせず、1万5000の軍勢を率いて松尾山(まつおやま)に布陣していたのが、齢19の若武者=小早川秀秋(こばやかわひであき)でした。

Kobayakawahideaki600at 彼は、秀吉の奧さん=おねの甥っ子にあたる人物で、実子のいなかった秀吉夫婦の養子となり、一時は後継者とみなされていましたが、後に秀吉に実子の秀頼(ひでより)が生まれた事で、小早川家の養子となった人・・・つまり、豊臣家の親族なわけで。。。

一方で、かつての朝鮮出兵でヤラかして飛ばされた時に、もとに戻れるよう仲介してくれたのが家康。。。

現地の兵力は、両者ともに8万強と拮抗する中で、秀秋の持つ1万5000の兵力は、東西どちらもが自分の味方について欲しいわけで・・・両者から破格の恩賞を提示して誘われた秀秋は、

西軍には、「総攻撃の狼煙(のろし)を合図に松尾山を下りて戦闘に参加する」と約束し、
東軍には、「機会を見て西軍を裏切り、東軍側について戦う」と約束。。。

9月14日・・・小早川秀秋は、長い長い夜を過ごします(9月14日【小早川秀秋の長い夜】参照>>)

・‥…━━━☆

かくして迎えた慶長五年(1600年)9月15日朝・・・

この日、東軍の先鋒を任されていた福島正則(ふくしままさのり=東軍)可児才蔵(かにさいぞう=東軍)の間を、松平忠吉(まつだいらただよし=家康の4男)を連れてすり抜けた井伊直政(いいなおまさ=東軍)隊が、西軍最前線の宇喜多秀家(うきたひでいえ=西軍)隊に向けて鉄砲を放った事をキッカケに火蓋を切った関ヶ原・・・(3月5日の真ん中あたり参照>>)

Sekigaharafuzin11hcc_3 即座に、黒田長政(くろだながまさ=東軍)丸山から狼煙があがると、それに呼応するように石田三成の笹尾山からと小西行長(こにしゆきなが=西軍)北天満山でも狼煙があがって開戦を告げ、最前線は本格的な衝突となります(←左図参照)

中でも、東軍が集中的に攻撃したのが、やはり中心人物=石田三成が陣を置く笹尾山。。。

笹尾山には、黒田長政・細川忠興(ほそかわただおき=東軍)加藤嘉明(かとうよしあき=東軍)金森長近(かなもりながちか=東軍)らが猛攻撃を仕掛けますが、猛将=島左近(しまさこん)が阻みます。

猛将の防戦に家康がいら立つ中、作戦変更で、東軍が何とか島左近を戦線離脱させる(2009年9月15日参照>>)、分が悪い三成は、未だ動かぬ島津義弘(しまづよしひろ=一応西軍)の陣まで自ら行って参戦を促しますが断られてしまいます。(←義弘は、前日に夜襲を提案するも却下されたため、ご機嫌ナナメ=【杭瀬川の戦い】後半参照>>

笹尾山の陣に戻った三成は、やむなく午前11時頃、総攻撃の狼煙をあげます。

これによって、松尾山の小早川秀秋や、南宮山に陣取る毛利秀元(ひでもと=毛利輝元の従兄弟)長束正家(なつかまさいえ=西軍)も動くはずでした。

しかし毛利秀元は動かず・・・狼煙の合図で長束正家が秀元の陣に行き、参戦を促すも前方に陣取る吉川広家(きっかわひろいえ=毛利輝元の従兄弟:東軍に寝返り中)が、弁当を喰ってる真っ最中で(←本人の言い分:笑)動かないため、その後ろの全軍が動けない(毛利副将の吉川広家は家康に通じてた=9月28日参照>>)

そこで、三成&家康が注視するのが小早川秀秋の動向・・・

笹尾山からの総攻撃の狼煙が上がっても、小早川秀秋が反応しなかった事で、一応の安堵感を覚えた徳川家康ですが、

その後も、一向に動こうとしない(=西軍に攻撃を仕掛ける事も無い)秀秋を見て焦る家康は、爪を嚙みながら
「クソガキにハメられたか?」
と悔しがりはじめます。

「たとえ南宮山の毛利勢が動かなかったとしても、ここで小早川1万5000が東軍に攻撃を仕掛けて来たらヤバイ」

正午を少し回ったところで、シビレを切らした家康は、小早川の陣に向けて催促の威嚇射撃を決行(現在では「家康んとこから松尾山向けて鉄砲撃っても、音すら聞こえんやろ」と言われていますが、一応…(^o^;)ネ)

この威嚇射撃が効いたかどうかはともかく、ここに来て小早川秀秋が動きます。

もともと豊臣恩顧だった先陣の松野主馬(まつのしゅめ=松野重元)が、秀秋の命を聞かず戦線を離脱したものの、後に続く稲葉正成(いなばまさなり)平岡頼勝(ひらおかよりかつ)に率いられた小早川勢が一気に松尾山を下ると、

松尾山の麓に陣取っていた大谷吉継(おおたによしつぐ=西軍)に突進します。

しかし、さすがは智将=大谷吉継・・・秀秋が総攻撃の狼煙に反応しない時点で
「コイツ、裏切るんちゃうん?」
と予想して、小早川勢に対抗すべく軍勢を600ほど配置していて、それらが即座に反応して応戦し、小早川勢を松尾山に向けて押し戻します。

この時、家康から、秀秋の軍監(ぐんかん=軍事行動の監督)として派遣されていた徳川家臣の奥平貞治(おくだいらさだはる)が、
「退いてなるものか!」
と踏ん張りますが、あえなく討死してしまいました。

Sekigaharafuzin12hcc_2 このように善戦する大谷勢ではありましたが、実は、彼らは、開戦直後の朝っぱらから、

藤堂高虎(とうどうたかとら=東軍)京極高知(きょうごくたかとも)らの軍と戦い、

さらに、この小早川の裏切りキッカケで、大谷軍の横に陣取っていた脇坂安治(わきざかやすはる=西軍→東軍)赤座直保(あかざなおやす=西軍→東軍)らが藤堂らに懐柔されて寝返り、大谷軍に殺到したため(←左図参照)

やがて、大谷吉継と行動をともにしていた平塚為広(ひらつかためひろ=西軍)が討死する頃には、大谷隊周辺の西軍は潰滅状態となり、
「もはや、これまで!」
とばかりに、大谷吉継は自刃して果てました(2008年9月15日参照>>)

毛利も島津も動かず…からの~小早川が東軍にて参戦・・・もはや完全に東軍の圧倒的有利となってしまいました。

やがて小西行長が敗走・・・

次に宇喜多勢が壊滅状態となり、宇喜多秀家も敗走・・・

最後まで踏みとどまっていた石田三成も、
「もはや支える事は不可能」
となって敗走すると、

「東軍勝利」
の一報が、あたりを駆け巡り、

南宮山に陣取っていた長束正家や安国寺恵瓊(あんこくじえけい=西軍)らも、伊吹山(いぶきやま=滋賀県米原市から岐阜県にまたがる)方面へと姿を消し、
 ●長束正家のその後>>
 ●安国寺恵瓊のその後>>

天下分け目の関ヶ原は、わずか半日で決着がついてしまったのです。
(島津については【敵中突破の「島津の背進」】>>で)

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笹尾山(三成陣)から見た関ヶ原古戦場 

わずか19歳で、天下分け目の戦いのキーマンとなってしまった小早川秀秋・・・

この後、わずか2年で亡くなってしまうのは、その背負った荷物が重すぎたからなのでしょうか?
 ●佐和山城攻め>>
 ●わずか2年で早死~小早川秀秋の苦悩>>
 ●秀秋を苦しめた恐怖~岡山城・開かずの間>>
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2022年9月 8日 (木)

信長と秀吉と村上水軍と…戦国波乱の潮を読む

 

天正十二年(1584年)9月8日、羽柴秀吉村上武吉の海賊行為に立腹し、小早川隆景に成敗を命じました。

・・・・・・・・

潮の流れが速い瀬戸内で、自在に舟を操る海の民・・・記紀神話にも登場する彼らが、やがて武装集団となって海賊あるいは水軍として海の跳梁ごとく本格化するのが平安時代頃から・・・

土佐(とさ=高知県)国守(こくしゅ=地方行政官)の任務を終えて都に戻る紀貫之(きのつらゆき)海賊の報復を恐れる(12月21日参照>>)一方で、海賊将軍と呼ばれた藤原純友(ふじわらのすみとも)反乱を起こしたり(12月26日参照>>)

あの平清盛(たいらのきよもり)の父ちゃん=平忠盛(ただもり)瀬戸内の海賊退治で名を挙げたり(8月21日参照>>)・・・

そんな中、室町から戦国時代にかけて歴史の表舞台に登場し、その名を馳せるのが村上水軍(むらかみすいぐん)です。

もとは一つだったのが、この頃には、
能島(のしま=愛媛県今治市・伯方島と大島との間の宮窪瀬戸)
来島(くるしま=愛媛県今治市・来島海峡の西側)
因島(いんのしま=広島県尾道市・芸予諸島北東部)
三島に分かれており、

その生業の海賊業も、いわゆる「海賊=略奪や強盗」というよりは、掌握する制海権を活用して海上に関所を設定して通行料を徴収したり、お得意の潮の流れをよむ水先案内人の派遣など、どちらかと言うと海上警護の請負などが主になっていました。

とは言え、その立ち位置もそれぞれで・・・

因島村上氏村上吉充(むらかみよしみつ)は、
父の代から毛利元就(もうりもとなり)と懇意で、弘治元年(1555年)の、あの厳島(いつくしま=広島県廿日市市宮島町)の戦い(9月28日参照>>)にも、しょっぱなから元就に味方した毛利ベッタリ。

また、来島村上氏村上通康(みちやす)は、
伊予(いよ=愛媛県)国司(こくし=地方行政官)から鎌倉幕府の御家人となって当地を治めていた河野通直(かわのみちなお)を、他の水軍から救った事が縁で、河野氏(かわのし)の配下となり、その通直の娘を娶って一門に名を連ねるほど・・・

つまり、すでに因島と来島は、ほぼ戦国武将配下の水軍に組み込まれていたわけですが、

残る能島村上氏村上武吉(たけよし=武慶とも)は、
地理的要因から毛利に味方する事もあったものの、未だ独立した海賊業の色濃く、かの厳島の戦いでも、説得に応じた1度だけの味方として毛利方に参戦したものの、その後の永禄や元亀の頃(1570年前後)には毛利と敵対していた九州大友宗麟(おおともそうりん)(5月3日参照>>)と懇意にしたり、

さらに、天正四年(1576年)の 石山合戦では、敵対する織田信長(おだのぶなが)に囲まれた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)に、毛利の水軍と協力して見事に兵糧を運び込んだり(7月13日参照>>)しておきながら、

一方で、その信長が瀬戸内の水軍の懐柔に熱心だと知るや、信長に鷹を献上して(献上したのは武吉息子の元吉とも)ご機嫌を伺い、
「僕のために頑張ってくれるんなら、君らの望むようにするから何でも言うてね」by信長…
てな、玉虫色の返事を貰っちゃったりしてます。

そう・・・実は、信長さんは、瀬戸内海の制海権の握るべく、この村上水軍の懐柔には、非常に熱心だったのです。

その命を受けて動いていたのが、織田家内での西国担当だった羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)でした。

天正十年(1582年)には、秀吉は、中国攻めの前線基地である姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)に、来島と能島の村上家臣を一人ずつ召し出してお誘いをかけています。

特に能島村上の家臣の大野兵庫直政(おおのひょうごなおまさ=友田治兵衛)には、
「能島クンが味方してくれるんなら、伊予十四郡…どころか、なんなら四国全部あげてもえぇねんで。
もし(当主が)首を縦に振らんかったら大野クンだけでも…味方になってくれたら塩飽諸島 (しわくしょとう=岡山県と香川県の間の備讃瀬戸付近の島)と周辺の警固権を与えるよん」
と、破格の恩賞をチラつかせて誘ったとか・・・

そう、実は、この時の勧誘にいち早く乗ったのが来島村上水軍・・・この時、すでに村上通康は亡く、息子の来島通総(くるしまみちふさ)が来島村上氏を継いでいましたが、この通総が、ちと素行が悪く、公金横領や乱暴狼藉の噂が絶えない男。

てか、実は父の通康が、河野通直の死後に河野の家臣団からパワハラを受けて一門から外されたという経緯があり、彼としては、なんなら河野への恨みからの非行であり、はなから離反する気満々であったとか・・・

しかし、これに慌てたのが、能島の村上武吉・・・なんせ、来島村上氏は奥さんの実家で、これまで若い来島通総を世話し、サポートして来た立場にあったワケですから・・・

その後、頻繁に来島通総のもとを訪れ、織田から離れるよう説得に当たっていた村上武吉・・・おかげで、
「能島村上氏までもが織田に寝返った」
なんて噂も出るほどでしたが、

これに対し、秀吉は、
「天下国家を論ずる織田に対して私情を挟むな!」
つまり、両者のゴタゴタはお前らで解決したらえぇから、
「グダグダ言わんと、さっさと味方につけや」
なんて催促の手紙も出しています。

一方、この時期に、因島村上義充は人質を差し出してまで毛利への忠節を誓いますから、能島の村上武吉も、自身の立ち位置をハッキリせねばならない状況に・・・

そんな中、この年の4月末には、あの備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市北区高松)攻め(5月7日参照>>)へと繰り出す秀吉。。。

そして、その約1ヶ月後・・・運命の6月2日=本能寺の変(6月2日参照>>)がやって来るのです。

ご存知のように、この時、秀吉は、水攻め中の備中高松城と、信長の死を隠したまま電撃的に和睦して、京都方面へと戻る事にしたわけですが、すでにドップリ協力中の来島通総は、あの奇跡的な中国大返し(6月6日参照>>)にも全面協力・・・

秀吉が、考えられないような速さで畿内へと戻る事が出来た理由の一つに、「この来島村上水軍の協力があったから」と言われていますね。

つまり、秀吉をはじめとする将兵は、ほとんど身一つで道中を駆け抜け、武器やら甲冑やら重い物を乗せた来島の軍船が、それに平行するように海岸線を走ったと・・・

とにもかくにも、ご存知のように、秀吉は、本能寺の変から、わずか10日余りで畿内に戻り、あの天王山明智光秀(あけちみつひで)を破って、主君=信長の仇を討ったわけです(6月13日参照>>)

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本能寺の変前後の秀吉&村上水軍の位置関係図
↑クリックで大きく→(背景は地理院地図>>)

と、この間、自身の立ち位置を(毛利方と)示した能島村上武吉は、秀吉が畿内へ戻ってるスキに来島村上氏を攻める事に・・・

6月27日に、来島の西にある大浦之鼻にて両者は激突しますが・・・6月27日と言えば、あの清須会議(きよすかいぎ)の日(6月27日参照>>)。。。

さすがに中国大返しのバタバタで、未だ援軍を出す余裕の無い秀吉を頼れなかった来島通総は、散々に撃ち破られ、逃亡するしかありませんでした。

その後、毛利の水軍と合流した村上武吉は、頭領が去った来島支配下の城や砦を、ことごとく落として行ったのです。

その一掃作戦は、翌・天正十一年(1583年)の終わり頃までかかったと言います。

ところが・・・です。

その翌年の天正十二年(1584年)、村上武吉に追いやられた来島通総が「瀬戸内に戻って来る」との話が持ち上がります。

もちろん、後ろ盾は秀吉です。

毛利の重臣で、今は亡き毛利元就の四男である穂田元清(ほいだもちきよ)に対して、
「来島通総クンを元通りに復帰させるのでヨロシクやったってね
なる通達を出す一方で、

秀吉は、天正十二年(1584年)9月8日小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男)にも、「村上武吉が未だに海賊行為をしているので成敗しろ」と命じて来たのです。

小早川隆景は、かの備中高松城攻めを治める際、信長の死を隠して和睦を結んだ秀吉に立腹して追い打ちをかけようとする毛利方の諸将を、
「一旦、決まった事を私情で覆してはならぬ」
と説得した事から、その後、その行為に大いに感激し秀吉から一目置かれる存在となっていましたが、

一方で、隆景は、村上武吉とも、生まれた年も同年で、昔から気の合う友人だったのです。

そのため、この秀吉の命令は実行される事無く、毛利家当主の毛利輝元(てるもと=元就の孫で隆景&元清の甥)も、11月11日付けの村上武吉宛ての書状にて、
「来島通総の帰国には、僕も反対やで」
と、武吉の味方をしています。

とは言え、結局、11月の中旬頃、来島通総は瀬戸内に戻って来ます。

少々の小競り合いはあったものの、大きな衝突はなく、来島通総は元通り・・・これには、やはり、あの信長の遺児=織田信雄(おだのぶお・のぶかつ)を丸め込んで、徳川家康(とくがわいえやす)をも退かせ(11月16日参照>>)、もはや天下に1番近い男となった豊臣秀吉の抑止力のなせる業・・・

以来、毛利も、なんとなく来島を容認する方向に傾いていきます。

その後も、小早川隆景が
「君ら父子を見捨てる事は無いで~」
てな手紙を村上武吉に送ったりしていますが、もう、能島村上氏の没落は火を見るよりも明らかでした。

そして、この頃、すでに太政大臣(だいじょうだいじん=政務の長)にまで上り詰めた秀吉からの、最後のダメ押しとなったのが、天正十六年(1588年)7月に発布した「刀狩令(かたながりれい)(7月8日参照>>)とともに出した「海賊禁止令」です。

もちろん、上記の通り、それまでも海賊行為は禁止されてましたが、今回の禁止令には、
「海賊行為を行った者はもちろん、そこを管理する領主も知行を没収して罰する」
という文言が含まれる厳しいものでした。

もう、能島村上水軍が腕を振るう場所はありません。

ご存知のように、後に秀吉は、朝鮮出兵(1月26日参照>>)という水軍を要する戦いをする事になりますが、この時でさえ、村上武吉にお声がかかる事はなく、彼は毛利の領地である長門(ながと=山口県西部)寒村にてひっそり暮らすしかなかったのです。

あぁ…あの日あの時、秀吉の誘いに乗って織田方についていたら・・・

と、つい思っちゃいますが、織田についた来島も徳川政権下で豊後(ぶんご=大分県)に領地をもらって生き残りはしましたが、以後は「水軍」を名乗る事はなかったですから、どっちへ転ぼうと、いずれは、そういう運命になっていたのかも知れません。

村上武吉の晩年については、ご命日のページ>>の後半部分で…
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2022年9月 1日 (木)

関ヶ原の影響を受けた東濃~土岐高山の戦い

 

慶長五年(1600年)9月1日、関ヶ原の戦いで西軍についた田丸直昌配下の田丸主水が構築した高山砦に、敵対する妻木頼忠らが放火しました。

・・・・・・・

伊勢(いせ=三重県)の名門=北畠氏の一族で、もともとは田丸城(たまるじょう・三重県度会郡玉城町)の城主だった田丸直昌(たまるなおまさ)でしたが、かの織田信長(おだのぶなが)伊勢侵攻(11月25日参照>>)にて信長傘下となった後、蒲生氏郷(がもううじさと)(2月7日参照>>)の娘と結婚した縁から、豊臣秀吉(とよとみひでよし)政権下では氏郷の与力として活躍し、その後に岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)を任されておりました。

そんなこんなの慶長五年(1600年)に起こったのが、ご存知、関ヶ原の戦い・・・(細かな事は【関ヶ原の戦いの年表】>>で)

この時、直昌は、会津征伐(4月14日参照>>)として東北に向かった徳川家康(とくがわいえやす)軍に従軍していましたが、例の石田三成(いしだみつなり)らの伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)攻撃(8月1日参照>>)を知った家康が、7月25日の小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にてUターンする決意を表明した事を受けて、直昌は西軍に属すべく、心を同じくした苗木城(なえきじょう=岐阜県中津川市)城主の河尻秀長(かわじりひでなが)とともに、すぐさま家康軍と決別して領国へと戻り、家老の田丸主水(もんど)に留守を頼んで、自らは大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)へと向かったのでした。

この直昌の治める岩村城周辺の東美濃は、もともとは、遠山氏(とおやまし)土岐氏(ときし)が割拠していた地域・・・
●【土岐頼芸~国盗られ物語】参照>>
●【岩村城攻防戦】参照>>

戦国乱世となって領国を奪われた遠山&土岐系の諸士の中には、この頃、徳川家康の庇護のもとで生き抜いていた者も多く、そんな中での今回の、天下を東西に分けて戦う関ヶ原・・・

となったからには、東軍=家康の味方をして一旗揚げ、失った領地を回復せん!とウズウズし始めます。

そんな彼らを一まとめにし、蜂起の首謀者となったのが妻木城(つまきじょう=岐阜県土岐市)妻木頼忠(つまきよりただ)でした。

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土岐高山の戦い・関係図クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな状況を知った留守を預かる田丸主水は、妻木城に近い土岐高山(たかやま=岐阜県土岐市土岐津町高山)砦を築き、蜂起した諸将の動きを封じようとしますが、逆に妻木頼忠は、岩崎城(いわさきじょう=愛知県日進市)主の丹羽氏次(にわうじつぐ)らを誘って田丸領内に放火して抵抗します。

そこで主水は、8月14日、家臣の寺本吉左衛門(てらもときちざえもん)に300の兵をつけ高山砦を出て多治見(たじみ=岐阜県多治見市)方面へ向かい、妻木領への放火を試みようと進みます。

しかし、スパイによって、すでにこれを察知していた妻木頼忠は、自ら出陣して迎撃・・・多治見境にて激しい合戦となりました。

寺本吉左衛門は、やむなく引き返そうとしますが、時すでに遅し・・・急襲を受けて寺本吉左衛門は討死しました。

これを救援せんと高山砦を出陣した木原清左衛門(きはらせいざえもん)討ち取られてしまいます。

さらに両者は、8月20日にも、柿野(かきの=岐阜県土岐市鶴里町柿野)にて交戦しますが、この時も田丸勢は妻木に押し切られて高山砦に退却しました。

かくして慶長五年(1600年)9月1日、この小競り合いに決着をつけるべく妻木頼忠は、父の妻木貞徳(さだのり=伝入)とともに高山砦に侵入して放火・・・ついでに周辺も焼き払います。

後がなくなった田丸勢は、翌9月2日、自ら高山砦に火を放ち、土岐砦へと移動し、ここで籠城作戦を取る事に・・・

そこで妻木頼忠は、田丸勢の退路を断つべく、瑞浪(みずなみ=岐阜県瑞浪市)寺河戸(てらかわど=岐阜県瑞浪市寺河戸町)に砦を築いて田丸勢を孤立させたのです。

そうしておいて、この間に、田丸の支城となっていた明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市明智町)小里城(おりじょう=岐阜県瑞浪市)のかつての城主である遠山利景(とおやまとしかげ=もと明知城主)小里光明(おりみつあき=もと小里城主)を呼び寄せ、ともに両城の奪回をはかったのでした。 

その日のうちに明知城を、翌3日に小里城を落とした妻木勢は、その勢いのまま、田丸の本拠である岩村城を攻めるべく、突き進みます。

しかし岩村城は要害ゆえ攻めるに難しく、とりあえずは全面包囲して、城内を監視しつつ、次なる作戦を練るのですが・・・

しかし、そうこうしているうちに・・・

そうです。。。肝心の関ヶ原の戦いが慶長五年(1600年)9月15日、わずか半日で決着がついてしまったのです。

この日の「東軍勝利!」の一報は、波紋が広がるように各所に伝わっていき、しばらくして、その知らせは岩村城にも届きますが、それでも留守を預かる田丸主水は、
「主君の指示があるまでは!」
と、決死の籠城を続けていましたが、

やがて大阪城の田丸直昌から、岩村城の主水らに、
「犠牲を最小限にして、速やかに開城するように」
との命が届けられます。

そして、
「ひと目、頑張った将兵らと会ってから別れたい」
と、
岩村城に入った田丸直昌は(もとどり=チョンマゲ)を切り、主水をはじめとする家臣らが夜陰にまぎれて西美濃方面へと落ちて行った後、自らは高野山に向けて旅立ったと言います。

かくして慶長五年(1600年)10月10日、空になった岩村城が、東軍に明け渡されたのでした。
(連続した戦いなので、かなり内容カブッてますが、よろしければ…10月10日【岩村城開城】も参照>>)

その後の田丸直昌は、命は助かったものの、お家はお取り潰しとなり、ご本人は越後(えちご=新潟県)への流罪となり、福島城(ふくしまじょう=福島県福島市)堀秀治(ほりひではる)に預けられたという事です。

関ケ原の戦いは、おおもとの関ヶ原だけではなく、多くの武将&その領地を巻き込んでいた事がわかりますね。
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