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2022年9月15日 (木)

関ケ原~小早川秀秋の天下分け目の東軍参戦

 

慶長五年(1600年)9月15日は、ご存知、天下分け目の関ヶ原・・・

・・・・・・・・

毛利輝元(もうりてるもと)総大将石田三成(いしだみつなり)が主導する西軍と、徳川家康(とくがわいえやす)が率いる東軍

その経緯は…(ご存知の方はスッ飛ばして下さい)

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、豊臣家内で武闘派(合戦にて武功を挙げる人)文治派(政務をこなす人)の間の亀裂が表面化する中(3月4日参照>>)上杉景勝(うえすぎかげかつ=西軍)に謀反の疑い(4月1日参照>>)をかけた家康は、

豊臣家臣たちを引き連れ、景勝の領国である会津(あいづ=福島県)征伐に出陣しますが、その間に、留守となった伏見城(ふしみじょう=京都府京都市)を、13条に渡る告発状(7月18日参照>>)を発して家康に反発する石田三成らが攻撃(8月1日参照>>)

それを知った家康は、北上をストップしてUターン(7月25日参照>>)・・・
なんやかんやあって(さらにくわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で)

両者は、関ヶ原(せきがはら=岐阜県不破郡関ケ原町)にてぶつかる事に・・・

・‥…━━━☆

この時、西軍・東軍の両方から声をかけられながらも、未だ、どちらに着くかの返答をせず、1万5000の軍勢を率いて松尾山(まつおやま)に布陣していたのが、齢19の若武者=小早川秀秋(こばやかわひであき)でした。

Kobayakawahideaki600at 彼は、秀吉の奧さん=おねの甥っ子にあたる人物で、実子のいなかった秀吉夫婦の養子となり、一時は後継者とみなされていましたが、後に秀吉に実子の秀頼(ひでより)が生まれた事で、小早川家の養子となった人・・・つまり、豊臣家の親族なわけで。。。

一方で、かつての朝鮮出兵でヤラかして飛ばされた時に、もとに戻れるよう仲介してくれたのが家康。。。

現地の兵力は、両者ともに8万強と拮抗する中で、秀秋の持つ1万5000の兵力は、東西どちらもが自分の味方について欲しいわけで・・・両者から破格の恩賞を提示して誘われた秀秋は、

西軍には、「総攻撃の狼煙(のろし)を合図に松尾山を下りて戦闘に参加する」と約束し、
東軍には、「機会を見て西軍を裏切り、東軍側について戦う」と約束。。。

9月14日・・・小早川秀秋は、長い長い夜を過ごします(9月14日【小早川秀秋の長い夜】参照>>)

・‥…━━━☆

かくして迎えた慶長五年(1600年)9月15日朝・・・

この日、東軍の先鋒を任されていた福島正則(ふくしままさのり=東軍)可児才蔵(かにさいぞう=東軍)の間を、松平忠吉(まつだいらただよし=家康の4男)を連れてすり抜けた井伊直政(いいなおまさ=東軍)隊が、西軍最前線の宇喜多秀家(うきたひでいえ=西軍)隊に向けて鉄砲を放った事をキッカケに火蓋を切った関ヶ原・・・(3月5日の真ん中あたり参照>>)

Sekigaharafuzin11hcc_3 即座に、黒田長政(くろだながまさ=東軍)丸山から狼煙があがると、それに呼応するように石田三成の笹尾山からと小西行長(こにしゆきなが=西軍)北天満山でも狼煙があがって開戦を告げ、最前線は本格的な衝突となります(←左図参照)

中でも、東軍が集中的に攻撃したのが、やはり中心人物=石田三成が陣を置く笹尾山。。。

笹尾山には、黒田長政・細川忠興(ほそかわただおき=東軍)加藤嘉明(かとうよしあき=東軍)金森長近(かなもりながちか=東軍)らが猛攻撃を仕掛けますが、猛将=島左近(しまさこん)が阻みます。

猛将の防戦に家康がいら立つ中、作戦変更で、東軍が何とか島左近を戦線離脱させる(2009年9月15日参照>>)、分が悪い三成は、未だ動かぬ島津義弘(しまづよしひろ=一応西軍)の陣まで自ら行って参戦を促しますが断られてしまいます。(←義弘は、前日に夜襲を提案するも却下されたため、ご機嫌ナナメ=【杭瀬川の戦い】後半参照>>

笹尾山の陣に戻った三成は、やむなく午前11時頃、総攻撃の狼煙をあげます。

これによって、松尾山の小早川秀秋や、南宮山に陣取る毛利秀元(ひでもと=毛利輝元の従兄弟)長束正家(なつかまさいえ=西軍)も動くはずでした。

しかし毛利秀元は動かず・・・狼煙の合図で長束正家が秀元の陣に行き、参戦を促すも前方に陣取る吉川広家(きっかわひろいえ=毛利輝元の従兄弟:東軍に寝返り中)が、弁当を喰ってる真っ最中で(←本人の言い分:笑)動かないため、その後ろの全軍が動けない(毛利副将の吉川広家は家康に通じてた=9月28日参照>>)

そこで、三成&家康が注視するのが小早川秀秋の動向・・・

笹尾山からの総攻撃の狼煙が上がっても、小早川秀秋が反応しなかった事で、一応の安堵感を覚えた徳川家康ですが、

その後も、一向に動こうとしない(=西軍に攻撃を仕掛ける事も無い)秀秋を見て焦る家康は、爪を嚙みながら
「クソガキにハメられたか?」
と悔しがりはじめます。

「たとえ南宮山の毛利勢が動かなかったとしても、ここで小早川1万5000が東軍に攻撃を仕掛けて来たらヤバイ」

正午を少し回ったところで、シビレを切らした家康は、小早川の陣に向けて催促の威嚇射撃を決行(現在では「家康んとこから松尾山向けて鉄砲撃っても、音すら聞こえんやろ」と言われていますが、一応…(^o^;)ネ)

この威嚇射撃が効いたかどうかはともかく、ここに来て小早川秀秋が動きます。

もともと豊臣恩顧だった先陣の松野主馬(まつのしゅめ=松野重元)が、秀秋の命を聞かず戦線を離脱したものの、後に続く稲葉正成(いなばまさなり)平岡頼勝(ひらおかよりかつ)に率いられた小早川勢が一気に松尾山を下ると、

松尾山の麓に陣取っていた大谷吉継(おおたによしつぐ=西軍)に突進します。

しかし、さすがは智将=大谷吉継・・・秀秋が総攻撃の狼煙に反応しない時点で
「コイツ、裏切るんちゃうん?」
と予想して、小早川勢に対抗すべく軍勢を600ほど配置していて、それらが即座に反応して応戦し、小早川勢を松尾山に向けて押し戻します。

この時、家康から、秀秋の軍監(ぐんかん=軍事行動の監督)として派遣されていた徳川家臣の奥平貞治(おくだいらさだはる)が、
「退いてなるものか!」
と踏ん張りますが、あえなく討死してしまいました。

Sekigaharafuzin12hcc_2 このように善戦する大谷勢ではありましたが、実は、彼らは、開戦直後の朝っぱらから、

藤堂高虎(とうどうたかとら=東軍)京極高知(きょうごくたかとも)らの軍と戦い、

さらに、この小早川の裏切りキッカケで、大谷軍の横に陣取っていた脇坂安治(わきざかやすはる=西軍→東軍)赤座直保(あかざなおやす=西軍→東軍)らが藤堂らに懐柔されて寝返り、大谷軍に殺到したため(←左図参照)

やがて、大谷吉継と行動をともにしていた平塚為広(ひらつかためひろ=西軍)が討死する頃には、大谷隊周辺の西軍は潰滅状態となり、
「もはや、これまで!」
とばかりに、大谷吉継は自刃して果てました(2008年9月15日参照>>)

毛利も島津も動かず…からの~小早川が東軍にて参戦・・・もはや完全に東軍の圧倒的有利となってしまいました。

やがて小西行長が敗走・・・

次に宇喜多勢が壊滅状態となり、宇喜多秀家も敗走・・・

最後まで踏みとどまっていた石田三成も、
「もはや支える事は不可能」
となって敗走すると、

「東軍勝利」
の一報が、あたりを駆け巡り、

南宮山に陣取っていた長束正家や安国寺恵瓊(あんこくじえけい=西軍)らも、伊吹山(いぶきやま=滋賀県米原市から岐阜県にまたがる)方面へと姿を消し、
 ●長束正家のその後>>
 ●安国寺恵瓊のその後>>

天下分け目の関ヶ原は、わずか半日で決着がついてしまったのです。
(島津については【敵中突破の「島津の背進」】>>で)

Sekigaharakosenzyouzu
笹尾山(三成陣)から見た関ヶ原古戦場 

わずか19歳で、天下分け目の戦いのキーマンとなってしまった小早川秀秋・・・

この後、わずか2年で亡くなってしまうのは、その背負った荷物が重すぎたからなのでしょうか?
 ●佐和山城攻め>>
 ●わずか2年で早死~小早川秀秋の苦悩>>
 ●秀秋を苦しめた恐怖~岡山城・開かずの間>>
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

茶々様
おはようございます

秀秋は若いのにアル中やったみたいですね。
表面的な事だけで、後世に、裏切者やとか情けないヤツとか言われ続けるのはかわいそう。
ドラマでも何となくひ弱な感じの役者がやってるし。
19歳で的確な判断が出来るやろか。色々とつらかったと思います。

投稿: 浅井お市 | 2022年9月17日 (土) 05時37分

浅井お市さん、こんにちは~

やはり繊細な人やったのでしょうね。

取ったり取られたりの戦国では、図太くないと生き残れないです。

投稿: 茶々 | 2022年9月17日 (土) 06時25分

来年の大河ドラマ「どうする家康」の終盤では、久々に取り上げられそうな場面(「おんな城主直虎」と「麒麟がくる」では時期的に触れていない)なので誰が演じるか注目です。

ちなみに現在NHKBSで再放送中の「おんな太閤記」では、大和田獏さん(本放送当時31歳)が演じていました。

投稿: えびすこ | 2022年10月 7日 (金) 23時21分

えびすこさん、こんばんは~

どんな風に描かれるのか?
楽しみです!

投稿: 茶々 | 2022年10月 8日 (土) 03時39分

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