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2022年9月22日 (木)

参戦か?スルーか?…伊達政宗と長谷堂城の戦い

 

慶長五年(1600年)9月22日、上杉方の直江兼続に長谷堂城を攻められている最上義光の援軍として、伊達政宗配下の留守政景が山形の小白川に着陣しました。

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豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後、五大老(ごたいろう)の筆頭となった徳川家康(とくがわいえやす)が、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)謀反の疑いあり(4月14日参照>>)として、豊臣家臣を率いて会津征伐に向かった留守を突いて、

家康に不満を持つ(7月18日参照>>)石田三成(いしだみつなり)らが、その留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)攻撃を仕掛けた(7月19日参照>>)事に始まる関ヶ原の戦い。。
(くわしくは【関ケ原の合戦の年表】>>で)

東北に向かっていた家康がUターンして西へと舞い戻り(7月25日参照>>)、かの関ヶ原(せきがはら=岐阜県不破郡関ケ原町 )にて石田三成らとぶつかるわけですが、

一方、家康からの征伐が無くなった東北で、家康に味方する東軍と三成に味方する西軍がぶつかった代理戦争長谷堂城の戦いあるいは慶長出羽合戦と呼ばれる戦いです。

・‥…━━━☆

家康Uターンの少し前、会津征伐があるとの前提で、
7月22日に上杉の執政=直江兼続(なおえかねつぐ)越後一揆を扇動(7月22日参照>>)すれば、

その同日に北目城(きためじょう=宮城県仙台市)を出陣した伊達政宗(だてまさむね)上杉方の城を攻撃し始め、7月25日には白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)を開城に追い込んでいたのですが、

ここで、かの家康Uターン・・・となった事を知った政宗は、奪い取った白石城を返還して一旦、休戦状態になります。

そこで、すかさず家康は政宗に、(東北での)作戦の遂行を継続を伝え、世に言う「百万石のお墨付き」を与えて、德川=東軍として、西軍の上杉と戦うよう指示します(8月12日参照>>)

一方、何があろうとヤル気満々の直江兼続は、この家康のUターンを好機と見て、東軍に与する最上義光(もがみよしあき)の領地(山形県)へと侵攻を開始するのです。

9月9日に米沢城(よねざわじょう=山形県米沢市丸の内)を出陣した直江兼続率いる上杉軍は、畑谷城(はたやじょう=山形県東村山郡)をはじめとする最上の支城を攻撃しながら北上(9月9日参照>>)長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市長谷堂)へと向かっていきます。

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長谷堂の戦いの位置関係&進路図
↑クリックで大きく→(背景は地理院地図>>)

この長谷堂城は、義光の本拠である 山形城(やまがたじょう=山形県山形市霞城町)から南西にわずか6kmの城・・・ここは本拠を守る最後の要なのです。

ここを突破されて、上杉勢が山形になだれ込んで来たら、もはや防ぎようもありませんから、何としてもこらえたい義光は、かの伊達政宗に援軍を要請します。

要請を受けた伊達家内では、重臣の片倉景綱(かたくらかげつな=小十郎)が、この援軍要請を拒否するように進言します。

何たって、上記の通り、こないだまで上杉とは休戦状態でしたし、
「ここは、戦いを引き延ばしておいて、なんなら、山形城を直江兼続が陥落させた後に、戦いに疲弊した上杉勢を伊達勢が急襲すれば、直江も討ち取れるし、山形も手に入る」
…とも言えるわけです。

とは言え、最上義光は、伊達政宗の生母の兄(つまり伯父さん)・・・このまま見過して良いものか?

しかも、もし、そのまま、山形が上杉の物になってしまうような事があれば、自分とこの領地のそばに上杉が来ちゃうわけですし、上記の通り、「百万石のお墨付き」で以って東軍参戦を約束してるわけですし・・・

そこで伊達政宗は、自らは参戦せず、叔父の留守政景(るすまさかげ)5000の兵をつけて、援軍として出陣させる事にします。

一方、この伊達勢の援軍を予想していた直江兼続は、何とか援軍が到着する前にカタをつけようと、西方にて関ヶ原の本チャンが行われた翌日の慶長五年(1600年)9月16日、長谷堂城に総攻撃を仕掛けるのです。

とは言え、この長谷堂城を守るのは、智将として知られる志村光安(しむらあきやす)・・・

しかも、長谷堂城は周囲を深田や川に囲まれた天然の要害であり、それに加えて、山形城から猛将の名高い鮭延秀綱(さけのべひでつな)(6月21日参照>>) も救援に駆け付けて来ており、上杉勢は、なかなかの苦戦を強いられます(9月16日参照>>)

そんな中、慶長五年(1600年)9月22日笹谷峠(ささやとうげ=宮城県と山形県にまたがる峠)を越えた伊達勢が、山形城下の小白川(こじらかわ=山形市小白川町)に着陣したのです。

もちろん、政宗も、ただただスルーするではなく、時期がくれば、宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市本丸町)にて、父から、後方の守りを任されている結城秀康(ゆうきひでやす=家康の次男:松平秀康)と連携を取り、ともに上杉領へと侵攻する手はずになっていたとか・・・

しかし、そのような好機は、なかなか訪れる事無く、小白川の伊達勢も長谷堂城に向かう事もないまま、、、

また、上杉を預かる直江兼続も、この苦戦に、上杉景勝の出陣を求めるため、ムリな攻めを控えた事で、

ここで、しばらくの間、長谷堂城をめぐる攻防戦は、こう着状態となります。

動きが出るのは、1週間後の9月29日・・・この日は、思うわぬ事から戦いが始まり、上杉方の上泉憲元(かみいずみのりもと=上泉泰綱?)が討死してしまうのでうが(9月29日参照>>)

そんなさ中、大将である直江兼続が、遠く西で行われていた関ヶ原の結果を知るです。。。

そう・・・西軍が負けた。。。と、

大元の関ヶ原で西軍が負けた以上、上杉は退くしかありません。

しかし、ご存知のように、合戦という物は、攻めるよりも退く方がはるかに難しい・・・
撤退戦は多くの犠牲者を出すのが常なのですが・・・

と、そのお話は、その撤退戦が始まる10月1日のページ>>でどうぞm(_ _)m

★その後の上杉
【上杉家~大幅減封の危機】>>
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