信長と秀吉と村上水軍と…戦国波乱の潮を読む
天正十二年(1584年)9月8日、羽柴秀吉が村上武吉の海賊行為に立腹し、小早川隆景に成敗を命じました。
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潮の流れが速い瀬戸内で、自在に舟を操る海の民・・・記紀神話にも登場する彼らが、やがて武装集団となって海賊あるいは水軍として海の跳梁ごとく本格化するのが平安時代頃から・・・
土佐(とさ=高知県)国守(こくしゅ=地方行政官)の任務を終えて都に戻る紀貫之(きのつらゆき)が海賊の報復を恐れる(12月21日参照>>)一方で、海賊将軍と呼ばれた藤原純友(ふじわらのすみとも)が反乱を起こしたり(12月26日参照>>)、
あの平清盛(たいらのきよもり)の父ちゃん=平忠盛(ただもり)が瀬戸内の海賊退治で名を挙げたり(8月21日参照>>)・・・
そんな中、室町から戦国時代にかけて歴史の表舞台に登場し、その名を馳せるのが村上水軍(むらかみすいぐん)です。
もとは一つだったのが、この頃には、
能島(のしま=愛媛県今治市・伯方島と大島との間の宮窪瀬戸)
来島(くるしま=愛媛県今治市・来島海峡の西側)
因島(いんのしま=広島県尾道市・芸予諸島北東部)
の三島に分かれており、
その生業の海賊業も、いわゆる「海賊=略奪や強盗」というよりは、掌握する制海権を活用して海上に関所を設定して通行料を徴収したり、お得意の潮の流れをよむ水先案内人の派遣など、どちらかと言うと海上警護の請負などが主になっていました。
とは言え、その立ち位置もそれぞれで・・・
因島村上氏の村上吉充(むらかみよしみつ)は、
父の代から毛利元就(もうりもとなり)と懇意で、弘治元年(1555年)の、あの厳島(いつくしま=広島県廿日市市宮島町)の戦い(9月28日参照>>)にも、しょっぱなから元就に味方した毛利ベッタリ。
また、来島村上氏の村上通康(みちやす)は、
伊予(いよ=愛媛県)の国司(こくし=地方行政官)から鎌倉幕府の御家人となって当地を治めていた河野通直(かわのみちなお)を、他の水軍から救った事が縁で、河野氏(かわのし)の配下となり、その通直の娘を娶って一門に名を連ねるほど・・・
つまり、すでに因島と来島は、ほぼ戦国武将配下の水軍に組み込まれていたわけですが、
残る能島村上氏の村上武吉(たけよし=武慶とも)は、
地理的要因から毛利に味方する事もあったものの、未だ独立した海賊業の色濃く、かの厳島の戦いでも、説得に応じた1度だけの味方として毛利方に参戦したものの、その後の永禄や元亀の頃(1570年前後)には毛利と敵対していた九州の大友宗麟(おおともそうりん)(5月3日参照>>)と懇意にしたり、
さらに、天正四年(1576年)の 石山合戦では、敵対する織田信長(おだのぶなが)に囲まれた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)に、毛利の水軍と協力して見事に兵糧を運び込んだりも(7月13日参照>>)しておきながら、
一方で、その信長が瀬戸内の水軍の懐柔に熱心だと知るや、信長に鷹を献上して(献上したのは武吉息子の元吉とも)ご機嫌を伺い、
「僕のために頑張ってくれるんなら、君らの望むようにするから何でも言うてね」by信長…
てな、玉虫色の返事を貰っちゃったりしてます。
そう・・・実は、信長さんは、瀬戸内海の制海権の握るべく、この村上水軍の懐柔には、非常に熱心だったのです。
その命を受けて動いていたのが、織田家内での西国担当だった羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)でした。
天正十年(1582年)には、秀吉は、中国攻めの前線基地である姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)に、来島と能島の村上家臣を一人ずつ召し出してお誘いをかけています。
特に能島村上の家臣の大野兵庫直政(おおのひょうごなおまさ=友田治兵衛)には、
「能島クンが味方してくれるんなら、伊予十四郡…どころか、なんなら四国全部あげてもえぇねんで。
もし(当主が)首を縦に振らんかったら大野クンだけでも…味方になってくれたら塩飽諸島 (しわくしょとう=岡山県と香川県の間の備讃瀬戸付近の島)と周辺の警固権を与えるよん」
と、破格の恩賞をチラつかせて誘ったとか・・・
そう、実は、この時の勧誘にいち早く乗ったのが来島村上水軍・・・この時、すでに村上通康は亡く、息子の来島通総(くるしまみちふさ)が来島村上氏を継いでいましたが、この通総が、ちと素行が悪く、公金横領や乱暴狼藉の噂が絶えない男。
てか、実は父の通康が、河野通直の死後に河野の家臣団からパワハラを受けて一門から外されたという経緯があり、彼としては、なんなら河野への恨みからの非行であり、はなから離反する気満々であったとか・・・
しかし、これに慌てたのが、能島の村上武吉・・・なんせ、来島村上氏は奥さんの実家で、これまで若い来島通総を世話し、サポートして来た立場にあったワケですから・・・
その後、頻繁に来島通総のもとを訪れ、織田から離れるよう説得に当たっていた村上武吉・・・おかげで、
「能島村上氏までもが織田に寝返った」
なんて噂も出るほどでしたが、
これに対し、秀吉は、
「天下国家を論ずる織田に対して私情を挟むな!」
つまり、両者のゴタゴタはお前らで解決したらえぇから、
「グダグダ言わんと、さっさと味方につけや」
なんて催促の手紙も出しています。
一方、この時期に、因島村上義充は人質を差し出してまで毛利への忠節を誓いますから、能島の村上武吉も、自身の立ち位置をハッキリせねばならない状況に・・・
そんな中、この年の4月末には、あの備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市北区高松)攻め(5月7日参照>>)へと繰り出す秀吉。。。
そして、その約1ヶ月後・・・運命の6月2日=本能寺の変(6月2日参照>>)がやって来るのです。
ご存知のように、この時、秀吉は、水攻め中の備中高松城と、信長の死を隠したまま電撃的に和睦して、京都方面へと戻る事にしたわけですが、すでにドップリ協力中の来島通総は、あの奇跡的な中国大返し(6月6日参照>>)にも全面協力・・・
秀吉が、考えられないような速さで畿内へと戻る事が出来た理由の一つに、「この来島村上水軍の協力があったから」と言われていますね。
つまり、秀吉をはじめとする将兵は、ほとんど身一つで道中を駆け抜け、武器やら甲冑やら重い物を乗せた来島の軍船が、それに平行するように海岸線を走ったと・・・
とにもかくにも、ご存知のように、秀吉は、本能寺の変から、わずか10日余りで畿内に戻り、あの天王山で明智光秀(あけちみつひで)を破って、主君=信長の仇を討ったわけです(6月13日参照>>)。
本能寺の変前後の秀吉&村上水軍の位置関係図
↑クリックで大きく→(背景は地理院地図>>)
と、この間、自身の立ち位置を(毛利方と)示した能島村上武吉は、秀吉が畿内へ戻ってるスキに来島村上氏を攻める事に・・・
6月27日に、来島の西にある大浦之鼻にて両者は激突しますが・・・6月27日と言えば、あの清須会議(きよすかいぎ)の日(6月27日参照>>)。。。
さすがに中国大返しのバタバタで、未だ援軍を出す余裕の無い秀吉を頼れなかった来島通総は、散々に撃ち破られ、逃亡するしかありませんでした。
その後、毛利の水軍と合流した村上武吉は、頭領が去った来島支配下の城や砦を、ことごとく落として行ったのです。
その一掃作戦は、翌・天正十一年(1583年)の終わり頃までかかったと言います。
ところが・・・です。
その翌年の天正十二年(1584年)、村上武吉に追いやられた来島通総が「瀬戸内に戻って来る」との話が持ち上がります。
もちろん、後ろ盾は秀吉です。
毛利の重臣で、今は亡き毛利元就の四男である穂田元清(ほいだもちきよ)に対して、
「来島通総クンを元通りに復帰させるのでヨロシクやったってね」
なる通達を出す一方で、
秀吉は、天正十二年(1584年)9月8日、 小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男)にも、「村上武吉が未だに海賊行為をしているので成敗しろ」と命じて来たのです。
小早川隆景は、かの備中高松城攻めを治める際、信長の死を隠して和睦を結んだ秀吉に立腹して追い打ちをかけようとする毛利方の諸将を、
「一旦、決まった事を私情で覆してはならぬ」
と説得した事から、その後、その行為に大いに感激し秀吉から一目置かれる存在となっていましたが、
一方で、隆景は、村上武吉とも、生まれた年も同年で、昔から気の合う友人だったのです。
そのため、この秀吉の命令は実行される事無く、毛利家当主の毛利輝元(てるもと=元就の孫で隆景&元清の甥)も、11月11日付けの村上武吉宛ての書状にて、
「来島通総の帰国には、僕も反対やで」
と、武吉の味方をしています。
とは言え、結局、11月の中旬頃、来島通総は瀬戸内に戻って来ます。
少々の小競り合いはあったものの、大きな衝突はなく、来島通総は元通り・・・これには、やはり、あの信長の遺児=織田信雄(おだのぶお・のぶかつ)を丸め込んで、徳川家康(とくがわいえやす)をも退かせ(11月16日参照>>)、もはや天下に1番近い男となった豊臣秀吉の抑止力のなせる業・・・
以来、毛利も、なんとなく来島を容認する方向に傾いていきます。
その後も、小早川隆景が
「君ら父子を見捨てる事は無いで~」
てな手紙を村上武吉に送ったりしていますが、もう、能島村上氏の没落は火を見るよりも明らかでした。
そして、この頃、すでに太政大臣(だいじょうだいじん=政務の長)にまで上り詰めた秀吉からの、最後のダメ押しとなったのが、天正十六年(1588年)7月に発布した「刀狩令(かたながりれい)」(7月8日参照>>)とともに出した「海賊禁止令」です。
もちろん、上記の通り、それまでも海賊行為は禁止されてましたが、今回の禁止令には、
「海賊行為を行った者はもちろん、そこを管理する領主も知行を没収して罰する」
という文言が含まれる厳しいものでした。
もう、能島村上水軍が腕を振るう場所はありません。
ご存知のように、後に秀吉は、朝鮮出兵(1月26日参照>>)という水軍を要する戦いをする事になりますが、この時でさえ、村上武吉にお声がかかる事はなく、彼は毛利の領地である長門(ながと=山口県西部)の寒村にてひっそり暮らすしかなかったのです。
あぁ…あの日あの時、秀吉の誘いに乗って織田方についていたら・・・
と、つい思っちゃいますが、織田についた来島も徳川政権下で豊後(ぶんご=大分県)に領地をもらって生き残りはしましたが、以後は「水軍」を名乗る事はなかったですから、どっちへ転ぼうと、いずれは、そういう運命になっていたのかも知れません。
★村上武吉の晩年については、ご命日のページ>>の後半部分で…
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コメント
呼称に関して「村上水軍」か「村上海賊」かで近年は説が割れているようです。
25年前の大河ドラマ・毛利元就では「村上水軍」だったと思います。
投稿: えびすこ | 2022年9月 8日 (木) 21時54分
えびすこさん、こんばんは~
>「村上水軍」か「村上海賊」かで近年は説が割れている…
そうなんですか?
熊野も安宅も水軍なのに?何ででしょうね?
小説の「村上海賊の娘」がベストセラーになったからでしょうかね?
ウチでは、ご先祖の話をする時は曾祖父の時代から「村上水軍」って言ってましたが…
ま、最近は知名度上がって来たおかげで、友人に「先祖、海賊やねん」と言ってもフック船長みたいな見た目をイメージする人もいなくなったので、リアル村上海賊の娘としてはウレシイんですけどね。
投稿: 茶々 | 2022年9月 9日 (金) 04時46分